0180 火の中に騙らる春を用いて[視点:竜牙]
かつて【森と泉】と呼ばれた一帯の南西。
多くの者から尊敬を集めていた老トマイルが隠居して、先ごろ没した終の地であり、また、【春司】たる"燃えるちょうちょう"様の御徴が現れた地であり、今や旧ワルセィレの民にとっても【血と涙の団】にとっても、そして複数の組織や魔導貴族達からも目が向けられる地となったヘレンセル村。
ベネリーと、彼女が『関所街ナーレフ』の"内側"で率い、水面下で反ロンドール家の活動をしていた構成員や連絡員、幹部達は、そこに到達とともに……愕然とする他は無かった。
皆の心に浮かんだ第一声はいずれも同じく――『あの"商人"に騙された』という念であった。
折しも、先の【春司】様の奮起を鎮めるべく、犠牲となった者達――村の者、"魔石"目当てで流れ着いた者、そしてエスルテーリ家の兵士達などなど――の埋葬と後片付けがようやっと一段落した折である。
老トマイルの孫夫婦に迎えられつつも、団の取りまとめ役達のそのまた取りまとめ役の一人としては、すぐに次の方針を決めなければならなかったタイミング。
マクハードが、ナーレフ執政ハイドリィ=ロンドールの面前でぶち上げてくれた「大博打」に対処せねばならないのである。
そのために、村に逗留していると聞いていた"外"の実働部隊の面々とは、すぐにでも会って話をつける算段であったのだが――。
「ハーレインもいなけりゃサンクレットもいないなんてねぇ……。古参のアルカイルとピルビリーも、ついていってしまったっていうのかい?」
「ベネリーの"姉さん"、残ってるのは重傷者ばかりでしたぜ。それにキンドッツの坊主が言うには――」
ついてきた20名あまり――『猫骨亭』の"レストルト"率いる特務部隊の強引な摘発で、6割が殺されるか検問に引き立てられ、処刑場の露と消えている――が村で手分けして、状況の確認や聞き込みなどを行っている。
その中で、ベネリーが真っ先に向かったのは老トマイルが埋葬されているという、裏庭の小さな墓であった。
幼くして親を失ったベネリーにとって、血の関係は無くとも"親"のように接してくれた老翁であった。
今回、村で真っ先に自分達を受け入れてくれたトマイルの孫、彼の父親とは、兄弟同然に育った仲である。だが、【血と涙の団】の活動からは距離をおいているはずの彼らが出迎えに来た、という時点で嫌な予感はしていたのだ。
「まさか全員が、あのマクハードにねぇ。いつの間にそんな人望を取り戻したんだろうねぇ?」
自分達が『関所街』を退去するのと引き換えに、マクハードがナーレフの駐留軍、要するにロンドール家子飼いの私兵達についていくのはまだ理解できる。
エスルテーリ家のご令嬢にどんな利用価値を見出したか、それとも存外にあの商魂たくましいはずの男に似合わず、ここで旧ワルセィレの民のために、団の"後見役"のくせに渋り続けてきた「命を賭け所」がここだと判断したか。
だが、自分達ナーレフの"内"の団員達を村へ退去させるというのは、普通に考えれば"外"の実働部隊と合流させて――村に籠城して徹底抗戦するか、それとも『次兄国』なり【西方】なりに落ち延びさせるか、いずれにせよ、団の今後を託したと思おうもの。
……にも関わらず、ベネリーら"内側"の団員達が知ったのは、自分達の退去とまるで入れ替わるように、村にいた団員どもが、団長も副団長も古参も含めて、怪我人達を置いていくようにしてまで――マクハードと合流すべく【深き泉】に向かったという報告だった。
「マクハード、あいつは本当に……あれだけ【夏司】様の"風"を使いすぎるなって、言ったのにねぇ」
「姉さん。あの"商人"野郎、まさかとうとう同胞達をロンドール家に売り飛ばしたんじゃ?」
『剃髪屋』のボドルフが、怒りと訝しみと困惑が入り混じったような声を震わせる。
マクハードがこの場にいれば、胸ぐらを掴んで殴り倒してしまいそうな勢いであったが、ベネリーはそれに肯定も否定も返さなかった。
「正直、あいつが何を考えてるのかあたしにはわからない。それに、若造のサンクレットやマクハードを信じ切っているハーレインはともかく、他の連中がそこまでの馬鹿だとは思わないんだけれどねぇ……」
