0132 辺村変じて変事の坩堝(3)[視点:伯楽]
7/8 …… 2章の改稿・再構築完了
ずっと昔、まだ物心がついたかついていなかった時のことをラシェットは思い出していた。
――"幽玄さま"の世界を見に行くんだと言って、ナーレフの裏路地から王都へ旅立った幼なじみの一家の言葉が、うつろな脳内で、ぐるぐる、うつらうつらと渦巻いていた。
夢現のことである。
伝え聞く話では、まさにその"幽玄さま"とやらは【夢】の世界にいるらしかった。
"幽玄"さまが見せる【夢】の世界では、今生きている時間とは異なる現実が流れている、という。
死んでいたはずの人が生きていたり、生きているはずの人が死んでいたり。
起きたはずの出来事が起きていなかったり、逆に、起きていないことが起きていたり。
こことは少しだけ違う、そんなどこか。
そんな世界に"幽玄さま"が見せる【夢】を通って、旅立つことができるのだ――と。
だから、きっと今いるこの世界は"夢"なのだ、とラシェットは半ば醒めるように気づいていた。
――死んだはずの父親が生きているわけなどないのだから。
ボロボロの自分の姿を、驚いたような、しかし何かを悟って言葉を失いつつ、それでも理性を越えて何かを理解したかのような、そんな真剣な眼差しで見つめているという状況など、まったくあり得ないことだからだ。
――少しだけ"いい服"を来て、まるで"平民"達のような、裏路地の穴ぐらからと比べてしまえばとびきりに上等の「家」に住んでいて。そして、生きているはずの母の肖像画が遺影のように飾られているなど――ちょうど穴ぐらで母がずっと大事にしているボロボロの父の若き日のそれの代わりにだなどと――自分自身にとっての現実ではない。
これは【夢】なのだ。
だが、そんな現実ではない世界で確かに生きている、まるで現実の存在のような"父"が、何かを、逆に夢の存在と化したかのようなラシェット自身に現実に言おうとして――。
「いでででででっっ――!? あいだぁっっ!?」
顔面の生皮を引き裂かれるような激痛。
ゴシゴシゴシゴシと激しく擦られ、まぶたの裏側に鮮血にも似た赤い閃光が弾け飛ぶような衝撃と共に、ラシェットはほとんど怒声にも似た自分自身の絶叫で内側から鼓膜を突き破られるという意味での二重の痛みによって跳ね起きた。
「もう、うるさい! お前はいつもうるさい! 少しは……じっとしていられないの!」
まるで、つい先日にそうだった時と同じように投げかけられる、強情さと意思の強さが表裏となった凛たる声。
――もう聞く機会は無いかもしれないな、とどこかで思っていた声を耳にして、安堵と共に驚きが同時に湧き上がってくる。
「え……エリス……!?」
「うるさい、黙れ"枯れ井戸"! もう、暴れるのを、いい、加減に、や、め、ろ!」
一言一言、言葉を強調するように、荒まる語気と共に容赦のない一撃一撃が顔面にこすりつけられてくる。
どうしてだか、水場にこびりついたカビの類を親の仇かというほど執念深く削り取ろうとする溝浚い者のように、エリスはラシェットの顔面を、それこそ削岩するかのような勢いで拭き取ろうとするのである。この間のものとは違う新しいハンカチであったが――また異なる無駄に凝った刺繍のおかげで、傷口という傷口が開かれこじ開けられるような感覚に、本気で身をよじって抵抗する。
――まぁ、痛み、には慣れていたのだが。
果たして、自分は何か、彼女の機嫌を損ねることをしたのだろうか。
エリスは酷く不機嫌そうに、その大人びた顔を歪めていた。だが、目元には泣き腫らしたように真っ赤な痕があることに気が付かないラシェットでは、ない。
それを見ていると、抵抗している自分の方が悪いことをしていると思えてくるのであるから、不思議であった。
そんな物理的な意味での押し問答の中で、精神が覚醒に近づき、周囲の状況もクリアに認識されてくる。
"痛み"を感じているのは顔面だけではなかったのだ。全身の関節やら筋肉やらも"痛み"を訴え、また疲労していることを自覚して――ラシェットは、そこが森の奥ではないことに気づいた。そこは雪深くもなければ、獣臭くも血腥くもなく、そして何よりも"死の臭い"からは遠く離れたような場所だった。
そこは、家族が数人で過ごし暮らしていくことができそうなほどの広さの"家屋"の一室である。
……少なくとも、そのような場所は"野営地群"では、中心部の一等地以外には存在しない。
そのことを訝しみ、また気を囚われたために、エリスが小さく「無事で良かった」と、口だけ動かして空気を震わせたような呟きをラシェットは聞き逃した。
「あれ、ここって……」
まるで自分達が攫われたかのように失踪した【人攫い教団】の信徒達が残していった仮設の家屋群を改修して再利用したものが、要するに、ヘレンセル村外れの"野営地群"なのである。
『西に下る欠け月』はいち早く"猫骨亭の亭主"の呼びかけに応じ、初期からその作業に関わっていた。だからこそ、情報収集と称してこそ泥のような真似をすることも"指導"されてきたラシェットは、今自分がいる場所が「一等地」の中でもどこであるか、すぐに見当がついた。
あたりに散乱する包帯やら、並んだベッドやら、エリスがそれらをひっくり返しながら自分を介抱してくれた様子が明らかであることからして――ここは"簡易診療所"。
【聖墓教】教父ナリッソが拠点としている"即席礼拝所"の管轄であった。
――どうして、ここへ?
