0147 春疾火(はるはやひ)の乱(3)
1/11 …… ゴブ皮魔法陣の利用に関する説明と描写を加筆修正
――其れは、【闇世】の迷宮領主【エイリアン使い】をして【春】をイメージせしめたる存在そのものだった。
――其れは、その超常が届く範囲があくまでも【森と泉】と呼ばれる領域に留まりつつも、【春】そのものであった。
ギュルトーマ家の『封印葛籠』に封じ込められていたのは【四季ノ司】のうちの一柱たる【春司】である。
だが、そこに顕現せる【春司】は……ワルセィレの民の伝承にある「蝶々」様の姿をしていない。
揺らめく赤橙色の"もや"の塊という概念的な存在として、しゅう、しゅうと霧のように、割れ砕けた『封印葛籠』から解放されたのである。
――その身に肌触れた銀雪という銀雪は融かされてゆく。
――その眼に見初められた冷気という冷気が緑化されてゆく。
――その声なき声に中てられた新芽という新芽が産声を上げてゆく。
波のように押し寄せる【春】が銀雪を押し流し融かし消してゆく。
同じように冷気達もまた、冷たい気団が暖かい気団によって上書きされるように押し出されてゆく。その作用でむしろ、この【冬】と【春】の境界では結露による瞬間的な豪雪が発生するが――それすらも押し寄せる【春】に飲み込まれては、たちまちのうちに融かされてゆくのである。
――其れは概念に近い、そのものでは生命体とは呼べぬ、しかし超常の力によって成り立つには大きすぎる存在であった。
――其れは、己がそのままではただ拡散していってしまい、地域一帯に希釈されて溶けて消え、眠りについてしまうことを知っていた。
何故ならば、この"目覚め"は【泉の貴婦人】によって引き起こされた「正統」なるものではなかったからである。
『四季一繋ぎ』の在り処が、未だ【冬司】の手元に留め置かれていることを、【春司】は識っていたからである。
だが、今はただ概念としての【春司】としか呼ばれ得ない"其れ"は、あまりにも長く【冬】が続きすぎており『四季一繋ぎ』が崩れていることをまた識っていた。
だから【春司】は、たとえ一時的にでも、己が身を宿らせるための「器」を欲していた。そのままでは、正しき『四季一繋ぎ』に戻すことができぬまま、己はまた"次の春"まで眠ることとなってしまうのだから――【夏司】や【秋司】のように。
そのためには、ただ一時の、それまでの四季で其れがそうしていたような――"訪れ"を告げるためだけの、小さな器では足りなかった。
――【冬】を、終わらせなければならない。
――【冬司】を、自分が止めなければならない。
斯くして【春】が嘆きと悲愴の念を湛えて漂う最中。
ギュルトーマ家の【重封】からまろび出た【春司】の眼前で繰り広げられた悲喜と混乱について記そう。
【騙し絵】のイセンネッシャ家侯子デェイールが、【血と涙の団】の団長アルグの胸に大穴を開けたのは、文字通りの意味だけではない。
それは【空間】魔法的な意味における「大穴」でもあった。
団長アルグの身体に開けられた"風穴"には【転移】魔法が仕込まれており――そこではない別の場所に接続されていたのである。
【人世】ではない。
だが、【闇世】でもない。
【騙し絵】のイセンネッシャ家の秘匿技術【空間】属性魔法において、未だ他家にその全容を明かされておらず知られてもいない――リュグルソゥム家にも――【空間】属性によって構築された純然たる異界とでも呼ぶべき「別空間」かはたまた「別次元」に接続されていたのである。
イセンネッシャ家自身は、これを【亜空】と呼んでいる。
そしてこの「世界のどこでもないどこか」に、強制的に【転移】させることで、現世には影も形すらも残さずに抹殺するための秘奥の技こそが【亜空放逐】である、のだが……。
――其れは、己が周囲に数多の【火】が溢れ出すのを見た。
イセンネッシャ家は【亜空】を単なる不可視の"牢獄"としてだけでなく、より効率的な使用法を編み出していた。
――其れは、己が周囲に力強き、【春】を宿らせるに相応しいケモノ達が雄叫び踊るのを見た。
それらは単に『鹵獲魔獣』と呼ばれる。
そしてそのうち、【春司】を取り巻いていたのは、次のような魔獣達であった。
6本足を持つ燃ゆる鬣をたなびかせた馬。
空気が揺らめくほどの高温で灼熱の吐息を吐く巨犀。
