0153 春疾火(はるはやひ)の乱(9)
1/11 …… ゴブ皮魔法陣の利用に関する説明と描写を加筆修正
それは奇妙な景色だった。
ヘレンセル村を出て『関所街』の方角へ、街道を旅人の足で1、2刻ほども進んだ距離のほど。
此方側では、銀雪が街道も樹木も曇天も別無く覆ってただ、水墨画を白黒暗転させたかのような"白"と"銀"の陰影によって土地の起伏や、自然の形跡というものを象っているのに対し。
彼方側では、白も銀もその狭間に影として生み出されていた灰色さえもがすっかり取り去られ、土肌や、木の幹や、青々と広がる空の空色や、あまつさえ急速に芽吹き出づる新芽の新緑、木の枝々のその先端から一斉に盛り上がって咲き誇らんとする花々が、大小入り乱れている。
それまで"冬"に抑えつけられていたために、咲く時期が早いと遅いとを問わず、種を問わず、一斉に"咲いた"のである。
それはこの距離からでも、むっと鼻に直接届いてくるかのような、全身にまとわりついて染み付いて"冬"の冷たさを押し流してしまおうとするかのような、ある種の執念さえ感じられる、十数種類もの新緑と新花の香りが入り混じった濃厚な【春】の匂いであった。
――だが、それで終わりではない。
彼方の更なるそのまた彼方では……【火】が燃ゆる。
せっかく"冬"から目覚めた"春"の木々が、燃え広がる炎に巻かれ、焼かれ、新緑も新花もまとめて焼べられ、燃焼し、火の粉となって舞い散り、飛び散り、赤々と広がり迫ってきていたのであった。
"雪解け"たばかりの、水分を多く含んだ木々が焼かれて急速に枯れひび割れるパキパキという音と、互いを押し合いへし合うように重なっていた花々の香りが諸共に焼かれた、焦げた悪臭に変じて――更なる彼方から。
俺が「防衛陣地」を構築する場所に選んだのは、そんな3つの景色がちょうど入り乱れる地点であった。
"風"に乗って、花の香りとそれが焦げた匂いが――いささか奇妙で過剰な【春】の体現の如く、押し寄せてくる。
ちょうど視界の向こう側では、銀雪に覆われた【冬】の領域、少し先の【春】の領域と、中心部からその【春】の領域を喰らい焼き尽くしながら【冬】の領域に向けて駆け下りてくるかの如き【火】の領域の3層構造が形成されており、そのそれぞれの"境界"が、少しずつ、【春司】の歩みと共に一歩一歩確実に向かってきていたのである。
――会敵は、間も無い。
――【火】の記憶が、業炎の幻が、全身を舐め回すようにくすぐってくる。
既に、俺は身体的・物理的にはこの世界における【魔人】……『ルフェアの血裔』と呼ばれる種族となっていた。今更、身体的には【火】に動じる余地などもなかったが、それでも、全身がわななくような"疼き"を微かに感じる。
怖気ではないが、武者震いでもない。
あのゆらゆらと、形が形であることを――現に、せっかく"冬"が終わって目覚めて形を成したはずの【春】を、再び、揺らめきと焦げ跡にくすぶる灰という形でぐずぐずに崩してしまう現象が、文字通り、火を見るよりも明らかな有様で全てを平らげ、変えていく。
俺にとって【火】は、終わりの象徴であった。
――だが、それに巻かれて焼かれて終わって、しかしマ■■はオーマへと生まれ変わった。
ならば、これは"逆"であるのかもしれない。
【春司】が【火】に宿ったのではない。【火】が【春】の形を取って――古い何かを、新しい何かに激しく変化させ変転させ変遷させようとする作用そのものが、ロンドール家に支配されていた20年、いや、あるいはもっと古くそもそも【ワルセィレ】という【領域】が形成された200年そのものを、生まれ変わらせようとしているか。
――【闇世】ではないにも関わらず、俺は【嘲笑と鐘楼の寵姫】の鳴らす鐘にも似た、燃ゆる火勢の中にたゆたう何かキィンと頭の中に響く音を聞いたような気がした。
