0143 井戸底より汲まるる一杯の嘘[視点:その他]
7/8 …… 2章の改稿・再構築完了
「私は、本当は"枯れ井戸"なんて言葉、嫌い」
エリスの口を突いて出た言葉は、言おうとした事とは全く関係ないものであった。
訝るように、しかし心配するような間もこもった「え?」という声が、隣に座るラシェットから上がった。だが、そこには――まずい、と思ったエリスが心配したほどには――傷ついたような様子はあまり見受けられなかったことが少し、エリスとしては意外でもあったが。
「そ、そうだよな! 魔法が使えなくたって、マクハードさんみたいなすごい行商人だっている。別に"才能"なんて、魔法だけじゃないんだよきっとさ!」
ヘレンセル村を不穏な静けさが圧し包んでいる、夕餉の時刻である。
それはまるで、ぐつぐつと煮えたぎる何かが無理矢理凍らされているかのような……馬鹿げた例えだが、【氷】属性で熱湯をそのまま凍らせて静かにさせているかのような。
つまり、ひとたび溶け出せばそれは激しく熱されたまま周囲の何もかもをも焼き尽くしてしまうような、冬の冷酷なまでの冷徹さの中で眠らされているかのような、そんな奇妙な胸騒ぎを感じさせられるような静けさであった。
そんな中、村外れの"野営地群"を臨み望む柵を背に、二人は座り込んでいた。
傷の癒えきらぬセルバルカが無理を押して、ミシュレンドら主だった従士達を引き連れ、大人の話し合いに赴いている時間を狙っての逢瀬なのである――そしてそれは、エリスの隣に座っているラシェットも同じこと。
彼の奇妙にして奇怪なる従者を侍らせたる先生様が、まさに、村でも野営地群でも関所街でも力を持つ存在である行商人マクハードを交え、その話し合いに出かけていった隙をついたものなのである。
「でもさ、エリスさ……いてぇ! ええと、エリス、と話しててなんだか良い意味で感じ方が変わったんだ俺」
"さま"付けで呼ぼうとした瞬間を、思わず強めに小突きつつ――多少強く突いてもこのチビ助が下手な新兵よりも頑丈であることを、エリスは既に十分に確認済みであったが――どういう風に感じ方が変わったのか、と問うようにエリスは横目を流す。
「"雲上人"達って、もっとすかした感じだと思ってた。エリスは、話しやすい」
「……私だけが、突然変異の珍種ってだけかもしれないけれどね。そうでしょ、どうせ、私は」
「いや、いや! 違う、違うってそういう意味じゃないよ!? ――なんて言うんだろう。俺は……同じ『庶民』の出身のはずかもしれないけれど、"村長"とか、あとミシュレンド……従士長さんの方が、ずっと怖いや」
どうせ私は――"枯れ"ていないだけで、下級とはいえ「雲上人」の系譜にありながら、魔法の才にさして恵まれなかった"ほぼ枯れ井戸"である。そんなエリスの自虐の念を、皆まで言わせずとも察したか。
ラシェットがその小柄な身体を、まるで騒々しい猫だか犬だかのように手振り大振りしながら話すのは『関所街』での苦労話。そしてそこから『西に下る欠け月』の丁稚としてヘレンセル村の"野営地群"まで出てきた苦労話。
魔導の才の無き者同士の中での、底辺がさらに底辺と優劣を競って喰らい合う暴力の世界のその片鱗であった。
【魔導大学】への入学など願うことすらおこがましいほど、エリスは魔法の才には恵まれることはなかった。しかし、それでもエスルテーリ家という歴史だけはそこそこに古い『指差爵』の家の一人娘として生まれてしまったことの責任をせめて補わんと、猛勉強に猛勉強を重ねてきたエリス。
その学ぶところでは――いと麗しき『長女国』は魔導の叡智とその精髄により、庶民にとっては食うだけならば困らない。あまつさえ、1つ家族から生まれる"子"の数はまるで小動物かネズミの如く多く、とても村々では養いきれずに国内をめぐりまわる。
『関所街』のように、発展のため多くの労働力を欲するような都市で居場所を、つまり職にありつける者はマシな方。
雲上のそのまた雲上におわす偉大なる「頭顱」の御方達が定期的に引き起こしなさる【懲罰戦争】で、露払いの先駆け――という名前の"肉の壁"となって使い潰されるか、または『次兄国』の"人買い"達に買い取られて、今世の過酷なる【海運譚】としてそれこそ海の露として消えるか、そのどちらがマシであろうか。