――エリスは無事なのか? ……いや、無事じゃないか。それはそれで、本当によかった。
――でも、どうやって? あれだけの数の猛獣に囲まれて。
いくつもの疑問符が頭の中を埋め尽くす。
よもや、エリスが猛獣達を振り切って、自分を運んで逃げてきたわけでもあるまいに。いくら自分が同世代の少年達と比べて小柄だとしても、そこまでは――。
――あるいは"魔法"の力、だとでもいうのだろうか。
ラシェットの心の中に、彼自身の力や認識では決してどうしようもできない"淀み"がわずかに生じる。それが、彼がエリスが介抱してくれたという事実に、素直にすぐに「ありがとう」と言うことのできない心理を生じさせていた。
だが、そういう"淀み"が生じさせるのが個々人の努力を上書く巡り合せであるならば、そのような矮小な"淀み"を吹き飛ばすのもまた、巡り合せなのである。
「おお! 少年よ、気が付いたようだな!」
「やはり若いということはいいことだな、メルド……よ。回復が、早いのだからなぁ」
混乱が溢れ出して今まさに、エリスに食ってかからんばかりの勢いで口を開きかけ、詰め寄ろうとした、その瞬間のことだった。
とても陽気な――若くてそして何故か老獪さを感じさせるような、おどけているようで、しかしその実、日常会話では常時大真面目な顔で大言壮語を吐いているかのような、そんな大仰な調子のやり取りが、わぁわぁと入り口の方から飛び込んでくる。開け放たれた扉から差し込む寒気が、部屋の空気を一気に下げるが……むしろ、騒々しさにあてられて、身体が活力を取り戻そうと灯り始めたかのような心地であった。
「相変わらず貴様の楽観さには苦笑いしかできんな、まったく! 場をよく見ろ、ここは"診療所"だ、"診療所"。貴様の大声で、傷口が開いてしまった者もいるかもしれんな!」
「それは重畳なことだな。だって、そうだろう? 開かなければ、どうやって患部を直接手当するというんだ?」
「それも確かにそうだな! 割れた骨、詰まった血の塊。ダメになった臓器……取り出さなければわからんだろう?」
声もでかければ存在感もでかい二人組であった。
若干、何を話しているのかよくわからない会話をしているが――見たところ、歳のほどは40には届かないといったところか。この"野営地群"を取り仕切る一人であるマクハードと大体同じくらいにも見える……のだが、その語り口調はどこか妙に年寄り臭く感じる。
ただし、会話しながら徐々にラシェットには理解できない話題に移り変わりながら、やや、ヒートアップし始めて喧嘩のように言い合い始める様子には、訳の分からない"勢い"があった。
と、ぽかんと口を開けて二人組――言い合っている中から、それぞれゼイモントとメルドットという名前らしいことがわかった――を見ていたラシェットの肩をとんと小突く者があった。
「ちょっと。お礼。ちゃんと、言いなさい」
小突いた主である指爵令嬢エリスに対し、自分でも自覚があるほどに惚けた表情を向けたラシェットであった。
が、みなまで言わぬうちに。耳をひくひくさせながら二人のやり取りに気づいたゼイモント&メルドットが、まるで気持ち悪いぐらいに揃ったタイミングで口を止め、歯茎が浮き出るほどにんまり笑った。
「まさかまさか『緑漣牙虎』と『痺れ大斑蜘蛛』の"追い込み猟"に巻き込まれたとは露知らず、だ!」
「え? 追い込み……りょ」
「勇敢なる少年ラシェット君と勇敢なる少女エリス君! お礼などととんでもないことさ、我々の"やらかし"で君達は怪我どころか、命まで失いかねなかった。逆に謝罪をするよ、すまなかった」
