0154 春疾火(はるはやひ)の乱(10)[視点:■■■]
"読む"という行為を学ぶことは、火を灯すことである。
紡がれるあらゆる言の葉こそが、火の粉となる。
――To learn to read is to light a fire. Every syllable that is spelled out is a spark.
(ヴィクトル・ユーゴー)
俺にとって最初の"火"の記憶は。
激しく水蒸気を吹いて沸騰するやかんの、鋭く細長くて、そして長い長い音。
熱されてカタカタと揺れる、重みを感じさせられる金属体の直下で揺らめく【青】と【橙】。
それは1歳か、2歳だったか。
奇しくも、ちょうど俺が物心ついた瞬間でもあったのだ。遡ることのできる一番古い記憶が、それなのである。
その時の俺は、きっと何か悪さをしたか。
激しく吹きこぼれるやかんを必死に指差しながらも、親に何事かを怒られていた。
――【火】とは"音"であった。
その次に印象的な、記憶の中に染み付いて離れない"火"の記憶は。
パキパキと焼べられ、組まれた木片と落ち葉を、まるで取り込んでいくように。
「ふんわりと」だなどという表現は語弊を招くかもしれないが、そんな焚き火に燃され、ふっと辺りに漂ってくる焼き芋の匂い。
まだ、夏の夜が非常に涼しかった時代。
小学校の近くの公園で、先生達と保護者達が有志で開催したイベントの時の記憶だ。
――【火】とは"匂い"でもある。
同じイベントという意味で言えば。
山奥で自然に触れ合う数日間という移動教室の折に、キャンプファイヤーをやるはずだったが――生憎の連日の雨でそれが中止したことも"火"にまつわる。
「燃えろよ燃えろ、炎よ燃えろ」という童謡の練習だけ皆でしていて、辛かった集団での山登りの一日の終わりに、皆で火の粉を見つめる光景に何か根源的な懐かしさを予感していた。
携帯型のゲーム機で知った「ひのこ」という言葉が「火の粉」であると知ったのは、多分その時だったろう。
――【火】とは"予感"なのだ。
家の裏庭で、当時、上手くいっていなかった同窓生や先生達との関係を吐き出す呪詛の言葉を、マッチで1本1枚ずつ焼いていた。
だんだんそれが楽しくなってしまって、親にライターが無いか求めたところ、たちまちに看破され。
「火で遊ぶんじゃない」と強い声で嗜められたこともまた、強く焼き付いている"記憶"だ。
――【火】とは"浄め"である。
死んだ先輩も、当たり前だが"火"に巻かれて"灰"となったっけか。
かつてあの人が指をくゆらせると共に吐き出していた、煙草の紫煙そのものに、あの人は成ったのだ。
だが、灰だか煙だかに成ってしまうなら、きっと天に登りたかっただろうに。
ダイオキシン規制だかなんだかの影響で密閉されていた火葬場の中で、あの人は暗くそして鮮烈な業炎によって……気付いたら灰ごと【骨】に変わったのだ。
――【火】とは"記憶"也。
そして"火"にまつわる、俺が前の世界の存在であった頃の、一番最後の記憶。
嗚呼、ちょうど今日が……100日目じゃないか。
ちょうど100の日の出と日没を数えるその以前。
俺は焼かれて――その記憶は無いから実際に焼かれたかどうかはよくわからないし、少なくとも"最初"の洞窟で俺は無事だったが――この世界の【客人】となった。
何もかも、世界の物理法則すらも違う、しかし何者かの意図が入り込んだ"作られた"ような不自然さがあちこちで顔を覗かせつつ……まるでそれを前提に世界創造されたかのような、この世界。
つまり【火】とは、変化であり変遷なのであった。
不死鳥が火によって表されるように、燃ゆり、くゆらさる"灰"の中から再生する何かを表すもの。
俺の職業として、最初の有力候補に【火葬槍術士】が現れたのもまた、偶然ではないのである――そうだろう? ✕✕✕先輩。
「この比喩は、この"俺"自身に対するものだけじゃない。言いたいことはわかっているんだろう? 【春司】」
――"似姿"の子よ。
記憶と、現世と、鮮烈なるイメージで構築された白昼夢が入り交じる地点で俺は【焔眼馬】との"対話"に臨んでいた。
元の世界ではこれら3者はまず入り交じることなく分断されたそれぞれの領域であったが――この世界ではそうではない。"認識"が力を持つこの世界では、時間と空間を越えて、そこに見出された何か、象られたものが力を持ちうるのである。