現在でこそ、ベネリーは『関所街ナーレフ』ではそこそこ名が知れている。
旧市街の中でも、宿屋や飯屋・酒場などが集まる中心区画のうちに『木陰の白馬亭』を構える女主人であったが、彼女の店が繁盛していたのには理由がある。
ロンドール家が『関所街』に集中的な投資を行ってきた中で、街が急速に発展する20年間。
ナーレフでは、建設作業や運搬作業に従事する肉体労働者や、人が生活をする存在である以上、彼らを相手取った様々な産業が活発化する。合法と、そして非合法の商品を取り扱う商人達も入り乱れ、駐留する兵士達を相手に商売を行う者達や、その家族が住まう区画が整備されて"新市街"となるし、村々からは農産物や森と山の幸などが集まり来るが――ナーレフは『次兄国』への入り口の一つとしても成長していたのである。
あるいは労働者として、あるいは彼の交易国家において常に人手不足である"船乗り"として、『次兄国』に食い扶持を求めて、上述のナーレフ内での労働需要からもあぶれた身一つしか持たない流れ者達が『長女国』中の村々やら貧民窟から集いつつあったのである。
斯くしてナーレフにおいては、旧ワルセィレの民が集められた「旧市街」と「新市街」の間に「貧民街」が形成される。ヘレンセル村で【春司】の御徴が現れた際に、急速に形成された"野営地群"の労働力もまたここを源としたものであったが、その日を暮らすにも精一杯である人々にとって、日常の需要を満たす場として都合が良かったのは――飯も酒も安い「旧市街」側であった。
そのような区画で酒場を切り盛りしていた"女主人"がベネリーである。
旅人向けの小綺麗な宿屋や盛り場とは異なり、中には流れ者達に混じって、素性を隠す必要があるような者達が身を隠すように寄り付く場でもある。
堅気もそうでない者も入り混じり、日の沈むと沈まぬとを問わず、危険と喧騒が絶えない。少々危険な"仕事"を求める客が多く訪れるため、注意深い旅人や諍い慣れしたタフな商人や傭兵でなければ、よそ者には、歩くのが難しいだろう。
無論、そういう場所であるからこそ、【血と涙の団】のナーレフ"内"の構成員達が根付き、20年かけて溶け込んできた場であったが――彼らからすれば、ロンドール家によって街の中に封じ込められたとはいえども、父祖伝来の土地に変わりなく住んできたに過ぎない。
ただ、"情報"すらもが「商品」になるという意味では、ベネリーは、他の幹部連中ほどにはマクハードが「商人」であることを馬鹿にはできない。
――【血と涙の団】との関わりが近いにせよ、遠いにせよ、こうした区画で"よそ者"も含めて客とする者達は、そういう意味で、厄介ごとを抱えていない客の方が珍しい中で切り盛りする必要があるのである。
ベネリーはその中で生き残ってきた一人である。
それはただ単に、情報を受け取り引き渡す際に、尻尾を掴まれないようにするための言葉選びといった小手先の技術面だけではない。
例えば、ナーレフに出先を持つ非合法組織の間から得た情報を切り売りするなど。
"弾圧"ばかりが恨み言とともに強調されがちであるが、能力主義もまた苛烈に敷いているロンドール家支配下の代官邸においては、兵士や役人達もまた同僚同士の水面下の争いが多い。
ベネリーの店に、そうした憂さを晴らしに忍んで訪れるような、こうした為政側の者達もあり――彼らとの繋がりと、そこから得られる「情報」により、彼女は結果的には、逃げ道と後ろ盾を常に何枚か備えておくことができていた。
無論、それだけであれば、単に亡国の住民として生き繋ぐのに成功した程度であろうが――ベネリーは、いつしか、己が市井に持つこうした情報網を【血と涙の団】のために活用するようになっていった。
そうした"保険"あらばこそ、今回のレストルト率いる『猫骨亭』の強引な摘発に対しても、ベネリーは多くの仲間を逃し、またいくらか反撃することができたわけである。
便利な【魔法】も、故トマイルやマクハードのような元【涙の番人】が使えるような【四季ノ司】達からの"ささやかな"手助け――【夏司】様の「風のうわさ」など――も使えるわけではない、ただの女主人である彼女は、しかし、その持ち前の慎重さによって。