≪"火遊び"の前の最後の持ち物確認の時間だ。全員【領域転移】のための「ゴブ皮魔法陣」は、必要数と予定数を持っているな? 注意しろよ、早めては、離脱できるのは1~2分単位だ。危険だと思ったら全力でその時間を稼げ……どっちに転ぼうとそれが俺達の今後の行動の肝だからな?≫
それでも俺は勝つつもりでいるが。
ゴブ皮魔法陣は廉価で粗悪な"転写"品に過ぎない。それはちょうど、小醜鬼という種族と神の似姿の関係の相似形のようにも思えるが――【領域転移】のブーストにせよ"裂け目"の接ぎ木にせよ、焼き切れて消耗してしまうまでの時間が短いのが難点である。
だが、今回の一当てには十分な量は確保していたと判断している。
≪一応、防火術式を施しているので……使う前に燃え尽きてしまう、なんてことはちょっとやそっとではないとは思っていますけど。特にソルファイドさん、気をつけてくださいね?≫
≪案ずるな。【火】にだけはこの俺は殺されることは無い。その時は最後の殿になることを誓おう≫
≪いや、そうじゃなくてですね……≫
≪きゅぴぃぃぁぁぁイヤぁぁああ! バーベきゅぴぃい! さんの時間なのだきゅぴぃ!≫
≪ルクとミシェールは引き続き『廃絵の具』と『青年魔法戦士団』の監視。仮にまだ"手"が足りなくなったとしても、お前達が出るのは最後の最後だ≫
≪――ただし、超遠隔からの魔法による支援で、存在の可能性は適度に匂わせる。ですね? 我が君≫
≪【騙し絵】家の"お家騒動"がここで起きたら監視は継続。和解だか、共謀だと判明した時点で"人攫い"プランに移行するから、その場合は村で事を起こせ≫
≪御意≫
「防衛陣地」を構築する者の数は、300名ほど。
ヘレンセル村や"野営地群"に一攫千金を夢見てやってきた、あるいは送り込まれてきていた流浪者達からの義勇兵に、敗残してきた者と元から村に入り込んでいた者とを合わせた【血と涙の団】。そして半壊しつつも、老指差爵アイヴァンの挺身によって、逃げ出すことができた多くのエスルテーリ家軍から成る。
村にはさらに200から300名ほど、子供や老人や戦えない者、戦いには向かない者達などが残されていたが――彼らには、いざとなれば村を捨てて森へ行くように伝えてある。
今回、相手取るのは明確な"目的"というものがあるような組織だったり集団ではない。
ただ、中途半端に起こされ、再び眠ることが「四季一繋ぎ」に反することを厭うて暴走する【春司】――ある意味では現象や災害の類そのものである。
その意味では、意思ある相手に対する騙し合いであるだとか、読み合いを前提とした"戦術"について考えるべき相手ではない。
集められた情報の整理統合から浮かび上がってきた、【火】の魔獣達の【春司】……と化した"焔の馬"への、まるで夢遊しているかのような盲目の従属ぶりから、俺はそう判断していた。
まず、村や"野営地群"や【血と涙の団】の団員達から成る防御部隊に、街道を封鎖して陣地を形成させる。土木作業にはエスルテーリ指差爵家の魔法戦士達が担うが、【土】魔法で即席の塹壕を作らせ、その中に"雪"をかき集めさせる。
既に相当近い場所まで【春司】達が迫っていたため、何重にもそれを施して要塞化する、ということまではできなかったが――非情ではあるが、彼らは囮でもあった。
俺やソルファイドや、ツェリマ一行が【火】魔獣を一体ずつ討ち取って【春司】の"取り巻き"を剥がしていく間、その注意を引くことができればそれで良いのである。
特筆すべきこととしては、マクハードが村に少しずつ運び込み、隠して備蓄していた【紋章石】――【紋章】のディエスト家の秘匿技術により生み出された、魔法陣を封じ込めて、魔法の才が無い者でも比較的容易に【魔法】の恩恵に預かることが可能な魔導具をこの作戦のために供出したことであった。