まだ魔法が「使える」側に、一応は数えることのできる自分自身ではあったが、それでも遥かなる"雲上"から見下されれば、「ほぼ」という字の有る無しなど意味のないことであった。
間違った場所に生まれてしまったな、という念そのものが、それこそこの"長き冬"などよりも昔から、エリスの心に暗く重くのしかかってきた念である。
なまじ「使える」側であるため、才無き庶民達からは「雲上」と距離を置かれつつ、然れど、まるで雷雨をもたらす積乱の高き雲の層上から見れば、自分など地上と見分けがつかないとされるほど最底辺に属するに過ぎぬ。要するに、どちらからも疎まれるような存在だった自分である。
それでも今回ばかりは、何がしかの"価値"を、せめてものエスルテーリ家令嬢として意地を示すつもりで村までやってきた。
だから、エリスにはラシェットの「枯れ井戸」という言葉への感じ方が変わった、という感想が意外なものにも、興味深いものにも、やや訝しいものにも、要するに色々な自分でも整理しづらい念が混じったものとして聞こえたのであった。
「オーマ先生が、言ったんだ。『才』なんて別に『魔法』だけを指す言葉じゃないだろ、って。あのなんかムカつく……でも、なんか、あぁ、この人の言うことはそうかもって思えるような、あの自信たっぷりの笑顔でさ」
「それが、あなたの――あの時の火事場の馬鹿力の正体、とでもいうの? 私は、あの人は……ちょっと、まだ苦手。なんでもわかったような顔をしているのが」
「俺の死んだ父さんはさ。『街』の方で衛兵隊長の一人とかだったんだ。母さんがそう言ってた。物心付く前に死んじゃったけど」
――知ってるよ、と。
エリスは、先に本心に反して悪態が出てしまった時に、その話そうとしていた"本心"を、再度飲み込んでしまった。ラシェットに先に言われてしまった、という思いが頭の中を渦巻く。
ラシェットがきっと、自分達にはそれこそ物心がつく前からの因縁があったことを、知らなかったのだろう。それはこれまでの彼の反応から明らかであった。
――彼の"父"が、『関所街』の守衛の元隊長が、その最期を迎えた任務で命と引換えに護りそして逃した存在が、自分と母、エスルテーリ指爵婦人とその令嬢であると、ラシェットは知らないのだ。
「オーマ先生が言うには、俺は……はは、死んだ親父みたいな【重戦士】になれるかもしれない、ってさ。俺にそういう『才』がある、って言ったんだ。あの人じゃなかったら、どこの詐欺師だよ騙されねえぞって石投げつけてるところだけどさぁ」
「変な言い方だよね、でもそれって。【魔法】以外の"才"なんて、そんな考え方が、あるの? そりゃ人によって"得意"や"不得意"っていうのはあるけれど」
ミシュレンドの鉄拳によって即座に黙らされていたが、口さがない若い従士や、指爵家に仕える使用人達の間では――自分がどこの薄汚い野良犬とも知れぬ"貧民"に懸想しているであるだとか、終いには獣姦の趣味があるだなどと陰口を言われていることを、エリスは知っていた。
全ては自分の魔法の"才"が乏しいが故のこと。
由緒あるエスルテーリ家の存続のためには、よほど条件の良い魔導貴族家から入婿を迎えるしかない……要するに子を産む母としての役割しか、そのような者達には求められておらず認められていないためである。
だから、エリスはそれこそ"才"という言葉そのものが嫌いであった。
――しかし、そんな自分自身でも、今は亡き敬慕する母のため。そんな母が守ろうとした、父アイヴァン=エスルテーリが家名と『長女国』に捧げた忠誠のため、役立つキッカケにすることができる、そんな好機が訪れた。
だから、エリスは今ここにいる。
「父さんみたいに、誰かを守ることができた。エリスさ……あぶなっ! ……エリス、を、守ることができた。考えてみなよ、だってあんな状況だったんだぜ? それができたっていう結果だけみたらさ、確かにそれって――まるで"魔法"みたいなことじゃないか?」
純真なチビ助の、照れくさそうな、しかし自分には向けない真っ直ぐな眼差しにエリスは惹かれるものと、そして同時に酷く濁った暗い気持ちが入り乱れる。
エリスには言えなかった。
それが仕組まれていた事である、などと。
そして自分がその裏の部分まで知っていた、聞かされていたことなど。
『全ては、憎きロンドール家の悪行を引きずり出すためだ。だが……お前がそこまでする必要など、ないというのに、強情な。誰に似たのだか』
