0193 ナーレフ騒乱介入戦~凍泉の三つ巴(3)
≪今回の"騒乱"の【盟約】派側の黒幕は【四元素】のサウラディ家です。ただし――≫
【冬司】たる『雪崩れ大山羊』と【氷竜】が、その内なる鬩ぎ合いで激しく拮抗しているということは、その形態を見れば明らかだ。
"雪"の大山羊に、まるで姿態も属性も概念も、根底からの在り方さえもが侵食するように、"氷"によって造形された「牙」「角」「鱗」「尾」といった特徴が突き出して出現しているが――まだ、それを俺は【冬司】として認識できている。
――【冬司】としての存在自体は、未だ完全には【竜の氷】に塗り潰されてはいない。
どころか、いわば「5番目」の季節としての【夏秋冬】と化したことで、支配下に置かれつつも、逆に環境的には3対1となったか。
≪【冬嵐】のデューエラン家が、その裏を掻いた、というのが私達の見立てです、我が君。きっと【四元素】家は【四季】の全てをその掌中に収めようとしていたのでしょう≫
≪【冬】をまず我が物にしようと、連中の秘匿技術である……【竜の氷】の力を明かした、ということか?≫
……いいや、違うぞ、ル・ベリよ。
"裂け目"から次々に飛び出した俺の眷属達が冬と氷の化身に挑み飛びかかっていく。
塵喰い蛆ラムダが合流した、瘴気走狗蟲と染色噴酸蛆の一団である。
雪と泥濘混じりの旋風が【3司】と、その【夏秋冬】に冒されて――風圧と泥濘の混じった『雪羊』だったものを構成する要素ならば、そこにさらに混ぜてみれば、どうなるだろうか。
ラムダがその全身を膨れ上がらせる、と共に【おぞましき咆哮】によって凄まじい極微細の針の毛粉塵を気弾の如く前方へ叩きつける。同様に瘴気走狗蟲達が続き、さらにそこに染色噴酸蛆の【染色弾】が覆いかぶさるように続き――同時に俺は迷宮領主として【領域定義】を魔素の限り、周囲一帯に張り巡らせた。
片や【夏秋冬】を成す、泥濘と氷礫が暴風に舞う流体。
片や、有毒にして生物を殺傷する塵芥の塊と、存在感そのものを塗り潰すレベルの染色液だが。
泥塊や氷片の塊すらをも舞わせる風量が【夏秋冬】の肝ならば、その結果は――混入である。
風と雪と泥の純なる3つの属性が自然法則レベルで融け合っていた、3体の【司】達の周囲が、さながら精緻な名画に火山灰と子供用の絵の具をぶち撒け浴びせかけたかのように。
決して融合することのできない液体同士を混ぜた際に、片方が、もう片方に包まれた丸い小さな液泡となりながら遊離しつつ、その内部で立体的な斑状にマーブル状に点在しつつも"流れ"そのものは同じ向きに激しく乱流するかの如くに。
何百という小魚の群れの中に天道虫の大群でも混ぜたかのような、違和の流離そのものとでも呼ぶべき、見るに耐えない散らかった前衛芸術に化さしめた。
そして、その"中"に突撃した瘴気走狗蟲達を、次々に生え出でる氷柱の中から、風圧を湛えた泥濘と粉塵と染色液混じりの『雪羊』とはもはや呼べないものが――それでもsheep"s"としては表現されえない「塊」としての羊どもではあるが――迎撃のためにわらわらと押し合いへし合い、ひとかたまりの夏秋冬をこねてそこから細かく千切るように出現するが、そこに俺の【領域定義】の力が鬩ぎ合う。
粉塵の一粒一粒が、染色液の一滴一滴が、少なくともこの「塗り潰し合う」場においては俺の【領域】の端末となる。
然も奇病に冒された形成不全どもの如き『雪羊』どもが、あるものは毛粉塵を吐血するかのように吐き出して崩れしぼみ、またあるものは染色液を脱腸するかのように体腔から垂れ流して崩れ割れていき。
次の瞬間には飛び込んできた瘴気走狗蟲達に叩き砕かれていくのである。
無論、濃度や"偏り"があるため、比較的無事な『雪羊』もあるが――それらは遠方から、ミューが率いる5体にまで増やした投槍獣部隊が豪投する角槍に貫き砕かれ、あるいは、スリング状の骨刃茸をぶん回す戦線獣が投擲する俺の迷宮の岩礫に砕かれていく。
――さて。