……そして、やや暴力の気配すら香る酒場街において、生来の気丈さと肝っ玉、誰でも平等に励ます、まるで母親のような柔和さによって、今では【血と涙の団】の"内"を取りまとめる大幹部の一人と見なされていた。
――もはや、愛した男たちが次々に"処刑"されるか、"外"の抗争で命を散らしてきたことに一喜一憂し身も心も悲痛に痛めながら激しく気を揉んできた、一介の生娘ではない。
ロンドール家に、【紋章】家に、『長女国』には絶対に屈しはしない。
必ずや、再び【森と泉】の自立を勝ち取るという信念で【血と涙の団】と共に、剣戟によらない戦場で戦い続けてきたベネリーである。
だからこそ、ベネリー自身は――"外"の団員達がロンドール家子飼いの密輸団どもを狩ることと、商人としてのネットワークを構築したマクハードが様々な活動のための物資――武器など――を支援してきた構図の重要性を理解できているため、他の者ほどこの「商人」を嫌っているわけではない。
決して、かつて彼と男女の仲であったこともあるという情によってではなく、生き残り続けてきた古参の団員として、その利用価値を理解してきたつもりなのである。
……例え彼が、団を活かすために、時折"尻尾切り"の如くロンドール家に「生贄」を捧げるという非情な決断をしてきた男であったとしても。
似たような事は、ベネリーもまたやってきたのであるから。
――果たして何人の情を交わした男どもが。
彼女の"頼み事"のために危険を冒した『関所』越えを敢行し、その果てに処刑場で血を流してきたことか。そして、その男達の何倍の女子供ども達に、涙を流させてきたことか。
無論、それもこれも全てはロンドール家の支配から【森と泉】の自治を取り戻すため、であったが。
だから、それが【森と泉】の解放に必要なことである限りにおいては、ベネリーはマクハードが何を企んでいたとしても、それを認めてやるつもりではいたのである。
どのみち、村へ退去して、怪我人達を押し付けられたような状況ではすぐには動けない。
……ただし、次の行動と方針を考えるためにも、一体マクハードが"外"の実働部隊を、根こそぎ、どんなネタによって、自分と同等以上に同じ熱意を持ったあの荒くれの男どもを――ロンドール家と合流するように「説得」したのかぐらいは報せてくれてもよいのに、と苦笑交じりの恨み言を心の中で呟いてはいたが。
おかげで、状況の把握ですらままならない。
それでも、団員達が村中を駆け回ってくれた甲斐あって――当然であるがこの村出身の者も何名かいる――ベネリーは、ヘレンセル村で現在、決定権を持つ者がまるきりいない状況であることを理解させられていた。
「はぁ? 村長もエスルテーリ家も、従士どもも留守なのは当然として、村付きだったっていう教父様までいないってのかい?はぁ、一体、何が起きてるんだかねぇ……」
――いっそこのまま『関所街』へ逆戻りすべきか。
それとも、今から自分達だけでも動ける者で実働部隊の後を追って【深き泉】へ行くべきか。
老トマイルの孫夫婦の家を後にし、元『祭殿』であった建物に居を移して、幹部達や村の主だった者達と話し合っていたベネリーであった、が。
「邪魔するよぅ! ひっひっひ、これはこれは、そこにいるのはベネリーの小娘っ子じゃないか、奇遇だねぇ!」
唐突に闖入する愉しげな声に聞き覚えがあったため、ベネリーは自ら引き戸を開ける。
そこにいたのは、ナーレフで活動する"密輸団"の一つである【霜露の薬売り】の老頭目ヴィアッドと、彼女の護衛を務める数名の若い衆であった。
「まだ生きてたんだねぇ、この鬼婆。嫌に元気そうじゃないか? まるで10歳か20歳は若返ったみたいな……入りなよ? ちょうど、何か"色気"のある話でも聞きたかったところだったんだ」
「あぁ、そうとも、そうとも。ちょうどね、お前にも一枚噛んで欲しいネタがあってね? 今はちょっと野暮用なんだけれど……旨い話さ、あたしも加わることになってるんだがね」
壊滅したと伝えられている【西に下る駆け月】と共に、ヘレンセル村にやってきた集団である。
はっきり言ってベネリーとしては、『関所街』で抗争を繰り広げた相手であり、自分とはまた別の意味で生き残ってきた存在として、印象はそれほど良くは無い。