父にして老いた指差爵アイヴァン=エスルテーリの嘆くような言葉が耳に蘇る。
エリスは、彼から聞かされて知っていた。
従士長ミシュレンドが内々でロンドール家と通じており――彼らの敵であるギュルトーマ家と、その"野心"を妨害するエスルテーリ家を罠にかけようとしていることを。
『関所街』の守護という任を解かれつつも、長らく【深き泉】への道を閉ざし、掌守伯家といえども寄せ付けなかったエスルテーリ家を軽挙妄動せしめん。
懸想に狂ったお転婆令嬢が、想い人のいるヘレンセル村へ極秘裏に出奔し、そこで害されれば――さしもの老アイヴァンといえども、事態の収集のために手勢を率いて乗り込んでこざるを得ないであろう。
そういう筋書きであった。
実際には、エリスを救わんとまず"村長"役であるセルバルカと彼の部下達が動くこととなる。ミシュレンドの本命は、彼らを攻撃して負傷させることで当面荒事には参加できないようにさせるという段取りであり、それは成ったのであった。
征服された旧【森と泉】の反乱分子達だけではなく、ロンドール家の動きに対しても目を見張らせておくべき厄介な要地を任せていた股肱の古参従士が害されてしまえば、それもまた、エスルテーリ指爵をしてヘレンセル村に乗り込まざるをえない理由となるからであり――要するに、エリスは己を囮とした。
そうして、エスルテーリ家がまんまとヘレンセル村へ誘い出される風を装ったのだ。
用心深きナーレフ執政ハイドリィ=ロンドールに、アイヴァンが罠にかかったと信じ込ませるために、間諜でありながら人望も有していたミシュレンドという脅威を騙しおおせるために、エリスは自身への陰口を利用したのである。
――信じ込ませるために十分な"物語"がそこにはあった。
かつてロンドール家がエスルテーリ家を従わせるために、エリスと彼女の母はナーレフに囚われた"人質"であった。
さらにそこから【紋章】家の侯都へ移されようとしていたところを、【血涙団】の襲撃から命と引き換えに、ラシェットの父が盾となり護って死んで――そしてその混乱の中で母子はアイヴァンの元まで逃げおおせることが、できた。
これによって、掌守伯ではなく『長女国』にこそ仕える旧家なりとの気概を保つエスルテーリ家は、公然とロンドール家の指揮には従わぬ姿勢を保ち続けてきたが……因果は巡るか、成長した令嬢がかつての恩をどうしても返さんと、野良犬にまで身をやつしていた死した隊長の子の元へどうしてもと飛び出す。
かつては逃げたエスルテーリ家の"人質"を、再びロンドール家がその掌中に収めてしまう前に、エスルテーリ家は先手を打って軽挙妄動せざるを得ないように追い込まれたのだ――と。
その全てはロンドール家が行ってきた不正を証すためのもの。
それが何かまではエリスは知らされていなかったが……【紋章】家の麾下、ロンドール家と暗闘を続けるギュルトーマ家がその「決定的な証拠」を、ヘレンセル村においてエスルテーリ家と合流の後に、突きつける手筈であった。
だが、危険が無いわけではない。
ロンドール家が罠にかけようとしていたギュルトーマ家と、そして旧【森と泉】の過激なる一派と秘密裏に手を組んでまで、エスルテーリ家はロンドール家の打倒に家の命運を賭けていたが、それでもロンドール家がしでかそうとしていることは危険なものである。
長らく【紋章】家の"暗部"を司ってきたロンドール家の、その闇に紛れる手勢達が侵入してきていないと断言することはできない。決して、ヘレンセル村にまでその荒事の被害が及ばないと断言することは、できないのである。
だから、エリスはせめて、自分の命を救うことができた、と純粋に喜んでくれている、母の恩人の息子でもある少年――自分の意地のためにダシにしてしまった少年を、事が起きるよりも前に安全な場所に連れ出すつもりでいたのである。それが恩返しであるのか、あるいは騙していることへの罪滅ぼしであるのかを、エリスは自ら定められないでいたが。
「あなたが、あのオーマっていう旅人を信じるのを、私には止められないけど。私にとっても、あなたの傷を癒やしてくれたあの人は恩人だけど……でも、なんだかな」
今更のようにミシュレンドがマクハードやオーマ、ナリッソなどを呼びつけて、エスルテーリ指差爵の軍がヘレンセル村を掌握することについて"説明"していることなど、時間稼ぎの茶番だとエリスは理解していた。