果たして、【人世】とは異なる【闇世】の"力"と法則が満ちた、要するに迷宮領主の力が浸透した「粉塵」と「染色液」とおまけで「岩礫」を叩き込まれ、しかもそれを自らの流体則によって巻き込んでしまった【季節】を――未だに3司が融けあった【夏秋冬】である、として。
「お前は"認識"し続けることができるかよ? マクハード」
『それがお前の、【魔人】のやり方だってか?』
【夏秋冬】対【竜】という3対1の構図が見かけ上のものだということなど、俺はとうに理解していた。
季節が、日照時間だか惑星と恒星の距離と地軸の角度に伴う水分量の低緯度から高緯度への輸送と循環現象によって織りなされる一連の自然現象――を、人間という知性ある種族が"認識"した結果生じた概念であり、それがシースーアの旧ワルセィレという土地で、超常の力を帯びた【領域】と化したのだとして。
【竜】の力とは、環境を塗り潰す力とは、そんなものではない。
ソルファイドやヒュド吉(グウィースの支え付きだが)が見せた『調停』という形での"片鱗"とは、そんなものではない。
――そしてそんな俺の理解はすぐに"答え合わせ"される。
粉塵と染色液によって汚染された『雪羊』達のその内側から。
まるで一切の【闇世】法則を拒むかのように、澄んだ水晶のように透明で純粋な【氷】がパキパキと浮き出て――ちょうど蛇やトカゲの類が古傷ごと脱皮するかのように、粉塵や染色液によって汚染された『雪』ごと脱ぎ捨て、その氷体を露わにした『氷の羊』に変化していったのである。
何のことはない。
それが夏であれ秋であれ冬であれ、若しくは夏秋冬であったとて――所詮は1つの世界における自然現象の遷り変わりである。
だが、【氷竜】の力が【冬】を内側から食い破るのを、他の2季節を足して抑え込もうとするならば……それは逆に、氷獄によって夏も秋も冬もお構いなしに塗り潰されるということ。
その暴力的なまでに専制的な力の片鱗が『氷の羊』だが、マクハードが気づいた様子は無い。
――それがわかっている状態で、【春司】を顕現させて対抗するなどという愚行を、誰がするものかよ。
この"夏秋冬"とかいう――なるほど、暴威だけならば強力だろう。だが、そもそも3つの力を1つに束ね合わせて行使すれば、同じ方向に向けて発動される分、強力なのは当然のこと。
そこに加えて、指揮棒と共にハイドリィから強奪した……同胞達の【血と涙】もまた取り込んでいるのだから。
しかし、これは独自の"一文字"を決して持ち得ぬ歪なる混合季節なのである。
呆気なく「粉塵」や「染色液」によって汚染されてしまう程度には、脆弱で定まらない不確かな「認識」の元で現れたものに過ぎない――何故ならば、指揮棒によってそれを奏でるマクハード当人が、【四季一繋ぎ】を"在り方"ではなく"手段"として認識してしまったからだ。
ハンダルスの甘言に乗って『氷竜の血』などという、字面からして厄さしか感じられない代物を飲み干した結果、マクハードは、未だに己が【氷竜】の力も【夏秋冬】の力も兼ね備えていると認識しているのであろう。
――四季とは、少なくとも旧ワルセィレにおけるそれは、ただ単なる自然現象をだけ切り取ったものではない。
≪人々の営み……暦あってのもの。"暮らし"に根ざしたものである、ということですな? 御方様≫
マクハードの事情はわかった。
"力"無き存在が、ふとした拍子に"力"を手に入れ――望むと望まざると――そしてそれによって虐げられてきた仲間や家族や同胞達のためにその"力"を振るうことを決意する気持ちは、まぁわかる。
だが、己にそのような"力"を与えた黒幕の思惑以上に、その"力"の本質を理解しなければ、そこに巨大な自己矛盾が内包されることになるのは必定。
だから俺は――迷宮領主として、この能力が指向するがままに直接的に"征服"をするような動きは、可能な限り避けているのである。
「守るべき仲間も同胞も凍えて死に絶えたら、春も夏も秋も、季節の遷り変わりを感じる者も無くなってしまうだろうが」
――春に『水蚯蚓』の幼生を放ち、夏にかけて育てて『沼地蛸』を捕らえつつ、秋の実りを得るという、老トマイルの【農場漁師】の教えは、どこへ行った?
