0162 癒しは祝り、破邪とは屠り(3)
【国母】と尊ばれる、英雄王アイケルの長女ミューゼが礎を作った【輝水晶王国】の魔導貴族家は様々な顔を持つが、その中でも"謀略の獣"と呼ばれる「面」において、彼らの間における相互暗闘は凄絶なものである。
しかし、そうした日々当たり前のように行われている陰謀か、はたまたその報復などと比較して――『長女国』500年の歴史を紐解く中であった、もっとも重大な混乱と混沌は、記録され記憶されている限りでは3つ。
第一に、"画狂"の子孫たるイセンネッシャ家の台頭に伴う【空間】魔法の猛威。
第二に、そのことを原因の一つとする、『長女国』の魔導貴族家が頭顱侯も含めて半数以上がすげ替えられたという『大粛清』という事件。
そして第三が、同じく『大粛清』の原因とされる、吸血種が治める【生命の紅き皇国】の【血の影法師】達による本格的な暗殺・破壊工作の嵐であった。
――その故に、吸血種という存在。
それも【血の影法師】という職業を有した存在に関しては、何ができて何ができないか、という情報はリュグルソゥム家の『止まり木』に、一族の集合知として記憶されているところである。
"加護者"リシュリーが、黒いヘドロの如き【穢廃血】によってその身を蝕まれているということが、一過性のものなどではないというのは……俺だけでなくル・ベリやソルファイドやリュグルソゥム兄妹などがそれぞれの専門的知見から診ても、一致した見解なのであった。
……となれば、リシュリーの「状態」についての推測が成り立つ。
本来であれば、傷病老苦を"癒し"た時にのみ、移し替えられた概念的な傷病の類の代替として【穢廃血】が発生すべきところ、リシュリーの場合は何らかの理由で生成され続けていること。
そして、彼女の現在の昏睡状態は、体内で常時湧き出づる【穢廃血】を正常に排出できないことが原因であり――現状は甘蜜労役蟲が"滋養"を与えることで強引に生命維持しているようなもの――逆説的に、『ハンベルス鉱山支部』に捕らえられる前までは、何とか活動できていたというならば……それを成したのは行動を共にしていた【聖女攫い】という少年に他ならないのである。
「これでも【破邪と癒しの乙女】様に、仕える身。う、噂で……聞いたことが、あります。"癒し"の【聖人】様達のお力は――独占されていらっしゃる、と」
というのが教父ナリッソの言。
曰く、十数年も前であるが、今のように「村付き」として左遷される前は、"加護者"として保護、もとい『末子国』へ連れてこられる【四兄弟国】各地の少年少女達の世話役の雑務を担っていたことがあるらしい。
「その中から……実際に【聖人】となり、職務を遂行される者の数が、合わないのだ……です」
「あんたは、俺より年長なんだ、別に敬語じゃなくていいんだぞ? ナリッソ殿?」
「う、わかり……わ、わかった。だ、だが、まさか本当にこんなことが……」
現在、俺達は迷宮内の『研究室』へ場所を移していた。
ソルファイドとル・ベリとリュグルソゥム兄妹は、与えてある別の指令に従って既にこの場にはいないが、護衛としてアルファとガンマ、ダリドとキルメと、そして副脳蟲どもが6体もいれば十分過ぎるぐらいであろう。
そこには……。
繁殖させ、あるいは紡腑茸により増産した綿毛スズメの羽毛を裁縫労役蟲が編んだ羽毛のベッドを乗せた『エイリアン建材』の寝台の上で、すうすうと静かな寝息を立てる、リシュリー=ジーベリンゲル。
時折、目元や口元、耳など身体の"孔"から【穢廃血】が流れ出しており、その様子を痛ましそうにユーリルがじっと見つめている。
だが、流石にこの期に及んでこの場で、リシュリーの名を叫びながら飛びつき駆け寄るようなことはしないだけの分別はある、といったところであるか。ナリッソが語る"噂"に、静かに耳を傾けているようであった。