ただ、【霜月の薬売り】は、今やこの村においてある程度まとまった人員を擁する最後の"よそ者"集団であり、下手に敵対して村を巻き込んだ抗争を起こすわけにもいかない。
それで、ここしばらくの間一体全体何があったのかを聞き出すべく、彼らが居座っているという"野営地群"に人をやろうとしていた矢先なのであった。
しかし、もう老い先短くますます癇癪の気が強い"鬼婆"という印象の強かった老ヴィアッドが、あまりにも楽しそうであり。一体全体、どのような「美味い話」を聞かせてくれるのか、"情報屋"としての勘が働いたのもまた事実。
そうして、部屋に招き入れて、ヴィアッドから聞いたのは――確かに、まるで生娘の心地を思い出させられるかのような、担がれているかと思うようなほどに気宇壮大な"話"なのであった。
***
【エイリアン使い】の従徒たる竜人ソルファイド=ギルクォースは、小雪を孕んだ風に赤髪をたなびかせながらも、ただ静かに意識を研ぎ澄ませながら行軍していた。
エスルテーリ家が、【深き泉】へのロンドール家の進軍を阻む拠点としていたデレシル村を越えた冬と雪の山道を、総勢にすれば1,000人には至ろうかという軍勢と共に、である。
しかし、この軍勢には、客観的にはいつ爆発してもおかしくはないと言える、大小に様々な不穏さが混在していた。
――片や、『関所街』を発した「ナーレフ駐留軍」、正確にはそこに『市衛』の一部や『猫骨亭』と呼ばれる特務部隊をも加えた、ほぼ全戦力に等しい集団が600名。
――片や、暴走した【春司】の鎮圧のために主オーマによって説得されてヘレンセル村の防衛に参加した【血と涙の団】の"外"の実働部隊達……が道中で他の分隊と合流しながら隊列を成した300名。
――そしてその間に挟まれるように、デレシル村で合流した兵士達を加えたエスルテーリ家軍が100名。
いくら緩衝材があろうとも、一方は侵略者とその駐留の軍勢であり、もう一方はこれに実力と暴力で以て激しく抵抗する"叛逆者"達である。
常識的に考えれば、遭遇した時点で殺し合いになってもおかしくはないところ……微妙な距離は取りつつも、3軍共に、目も足も同じ方向を――【深き泉】を目指して、一緒になって行軍している光景を、当事者達はかつて想像することなどあっただろうか。
無論、決して20年もの遺恨が突如として雪融けし、和解したなどということは、無い。
(それにしても、主殿も、マクハードも、堂々と大胆な"嘘"をついたものだな)
――よもや己を、【春司】が宿った依代である、などとマクハードに吹聴させるとは。
どのように見込みを計算し、算段を見積もるかは、主オーマや彼の知恵袋役を担うリュグルソゥム家や副脳蟲達の役割ではある。役割としては"武人"たるを求められている己は、余計なことを考えるよりは、与えられた状況下においてただ剣を振るえばそれでよい、とソルファイドは考える。
この意味では、おそらくは、主達の計算通りに事が順調に運んだのであろう。
ハイドリィの元に赴くに当たって、当然だが独自の思惑を持っていたであろうマクハードは、主オーマに「その竜人を貸してほしい」と言ったのである。
そしてその意味は、2つの効果からソルファイドにも理解することができた。
第一には、ヘレンセル村の防衛戦でソルファイドに『焔眼馬』が宿った、という劇的な光景を村の多くの者が目にしており――真実と異なり、元【涙の番人】ではない多くの村人達や、【血と涙の団】の団員達にはソルファイドにこそ本当に【春司】が宿ったように見えたこと。
マクハードは、この「事実」を利用して、【血と涙の団】の団員達を糾合することに成功した、だけではない。
ハイドリィ=ロンドールに"戦力"として売りつけたのである。
……しかも、ただ単に売りつけただけではない。
確かにハイドリィは【冬司】を討伐するに当たり、【騙し絵】家の協力が得られなかったために"戦力"を欲した挙げ句、エスルテーリ家軍も抱き込むこととなったが……それでも、敵対する反抗勢力を懐に抱え込むことというのは普通ならばあり得ない。
だが、そこで第二の効果である。
マクハードはなんと、ソルファイドが【春司】が宿った存在であることをハイドリィに「紹介」したのであった。