遷り変わるその折々に合わせて、一年の暦を通して巡り回って積み重ねられる、人々の生活という名の営みを――【夏秋冬】などという形で永遠に圧着の如く混ぜ合わせてしまって、守り保ち繋いでいくことなどできようものか。
故に、迷宮領主の【領域】の力で揺さぶりをかけただけで、すぐさま馬脚が現れたと言える。
【冬】ではなく【夏秋冬】そのものを内側から食い破るように――既に辺りには、泥濘と氷礫が暴風に舞い飛ぶ中、"氷の鬼"が『羊』の姿を取ったかのような『氷の羊』達が【3司】を取り巻いていた。
――そうであろうとも。
迷宮領主の【領域】を覆そうと思ったならば、同じ【領域】の力に頼るか、あるいは"環境"を支配するという【竜】の力で塗り潰すしか無いだろう。故に、こうも簡単に【氷】どもが出現してきたと言える。
そこに決定的な"亀裂"が生じていることに、マクハードは気づいていない。
彼の意識が完全に『雪崩れ大山羊』と『旋空イタチ蛇』と『泥濘子守り蜘蛛』にのみ、向いていたからだ。
【夏秋冬】が及ぶせいぜい数十メートルのさらに外側では、極寒が木々を凍てつかせ大地を深く氷らせて『氷の羊』と『氷の鬼』達を生み出す氷獄の苗床と化している。それらが生えるそばから叩き潰し、叩き潰しては凍てつかされ、氷漬けにされたエイリアンを別のエイリアン達が回収して"裂け目"まで引きずって放り込むという鬩ぎ合いは【泉】の周辺にまで拡大していた。
だが、各季節の力が一つに融け合い、そして二度と他勢力に冒されることなく続いていくなどという永遠は――氷原に咲いた一輪の徒花の如くに、儚いものでしかないことに、彼は気づいていない。
『……それが、なんだってんだ? "力"が無ければ、どんな理想だって実現はできない――「長女国」では特にそうだ。先に全部手に入れてから……それから、元に戻していけばいいだろうが――!』
その称号の通り、【腹】から食い破られたのはマクハードだ。
ロンドール家はおろか【紋章】家を標的とした諸勢力の思惑が絡まり合う策謀の中で――最低でも【盟約】派に【破約】派に吸血種、そして3大派閥とも異なる思惑を持っているとすれば元頭顱侯であるギュルトーマ家もまたそうである――マクハードが危機感を抱き劣勢に対する強烈な焦りを感じたことは想像に難くない。
だが、たとえ他に選択肢が無かったのだとしても、そのために手に入れた"力"の「性質」について、己の持てる限りの知恵と知識と力を総動員して、考えることはできたはずであった。
「だから、俺は"商人"としてのあんたを買っていたんだ、マクハード。復讐者や復興者としてのあんたじゃなくてな――なぁ、基本中の『き』の字じゃあないのか? 手を組んだ相手の思惑に引きずられないようにする、だなんてのは」
――己が何を売り払ったのか、確かめもしなかったのだろうか。
そして仮に売り払った後であったとしても、契約書を細部から細部まで読み込み、その重箱の隅をつついて抵抗するということすら、この男は諦めたのだろうか。
『あんただって、同じだろうが? オーマさんよ……あんたが千年に一度の詐欺師でないのなら、あんただって"人間"のはずだ――でなきゃ【涙の番人】になんてなれるわけがない! その"力"は、たまたま、手に入れただけなんじゃないのかよ!? ――だったら、何が違う。俺がやろうとしていることと、あんたがやろうとしていることは』
