0224 宿業転じて心身(しんみ)の転び[視点:転身]
"ツェリマ"が次に意識を取り戻したのは暗闇の中であった。
それは困惑と共に現れたる目覚めである。
――そうとしか表現できないのであるが、彼女にとって、己の五感を通して感じ取られる全てがか弱くまたか細く、脆く、儚くしか感じ取られなかったからだ。
腕も足さえも全てが"萎え"ていたのだ。
だが……そのくせ、まるで生命の活力が奔流となったかのように臍の辺りから、押し込まれるように、流し込まれるように全身を駆け巡り、そのたびに思考と主観的な健康ささえもが明晰かつ明朗となる。
だというのに、視覚は断絶されたように何も視えない。
当初、彼女はそれを【闇】魔法による感覚遮断術式であると考えていたのだが――ぬるりと、ぬめりと、全身を暖かく包み込む嗅覚と味覚と触覚が一体となったかのような、まるで脳みその裏側まで包み込まれくるまれているような。
(私はどうなった? 一体……何が、起きたんだ……?)
たとえ『呪詛』や【崩壊】属性や、【闇】属性を組み合わせたとしても――ただの一撃でここまで、一度に感覚を奪い、得体の知れない状況にまで追い込まれるとはどういう絡繰であるか。
まるで己が、何かとてもやわらかい肉の塊にでもされたかのようであり、五感はおろか「内なる魔素」を感ぜる能さえもが――臍から送り込まれる熱い激流と同期しているかのような。
――心臓の鼓動が2つ。
己の胸元と、そして全身を包み込むような、山道の隘路で土砂崩れが起きたかのように周囲一帯から反響するように鳴り響いてくるかのような。
(待て。"臍"、だと?)
そう思考した瞬間であった。
≪ウッフフフ、お目覚めかい? 可愛い可愛いワタクシ様の"ギィマ"ちゃん?≫
暗い暗い、しかし、同時に「そう」であるとわかった上で意識を研ぎ澄ませれば、まるで大量の砂を何重というガラスの上で流すような、擦らせるような。
水底に包まれながら、そのくぐもった"音"が流れとなり波となり、さながら鼓膜を浸すかのようにして轟音となって脳髄に届けられる。
――己を"ツェリマ"と認識していたはずの"彼女"は、その生命の根源に自分が還ったかと思うほどの活力の波が全身を襲う感覚から、嫌でも、今己がどこにいるか悟らざるを得なかった。
(だが、どうやって……)
≪違う違うよ、ギィマちゃん? ちゃあんと【心話】について学習していこうね、時間はたっぷりあるんだから。ウッフフフ≫
かつてグストルフであった存在が、己の胎の中にあった。
そこまでは、理解したくはないが、まだ理解できる。
だが、そこから"先"。
よもや逆転したなどというのは――"ギィマ"と呼ばれた彼女には。
【空間】魔法の大家にして【騙し絵】の号を冠された一族の長子たる彼女には、その手段としてただ一つしか思い当たらなかったのだ。
(馬鹿な、そんな訳がない。それは――記憶は、失伝した技のはず。大婆様さえ成し得なかったのだぞ?)