彼は、それを【血と涙の団】の団員達が村から落ち延び、『関所街』を急襲するなり、エスルテーリ家が離れたこの機会を狙って【深き泉】へ赴くための武器とすることもできたはずであるが、曰く、俺に"投資"してみたくなった、とのこと。
だが、それがあれば、魔法の心得など無く【魔獣】になど相対しても本来であれば簡単に蹴散らされてしまう民兵であっても、相当程度耐えて時間を稼ぐことができるだろう。
『廃絵の具』が絡まなければ、あるいはこのタイミングで迷宮に攻め込んできていたならば、逆にリュグルソゥム兄妹を前線に出していた局面である。魔導貴族にして魔法戦士達の最上に位置する元頭顱侯として、エスルテーリ家の兵士達と連携させれば即席でも複数の【火】魔獣を相手取らせることができたはず。
だが、『廃絵の具』が未だ沈黙を守りその動静を悟らせない中では、兄妹を監視に回さざるを得ず。
しかし、そこで足りなくなった「一手」になってやろうと現れたのが――おそらくそうして"売り込む"タイミングを彼らも測っていたのだろうが――ツェリマ一行だったというわけである。
そうした「助け」を借りて、俺が【情報閲覧】の情報も組み合わせて組んだ即席の【魔獣】狩りの部隊編制は、次の通りであった。
1.俺とル・ベリは、【眷属心話】を通したリュグルソゥム兄妹のサポートを通して。
2.ソルファイドは、【火竜】の末裔として。また、元々彼が属していた【ウヴルスの里】では、日常的に巨獣や魔獣の類を狩っていたというその手並みの披露を期待して。
3.【剣魔】デウフォンは、称号の物々しさもそうだが、ソルファイドをしてその【心眼】を全開にして静かに対峙させるほど、おそらくは単純な戦闘ではツェリマ一行では最強の人物として。
4.【遺灰】家のサイドゥラは、リュグルソゥム兄妹より、その駆使する【灰】魔法――ナーズ=ワイネン家の秘技術――が【火】属性に対して完封レベルで強力であると予め聞いていたこととして。
そして5番と6番に、ツェリマ&グストルフ、ハンダルス&トリィシーという構成で臨む。
無論、遊撃部隊として動くエスルテーリ家の兵士達がそれぞれに数名ずつ続く形である。
いかに魔法が強力であるとはいえ……相手は【魔獣】である以前に、物理的にも質量的にも、人間よりずっと巨体で獰猛なる「巨獣」達なのであるから。
――理想の第一は、その間に【春司】をも含めて討ち倒すこと。
そして『廃絵の具』とツェリマ一行の動きと狙いを見極め、それに応じた行動を取ること。
≪じゃあ、始めようか≫
***
燃ゆる瞳に燃ゆる鬣。
6本の足を持つ、全身を流れるような炎に包まれたその魔獣は【焔眼馬】という種であり、正確には"魔獣"ではない。
東オルゼは東方、『長兄国』として知られる【黄金の馬蹄国】のさらに東方――【東オルゼ大平原】と【ハルギュア中央高原】との境を出身とする「魔法をまとう獣」であったが……討たれ、捕らえられ、そして売り払われ、ロンドール家によって買われてギュルトーマ家に預けられ、西へ西へ西と南の境目まで流浪し、そして今は【春司】がその身を一時宿らせる「器」となっていた。
つまり生命としては、ほとんど死を迎えていたのである。
――しかし、ギュルトーマ家が【騙し絵】のイセンネッシャ家と【春司】の件で通じるに当たり、その魔獣としての魔力を湛えた身体が【亜空】に保存され、擬似的にその身体的腐敗と概念的崩壊が止まり……その状態のまま【春司】が、旧ワルセィレの民からは「ちょうちょう様」と呼ばれた存在が宿った結果。
魂魄と精神が失われたまま、その存在における【火】の属性の割合が急激に高まったことで、いわば主なき母屋に住み着き我が物とするが如く、【春司】にとっては、非常に馴染む身体となった。