あるいは【氷竜】を顕現させることであったのか。
はたまた旧ワルセィレに入り込んで、【冬】を経由して【四季】そのものを【氷竜】にでも取り込むつもりであったのか。
【冬嵐】家が【四元素】家の裏を掻くというその目的のために、どのような"手段"と過程を経ようとしているのかそのものは、未だ判然とはしない。
……だが、少なくとも"それ"が彼らの狙いであるとまでわかっていたならば。
その猛毒よりも性質の悪い"環境支配"とでも呼ぶべき「塗り潰す」力に【四季】を冒させぬために。
たとえその本質が今わかったのだとしても、マクハードが取るべき行動は――季節を混ぜて遊ぶなどということでは、なかったはず。彼には、まだできることが、あったはずであった。
「それをこれから見せてやるよ――"夢"の代わりにな。マクハード、あんたの"夢"は、ここで逆に醒まさせてやる」
≪来い、ソルファイド=ギルクォース、【塔焔竜】の裔よ。そこの『因子:呪詛』と『因子:振響』がたっぷりと搾り取れそうなクソ煩い"デカ物"を連れてな≫
***
竜人ソルファイドにより、クレオン=ウールヴと名付けられたる【火】の魔獣『焔眼馬』が、火の旋風と共に出現と消失を繰り返す。
出現するに当たっては、質量を伴った火勢となって"巨漢"デウマリッドをしたたかに圧し、あるいは蹴飛ばしつつ押し返す。返す槌の一振りによって首を殴り飛ばされ砕け散るが、【火】の魔力そのものによって形成された身体が本当の意味で傷つけられることはなく、むしろ爆発するように衝撃波を発して騎乗するソルファイドを高く飛ばし――頭上からデウマリッドに対する一撃に繋げる。
しかも、振り下ろされるように薙ぎ抜かれた剣気の余勢から生じた猛火の中から出現し、紅蓮の灼熱そのものの鬣を振りかざして噛み付いて来るのである。
犬歯を備えぬ草食獣ではあるが、気性荒く獰猛なる牡馬そのものの臼歯が、磨り潰すようにデウマリッドの腕を――蒸気を放つ手甲の上から噛み砕かんと食い下がる。
堪らず、デウマリッドが辺りの魔素すらをも吹き飛ばし掻き消す【呪歌】を咆哮するが、それは言わばクレオンによって使わされたに等しく、直後にはソルファイドの【息吹き斬り】が炸裂。
激しく吹き飛ばされ、あるいは少しずつ押されながら――2人と1匹は、もつれ合うようにして【泉】から、ナーレフ軍が【土】魔法で生み出した雪崩れ避けの高台に向けて。
群がり来る"氷の鬼"も"氷の羊"も、まるで襤褸か屑のように寄せ付けず――寄った側から砕き融かされるか蒸発するように吹き飛ぶ――遂に終に【氷】の化身たる『半羊半竜』の元まで、押し込むように突っ込んでいたのであった。
「なんてぇ火事場のクソ力だァッッ!? どこにそれだけ隠してやがったってんだッッ! 面白ぇッッ」
(主殿に喚ばれた瞬間に――"力"が湧いた、だと?)
クレオンと2体掛かりでデウマリッドを押し込み、『氷の羊』を生み出す塔のように巨大な氷柱を1つ粉砕しながら――ソルファイドは、とある"確信"に困惑していた。
――たった今、彼に"底力"を発させしめた感覚は。
決して、主オーマが属する【闇世】の迷宮領主【エイリアン使い】としてのものに由来する力ではないと、直感させられたからだ。
(主殿は、俺にとっての主殿……それは間違いない。というのに、これは――?)