触れて、確信した。
【春司】の持つこの力の源泉は、迷宮のそれである。
……つまりは【冬司】の権能によるであろう、この地域一帯を覆う"長き冬"もまた――迷宮の【領域】に限りなく近い何かである。
何のことはない。
俺が【人世】の諸神による"干渉"だと思っていた「迷宮領主能力の通りづらさ」は――ただ単に、他の異なる【領域】の中にあって迷宮抗争によって制限・掣肘されていたから、に他ならない。
そこで、ちょうどこの法則内で【春】と【冬】がぶつかりあったことで、一時的にそこに「力の空白」が生まれたのだ。
ツェリマ一行という『長女国』でも上位に属する戦闘魔導師達に――魔導の探求と権力闘争の激しきが諸神への"信仰心"に優先するような連中に、こんなにもあっさりと【情報閲覧】が"通った"のはそういうわけであろう。
「お前達の法則で言えば、"日の出から日の入り"は"四季一繋ぎ"にだって移ろう。そうだろう? お前もまた、1秒と1日と1年の中で、何度だって死んでまた生まれ変わってきた。今も、その過程の中にある」
その理屈でいえば、俺のこの100日は100年。
十を数える奇想の夢の夜中で言えば、死んだ誰かが花に生まれ変わってその蔓を伸ばしてくるのに十分な時間が流れていたろうが――どうやら、俺が探す誰かの足取りを追うには、まだまだ、全然、足りないらしい。
――今、【火】を絶やす訳にはいかない。
【春司】の焦燥にも似た念が、"対話"せる相手としての俺に、ジリジリと焦げ付く火勢のように伝わってくる。
どこか遠い脳裏では、ル・ベリが、現世の俺があまりにも【火】に近づきすぎていることを強く案ずる声が聞こえた気がしたが――副脳蟲達が諭しなだめているのが聞こえる。
まぁ、大丈夫だ。案ずるなよ。
軽くはないが重くもない皮膚の病を患い、ちょっとした熱気や、湿度の変化にも過敏になっていた中で"無茶"をしていたあの頃よりは……まだ、大丈夫である。
「違うだろ。お前は【火】じゃなくて【春】だろう?」
なるほど、元来「四季」とは、地軸の傾きと惑星の公転・自転とそして緯度と経度が織りなす、地学的な日照時間差によって生まれる"現象"である。
【火】が灯り、そして沈むまでを一年の巡りとするならば、【日】とは【春】のみにあらず。【春夏秋冬】そのものなのである。
【春司】だけが【日】なのでは、ない。
この意識を持った"現象"が絶やしたくないのは、そうした「四季」の巡りそのものなのである。
「――何があったんだ? 『四季ノ司』と、そしてお前達の主に」
この【領域】は極めて迷宮的である。
限りなくそれに近い何かでありながら、しかし、イコールではないと迷宮領主であるこの俺をして言わしめるものがある。
……それはまさしく迷宮領主の不在であった。
少なくとも闇世Wikiに【季節使い】だとか【四季使い】という存在は、いない。
名前のイメージだけで挙げれば、最も近いのは【気象使い】だが――よもや【闇世】の大公にして、最も強大なる迷宮領主がこんな【人世】の辺境の片田舎に作り上げるには、いささかしょっぱい【領域】とも思える。
何せ【気象使い】ディルザーツは……【闇世】において「全ての空と海」を支配する、などとまで謳われ、「"天災"と同じ存在。絶対に怒らせるな」とまで闇世Wikiに書かれている存在なのだから。
確証までは得ていないが、俺の中では既に――こうして【春司】に触れたことで――確信に至っていることとして、【泉の貴婦人】もまた迷宮領主であるとは思われなかった。
――【夏】が失われた。【秋】も失われた。だから【冬】が狂った。【貴婦人】様を隠した。
――【貴婦人】様を目覚めさせなければならない。
眷属という被造物が、創造主である迷宮領主を超越することは不可能なのである。ならば【泉の貴婦人】は"管理者"のようなものに過ぎない。四季システムの運行の鍵や意志を握る存在ではあるだろうが。
その迷宮の"在り様"を、己が持つ強烈にして独自なる「世界観」で規定する源泉こそが迷宮領主だ。
――だが、それが不在であるということは。