"仮初"ではあるものの、住もうと思えば住み続けられる、という程度には。
この燃え盛る身体を持つ魔馬が「器」に選ばれたのは、つまり、生命としてはそういうことが理由なのであった。
――斯くして"身体"となり、【火】と【春】が入り混じりあう霊的な存在である性質を強めたる【焔眼馬】の、煌と輝く焔の眼を通して。
まるで護送船団のように自身を取り巻き、共に【冬】を駆逐せんと前進する【火】の同胞達を伴う様を【春司】はぼんやりと見つめていた。
実際のところ、彼は、オーマが警戒したり旧ワルセィレの民らが混乱したり、エスルテーリ家の者達が恐れていたり、あるいは侯子デェイールやその他の"指し手"達が期待しているほど、村を襲おうであるだとか、敵対する存在を焼滅させようであるだとか、そのような裁きの体現であるようなつもりも認識も無かったのだ。
【春司】は、それこそ、叶うものならばすぐにでも【深き泉】へ――敬愛する【貴婦人】の元へ向かいたかったのである。
……だが、そこで狂ってしまった【冬司】が。
「四季一繋ぎ」という絶対の法則すら停滞させるほど力を得てしまった【冬司】を、打倒して"還らせる"ためには、「力」が必要なのである。
すなわち、【火】によって森が延焼し、ひいては村が焼け落ちかねないというのはどこまでも人間の側の都合に過ぎない。【春司】は、ただそのために必要な「血と涙」を回収しようと、己という存在の在り様に従って動いているに過ぎないのである。
【エイリアン使い】オーマが、彼の者は『現象』である、と喝破したように。
――だからこそ、【春司】にとって、次に起きた一連の出来事は。
一滴の春の朝露の中に太陽の巡りが映り込んだかのような、花の香の中に童の産声と火葬の弔鐘が重なり合うかのように。
人間の身にとっての一日が、【四季ノ司】達にとっては一秒であるかのように、まるで流れるように過ぎ去っていく。
リュグルソゥム兄妹の"詰み手"と魔法陣の指導により、【冬嵐】家の『工作部隊長』ハンダルスの協力を得て構築した【氷】属性魔法【凍れる鳥籠】を大魔法規模で発動。
全方位から【春司】と彼の【火】の同胞達を襲い、【火】と【氷】が喰らい合う大量の水蒸気を当たりに噴き出し荒れ狂わせるが――それは「ひととせ」の時間感覚の中からすれば、【春司】にとっては、朝露の一滴と"等価"である。
動じず、妨げられず歩みを進める火眼の魔馬に宿りし【春】の化身であったが……周囲の【魔獣】達はそうではない。
【火】属性が過剰化して「均衡」を求める"荒廃"により生まれた魔獣も、【闇世】において主を失いまたは捨てられたために「拠り所」を求める魔獣も。
それが仮初めの親和性ではあっても【火】を包含しうる【春】という"認識"の中に、寄る辺なき存在であることが世界レベルで刻みつけられている己等が意識レベルで統合される「核」としての【春司】を、存在希求の本能という次元で欲していたのである。
故に、【春司】を護ろうとして、一体また一体と【エイリアン使い】オーマが狙った通りに釣り出されていく。
――【塔焔竜】ギルクォースの裔たる竜人が見せつけた"魔獣討伐"の技量は、確かな実戦の中で鍛え上げられ裏打ちされたものであった。
――そして、この者は己の類稀なる剣士とならんや、として初見早々にその存在を強烈に意識したことを見せつけていた【剣魔】デウフォン・サレイア=フィーズケールもまた、『長女国』における最強の武を体現する【魔剣】家の血統を示さんばかりに対抗する。
ソルファイドが【息吹】と『火竜骨の双剣』から繰り出される【息吹斬り】で『火被り袋ヤマネ』の長大な外套を覆う"火気"を尽く吹き飛ばしてかき消して見せれば、デウフォンが【殲滅魔剣士】の本領を発揮した広域魔剣放出術式によって『双扇陸エイ』の扁平にはばったい長大な身体を【火】も肉も皮も骨も関係なく抉り削り剥ぎ潰す。