――迷宮領主と従徒という繋がりによって、ではない。そうではない、何か別の、ソルファイドをしてオーマを「主」と呼ばしめる"何か"を、この瞬間、ソルファイドは確かに自覚していた。
……だが、今は「その感覚」を確かめている暇は無い。
『――馬鹿な……? こいつはぁ、一体どういう……』
「くはははははハハァァアッッ! そうかッッそういうことだったのかッッ! 竜人めッッこの俺と強敵でありながらッッ! お前はさらに真の意味での戦友になりたいとでも言うつもりかッッ?」
この道中、主の眷属達が整然とした連携で以て「道」を開けている。
と同時に強かに――ソルファイドが放つ、赤熱した双剣から放たれる火気によって、ドロリとその表面を溶融させ、飴細工のように折れ曲がり砕けた『氷の羊』達を駆逐していく。
――そう。
ソルファイドの【竜の火】によって、【冬司】の内側にあるマクハードの内側からその本性を顕し、その存在と圧倒的な暴威を極寒の氷獄という形で周囲一帯に押し付けていた【竜の氷】が、確かに、融かされていたのである。
かつて、これほどになく、自らの高祖でもある双剣『ガズァハの吐息』と『レレイフの眼光』が猛々しく狂えるほどに煌々と熱する感覚をソルファイドは感じたことが、ない。
まるで【冬】が、否、周囲の"氷獄"そのものが、ぶるりと、ぶわりと震え立って巨大な不整脈を引き起こしたかのように鼓動するのをソルファイドは感じた。
そしてその中に――多頭竜蛇ほどではないが――確かな【竜】の気配をありありと感じ取っていた。
――そんな半端な『氷竜』を挟んだ先。
心眼によって見通される視界の先に捉えた主オーマの眼光に、ソルファイドはどうしてだか、記憶にない懐かしさを覚えながらも、全身が火のように奮い立つのを自覚する。
≪ソルファイド。お前なら、理解るはずだ――そこの羊みたいな【竜】野郎が、何者かをな≫
「さぁッッ! 云えッッ! 俺の戦友よッッ! 【氷海】の同胞どもの"名喰い"を引き裂いてみせろッッ!」
奇しくも、主たる者と強敵たる者が共に同じことを己に問いかける。
デウマリッドを押さえ、出現させたクレオンを全身に纏いながら彼を一息に押し飛ばしながら――ソルファイドは指骨まで双剣の柄に溶融して構わない、とすら念ずるほどに意識を集中させる。
――聞くために。
かつてル・ベリの『弔いの魔眼』によって触れた、ガズァハとレレイフの記憶により、奥底に開かれた――竜人が【竜】から人間になる前の【原初の記憶】に触れんとするために。
――このために、己が"先祖返り"の特徴を色濃く宿して生まれ落ちた、と知るために。
そしてソルファイドは、其の名を告げた。
「【氷凱竜】ヴルックゥトラ。"十六翼の禍"が一翼――ッッ!」
***
『ほぉおう? ――やるじゃあないのさ、雛鳥め』
意識の中に響き渡った"その声"に、マクハードは心臓を鷲掴みにされたような怖気を覚えた。
まるで心臓が、身体が、そして意識すらもが自分のものではないような。
【冬司】の、そして【夏秋冬】の内側から、それを己の皮膚とも指とも手ともあらゆる感覚器官と繋げて自在に振り回すかのような全能感に酔いしれていた感覚から――突如として遮断され、切り離され、そして文字通りに寒い孤房に閉じ込められたかのような、悪寒と違和と怖気であった。
――【魂】をその牙の切っ先に引っ掛けられ、相手の気まぐれ次第では次の瞬間、たちまちに食い殺されてしまうかのような。
神の似姿とは、ただの「餌」でしかないと本能でもって思い知らされるような、存在そのものに反響する恐怖であった。
『雛鳥め。道理で懐かしい【焔】を纏っているね……お前、ギルクォースかい?』
マクハードに繋がり、マクハードの意識を借りてマクハードの内側からマクハードの「声」と「言葉」で、オーマの配下の竜人ソルファイドに語りかける"それ"が、まるで挨拶をするかのような気軽さで指揮棒の力を通して氷礫を生成。
叩きつけて叩き潰すように竜人に叩き降ろすが――次の瞬間には、大気を震わせるような絶唱と共に、その氷礫がさらに細かな氷片に割れ砕かれてばらばらと舞った。
(お、俺の中に……なんなんだ? お前は……?)