曰く、【血と涙の団】は【春司】と自分の下に集っている限り、今は共闘できる、と。
曰く、【冬司】を鎮めることと、20年来に渡って遮られ続けてきた【泉の貴婦人】との邂逅を求める熱意においては、今だけは共闘できるのだ、と。
果たして、ハイドリィとその側近達に引き合わされたソルファイドが、"痩身"というあだ名の、頬のこけた神経質そうな魔法使いサーグトルの疑り深い問いに応えるように――あらかじめ主から許可はされていたが――【火霊共鳴】の技能によってもはや純然たる【火】の魔力によって構築された魔力生命体とでも呼ぶべき存在と化した『焔眼馬』を喚び出して見せたのである。
――そして、流石にそれが本物の【春司】であるかどうかを断定するには時間も設備も不足しており、"痩身"サーグトルも"堅実"ヒスコフも判断しあぐねる様子はあったが……ハイドリィは「これは使える」と考えたらしく、マクハードの「提案」を受け入れたのである。
≪【奏獣】とやらの力で、いざとなればソルファイドさんを操ることができると踏んだといったところですかね。ですが、それ以上に、≫
≪【奏獣】とやらの本質が私達の読み通りならば、ハイドリィ=ロンドールにとっては、マクハードさんから"提供"された【血と涙の団】の300名は願ってもない補給になるはずですね≫
≪【春司】の"目覚め"と共に、【血と涙の団】も決起して【深き泉】に向かうって計画だったはずだ。そして、事実、今はその通りになってるだろ? 団員達も、強く反対はできないはずだ――多少、想定と全然違う事態になっていてもな≫
――主オーマが言いたいこととしては、【血と涙の団】はきっと、奮起した【春司】と共にロンドール家軍と戦ってこれを打ち破り、【深き泉】に至って【冬司】とも合流。最終的には『関所街』を攻略し、旧ワルセィレを自立させることを誰もが思い描いていたのだろう、ということ。
まさか、撃破すると思っていた「ナーレフ駐留軍」と共に、肩も靴も並べて【深き泉】へ行くことになるとは、困惑が勝るだろう。
しかし、悲願である【泉の貴婦人】の解放を優先すること、侵略者の撃退はこれらの神性を開放して取り戻した後にでもできること、そして何より――【春司】が自分達の側にいて共に歩んでいることなどが合わされば、今は困惑に絶えつつも、既に燃え上がった機を逸して逃散するなどということはできないと誰もが考えるだろう。
既に、ナーレフからは"内"側での連絡や調整と支援を担っていた幹部や連絡員達が退去することとなったのであるから。
まんまと、【血と涙の団】のうち自分自身に懐疑的な者達をヘレンセル村に送ったという意味でも、マクハードのこの一手は、ハイドリィを利用するという点においては主曰く「ウルトラC」であるとのことである。
だが、同時に主オーマにとってもその「ウルトラC」は都合が良かったために、迷宮でも最上位の個人戦力である竜人ソルファイドという札は、このように切られたのだ。
すなわち、ソルファイドを送り込むことで――迷宮防衛では吸血種を代わりに呼び戻した――エリスとラシェットを堂々と護りつつ、同時に、ナーレフ駐留軍に対してもその至近から監視・観察し、命令あらば即座に行動に出ることができる位置に張り付けることに成功したのである。
唯一の懸念点は、この件と同時進行で迷宮において【騙し絵】家を迎え撃つという賭けに主が出たことであった。
だが、主がその賭けに勝った以上、ソルファイドにはもはや防衛のために独断で迷宮へ帰還する――そのために与えられていた貴重な『人皮』の方である"魔法陣"を使うという選択肢は消え失せている。
――そしてその故に、ソルファイドの意識は。
彼の剣士としても竜人としても、そして何よりも【調停者:火】として研ぎ澄まされた感覚は、ある一点に向けられていた。
(【火】によっては溶かされない【氷】属性……か)
主の迷宮への侵入の直前に、リュグルソゥム家の追討部隊の一人であった【冬嵐】のデューエラン家の手の者であるハンダルスが離脱した、という情報は既にソルファイドにも共有されていた。
そのことについて、リュグルソゥム一家が改めて警告を発していたのである
タイミングが出来過ぎていたのだ。