ソルファイドが竜人の身体能力と『竜人剣術』で以て、『長鼻アリクイ焚べ』の機敏で柔軟な四肢を翻弄し、確実にその腱を焼き断ち切って崩してしまうのを見せれば、デウフォンはさながら布のように薄く伸ばして形成された魔剣を両腕にまとって『ガマグチ夜鷹モドキ』を口の中にあえて飛び込み、その内側から雷光を炸裂させながら腹を割いて飛び出す。
片や、【竜】を引き継ぐ竜人として、世界の理が乱れたことで生ずるのが魔獣であると【ウヴルスの里】で教えられてきた視座と、そしてそれが【人世】から【闇世】に流れ落ちたらしき"竜の生首"が大声でのたまう「竜の役目」を心の中で自問し。
片や、『一人が一隊を屠り、一将が一軍を滅ぼす』と謳われたる【魔剣】のフィーズケール家の、その中でも武と力の代名詞の一つたる【剣魔】を若き身に背負う『放浪者』として、敵手と定めた者との"競い合い"で決して敗れることがあってはならないという誓いを不乱に念じつつ。
奇しくも、防衛戦の開始前に【遺灰】家の『放蕩息子』サイドゥラが冗談で期待していたように、この2名だけで次々と――オーマが彼の『武芸指南役』に期待した期待をも越えて――実に10体もの【火】の魔獣達を打ち倒し、あるいは致命傷を与えて、遅れて後続するエスルテーリ家の魔法兵達によってトドメを刺させる形で排除してしまったのであった。
――そんな【剣魔】と、彼が好敵手と認めたであろう【火竜】の如き竜人の大立ち回りを見やりながら、サイドゥラ=ナーズ=ワイネンは黙々と、もくもくと、【灰】を吹かし続ける。
巨大な熱を帯びながら、しかし既に燃え尽きているが故に、もう燃えることが無い【灰】魔法によって【火】魔獣達を"鎮火"させていくのである。
それは"荒廃"――属性バランスの均衡の崩壊――によって【火】属性を過剰に帯びた【魔獣】を相手取って討伐するだけならば、最高とも言える"相性"であった。
何故ならば【灰】による鎮火は、【火】属性を根本的にかき消したわけでも、相殺したわけでも、対抗したわけでも妨害したわけでもなく……ただただ、燃えるべきものを燃えさせない形に持っていくという原理だったからである。
果たして、燃ゆるべきが、燃ゆる能を奪われれば、どうなるか。
かつて属していた迷宮を離れて這い出した"魔獣"(正確には元眷属)であれば、急速にその身体内に残された魔素と命素が空回りして消費されていくこととなり、衰弱死に至る。
元は単なる獣に過ぎぬ"荒廃"産の魔獣であれば、発散され放出されるべき"出口"を求めた偏った【火】の魔法流が、そのまま獣自身の身体を内側から燻し燃ゆらせ喰らい尽くす結果となったのである。
斯様に、【火】属性を扱う者自身の【火】属性への適性や耐性を減耗させ、己自身の【火】によって自滅させることこそが、【灰】魔法が【火】属性に対して圧倒的に有利な"相性"を持つとして恐れられる所以なのであった。
だが……とある事情により、サイドゥラは、デウフォンが担当の倍以上を倒した分、自分が倒すべき【火】魔獣が減るという恩恵に預かることはできず、結果的に、3体を相手取る羽目となったが。
――なお、【火】魔獣に対する"相性"だけで言えば、【灰】魔法だけがこの場で非常な有効打だったわけではない。相性を言うのであれば、厄介者として左遷されたと見られている【冬嵐】家のハンダルスもまた……属する主家の看板を背負う者として、【火】如きに融かされ破れてしまう【氷】属性の戦闘魔導師であるつもりは無いのであった。
単純な話、オーマが最初に彼を説得して協力させ、披露させてみたように。
辺りには無限とも思えるほどの"雪"が、あるのであるから。
【火】と【氷】とは、この意味においては互いに相剋し合う関係となる。