≪アッハハ、知ってるよそんなの。"脳"の機能のうち、記憶が宿っている領域だか形式だか信号の総体的な奴が、どの辺りに宿ってるかわからんって話でしょ? ウッフフフ、大丈夫大丈夫。ワタクシ様はそういうのちゃんと知ってるから、ほら、一発大成功!≫
次いで、直接脳裏に送り込まれてきた知識は――イセンネッシャ家のまがりなりにも当主の"器"たる資格を持つ彼女をして、戦慄せしめん情報の洪水であった。
≪こういうことできるからさぁ、イセンネッシャ家に生まれるって便利なんだよねぇ。普通はものになるまで最低でも十数年かかるし? 【聖戦】家とか"白霧の民"の連中とか、あーあと吸血種も階級次第だけど、それでも数年はかかるし?≫
イセンネッシャ家は【空間】魔法を利用した"医術"に長けている。
それは破壊工作集団であった頃からのちょっとした『副業』でもあったが、単なる外傷の治療や接合に移植のみならず、臓器すらをも扱う知識を蓄えている。
――つまり"脳髄"さえも。
技そのものは【空間】を越える超常によるが……その御手によって成されているのは、【活性】属性や「癒やし」の神威とは異なり、純然たる「医術」なのである。
故に彼女は――"ギィマ"は――我が子に何をされたかをなんとか理解することが、できた。
≪それとやっぱり"記憶"の融合事故はやばいからねー。"枯れ井戸"だとまず無理だし、魔法の才能があってもほら、普通だと魂とか心とか意識ってやつが肉体に定着するまで時間がかかる……というか? ほとんど"記憶"って洗濯されるものなんだけど、ほら、ワタクシ様の場合はちょっとばかし「特別製」だからねー≫
幻術でも【精神】魔法でも何でもない。
このかつてグストルフであり、我が子であり、そして今自身のそれまでの名前と身体を奪い取った存在は。
人間の「記憶」が宿っているはずの脳髄の中のその的確な一部分または大部分を交換したのだ――自分と我が子との間で。
【空間】魔法によって。
かつてツェリマであった彼女は、あろうことか、自らが産むはずであった我が子(ギィマという名前まで、おそらくは父によってであろうが決められていた)と肉体を入れ替えられたに等しい憂き目に遭っていたのである。
≪いやー、即戦力も即戦力! 元グストルフ君だったワタクシ様の戦闘技術を『歩法』に組み合わせて使いこなせる、すんごく便利な身体を貸してくれてありがとうね? 元母様? ギィマちゃん? とりあえず、死ぬまで大事に酷使させてもらうから、ウッフフフ――こらこら怒らないの! 肉体の若返りなんて、東域の昇仙や【闇世】の迷宮領主達だって滅多にできる訳じゃない技術なんだよ?≫
(怪物、化け物の類め。そうしてまんまとイセンネッシャ家を手に入れるつもり、というわけか。それで、貴様は「この私」をどうするつもりなんだ!?)
胎児どころか、それに至る形成途上の"胚"の身では、自らの舌を噛むことも、逆にこのまま腹から食い破って出ていってやるようなことすら、できるはずも無し。
精一杯の抵抗とばかり、ツェリマは心の声で――どうしてだか"ツェリマ"に全て筒抜けとなっている――思いつく限りの罵声を浴びせる。そこに返ってきたのは、かつてグストルフであった際にも見せた気色のような反応であった。
≪だからぁ、"心の声"じゃないって。やり方が違うって、【心話】なんだけどなぁ……うーん、この時代のイセンネッシャ家ってそこまで技術喪失してたんだっけか? 劣化? 下振れ? アッハハハ、まぁまぁいいやいいや。質問に答えるけど、普通にギィマちゃんのこと大事に育てるよ? だってワタクシ様の子供として産むんだもの、当然でしょう?≫
"ツェリマ"はその狙いを明かそうとしない。
まるで本当に、心から、彼女を我が子として大事に育てることしか考えていないかのような優しさが――【精神】魔法のような強烈な感応性と共に、その【心話】と主張する技によって、脳裏に響き渡る言語と共に、感情を伝えてくる。
それは、否が応でも今はツェリマの"我が子"でしかない己にとっては、全身がとろけてふやけて溶けてないまぜになってしまうほどに原始的な心地よさを秘めた、抗いがたい強烈なものであった。
故に、ギィマは押し流されまいと、渾身の悪態をつく。
(大婆様が、決してお前のような邪悪な存在を見過ごすはずがない。お前に私の真似など不可能だ――ッッ! 何を企んでいても、貴様は侯邸からさえも逃げられずに滅ぶだろうよ……!)