曰く、その後に成人して【聖人】となり『末子国』の運営に関わるようになる者のうち――どうしてか、【破邪と癒しの乙女】の"加護者"である少年少女だけが、どうしても、どうしても、数が合わないことにナリッソは気づいたのであった。
だが、誰にも言っていない、ただ単に心の中でふと、疑念にすら至らぬ些細なレベルの気づきでしかなかったそれが浮かんだその翌日に、彼は「村付き」となることを命じられ、『末子国』本国から追い出されることとなった。
それは果たして、偶然であるか否か。
「ナリッソさん、本当に、ありがとう……まだ痛むかよ?」
あの抜身の牙を剥き出しにした反抗的な様子であったユーリルが、すっかりと大人しくなったものだ。その点は、素直に、この"落ちこぼれ"の教父様に感謝をしなければならないだろう。
「……生まれ落ちてこの方38年。まさか、この身を吸血種に吸われるだなどと、なぁ。しかもその後に、や……【闇世】の【魔人】の眷属の【魔獣】に、ち、血を注がれるなど、この100年で経験したのは、私だけかもしれない」
「はっは! 今やすっかりあんたは、諸神にも【人世】にも『末子国』にも、裏切りを犯した咎人となってしまったなぁ、どんな気分だい? 教父様?」
げっそりとした様子で、しかし、よほど『客間』での数時間の間に意気投合したのか、はたまた彼の――『継承技能』に表記のあった、彼の以前の職業であったと思しき【史学教授者】から引き継いだと思しき、年少者への教育や教授にボーナスがかかる系の諸技能――によるものか。ユーリルに対して気丈に振る舞うナリッソ。
俺の軽口に対しても、頭を抱えて「神よ、乙女よ、お許しを……!」などとぶつぶつ口にしてはいるが、だが、そこに本気の後悔は俺の目からはどうしても見受けられなかったのは――自らの"決断"が、結果的に、リシュリーの容態を安定させることに役立ったと理解したからであるのか、否か。
――何のことはない。
リシュリーの"血"に問題があるとして、紡腑茸によって生み出した【血】を輸血するという試みなど、とうに俺は実行していたのであった。
だが、どうしても紡腑茸産の【血】では定着せず、体内に注ぎ込めないどころか【穢廃血】に触れる側から逆に侵食され、一時はあわや紡腑茸すら侵されかねず、この施術は断念。
次に試したのは小醜鬼からの輸血であったが……当然のごとく失敗。
逆に小醜鬼に【穢廃血】が逆流し、侵食し、瞬く間に絶叫とともに黒いヘドロの塊と化したため、試料として一部残したのみで全体はソルファイドに焼き潰させた。
そこで、これは紡腑茸が"脳"を生み出せないということと似た何かではないか、つまり生身の人間からの【輸血】でなければならないと考えたが――"血"の提供に同意したリュグルソゥム兄妹のものでも効果は無く、手詰まりに落ちていたのである。
……そんな中での、この【血】の凝固と噴射を操って武器にも防具にもしてのける特殊な職業【血の影法師】たるユーリル少年の登場なのであった。
小醜鬼は論ずるに値しないほど当然であるとして、神の似姿からの"輸血"でも意味が無い。
だが、考えてもみれば、そもそも人々の傷病老苦を自らに移し替える側が【破邪と癒しの乙女】の"加護者"に与えられた権能である以上――染められる側の血をいくら輸血しても意味が無いということであるのかもしれない。
だが、そうであるならリシュリーはずっと昏睡状態であったはず。
そもそも、ユーリルによって「攫われる」ことなど有り得なかったはずなのだ。
だから、俺はユーリルがリシュリーの関係者であることを知った際に、急遽予定を変えてまで、彼が侵入する先を『魔石鉱山』ではなく【報いを揺藍する異星窟】に切り替えた。