単純に、どちらがより多いか、ということである。先に相手を最後の一片まで消費させ、消耗させ、尽きさせることができるかどうかであり――この意味では、旧ワルセィレの領域全体で見れば、【春司】が引き起こした【春】も、それに付き従う【火】も、【冬】の雪景色全てを打ち消すことができる"量"などではなかったのである。
具体的には、ハンダルスはトリィシーを拝み倒す。
気位の高い彼女に対して、彼はオーマやツェリマの鼻をあかしてやろうとの悪戯心を煽って【精神】魔法を行使させ――なんと、防衛陣地の義勇兵達から引き抜きを行ったのである。そうして動員した者達を使い、改めて【氷】属性の魔法陣を構築し、いわば物量戦を仕掛ける形で計2体の【火】魔獣をまとめて"消火"し、打ち倒してしまったのであった。
……その過程で少なくない犠牲が出たことも事実であったが。
――斯くして、オーマがル・ベリを伴い、灼熱の吐息を吐く『楓オオツノ犀』に対峙する頃には。
ツェリマとグストルフの組は、1体の魔獣と戦闘することもなく"自由行動"の機会を得た……もっとも、その時間を得るためにツェリマが行ったのは、グストルフの「提案」に従い、自分達が本来担当するはずだった魔獣を全てサイドゥラの元に送り込んだわけであったが。
「追討部隊」隊長にして元『廃絵の具』隊長でもある特殊な立ち位置にあるツェリマがこのようなフリーハンドを得たことは、原因から見れば、技能【情報閲覧】とリュグルソゥム兄妹の元頭顱侯としての知識を以てしても、即席で「最高効率」を成すことの難しさが物語られたということとは言えるだろう。
【情報閲覧】から得た情報を吟味し、分析することができる時間が十分にあったわけではなく、またそれだけが、この「厄介者」達の背景や在り様や潜在性を全て記す要素であるわけでもないのであるから。
だが、そうした不測の事態を見張らせるための、リュグルソゥム家当主兄妹であった。
彼らの監視下、ツェリマとグストルフは一路、主戦場から離れ、離れ、離れ――【空間】属性のわずかな痕跡と軌跡に向かっていたのであった。
――【騙し絵】家侯子デェイールと『廃絵の具』が、首尾よく"裂け目"へ侵入した吸血種ユーリルの方と合わせ、二箇所における事の成り行きを見定め見比べていた、まさにその場へ。
***
如何せん、ソルファイドがハリキリ過ぎた。
そして対抗心丸出しの――【剣魔】君もである。
あわよくば"荒廃"産、【魔法学】で言うところの「属性バランスが乱れ」たタイプの【魔獣】と、"裂け目"から這い出してきて周囲に被害を与える存在……要するに迷宮領主たるこの俺からすれば「他迷宮の眷属」としての【魔獣】を1体ずつ確保して、密かに持ち帰って"比較"したかったのだが、流石に過ぎた望みであったか。
――たった今、ありったけの【活性】属性で強化を掛けたル・ベリが『楓オオツノ犀』……が【火】属性過多によって変貌した"荒廃"産の魔獣をおびき寄せ、俺がエイリアン杖と共に起こした【土】属性魔法【隆起せる礫波】によって下から突き上げ。
柔軟な四肢と【魔闘術】の機微によって首の後ろに組み付き、巧みな重心移動によって巨犀の体勢を崩れさせ、遂には転落させつつ――振りほどこうともがく首が変な角度になり、落下のタイミングで反転。その自慢の「オオツノ」が、全体重が乗った落下の衝撃で、巨犀自身の胴体に突き刺さらせ、絶命させたところである。
そして、このタイミングで、迷宮の方からは……なんと"死ににくい"吸血種ユーリル君が「爆発」して、その体内に【転移】魔法が仕込まれており発動したとかいう緊急報告と。
そのほぼ同時か直前くらいに、ハリキリまくった【剣魔】君やらサイドゥラ君やらに担当分を押し付けることに成功したことでフリーハンドを得てどこかへ消え失せたツェリマとグストルフが――。