「【火】ならず、【火】を背負わんとただ一人"世界"の崩落を支えようとする、【春】の司よ。どうすれば【泉の貴婦人】を、目覚めさせられるんだ?」
――【冬】を眠らせなければならない。四季を、春夏秋冬を、正しい巡りに戻さねば、ならない。
(上手く行ったようだな。上手く行ってしまった、と言うべきなんだろうか)
迷宮領主無く、しかし、その経緯は別にして、産み落とされた法則だけが自己存続を繰り返す迷宮領域において。
俺が試みたのは、認識からの干渉であった。
これができるのではないか、という発想自体は、既に【因子の解析】によって【春】属性という概念が焼きつけられた時から、あったのである。
無論、どのような【領域】に対してもできる保証があるものではない。
だが、迷宮領主が無いにも関わらず存続している特殊な【領域】において、そして干渉者たる迷宮領主自身が――その"世界観"の中に十分に認識的に親和して入り込むことができれば、できる。
――ひとまずこの事態を収めるために、俺が試みたのは【春】と【火】の分離であったのだ。
「"力"が欲しいか? "助け"が必要か? 【春司】」
これが偶然であるかどうかは、わからない。
だが、これでも元の世界では、四季折々への鋭敏にして繊細な感性を宿した歴史と文化を積み重ねてきた、そんな東洋の島国のささやかなる家に生まれた身であった。
少なくとも、俺は【春司】に十分な"干渉"ができていたろう。
どこか遠い景色のように全身を【火】が包むのが五感をして"視え"た。
俺自身が【火葬】されてしまわないのは、"視え"ている赤橙色の大輪の火花が、単なる色と光だけのものであり――その性質が既に【春】に変じつつあるからであった。
「【春】は人も、草花も、生者も焼き殺さない。そうだろ?」
――"血"を。
「【命素】をくれてやるよ」
――"涙"を。
「【魔素】を破裂するまで注ぎ込んでやろう」
――叶うなら、この"器"にも、救いを。
「なんとかしてやる。面倒見てくれそうなちょうどいい奴が部下にいる」
――有難う。【火】の子よ。
既に辺りを包む込む赤橙色の揺らめきが、ただの色と光だけのものであり、そこから破壊的な"熱"の力が失われつつあることに、周囲の現世の者達が気づきつつあろうか。
【焔眼馬】は【焔眼馬】という名のほとんど死にかけた魔獣……いや、魔力親和生物とでも言うべき存在と、それに宿る意識を持った赤橙色の【春】の揺らめきに分離し始めていた。
……と同時に、急速に意識が現世に引き戻されていく。
「――ま! 御方様! ご無事ですか――!!」
≪てぇへんだきゅぴぃ! 造物主様が黒焦げさんに!≫
≪湯加減ばっちり~?≫
≪で、でも生命反応さんは……?≫
≪無論オールグリきゅぴーンなんだきゅぴぃ!≫
……まるで一過性の脳震盪のように脳全体から血の気が抜けるかのように卒倒するかのような白昼夢からの目覚め。
そして再び、ざわざわと、ぞわぞわと、何千という針のような蚯蚓が頭骨の中で、頭皮の裏側を"掘り進む"かのように――自分自身の毛細血管の1本1本というレベルで血の流れが感じ取られるような、そんな醒めた感覚と共に俺の意識は現世へと引き戻された。
「……ぐっ」
意図せぬ反射の如き苦悶が口から漏れ、続いて全身が筋肉痛にでもなったかのような痛みに襲われる。
どうやら、両膝をついて崩れ落ちていたようだ。
だが、むしろ肩を貸してくれているル・ベリの方が「黒焦げさん」な状態であったが――【春】と【火】が分離する前から、俺ほど耐性があるわけでもないのに、【火】の中に飛び込んで支えてくれていたようであった。
そんな篤い扶けを労いつつ、感謝しつつ。
俺は竜人ソルファイドを【眷属心話】で呼んだ。
だが、意外なことに。
「――既にここにいるぞ」
「あぁ、なんだ、早いな。もしかしてだが、用事が何か察しがついていたのか?」
「そうだ、主殿。上手く説明できない奇妙な感覚だが……呼ばれた」
「もしかしなくてもだが、そこの"燃えるお馬さん"にじゃないだろうな?」
「その通りだ、主殿」
ル・ベリに支え起こされた眼前。
既に辺りの延焼は止まっており、火勢を失ってただ和やかなだけの【春】が辺りを覆いつつあったが……【春司】が【火】から切り離されたことで力を失いつつあることと連動し、【冬】がさらに外側から"境界"を押し戻しつつあるようであった。