そしてリュグルソゥム兄妹曰く、『長女国』内で吸血種対策が【聖戦】家を中心に急速に構築される中で、【血の影法師】側は――極限まで"血の渇き"を我慢し耐える訓練を積むように対抗してきたのだという。
すなわち、よしんば吸血種少年を捕らえたとしても、消耗した彼は「血が足りない」状態となっている可能性が高く――そこで、ちょうどヘレンセル村での騒乱阻止の過程で保護した「人間」が一人いることを思い出したわけであった。
……何故だかはわからないが、『止まり木』から従徒献上された知識には、吸血種は決して「死者」からは血を吸わないと記されている。それはかつて【聖戦】家が、吸血種対抗魔法である【腐れ血帳簿】を開発する過程で何体もの吸血種を餓死させた記録であるが――彼らは必ず生者からの"血"でしか永らえることができない、と『長女国』では知られていたのであった。
斯くして、ユーリルはナリッソから"血"を拝借する。
――それは首筋に牙を突き立てる、だとかいう俺の元の世界での先入観によるものとは異なる。
この世界の吸血種の"食事方法"は、なんと対象に自らの掌を合わせ、血液操作術によって直接自らの「血管」を、まるで生き物のように動かしてナリッソの体内に侵入させその血管に接続させて吸い取る、というとんでもなく器用なものであったのだ。
その後、ナリッソに対してはすぐにあらかじめ紡腑茸によって生産しておいた「エイリアン産」の血をル・ベリによって"輸血"させ、故に、元々色の薄かった顔がさらに青白くなってはいるが、そこは俺の【命素操作】によってさらにダメ押しを仕掛けて強引にシャキッとさせてやる。
そして今。
俺の許可を受けて、おずおずと感謝するように黙って首肯目礼した後に、ユーリルは、横たわるリシュリーの隣に自らも腰掛け。両腕をまくり、両手のひらをリシュリーの首筋と、少しだけはだけさせた肩に当て――ナリッソに対してしたのと同様に、【血の影法師】の職業技能により互いの血管を接続。
昏睡状態でありながら、わずかに呻いたリシュリーを見つめながら、しかし物凄い脂汗を浮かべながら――吸血種たるユーリル自身をして、その"操作"は極度の緊張と集中を強いられるものなのであろう――【穢廃血】を吸い取る、だけではない。
それをあらかじめ切っておいた自身の大腿のあたりの血管から【黒き血】のまま排泄し、同時に、自身の体内の【血液】を――ユーリル曰く、吸血種はそれを【生命紅】と呼ぶらしい――リシュリーの体内に注ぎ込んでいる様子なのであった。
「ゔ、吸血種が……血を吸うのではなく、与えることもできる、というのは流石に初めて知った……」
「おや。【人世】の歴史や文化に非常に造詣が深い教父様でも、知らないことがあるんだな?」
「そんなことばかりです……だよ、魔人殿。いや……こうなった以上、オーマ君と呼ぶべき、か。わ、私はただ、自分が知っていることなど……この世の中でごくごく、ひと欠片に過ぎない、いつだってその事実に怯えているだけなんだ」
無論のこと、吸い尽くすことが目的でないのならば、いかな吸血種とて吸い取ることのできる量の血には限りがある。
いくらナリッソに対して、吸われる端から輸血を敢行し、それをいわば【命素操作】によって強引に馴染ませたとはいえ――立っているのもやっとのことだろう。だが、善意と、そして何がしかの負い目のようなものから成されたように感じられた彼の協力に感謝し、休めと言ったところ。
ナリッソは、どうしても見届けたいと述べたのであった。
「……ふう」
ユーリルが、触れれば破砕してしまいそうな極細のガラス細工のような、しかし、集中のあまり超高温の精密機械となったかのような緊張状態と極限の集中状態から抜ける。そしてリシュリーの肌に、わずかな血管の刺し痕を残して――ふらふらと崩れ落ちそうになりながら、そっとその身を放し、はだけさせた肩の衣装を優しく整えた。