長大なる火の外套を背負うかのような袋ヤマネ。
……などなど、その他、実に十数体もの【火】属性を帯びるか、または"そのもの"たる魔獣達が、団長アルグの身体に空いた"風穴"から、空間の捻じれと共にまろび出で現れていたのであった。
いずれも、かつてイセンネッシャ家が『長女国』内の大氾濫や、頭顱侯としての義務たる"荒廃"の調律の任の中で獲得した凶獣達であったのである。
そして【春】の使命として、終わらぬ【冬】を終わらせる前に、自らが再び次の春までの眠りにつくことを恐れた【春司】は――。
***
意外なことに、何が起きたのかという事態の詳細に最初に気付き、俺に報せてきたのはグウィースであった。
曰く、森がおかしい、と。
無論、俺もまた表裏走狗蟲に化けさせた【人世】鳥獣の見た目の"擬装部隊"を監視に派遣していたところである。
このような臨機応変さの求められる緊急時の情報収集では、一度、母胎蟲に戻らなければならない寄生小蟲では機動性に欠ける。
しかし【人世】で発動している俺の迷宮領主能力への制限制約の中では、特に【眷属心話】が短距離でしか使えない。森の奥深くならともかく、流石に村やその周囲にまで地中に臓漿を延ばすのはリスキーでありまだ資源も時間も足りない。
だが、およそ知識の中にある新しい方の手段が掣肘される場合、往々にして"古い"手段が有効活用できるというもの。
例えばGPSなどなくとも、六分儀を使えば、おおよその星の座標がわかるように――【眷属心話】が使えなければ使えないで、俺の眷属達の連携・共鳴能力を活用すれば良いだけのこと。
《きゅぴぃ! ボデーランぐえぇっジさん作戦は経過良好さんなのだきゅぴ! 僕達は今、ぷるすとまいなきゅぴすを理解さんした――》
《ど、どっちかというとこれ"手旗信号"さん、かなぁ?》
理屈は非常に単純である。
表裏走狗蟲達は【人世】の生物に化けさせているため、ある程度は人目に触れても問題はない。そんな彼らに、互いを視認できる距離で間隔を空けさせて――ぷるぷる研究者ウーヌスが言うところの「ボディランゲージ」によって、身振り手振りによる視覚的な情報伝達手段を組み合わせさせたのである。
マクハードからの情報を元に、予め、何が起きるかをある程度想定することができていたために可能な芸当でもあったわけだが……まさか【春】の影響が【闇世】側の森にまで及び、そちらの防衛に就かせていたグウィースが先に勘付くとは。
《具体的にどうおかしいんだ? グウィース》
《みんなもう、咲 い た のに……! また 咲 こ う としちゃってる!》
【人世】と【闇世】を情報伝達的な意味で繋ぐ副脳蟲X機掌位を経由して、グウィースが事態を報告してくるに。
現在【最果ての島】の地上部森林の木々が、草花が、木漏れ日群生地の無数の植物や植物生の菌類達が軽い暴走状態にありつつあるという。
故に【幼きヌシ】として、彼らを"宥める"作業にかかりきりになっているとのこと。
それに対してはグウィースへ追加の護衛部隊を派遣させつつ――俺はこの事態の"意味"について考えた。
表裏走狗蟲達の手旗足旗信号を通して伝わってきた"春"の津波とも言うべき、環境書き換えが【人世】側で発生するのはまだわかる。
旧ワルセィレは、そういう超常の法則に支配された土地だからである。
春夏秋冬と書いて「ひととせ」と呼び、その通りに季節が巡るのである。"冬"の次に来るのは必ず"春"であり、その故に、【春司】が【春】属性を操る存在として、ある程度強力に【冬】属性を一掃するような性質を持っていたとしても驚かない――だが、それを【闇世】で、それも迷宮領主たるこの俺の【領域】内にまで及ばせるとは、一体全体、どういうことであるか。
「まるで【領域戦】のようでございますな、御方様」
「ああ、まったくだ。これは、ひょっとすると、ひょっとするのか? ヒュド吉の奴が「同僚」だと言っていた意味は……」
ヒュド吉自身、正確には彼の"本体"である多頭竜蛇は【人世】の出身である。
だから、彼の「同僚」たる【四季ノ司】達もまた【人世】の理の中で超常の力を保つ存在である、と俺は考えていたが――これが【領域戦】であるなら、話の前提が色々と覆る。その「これ」の中に何がどこまで入るのか、ということが、問題なのであった。