『忌々しい"名喰い"の民のはぐれ者まで、いるのかい。それに――これは驚いた、【黒き神】の"使徒"までいるじゃあないか。なんだい、眠り散らかしている間に『暁月の和議』は失効でも……おっと危ない』
竜人と"巨漢"が連携して襲来する。
次々に生み出される氷柱が砕かれ、融かされるが――【季節】の力を借りて、マクハードであり【冬司】であり"それ"でもある存在が、北風の如く天空を掛けて大きくその雪と氷から成る身体を遷ろわせて距離を取る。
だが、その一連の過程。
"それ"はマクハードなど存在しないかのように、マクハードの身体を「声」を動かしていた。巨獣が、地を這う虫に一切影響されない――たとえ体内に潜り込んでも害されないほどに隔絶している――と言わんばかり、マクハードという存在の、声を借りているはずの宿身を一切、認識してすらいないかのように無視しているのである。
この言葉が届いているものは、ごくわずかに見えた。
異形の魔獣達を率いる【魔人】オーマと、彼の配下にして――【竜】の力を確かに扱っていると見えるソルファイドである。
(……くそっ……そりゃ、ないだろう? オーマさんよぉ……)
――よもや。
【冬嵐】家に身を売ってまで得た力でさえも、対抗されてしまう"札"をオーマが持っていたとは。
マクハードは後悔していた。
【春司】が彼に宿り、さらにその"宿り獣"がソルファイドに宿った時点で、気づくべきであったということか。己の計画と策動に溺れて、オーマに言われた「力の本質」を見極めることを、怠ったツケがどのようなものであるかを、彼は一切今理解させられていたからだ。
だが、そんな心の声も、今は誰にも届かない。
使い捨てられた空っぽの器のように、マクハードの"意思"に対してですらない、あざ笑うような【氷竜】の嗤い声が――まるで己を嘲る己自身の声のように――鳴り響く。
『違うとも、違うとも。この私は、この男を借りて再構築された、劣化した写し身の意識体に過ぎない……元の私は、今も、封じられて眠り散らかしたままだからねぇ』
"声"を発する意思そのものは、マクハードではなく、オーマとソルファイドを嘲っているようであった。
『だけど、ねぇ? どれだけ半端でも、それでもこの身は【竜主】なんだよ。そんな私を、憎い憎い【塔焔竜】の【焔】で、一体どうして目覚めさせてまで……あぁ、成る程ね?』
――今だよ。
内側から己を食い破ろうとする怖気と、そして同時に、頭の中に響く、酷く懐かしい何者かの"声"がマクハードの中で響き合った。
そうして、ぴくりとだけ、マクハードは己の指を動かすことができるのを知覚する。
それはまるで波のように、ざぁぁと血流に乗って全身の皮膚を伝って押し寄せる実感であった。
――【貴婦人】様のところへ、帰ろう?
『私が私であると自覚することを以て、切り離させたんだね? 面白いことを考えるもんじゃあないか。でも、それにはねぇ、一つ重要な前提条件があるんだよ。言わなくてもわかってるよねぇ』
飲み干した【血】から湧き出し、マクハードの身体に侵食して、しかし【冬嵐】家の血筋ではないがために発現し得なかった"その力"が、実質的な寄生先としたのが【冬司】の力であった。
それはマクハードの体表から浮き上がり――【雪】中に混じり合う凍れる血と化して分離し、【冬司】を形成する『雪崩れ大山羊』を乗っ取って『半氷竜』を形態取っていたが。
――そいつは囮にしてしまえば、いい。
『そんな燐寸のような小さな小さな【焔】で、この私に挑むとは、片腹痛いなんてもんじゃあないねぇ』
(それなら、確かに……いける、のか……?)
――【貴婦人】様に"願い"を、聞いてもらえれば、僕たちの勝ちだ。
内側と外側が、一度逆転したならば、それが二度逆転することを禁ずる法則は存在しない。つまり、【氷】に内側から食い破られ乗っ取られた【冬】が、否、【夏秋冬】が今度は内側から食い破る番であったのだ。
だが、それは決して事態の収束どころか収斂すらをも意味し得ない。
【氷】の竜頭の内側で、にわかにもがくように割り動き出したマクハードの様子を――彼が見落としていた"もう一つ"の存在が。
"巨漢"が現れたことを察していた"堅実"なる者がじっと見極め、そして密かな号令を発していたのであった。