「こ、これで……大丈夫なのか?」
緊張と、そして疑念のようなものが混じった表情のまま宙吊りにされた心持ちで待たされていたかの如きナリッソが、消耗しているはずの体力をさらに絞るようにユーリルに詰め寄る。それに対して、大手術を終えたばかりの救急救命医といった風に、緊張を弛緩させながら、ユーリルは軽く首を縦に振るのであった。
「とりあえず、これで半日は、保つかな……」
「えーっと? ユーリル君のその反応からすると、想定よりもずっと少ないってこと、なのかなぁ」
ダリドの疑念は俺も共有するところではあった――予想通り、といった具合ではあったが。
問われたユーリルは、どこかひどくバツが悪そうな様子で、疲労を押しのけるようにほとんど気力で、ダリドに首肯を返すのみである。
「ってことはさ! ナリッソおじ……教父様、まだまだ、やらないといけないってことじゃん!」
「――え?」
「うんうん、仕方ないよね! 僕達は……ほら! まだ身体が幼いし、父上と母上は忙しいからね、うん!」
「いやぁ、あたし尊敬しちゃうな! 聖じ……"加護者"様を助けるために、吸血種に致死量越えて何度も何度も血を吸い取られ、もとい提供するなんて!」
「「考えられないよねー!!」」
そう嘯きながら、あっはっはっは、とまるで彼らの父母が常にそうしているような"双子"然としたぴったりと合った息の呼吸で唱和。
言われたことの意味をナリッソが遅れて理解し、血が抜けるのとは別の意味で再び青白くなり始めるのを尻目に、何故か俺の方を向きながらダリドとキルメは、二人して肩を組んでずりずりと後退り。そうだ、父上とかきゅぴちゃんとかに頼まれていたお仕事があったんだ! オーマ様、加護者リシュリー様をどうか頼みましたぁ! などと、これまた無駄に呼吸どころか抑揚と音程すらもが完全に一致したアルトとソプラノの見事な重唱を掛け声の如く張り上げ、俺が苦笑を浮かべるよりも素早く『研究室』から脱出してしまったのであった。
≪きゅぴぃ。きっと自分達がお血々さんの絞られ役さんに、なりたくなかったのだきゅぴね!≫
≪ちょ……チーフ、ダリドちゃん達に、何も言わないでって頼まれてたんじゃ……≫
≪きゅぴぃ! 僕は沈黙、僕は無言、僕は猛毒、僕はもくぎょ、僕ぽくさん!≫
――などとのたまい、呼び寄せたベータに6体全員がまんじゅうのようにぶら下がってこれまだ部屋から脱兎となりて逃げ出し去りゆく副脳蟲ども……訳がわからないが、放置することにする。
今しばらくの間は……まだまだ、"加護者"リシュリーの体内から、ユーリルとはぐれてしまった間に溜まりに溜まってしまったであろう【穢廃血】を「ろ過」するために、教父ナリッソ殿にはもう一肌も二肌も脱いでもらわねばならなくなったのであった。血管を晒す、という物理的な意味でだが。
それがわかったのであろう、ユーリルとは違う意味でへろへろへなへなになったナリッソ殿であるが……まぁ、それが彼の決断なのだから、俺はその決断そのものに敬意を表するものである。
彼のこの行いは、決して、ただ単に彼が【破邪と癒しの乙女】に仕える者として【聖女】様とやらを救わねばならない、という宗教的だとか所属組織の教義的なものではなく、もっと、彼自身の中に内在していた何がしかの、押さえつけてきた思いによる「善意」であることが、俺には。
文字通り、痛いほどわかっていたから。
――そうだね。だってせんせは、同じようなことを、してくれたからね。
だが、と俺は訝しみを新たに、ユーリルとそして少しだけ呼吸が楽そうになったリシュリーに向き直る。
果たして、俺の予想が正しいのであれば。
リシュリーの中には、一体全体、何人分もの概念化され抽象化された傷病老苦が、巣食っているんだろうな?