……だが、今はそのことは後回し。
目の前で対処すべき【春】が引き起こし、また伴って現れた"嵐"は、こちらの想定を越えるものだったからだ。
「【火】の魔獣達が"歪んだ空間"から次々に出現した――あぁ、あぁ、なるほど。それが、」
「忌々しき【騙し絵】の隠し札だった、というわけですね、我が君。理論から言えば、確かに、できなくはないですね」
時間を置き、今度は続々と、帰還した寄生小蟲達から情報を吸い上げた母胎蟲達からの情報が【共鳴心域】を経て集まってくる。即時性には欠けるが、より正確で詳細な細部という意味では、表裏走狗蟲達の「手旗足旗」による"速報"に対する"裏取り"として位置づけることができた。
それらを分析するに、今まさにリュグルソゥム兄妹が述べた通り。
ロボトミー手術やら"臓器"移植技術やら、【騙し絵】家は【空間】属性魔法の効率的な利活用の研究に随分と余念が無い集団であるが――どうやら"荒廃"によって出現したり、それこそどこぞの迷宮から大氾濫の形で吐き出された【魔獣】達を"鹵獲"し、保存していたのである。
まさにこういう使い方のために。
「【封印】魔法は元【重封】のギュルトーマ家の十八番。【紋章】家がやっているのは、その粗悪な拡大再生産に過ぎませんが――【騙し絵】家のこれは、完全にそのお株を奪おうとしているようなものです」
「かつて"凶徒"だった時代には、使われていなかった技、ですね。おそらくは頭顱侯となってから、他家に一切見せぬよう隠し続けてきた切り札に違いありません」
血の気が足りていないような青い顔でミシェールが呟いた。
"出産"からまだ数日しか経っておらず、体力が回復しきっていないのを【命石】で無理やり補いながら、無理を押して、この戦線に合流したのである。直接の仇でもある『廃絵の具』達を迎撃することができる機会は、より憎悪の念が強い彼女にとっては絶対に譲れない一線であったか。
こうして、ヘレンセル村における"珍獣売り"としての拠点である元祭殿には、主だった従徒達が集っていた。とても長くて、そしてとても短い「育児」の時間を終えたルクとミシェールが合流した一方で、ゼイモントとメルドットは【闇世】側に帰還させている。
現在、【闇世】側では他にグウィースと、そして現在絶賛成長中であるリュグルソゥム家の第2世代の兄妹が護りについていた。
「……続報だ。【春司】サマが、そのどこで後生大事に死蔵していたか知れない【火】の魔獣達のうち1体、あぁ、"お馬さん"を選んだのか、そいつに取り憑いた――挙げ句、周囲の他の魔獣連中を率いて、こちらに進撃してきているみたいだ」
しかも。
それだけではない。
【春司】は、まるで更なる力を求めるかのように――周囲で呆けている【血と涙の団】構成員達から、まさにその"血"と"涙"を、貪欲にして壮絶な勢いで吸収し始めているらしく、せっかく合流したエスルテーリ家の軍勢含めて既に大きな被害が発生。
ほとんど敗残兵か、落ち武者の如く、散り散りにここヘレンセル村へ逃げてきているらしかった。
「だが、主殿の想定通りではあるのではないか? エスルテーリ家も【血と涙の団】も、無傷でここに到達する可能性は低い、と読んでいたではないか」
「リュグルソゥム兄妹の"読み"が正しければ、ハイドリィは絶対に【春司】を失うことはできない。【血と涙の団】と戦わせるのか、何か取引があって『廃絵の具』に襲わせるのか、何かしらするとは思っていたがな……【春司】に襲わせるとはなぁ――いよいよもって"黒"だ、その点については」
【騙し絵】のイセンネッシャ家は、別に【火】属性に特化した専門性がある、という風には認識されておらず分析されているわけではない。つまり、彼らが【空間】魔法によって"死蔵"しているであろう魔獣達は、別に【火】属性に限られなどしないのである。
だが、その中であえて【火】属性のみを実に十体以上も投入してきたことは、2つの意味を持つ。
「【春司】に"食わせ"たな。『燃えるちょうちょう』から『燃えるお馬』サマにグレードアップというわけだ。そして問題は……わかるな? ル・ベリ」
「御意のままに。そのように"強化"させた【春司】であっても、制御して折伏してしまう算段がロンドール家めには、ある、ということですな?」