伝えられているよりも早く疾く、エスルテーリ家もギュルトーマ家も到来するのである。
だが、エリスはラシェットにこうした"真実"を言えないでいた。
どんなタイミングでそれを言うべきかもわからず、また、用は済んだとばかりに、自分を父の元へ返そうとするミシュレンドやセルバルカを"お転婆"なりに回避してまで、こうして中途半端な逢瀬を重ねていたというのに。
いっそ、本当に令嬢という身分を投げ捨てて、ラシェットについていってオーマという奇妙で怪しい青年の"一団"に加わってやろうか。
自分自身に発破をかけるように、あえて極端な事を考える。
そして、小突くたびにいちいち大袈裟に反応するラシェットと話していながら、ふと、難しく考えていることがなんだか馬鹿らしいなという気持ちになってきたエリスであった。
せめて、ラシェットを通してどうにかして件の"珍獣売り"達と話をしてみよう、信頼できそうならば、せめて知っていることを一部伝えヘレンセル村を覆おうとしている人の思惑による災いから逃げさせよう、という思いを巡らせる。
――だが、その機会はエリスには訪れなかった。
20年来、ロンドール家と牽制しあいながら旧【森と泉】統治の一翼を担ってきたエスルテーリ家をして、その動きは、彼らがロンドール家の裏を掻こうと決起を早めたよりもさらに早く疾く、進み運ばれ進展し、そして暴発に近い形で狂奔する馬車の如くに、加速をし始めていたのである。
***
『馬走りの老牢番』という名の商団がある。
軍馬の輸送で名を上げた商団であり、『関所街ナーレフ』では執政ハイドリィと直接取引のある大商団であったが――その実は"密輸"組織上がりであった。
かつては『次兄国』との国境地帯を荒らし回る"馬賊"であり、近隣の都市守備軍や傭兵団とも渡り合いながら、決して勝てない相手は狙わず、どれだけ挑発されても忍耐強く逃げて生き延びることで、頭角を現してきた集団である。
その蓄えあって、彼らは長じて「商団」という表の顔をも結成することができるようにはなったが――その本質までは、なかなか変わらない。
例えば、誘拐、という行為が決して【人攫い教団】の専売特許ではなく、半分は賊であるような者達にとっても常套手段であることを人々に思い出させるように、荒々しい"稼ぎ方"でその悪名を知られていたのであった。
だが、『長女国』における様々な組織や社会集団における常であり鉄則とも言える掟――"頭顱侯には逆らうな"という至言において。
この荒々しい賊上がりの"商団"連中は、【紋章】家が【森と泉のワルセィレ】を制圧する際に、その走狗たるロンドール家の支配と調略を受けた。
――その容赦の無い制圧の結果、他の似たような集団と比べてではあるが……彼らはまだ、犠牲が少ないうちに魔導貴族の支配に屈することを受け入れたのであった。
しかし、そのことが一定の繁栄に繋がったことも事実である。
『馬走りの老牢番』は、他の"密輸"組織や"追い剥ぎ"組織といった賊と大差無いような素性の者達からなる小組織の取りまとめを任されたのだ。
それこそ逆に生き馬の目を抜かれるような、虎視眈々と彼らの地位を狙うような厄介な連中を管理しなければならない難事を押し付けられた反面、そうした下部組織達からの"上がり"を吸い取る権利も与えられたという意味である。
まさしく、ロンドール家が多額の私財を投じて育ててきた『関所街ナーレフ』という都市の発展と共に、彼らは"商団"としての規模を拡大させていった。
すなわち、先にヘレンセル村に送り込まれていた『西に下る欠け月』と『霜露の薬売り』にとっては監督役。マクハードの商隊というロンドール家から"別の役割"を与えられているような、一部の手が出せない存在を除けば、今や、ナーレフでは大きな力を誇る大商団という表の顔を持つのが『馬走りの老牢番』である。
つまり、本来であれば、彼らは差配する立場だった。
自らが動くのではなく、執政ハイドリィやその取り巻き達から預けられた者達に、汚れ仕事をやらせる権利を持つ、ということである。
間違っても、そうした「きな臭い」仕事に自らが動く……というものでは、ない。
だが、この日ばかりは違った。
『猫骨亭の亭主』として知られる執政ハイドリィの側近が一人、【懐刃】のレストルトから直々に呼び出しがかかり、彼らはとある輸送の任を厳命されたのであった。