≪『廃絵の具』と交戦を始めました。あいつら、最初からこのタイミングを狙ってましたね≫
≪オー……我が君! 爆発系吸血種野郎の体内から【魔獣】どもがっっ!≫
≪それだけじゃな……ありません! 【人攫い教団】の武装信徒どもがっっ!≫
≪『廃絵の具』の連中が、御方様の迷宮に【転移】しようとするタイミングを狙った、ということか! おのれ、出し抜いてくれたな≫
≪そのタイミングでしか、顔も尻尾も出さないと読んでいたのでしょう≫
≪――ご指示を、我が君≫
≪他の『青年魔法戦士』達は動いていない。そうだろう?≫
≪高みの見物さんなのだきゅぴ。すっかり興行さん感覚に見えるのだきゅぴ≫
≪なら、引き続きルクとミシェールは監視だ、こちらに手出ししてくるようなら対応しろ。それからグウィース、『ジェミニ』、『ヤヌス』、お前らは出番が来たぞ。お出迎えしてやれ――ダリド、キルメ、新生リュグルソゥム家の力を俺に見せてみろ≫
リュグルソゥム家の復讐だけを考えるのであれば、ある意味では、非常な"好機"である。
こちら目線からは、仇同士が見事に同士討ちだか仲間割れだかを始めたにしか見えず――しかも、用心深くこちらの出方を伺っていた慎重な連中を巻き込んで引きずりだしてくれたからだ。
……これが、この防衛戦の当初に起きていたならば、むしろ【火】魔獣達の討伐は後回しにしてそれに乗じて、という線もあったかもしれないのだが。
「美味しいところ全てを効率よく両取りしてつまみ食いする、てのは難しいな。流石に、な」
"心話"で言ったわけではなかったが、ルクとミシェールは俺がそう答えることを状況から予測していたか。息子、娘と共に、短く「御意」の意を伝えそれぞれの持ち位置に戻ったのであった。
「――御方様。御前をば、ご覧に。近づいてきています」
「あぁ、わかってる」
血のにおいやら、寒気やら"灰"やら、【火】をも焼き潰す【竜火】やら。
様々な手段と手管によって合計16体もの魔獣どもが葬られた結果。
辺りを支配する気配からは【火】が大きく減じ、【春】が濃厚に【冬】との境界を、確実に後方へ後方へと追いやっていた。
めらめらと、ゆらゆらと。
燃え盛っているのに――まるで人肌のような、包み込む陽気の体現のような、そんな、ただただ、自然の中に生きざるを得ない者として当たり前に感じ、受け止め、受け止められざるをえない"現象"としての【春】が眼前まで迫っていた。
この防衛戦の始まりから、変わらず、同じ速度、同じ一歩の歩幅で。
予想はしていたが、止まる気配は無い。
【焔眼馬】。
【情報閲覧】を十数回試してみたが、身体の持ち主であったはずの魔獣のお馬さんの名前以外に、全く通る気配が無い。その名前ですら読みが「はるつかさ」となっており、認識が変化しているか、変質してしまっている気配が読み取れた。
この時点で、俺はこの旧ワルセィレを覆う「四季」のルールが――迷宮と相似の"なにか"であるという確信を深めていたが、そのことを考えるのは、またもや後回しだ。
そんなことよりも、もっと大事なものが、予定よりも随分と早く。
今俺の眼前に在るのだ。
俺にとっての"探しもの"の手がかりが。
この【火】と【春】を混ぜたような存在は、イノリに仕えていたらしい多頭竜蛇――と"記憶"を共有する竜の生首ヒュド吉が「同僚」であると言った存在であろう【泉の貴婦人】の、眷属だか、あるいは従徒に相当する存在なのである。
其れを眼前に迎えて、接触をしない、という選択肢は俺には無い。
長く一息を吐いてから、俺は、火でできた流れゆらめく赤橙色の流体が"六本足の馬"を象り、首筋に……「ちょうちょう」の形のような、痣のような紋様が張り付いたる【春】の化身を、真っ直ぐに見据えた。