≪あぁ、それ? ――ウッフフフフフ。ワタクシ様良いこと思いついてしまったなぁ。じゃあ、ちょっとだけ。ちょっとだけだよ? 情操教育に悪いからさぁ、全部遮断してたんだけど? ウッフフフ……≫
――ちょっと外界の様子を、ワタクシ様の可愛いギィマちゃんにも聞いていてもらうとしようかなぁ。
生理反応と、母体と融け合ってただ必死に生きることしかできない"胚"の身に、悪寒などという現象が起きようはずもない。
だが、しかし、もったいぶったような【心話】の次の瞬間にツェリマが何かをした気配が、臍の緒を通して「内なる魔素」の流れとして伝わってくる。
微かに聞こえるのは、まるで争うような激しい怒声と困惑音。
父たる当主ドリィドの激昂したような声と、【空間】魔法が入り乱れる気配と、その中に入り混じる不気味なほどに落ち着いた大婆様の何かをぼそぼそと確かめるような声であり――。
***
【輝水晶王国】第2位頭顱侯【騙し絵】のイセンネッシャ家の当主たるドリィド・トゥーオ=イセンネッシャは、死に瀕していた。
それは"次代"であるはずの継子デェイールにすら明かされておらぬ最高位の秘事である。
一族の技と知識を受け継ぐ存在である"大婆様"――ドリィドの他ならぬ祖母――と、ドリィドの主治医としてイセンネッシャ家の「医術部隊」の長の地位にある者のみがこのことを知らされているに過ぎなかったが……それでも、既に第2位頭顱侯として小国家の如く家政組織を発展させていたイセンネッシャ家は、問題なく稼働していた。
各分野の権限を委ねられた者達と、力ある家臣と血族達によって形成された『評議会』によって、それぞれの政治が滞りなく執行されていたのである。
他家、他派閥(特に【四元素】家とその手先達)との抗争も、頭顱侯として所領内の『晶脈』を掌握して"荒廃"を均し続けることもまた、常なる政の一環として、権限と役割を与えられた者達が自らの幕僚団を率いて半自律的に独自に判断して対処していくことができている。
ドリィドが「当主」として、自ら裁可しなければ方針を決めることのできぬような事柄は――決して多いわけではない。それは本当に大きな方針レベルのものであり、一般にイセンネッシャ家が抱かれている強権的で独裁的なイメージとは異なり、その家政においては複雑な権力間均衡が存在していたのである。
何故ならば、ドリィドを筆頭としたイセンネッシャ家の血族達は、ただただその「悲願」に邁進し続けることを最優先とし続けてきたからであった。彼らは、所領の統治も、経済の新興も、傘下組織の制御も、晶脈の管理も、それを進んでやってくれる者達がいるならばやらせてやろう……と、大きな裁量を任せてきたのである。
――もし仮にこうした者達が派閥化し、抵抗勢力化したとしても、ただ粛清してしまえば良いだけのこと。
これまでもそうしてきたように、【空間】魔法の力によってどこまでも追い詰めて抹殺すれば良いだけのことなのだから。
つまり、かつて『画狂』が作り上げた最初期の『廃絵の具』集団を母体とする、暗殺と粛清と破壊工作によって他者を圧し、支配するという意味での"恐ろしさ"だけは――市井においてすらイメージされる通りであるか。
だが、ドリィドが死に瀕していたことには、まさにその"力"を保ち続けることと重要な理由があった。
……なにせ、彼が「死に瀕していた」というのは、まさに当主の座を先代たる父から受け継いだその日からのことであったからだ。
「何を……何を、しているのだ……ツェリマ、なんだ、これは……ッッ」
侯都グラン=イセンネリアの侯邸からは離れ――その場所がどこにあるのかさえも秘匿された、隔絶空間内を遊離・転々と遷ろうとされる『別邸』と呼ばれる一室にて。
『別邸』は当主が所在する心臓部として、敵対勢力からの襲撃を避けるために絶えず座標を変動させるために、ありとあらゆる壁と天井と床から柱や梁はおろか調度品の類に至るまでが、隙間なく、魚群が無数の波紋を水面に波立たせる湖面のように流動する魔法陣によって覆われている。
それらの変転し遷ろう茫漠たる魔力光が青々と照らし出す最奥にて――全身から無数の管のようなものを生やした、極端に痩せ衰えた男こそが【騙し絵】家当主ドリィド・トゥーオ=イセンネッシャであった。
その顔には、生気も血の気もない。