確かに「長き冬の災厄」そのものはデューエラン家の手によるものではないかもしれない。
しかし、いくらリュグルソゥム家を各家合同で虐殺するに至る何らかの陰謀がそれはそれであったとしても――元来は【盟約】派である【冬嵐】家の手の者が、【騙し絵】家を中心とした迷宮侵入部隊に最後まで付き合うとは考えにくい。
……という発想を裏付けるような、直前での離脱劇であった。
流石に、ハンダルスという不良衛兵の如き男が、その見た目通りの倫理観によって気ままに仲間を捨てて逃げ帰った、などと素直に考えるべき事態でもない。
なにせ、ハンダルスが【冬嵐】家の所領に帰ってなどいないことは、すぐに発覚している。
主オーマがラシェットにつけた「猫」が、ナーレフにおけるエリスとハイドリィの舌戦の中でハンダルスらしき人物を目撃しており。
そのことが共覚小蟲によって擬似的に【眷属心話】を受け取ることに成功していたユーリルに伝達されたところ、少なくとも【氷】属性の魔法使いの気配をユーリルは感知しつつ、迷宮へ帰還したのであった。
事態の規模という観点から、一度は除外されたはずの【冬嵐】家の関わりへの疑いが、この段階で再び疑惑の鎌首をもたげ直していた。
≪それこそ【騙し絵】家と"協力"でもしていない限りは、【冬嵐】家の部隊が乗り込んでくるということはないでしょうが……≫
≪だってそれができるなら、先に迷宮に投入してきているはず……ですよね!≫
≪【氷靴衆】程度なら、雪山を越えて、ハンダルスと共に侵入してきていてもおかしくはないかもしれませんね。警戒は必要かと思われます、我が君≫
≪……首謀者ではなくとも【氷】属性の繋がりか。【冬司】が弱ったところで介入しようとはしているのかもしれませんな、御方様≫
≪つくづく"指し手"どもが多いよな? だが、社会の上流層、利益集団どもが強固に凝り固まっちまった体制だ。どこで何をしようとしても、きっと、同じように芋づる式になるんだろうよ……だが、ちょうど良いじゃないか。【火の竜人】をそっちに送って正解だったな≫
――【冬嵐】家の秘術の根源を、【火の調停者】ならば、溶き明かすことができる可能性があると主オーマは踏んでいたのである。
故に、ソルファイドは鼓動するように疼く『火竜骨の双剣』の熱を感じながら。
徐々に風の勢いを増しながら、曇天を丸ごと地上に叩きつけてきたと言われても驚かない、吹き荒ぶような猛雪の中、ただ意識を研ぎ澄ませていた。
――どうしてだか、酷く、胸のざわめきを感じたからだ。
だが、そのざわめきの正体が何であるかを突き止める前に……彼に声をかける者があった。
「もしもし、あー、竜人さん?」
眼帯で両眼を覆ったまま、しかし、気づいているぞ視えているぞと示すように、腕を組んだままソルファイドが軽く首を横に向ける。
主オーマより、護衛を任されたエリスとラシェットを【心眼】の"視界"の端に入れつつ――何者であるかを、発する気配と態度で伝えるように誰何する。
「あ、あー! やっぱり、そうですよね? その鱗顔! いや、竜人なんて初めて見ましたもんでねー、はは」
ひと目見た印象は「文官」である。最低限の武具すらも持たず、まるで『関所街』の代官邸から、仕事着のまま出てきたかのような薄手――この寒さの中――である時点で、最低でも魔導の心得がある者であることは確かだろう。
しかし、"堅実"なるヒスコフが率いる魔法兵でも、"痩身"のサーグトルが率いる魔法使いであるとも思われない。
簡単に言えば、ロンドール家の手の者ではないと思われる。
それは「ナーレフ駐留軍」の方から、ソルファイドに対して剣呑な監視の眼差しを送ってくる者の気配が増えたことからも――大方特務部隊『猫骨亭』であろうが――裏付けられることであったが、ソルファイドは、あえてその気づきを言葉でも誰何した。
「ロンドール家の者とは思えないな。誰だ? お前は」
「いや、あー、はは。やっぱり気づいちゃいます? 勘が鋭いなぁ。私、レドゥアールという者なんですけど……ちょっとお聞きしたいことがありまして。あ、私はですね――ギュルトーマ家の遣いの者でございまして」
どうぞ、よろしくご贔屓を。
「文官」然としたその男は、そう告げてソルファイドに一礼を取ったのであった。