『関所街ナーレフ』の北東。
ロンドール家の所領をさらに抜け、その東に位置する、同じく【紋章】家に仕えるギュルトーマ家の所領より――ヘレンセル村へ。
とある、非常に重要な"物資"を輸送する必要がある。
信頼できる者にしか、任せることはできない――との美辞麗句に彩られながら、その裏にあったのは明確にして絶対なる警告と脅迫である。レストルトはナーレフにおける非合法組織達に指令を下す元締めとして、『馬走りの老牢番』の幹部から末端の構成員など、即座にでも皆、牢番としてではなく囚人として牢屋に叩き込むことができる数々の国法破りの証拠を押さえていたのであるから。
『馬走りの老牢番』に、これを断るという選択肢は無かった。
それまで十数年もの間、急激に成長する新興都市で、その上質なる甘き汁を吸うことができていたために、彼らは……かつての魔導貴族に対する反骨不服従の心意気など彼方へ忘れ果てたか。
魔導貴族達の支配を受け入れることが、『長女国』において、どのようなことを意味するのかを、いつしか"甘く"見ていたのであろう。
――引き渡された"積荷"は、非常に大きな、四角い厳重に【封印】された金属製の箱である。
元頭顱侯でありながら、今はその没落の元凶であるはずの【紋章】家に屈服し、仕えさせられているというギュルトーマ家の家紋が刻印された、囚人が十数人でも詰め込めそうなその"箱"には――物々しいほどの【封印】魔術の魔法陣がびっしりと刻み込まれていた。
その複雑さが真に意味するところなど知る由もない、学も無ければ魔導の才も無い元密輸団の商人達である。
それでも、紋様の異様さに息を呑む思いであったのは事実であるが――いかに物々しいといえども、魔導の恩恵は恩恵。どのような原理かはわからないが、それでも、その巨大な【封印】された金属檻の周囲だけは、まるで、そこに小さな春陽が持ち込まれたかのように――"長き冬"によって覆われた雪深い道中を苦労することもなく運んでいくことができていた。
無論、そのような"順調さ"によって油断をすることはないが。
【紋章】家の第一の走狗を自認するロンドール家と、強引に従わされているギュルトーマ家の関係が、本来は非常に悪いものであることを、十数年間その下で働いてきた『馬走りの老牢番』もまた当然知っている。
"才無し"はただ魔導貴族達に仕え、逆らわぬように生きるしかないからこそ――彼らはこうした貴族家同士の強弱や微妙な関係に対する嗅覚を涵養せねば生き延びていくことはできないのである。
この任務には、何か裏があると内心の警戒を絶やさぬ者も多かったわけであるが――なんと、そこで彼らを安心させるかのように、ヘレンセル村への道中の"護衛"を引き受ける者が現れた。
【騙し絵】のイセンネッシャ家の"走狗"として、その恐るべき悪名を『長女国』中に知られる"人攫い"の総元締めたる『廃絵の具』である。
如何なる【風】属性の大魔法だかによる"吹き回し"か。
「絵画売り」などと称して、明らかに商人の一団に扮していた『廃絵の具』は、『関所街ナーレフ』の外れで『馬走りの老牢番』と合流。
どうにも、彼らもまたヘレンセル村へ"用事"があるらしく――執政ハイドリィの許可を示す書状と共に表れ、道中を一緒させてほしいと『馬走りの老牢番』に申し出たのであった。
【紋章】家内の走狗同士の対立に、片足どころか両手まで浸かって引きずり込まれるような「きな臭い」輸送の任を強制された『馬走りの老牢番』としては、この申し出は一つの安心材料となった。
――確かに、ヘレンセル村へ送り込んだ者達からは、聞く者が聞けば、さも【騙し絵】家の【転移】魔法陣が、恐ろしき魔獣達のはびこる【闇世】への入り口に偽装されていたかのような報告が上がってきていたが……それならばそれで尚更都合が良いことではあるのである。
【紋章】家内の厄介事に、代わりに【騙し絵】家が手を突っ込んでくれるならば――まだ、自分達が直接火中の栗を拾うことなく、この危険極まりない任務から帰る線もあるかもしれない、と皮算用できたからである。
こうして『廃絵の具』改め"絵画売り"の一団を護衛に交えた『老牢番』は、一路ヘレンセル村へ向かうのであった。
※本話は再構築に伴い、話順が入れ替わりました。上書きによる入れ替えしかできないため、過去にいただいた感想と話の内容が噛み合っていませんこと、ご了承下さい。