だが、幽鬼のように見開かれた目には激しい怒りと、そして執着に似た懊悩が炎の如く灯っている。
「何だも何も、決まっているじゃないか……ウッフフフ。お父様が余計な"先手"を打たないようにちょっと縛らせてもらっただけだけど?」
ドリィドはほとんど寝台に拘束された状態であった。だが、それは「ツェリマ」こと【転霊童子】の力によるものではない。
一見すれば【騙し絵】家の当主を隠し、守っているようなこの『別邸』も、見方を変えれば封印し、戒めて縛り付けるものである。
――何故なら【騙し絵】家の当主とは。
「だからね、ワタクシ様には不要だって言ってるんだよ? "画狂の血肉"なんかをせっせと量産する――アッハハハ、まるで【生命の紅き皇国】の隷畜どもみたいな一生なんてさぁ」
「我らが悲願を……ぅぐう……貴様のような外腹に……がはッッ……」
まるで全身を細長い寄生虫に巣食われたような、何本もの「管」に食い破られるように戒められているドリィド。この「管」は透明であり――【エイリアン使い】オーマが見れば、ある種の"点滴"と連想しただろう――絶えずドリィドの肉体から"血肉"を吸い出すように蠕動しており、そして、そのだらりと3~4メートルほど垂れ下がった反対側の先端はぼやけた【空間】魔法に覆われている。
つまり『別邸』ではないどこか別の【空間】に接続されているのである、【騙し絵】式の【転移】術式によって。
「大丈夫、大丈夫、安心してってばさ。もっと効率的な方法をワタクシ様は知ってるから、ね? だから安心してその"当主"っていう肩書きだけ頂戴な。それ以外のその全身から垂れ流したみっともない"管"は要らない要らない……ウフフフ」
ツェリマの姿をした【転霊童子】が指をくるくると回す。
するとその動きに合わせてドリィドが表情をより深い苦痛に歪ませ――同時に、その静寂と秘密に包まれているべきであった【騙し絵】家の最重要区画たる一室に亀裂のような白い閃光が走る。
それは、眼を焼き尽くすかのような禍々しい【光】によって構築された鋭角的な文様である。
『別邸』の一室を覆う【空間】魔法の生きた魔法陣達を食い破るように、異なる体系、異なる志向、異なる原理によって構築された術式の文様が――壁に床に、調度品に、ドリィドを包む装束に侵食し、部屋を青く覆っていたはずの流動する魔法陣達を切り裂いていたのである。
さながら、外界から到来した怪魚が孤立した湖中の魚群を食い荒らすかの如く。
その"身"も、彼が当主として支配しているはずの『別邸』の流動せる魔法陣達さえもが、ずたずたに切り裂かれながら、その動きを完封されていた。
――ただの【光】魔法ではない。
それは【光】と【空間】の2属性を複合させた性質を持つものであると、魔導の探求者としての頭顱侯ドリィドは理解していた。
「何故だ……――ッッ! 何故だ、大婆様……! お婆上よ――ッッ 何故、その生まれてはならなかった痴れ者に――ッッ……!」
1本また1本と、ドリィドの全身から生えていた"管"が雑巾のように絞り潰されるように圧縮され、【空間】属性の魔力が霧散していく。特殊な【転移門】を経由して、彼の身体から抽出された"血肉"をいずこかへ運んでいた管の、反対側の先端が、ずりゅりと部屋に呼び戻される。
そこから垂れ流される赤黒い液体が、次々に床を無為に汚すが、【転霊童子】ツェリマはそれらを一瞥しながら【光】と【空間】の複合魔法をこの"血肉"にさえも侵食させ、押さえつけるのであった。
彼女は知っていたのだ。
それこそが【騙し絵】式【空間】魔法の触媒の正体たる"『画狂』の血肉"なのであると。
そしてそれを知るのは、歴代の当主と"大婆様"――『語り部』の役割を与えられた特別なる「一族の母」だけであるということさえも、【転霊童子】は、その数え切れぬほど繰り返された一生の中で知っていたのである。
【騙し絵】家の"当主"とは、正しく『画狂』を受け継ぐ者であった。
【騙し絵】家の【空間】魔法とは、この『画狂』の血肉によって行使する最も原始的な――かつて【闇世】でイセンネッシャが行使していたであろう【転移】の力――の再現と応用であり、その技術的な使い方に関しては、"大婆様"こと『語り部』の地位にある族母が網羅・掌握して一族に指導するものであったのである。
だからこそ、自らの実の祖母でもある"大婆様"の裏切りをドリィドは受け止めることができず、理解することも、ましてや事前に想定することすらできなかった。