「でもですよ、まだまだ、強くなりますよねそれ。だって"血"と"涙"を食らうんですよね? その魔獣の親玉だってことがほぼ確定した【春司】とかいう存在」
旧ワルセィレの民は己の"血"と"涙"を、年に一度、聖山ウルシルラの【深き泉】に捧げる風習を持っていた。それが、単なる習俗ではなく、この地域一帯を覆う「システム」を織りなす基本単位であるとすれば。
【春司】が更なる力を求めて、周囲の旧ワルセィレの民からそれを強奪したのであれば――。
《ますます迷宮さんじみているのだきゅぴ》
"血"は【命素】。
"涙"が【魔素】、とでもいったところだろうか。
「そして最悪なことに、飢えて狂った『燃えるお馬』さんが向かうここヘレンセル村には、何百という数の旧ワルセィレの民がいるな?」
そうでなくとも、【騙し絵】家が解き放った【火】の魔獣達が群れなしているのである。
到達した際に何が起きるかは明々白々であり、ヘレンセル村は最悪、地図から消えることとなるだろう。
巨大な混乱である。
――既に、ヘレンセル村の内部でも不穏な、しかし奇妙な、まるで歯車が狂わされたかのような見せかけ上、静かな空気が漂っていた。
情報の伝達速度、という意味では街道の先で「何が起きたか」を最初に察知したのは、この俺だろう。だが、マクハードを筆頭に、これだけの事態の成り行きを注視していない者がいないわけがない。特に、旧ワルセィレの民達は――【風】を孕む【夏】属性を司る「きつつき様」の恩恵か、嫌に、文字通り情報が風に乗ったかのように共有が早かったからである。
つまり、俺が最速で【春司】の暴発に気付いている以上、遅れて情報が伝わってから彼らがどのように動くかによって、この展開が全て想定された通りのことであるのかを推し量ることができる。
この意味で、俺はマクハード一行とミシュレンド一派に監視の重点を置いていた。
……特に"村長"セルバルカと"教父"ナリッソの周囲に、彼らが現れるかどうかについて。
エスルテーリ家と【血と涙の団】はロンドール家という共通の敵を得て共闘関係にあってもおかしくないと予想されたが――同じように、ヘレンセル村でもマクハードとミシュレンドは奇妙な共闘関係を構築可能なのである。
「ハイドリィの犬をやりながらもマクハードの奴は【血と涙の団】の"後見役"。がっつり村の現状維持的な統治に関わっているセルバルカとナリッソは、邪魔だろうよ」
「そしてエスルテーリ家を裏切りロンドール家についているあの従士長もまた、セルバルカがいない方が都合が良い――ということか」
「あと、こうなった以上、【破約】派の【騙し絵】どもと手を組んだ以上、『末子国』の関係者に余計な報告をされても困りますからね。村が壊滅するのに合わせて、亡き者にしてもおかしくはない、と」
だから、俺は"その時"を待っているのであった。
マクハードか、ミシュレンドか、はたまたその双方がヘレンセル村を制圧するために動くそのタイミングを。
それはおそらく、【春司】とそれに率いられた【火】の魔獣達から逃れた者達が、ヘレンセル村に到達した瞬間となるだろう。この事態が誰かしらにとっての「予定通り」であろうと、なかろうと、大きな混乱と村そのものの存亡の瀬戸際が迫ってくることは明白であり、自らの立つ側の利益のためには、もはや迅速に掌握に動かなければならないのであるから。
だが、問題はこの騒乱に投入された"戦力"の規模が、想定よりもそこそこ大きいことなのであった。
「――最悪、重要人物だけかっ攫って【闇世】に撤退して防衛戦やらないといけないかもなぁ」
【春司】の側だけで、【火】の魔獣が十数体である。
エスルテーリ家は指差爵ながら、魔導貴族の端くれとして、少ないながらも独自の「魔法兵」部隊を擁していたが――そのどれほどが侵食してくる【春】からヘレンセル村まで生きて逃れ来ることができるか。
【エイリアン使い】としての戦力を【人世】に投じて撃破することはおそらくできるだろう。
だが、当然ながら、今この時期にこの俺の正体が露見させるリスクに見合うほどの対価を獲得することが、できるであろうか。
「ですが……その線は実質的に難しい。御方様がおっしゃった、イセンネッシャ家めが【火】の魔獣のみを投入したことの意味の、その2つ目があるから、ですな?」