見かけだけの陽気と春景色の中、寒気が鋭く差し込む。
燃されることから逃れることのできた新芽と新花に、霜がつき始め、曇天が青空の【青】を再び隠して切片をひらひらと舞い散らせ始めていた。
――そんな凍りつつ、眠りつつある大地に、どうと身体を横たえた6本足の魔馬【焔眼馬】。
そしてその身体から、まるで炎でできた2枚の虫羽のように分離しつつ、しかし完全に分離せず、まるで待っているかのようにたゆたっている"赤橙色"。
「参考までに聞くが、どんな風に"呼ばれた"んだ?」
「助けてくれ、と」
「……もっと具体的に言え、ソルファイドよ。御方様が瞑想されている間、貴様もぶつぶつと言っていただろうが」
ル・ベリの歯ぎしりするような指摘に、ソルファイドは顎に手当てて考え込む。
「【火】に蝕まれて、苦しい、と言っていた」
「そいつの種族名は【焔眼馬】だ。名前的にも、見た感じの生態的な様子からしても……【火】属性の生物、なんじゃないのか?」
表裏走狗蟲達から【春司】を取り巻く16体、【春司】自身の"器"となったこの魔馬を入れれば17体の【火】の魔獣達――イセンネッシャ家がおそらく"手当たり次第"に捕獲したであろうこの魔獣達は、正確には3種類から成っていた。
"荒廃"の影響で「属性バランス」が乱れた存在と、【闇世】から這い出した存在。
そして、言わば【人世】においても元々そうであった一種の魔法生物だか魔力親和生物とでも言うべき存在であり、後者が【焔眼馬】だったのだ。
少なくとも……元々【火】属性なんて無いのに、無理やり【火】が発現、発火して暴走状態になった『楓オオツノ犀』や『陸エイ』といったあたりの巨獣が自分で自分を焦がしながら、いっそ苦しんで暴走していたとは異なる系統、要するに"荒廃"産の【魔獣】とは異なり、しかし【闇世】出身生物とも感じ取れないのが【焔眼馬】である。
それが「苦しい」とソルファイドに、【火竜】の末裔であるソルファイドにそう言ったのは――しかもちょうど俺が【春】と【火】の認識的分離作業に専念していた間に――果たして、偶然であろうか、なかろうか。
「俺は主殿のように上手く表現はできない。だが、そうだな……その"火馬"は、この辺りにいた誰でもなく、この俺を、多分だが、俺の中の【竜】の部分に、呼びかけてきたのだ」
「――お前が言っていた『竜による調停』って奴か?」
当人に自覚があったならば、話は早い。
後は、言葉よりも実行である。俺は、まだその存在の半分が白昼夢の世界に片足どころか3分の2足は突っ込んでいそうな【春司】&【焔眼馬】に目線を戻し、ゆっくりと、鷹揚に頷きかけたのであった。
そして再び「有難う」という心話が、俺と、そしてソルファイドの脳裏に響いたようであり――。
――世界認識の最適化を検知。
――称号【客人】を【四季に客う者】に再定義。
ほんのりと、まるで暖かい手のひらをそっと握られたような感触がふっと流れ。
まるで記憶の中の……100日前に複合企業の高層から脱出できず、そこで俺を包むはずだった業炎に、それを完全に吹き消すことはできないまでも、ふっと一息。
清涼なる春の一滴を吹きかけてくれたような感触と共に。
右手の甲に、よく目を凝らさねばわからない、そんなとてもとても薄っすらというレベルでだが――"燃える蝶々"の影が焼き付けられる。
まるで小さな【春】を手のひらの中にそっと預かったかのような、そんな。
――"ほっこり"だなんて柄じゃない。なんて、言わないでよね。はずかしがり屋のせんせ。
浮かび上がった幻そのものは、確かにこの"ちょうちょう"の影が、その少女に通じることを確信させる。だが、言葉そのものからは逃げ、目を背けるように、俺はソルファイドの様子を見やった。
【焔眼馬】からは、どうも余計な火気火勢の類が、【春司】が俺に宿ったそれと比べれば、かなり"激しく"渦巻き、ソルファイドの『火竜骨の双剣』に巻き付くように吸い取られ、あるいは巻き取られていき――そこに残ったのは、ただ火のように赤い眼をしただけの6本足の少し焦げた馬の亡骸である。
だが。
【情報閲覧】により、ソルファイドにも新たな称号【調停者:火】が生じていることを、俺は認めたのであった。