例えば己が『画狂』の後継者たる資格を、まるで食物の消費期限のように完全に失った結果、交代させられるならばまだ諦めはつく。それが【騙し絵】家の在り方であり、また一族の悲願を達するための"当主"の役割であると――ドリィドもまた、かつて父から地位を引き継いだ時に嫌というほど思い知らされたからだ。
確かに、己が既に消費期限切れだとドリィドは自覚はしていた。
そのために、デェイールとツェリマを競わせ、どちらを"絵の具"の生産者(つまり当主)として、どちらを次代の『語り部』とするか、を見極めるつもりであったが……継承の儀はまだ先のはず。最低でもツェリマが、さらに次の当主となるべき子を産んでからのはずであったのだ。
だというのに……"先手"を打たれた。
そしてその焦りと混乱と違和感、加えて"私生児"として実力は認めながらも、直接話すような機会はほとんど設けることなく、ツェリマという長子の人となりを自ら見極める機会すら持たなかったことで――ドリィドはついに、その中身が【転霊童子】という名の怪物と入れ替わっていることに気づくことがなかった。
ただ、己の全く知らぬ手管によって"大婆様"さえも従え、一族の悲願を恐れぬおぞましき反逆をしでかしてきたという意味では、全く、殺すべき「怪物」であったとツェリマを評価して後悔していたが。
「肩書き……だと……ッッ! 愚かな、愚かな……そのようなものしか、引き継ぐもののない"心無し"どもと……わ、我々は……違うのだぞ……ッッ!!」
「ほんっと、誰も彼も"当主"になった瞬間に口揃えて同じようなこと言うから面白いよねぇ。ウッフフフ……まぁいたぶる趣味もないから、このまま楽にさせてあげちゃおうよ。それがいい、そうしよう」
その次の瞬間、まるで忠実なる侍者のようにツェリマの傍に控える"大婆様"が、口を開いて彼女に問い返した言葉と、その後に続くやり取りを耳にして、ドリィドはついに困惑と混乱の戦慄の渦中に投げ込まれることとなる。
そして、それは今ツェリマの胎にいる彼女も同じことであった。
「それでようございますか? ―― 一応は、まだ使い道もあると思うたのですがのぅ、母様や」
「アッハハァ、予定と大分狂ったんだけどね? まさかこのルート使うことになるだなんてワタクシ様も思ってなくってさぁ」
「母様のお望みのままに。長生きした甲斐がありましたわい、儂がもう駄目になる前に、今一度、母様と共に遊ぶことができる……これ以上の喜びがありましょうか」
「今のワタクシ様って肉体的には思いっきり君の曾孫なんだけどさ? アッハハハ」
「言いつけ通り、全て用意はしてきましたとも。ですがまぁ、ほれ、母様が言っていた刻限はもっと先だったはずでしたのでのう、テコ入れに時間がかかりますぞ? ――まさか、母様の『予言』がズレるなどとは……」
「ウッフフフ、ウッフフフフフフ。だから愉しいんじゃないか! 今のままだと色々、あのオーマ君とかいう【魔人】の実力次第だけど、それでも数年単位で色々と色々と加速すると思うからさぁ! "ギィマ"じゃなくて"ツェリマ"として動かないと、ほら、刻限に間に合わないと思うから、ね? ウッフフフ、あ、父様、こっちの話だからそんな化け物見るみたいな目はやめてってばもう」
***
≪ってこと。ワタクシ様が抱える事情は、よおくわかったかい? ギィマちゃん?≫
これは悪夢なのだろう。
今はギィマと呼ばれる、存在と名前を奪い取られた彼女は、その一部始終を聞かされていた。いいや、聞かされていたというのは比喩であり――聴覚だけではない。
如何なる超常の術式の力によってであるか、ツェリマが【心話】と呼ぶその脳裏に直接伝わる"声"は――彼女が視ているものすらをも共有していたのである。
憎んでいたわけではないが、好きになれぬ存在であった当主たる父が、ドブに何度も浸してから絞りきった雑巾のように圧縮されて呆気なく死んでしまうなどという光景を見させられることなど、決して望んではいなかったのだ。
何もかもが、凶暴な嵐となってわけも分からず心の準備はおろか後付での納得さえもできぬままに己を翻弄し、全く想像も想定もつかぬ運命の荒波の中に放り込んで、しかも離してくれないかのようであった。