そんな胸糞の悪いことに思いを馳せながら、しかし"峠は越した"という一定の安堵はあった。懸案事の一つをようやく肩の重荷から降ろせそうだと感じて、俺もまた深く深く長い溜め息をついたのであった。
***
季節外れの豪雪と"長き冬"の災厄に覆われたる『長女国』南西、旧ワルセィレの征服域からは北方。
王都ブロン=エーベルハイスを挟んで、やや北北西側に離れた『長女国』内陸部中央西部。
【懲罰戦争】において【西方所属連合】の最前面に相対するは【聖戦】のラムゥダーイン家であるが――さながら、その後背を守るように。他の頭顱侯家と比較すれば中の下程度しかないが、最前線への特に軍需物資を供給する諸都市を押さえた交通の要衝を支配する差配者として、【像刻】のアイゼンヘイレ家はその所領を有し、治めていた。
冬が過ぎ、『淡き抱擁の峡原』を含め、西オルゼと東オルゼを分かつ山脈・山岳地帯における雪融けが本格的に完了しつつある折。
それは、その一時以前にリュグルソゥム家の一部を最前線に誘い出したような小競り合いとは異なり――この年の本格的な大攻勢を仕掛ける時期が近づいていることを、示していた。
未だ"冬"に喘ぐ者達のことなど知る由もなく。
初夏の気配すら孕んだ、気の早いような春の陽気に包まれたアイゼンヘイレ領内ではあったが――。
その場所は、酷くジメジメとした湿気に覆われていた。
候都グラン=ゼーレヘイレの中央に座す、【像刻】家の宮殿たる『刻命の館』の一室である。
暗く、数少ないぼうっとした燭台の灯りによってのみ照らされるその部屋は、『長女国』を率いる最上位の"雲上人"たる頭顱侯家の一角を占める一族が有する一室としては、ひどく湿気っており、また、雑然としており――さながら人形劇団の物置か楽屋であるかのよう。
しかし、部屋の中央に、まるで身を寄せ合うかのようにしてねじ込まれた4人掛けの小さなテーブルと、同じく背中を丸めなければ座ることができなさそうなほど小さな丸椅子が収まっている。
――しかし、その4つの机と椅子こそが、この部屋がアイゼンヘイレ家で至上の意思決定の場であることを知る者は、同じ頭顱侯家であっても多くはない。
この人形師の物置小屋の如き部屋こそは、代々、交代で「アイゼンヘイレ」の名を襲名する、アイゼンヘイレ家の「4分家」の代表が集う秘密の場なのであった。
正確なことを述べるのであれば、「アイゼンヘイレ家」という一族は存在しない。
初代"人形師"であったアイゼンヘイレの弟子達のうち、生き残った4名を祖とした「4分家」が連合し、歴代の「アイゼンヘイレ」を輩出しながら【像刻】家という頭顱侯家を形成してきたのであった。
無論、長い歴史の中で相互に混じり合い、既に血筋としては全員が名実共にという意味での「分家」となってはいるが、しかし、それぞれの分家が"担当"する利権と領域は厳として隔てられ続けてきたのである。
その故に、【像刻】家の内部で、むしろ他の頭顱侯家に対する以上に、この湿気た部屋よりもさらに陰湿なる相剋が繰り広げられ、ともすれば互いを憎悪する念すら強い「4分家」ではあったが――そのような対立もこの部屋には持ち込まないことが絶対の掟である。
――そんな、今は特に議題も無く、集まることがないため誰もいない部屋。
押し固めるように小さく密集した4台の机の中央に、"その人形"はあった。
ぼろぼろで、苔生しており、ほつれては修繕され、布地が剥げ落ちては新たに当てられてを……おそらくは何百年も繰り返されたであろう、子供が片手に抱きかかえるほどしかない布人形である。
誰もおらず、わずかな燭台の灯りに、湿気た部屋の中をただただ、この空間だけ時が止まったかのような静寂の中をただ石のようにじっと座り置かれているだけだった、その苔生した人形が。
「オカシイワネェ」
――と誰もいない空間の中で喋った。
瞬間、部屋の中の全ての燭台の炎が、まるで吹き消されそうになるほどの湿気た空気が、どんよりと、ねっとりと、重苦しく渦巻く。その苔生した人形は、さらに、およそ人とも獣とも、発声器官を有すべき生命にはまず出すことのできないだろう、強いて言うならばザラザラとした"声"で、しきりに何かを訝るような念を溢れ出させ続けていた。
「イマサラ、"タマヌケ"ガアラワレルハズナンテ、モウナイノニネェ」
燭台の炎が、消え入りそうになる。
……その炎が完全に消えることは――「4分家」の代表をその小さな小さな狭い雑然としたる部屋に、机上に苔生したその人形を囲んで額を突き合わせる他は会話する術の無い部屋に、緊急的に招集する魔法が発動することを、アイゼンヘイレ家では意味していたのである。
だが、しかし、炎が完全に消える寸前のところでその重苦しい空気の渦巻きが、静かに霧散した。
「イマハヨウスミ、シヨウカシラネェ」
それっきり。
部屋は再び、元の薄暗い、もう何年も使われていない様子の、雑然さが数層の埃によって埋もれた部屋に再び戻っていく。
人形は再び、己を包み覆っていく苔と風化と腐食にその身を静かに湛え、静寂の中へと沈みゆくのであった。
いつもお読みいただき、また誤字報告をいただき、ありがとうございます。
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また、次回もどうぞお楽しみください。