「そうだ。【火】だけで十数体いるっていうなら、それ以外の属性の魔獣が、あと何体連中の【空間】の中で今も"死蔵"されてるんだろうな?」
かつて『長女国』でテロの嵐を吹き荒れさせたテロ集団であり、頭顱侯として一応は体制内に収まりはしても、未だ彼らの【空間】魔法を封じ込めるためだけに構築された魔法陣や、その機能を持った魔導具の数々が広く国内に流通している。
それだけ対策され、警戒され、研究されているであろう【騙し絵】家が――リュグルソゥム家すら把握していなかった"隠し札"を、ここで切ってきたのだ。
【春司】に同行させた【火】魔獣達など、村にある戦力を一当てして推し量るための陽動であり最悪捨ててもいい駒に過ぎないだろう。
「……最低でも百は下らない可能性が、ありますな」
そしてそれすらも『廃絵の具』という主力のための"露払い"であり"肉壁"。
こちらの有利は、未だ正体を察知されておらず、『廃絵の具』側は『ハンベルス鉱山支部』の叛逆であるというつもりで仕掛けてきていることであるが――それでも、【騙し絵】家にとっての悲願である"裂け目"の確保に対して、最高レベルに近い力の入れようであるのは明らかであった。
「総力戦だな。とてもじゃないが、仮にヘレンセル村に送り込めたとしても、そんな余裕は全く無い」
――まぁ、ルクとミシェールのために、生死はともかく『廃絵の具』を迎撃し確保する、という意味ではこの上ない展開ではあったのだが。
「だが、【春司】とそのちょっと"火遊び"が過ぎる愉快な取り巻き達は、現有戦力で迎え撃たなければならなくなったがな」
「村を救うメリットも無いわけではないですからね。オーマ様謹製の、例の"ゴブ皮"も数はまだありますから」
このようにルクが言うこと、そして俺がこの状況下でもまだ「楽観的」であるのには理由があった。
「人皮魔法陣」の解析と、その廉価的な転写である「ゴブ皮魔法陣」技術の完成に当たり――1つ重要な応用が編み出された。それが"保険"となっていたのである。
【領域転移】の高速化である。
墨法師達を敵対者に捕らえられて「人皮魔法陣」に仕込まれた【空間】魔法の秘密を解析させないための【騙し絵】家謹製の緊急回収の術式の部分的な解読にリュグルソゥム兄妹が成功。
その機序を、アルファなど『因子:空間属性適応』によって【領域転移】への反応が高速化していた一部の"名付き"達に対する、まさにこの「反応が高速化」の部分に適用することで、もう一段上の高速化を実現していたのである。
言うなれば「裂け目の中で解く」の"逆"。
緊急回収術式の「対象」となる座標を【領域転移】を通してこちら側に転移してくるアルファらの転移現象自体によって上書きすることで――【転移】そのものの機序に緊急回収術式自体を接続して発動させているのである。
そしてそのために、俺はヘレンセル村で俺の拠点として割り当てられた『祭殿』の一室に、小さな【領域】を定義していた。
これは薄く薄く地中を、まるで白線を敷くようにここまで引いてきた極小の「一時領域」によって『禁域』の森にある"裂け目"と接続されており――つまり、いざという時にアルファ以下の"名付き"をこの場に呼び出すという選択肢が俺にはあったのだ。
と同時に、【領域転移】によって逆にこの村の重要人物達を虜囚として、逆に"裂け目"まで拉致して強制的に庇護下に置くという判断もあり得る局面であった。
だが、可能であれば――村へ逃げてくるであろう敗残兵どもと、そして、村で今まさにそれぞれが主導権を握らんと虎視眈々と機会を窺っている連中の、その戦力を無駄使いさせずに取り込みたいところである。
そうすれば、勝機を高められるかもしれない。
この意味では、強制拉致という名の保護はプランBに過ぎない。
「ギリギリまでどちらで行くのか判断する猶予は、俺達にはある。それが、まぁそれなりに頑張り頑張らせて作り上げてきた、俺達の真のアドバンテージだ」
――果たして。
表裏走狗蟲達から「手旗足旗」が届いてきた距離から逆算して、敗残兵達がヘレンセル村へ到着するであろう時間が、訪れる。
その前後数秒、監視網より報告が飛び込む。
まず動いたのは、"野営地群"に居座っていた『西に下る欠け月』であった。