ただ、ただ、言葉も感情も感動を感じるための感性さえをも停止したように失ったまま、ギィマは、呆然と言葉を失ってままでいるしかなかったのだ。
≪もっと感謝してほしいかなぁ。だってさぁ、ウッフフフ、ギィマちゃんがツェリマ姉さんのままだったら……"絵の具"の材料にされてたんだぜ? それって、それって、すごくすごぉくもったいないことだよね? 人生謳歌できなくなってたぜ? あぁ、ワタクシ様は君に『自由』を与えたってことさぁ! 楽しんで生きるんだよ?≫
次々に、まるで受け取る側の都合など考えぬ暴君の戯れのように"下賜"される知識が―― 一瞬でも気を抜けば人格すらをも塗り潰されてしまうかと錯覚せんばかりの膨大なる密度で、ギィマの脳裏に直接焼き付けられてくる。
【騙し絵】家の"当主"とは――かつて【闇世】の【魔人】の中でも最も危険な"軍将"たる迷宮領主の力を得た存在こそがその正体であった『画狂』の地位と力と"血肉"を受け継ぐ存在なのだ。
そしてこの"軍将"達の力の源は『心ノ臓』に宿っており――だからこそイセンネッシャ家は人体に造詣が深くなり、医術を副業とするに至るまで、特に内臓の転移すらをも施術として請け負うことができるまで、男女の産み分けすら可能なレベルでの「体外受精」すら可能となるほどの"技"を磨いたのだ。
何のことは無い。
【騙し絵】家における継承の儀とは、先代から次代の当主へ、『画狂』から連綿と受け継がれてきた心臓を――迷宮領主としての力の"核"を、移植して引き継ぐためのものだったのである。
無論、"荒廃"とそれを引き起こす瘴気の大元である【闇世】の、それも強大なる力の結晶とも呼ぶべきそのような"核"を、たとえ頭顱侯家の当主といえども、我が身に引き受けて無事であるはずがない。
しかし"大婆様"の――歴代の『語り部』達の技によって当主はその健在を偽装され、【騙し絵】のイセンネッシャ家を連綿と続けさせてきたのであった。
全ては、始祖たる『画狂』の狂える妄執を、決して死なせることも滅びさせることもなく、自らの子々孫々の体内を転々と巡り移り代わりながら――引き継がれ続け、生き続けることができるようにするために。
……そしてそのような、一族の恐るべき真実の歴史を知った、からこそ。
迷宮領主の力の核たる心臓、などという禍々しい存在を――≪超きもいよね≫の一言でばっさりと斬り捨てた、己の名を奪ったこの怪物"ツェリマ"の態度が、二重か三重の戦慄となって、まだ皮膚組織が十分に発達しているはずもない胚の身をぞわりと粟立たせるのである。
だが、情操教育に悪いからと言っておきながら、既にギィマの心臓を何度も握り潰すほどの衝撃をまだ胚の内から与えてくれた「立派な母親」は、そのような我が子の反応など意にも介さない。
ドリィドの亡骸から『心ノ臓』を――彼女はそれを迷宮核という名称だとギィマに教えた――取り出したものの、比較的どうでもよい物品を扱うかの如くぞんざいに"大婆様"に放り預けながら、矢継ぎ早に、【騙し絵】家にとってその"戦略"を大きく変更するようないくつかの指示を早速に下し始めたのであった。
――例えば「アイゼンヘイレ家の"苔ババア"に連絡しなきゃなぁ」であるとか。
――例えば「グストルフ君の"超ブラコンども"に『ワタクシ様』は健在だよーって言っといてあげとかないとなぁ」であるとか。
――例えば「【愛し子】君への接触は……まーだ、早すぎるかな? とりあえずサウラディ家の内紛が、今回はどんな形になるかを見とかないとなぁ。面倒くさいんだよねあの親族殺しどもはほんと」である、だとか。
いっそ自分が本当に"ギィマ"として、何もかもを洗濯されてしまったことが幸運と思えるほど、飲み込むことのできない激流が「ツェリマ」という器を端に発されようとしているのだと、嫌でも悟るしか無かったのだ。
斯くして、彼女は――そもそも己の運命を変えた最大の根源が何であったかにまで思いを至らせることができなくなる。
【エイリアン使い】オーマという存在と遭遇しなければ、あるいは、その身は【騙し絵】のイセンネッシャ家を滅ぼす存在として、デェイールと対峙することとなっていたかもしれない、そのような有り得た別の可能性と共に失せ消える。
彼女は"ギィマ"として、再び、三度と怖気に竦むしかなかったのだ。
本当に、この"怪物"は、一体全体何が目的なのだろうか、と。