言うなり、いきなり頭を深く下げるメルドット。ついでに流れるような所作で力強くゼイモントの頭をむんずとつかんで同じように下げさせようとして抵抗されつつ、しかし抵抗しているゼイモントもまた、この野郎と唇を動かしつつも下げること自体は自らの意思で行っているという体裁を保つように、メルドットに張り合って地面に叩きつけんばかりに頭を垂れるのであった。
先ほどまでの嵐のような「会話」から一点した神妙な面持ちであるが――。
"猟"などという表現。
見たことのない明らかな"新顔"であること。
そして何より、開け放たれた扉の向こうから流れ込んでくる――嗅いだこともない"獣"の気配。
それらから、ラシェットは彼らの正体に心当たりがあった。
「まさか、あんた達が……"珍獣売り"?」
言うや、ふたたびゼイモント&メルドットの耳が、眉が、ひくひく動く。
頭を垂れた姿勢のまま、二人して顔だけ前を向いて、またまた打って変わったようなにんまりとした心から楽しそうな、いたずら小僧のような表情がそこには浮かべられている。
「おや、気づかれるのが早いな。聡い少年だな、ラシェット君よ!」
「君の聞き知っている通り。何を隠そう、我らこそが、かのライクツィオ=ヴァイケリーリの"夢"を引き継ぐ今世の大冒険者なのだからな!」
「「うわっはっはっはっはっはっは!」」
訳が分からない、とラシェットが混乱の余り固まったのを見かねたか。
ふっと耳に、ため息をつくような囁きが投げかけられる。
(この方達が、私達を助けてくれたの。あの恐ろしい"猛獣"達を、追い払ってくれてね――ラシェット)
(俺の名前……いや、この変なおっさん達が言っていたけど。追い払ったって、でもあんな数だったじゃないか、一体どうやって……)
始めこそ息を吹きかけられたような気がしてのけぞるが、"珍獣売り"2名の大笑いに押し返されるように頭を戻し、小声でひそひそと応じるラシェット。
無論、"珍獣売り"という異名や、その現れた際の「噂」から、どのような手管によってあの猛獣達を追い払ったのか想像がつかないラシェットではなかったが――。
「――退け」
押し固められた怒気が無形の魔法にでもなかったかのように放たれた一言。
静かだが、殺意すらこもった言葉に、さっと無表情となった"珍獣売り"の二人が、先程までずっと占拠していた"簡易診療所"の玄関前から、身を翻すようにして場所を開ける。
そんな二人を一瞥もせず――しかし態度がまるで"ゴミ"を見るようなたたずまいであるが――ずかずかと大股で、そして武気を隠しもせずにまといながら土足で踏み込んできたのは、見知った大男であった。彼の背後には数名の兵士が続いている。
「……ミシュレンド」
エリスが身じろぐように呟き、半歩後ずさった。
それに気づいてラシェットは、自然に半歩、自身の影にエリスを隠すように前へ出ていた。
「ご無事な様子で、我ら一同、安堵しております。ですが……」
「わかっています……わかっているよ。セルバルカ達、が……」
"指爵令嬢"であるエリスを前に、片膝をついてひざまずいて頭を垂れる、この国の貴人に対して兵士の役職にある平民が尽くすべき礼の所作は、武骨な外見からは意外なほどに流れるようなもの。だが、頭を垂れられたはずの当のエリス自身が――まるで責められているかのような、気丈さの中に、怯えた気配が滲んだのをラシェットは見逃さなかった。
「セルバルカ殿らの、容態は? 教父殿、ナリッソ殿はどこにおいでなのですか? ――ここにいる、と聞いて参ってきたというのに」
ここで初めて、ジロリとミシュレンドがラシェットを見やる。
その鷲のように見開かれた眼光には、どうしてだか切り捨てんばかりの怒気が込められており――ラシェットが意地を張って睨み返そうとした寸前のこと。そんな"張り合い"を察し、また、身分の上では臣下であるはずの兵士達に気圧されてなるものかと思ったのか、エリスがそっとラシェットを横に押して半歩前へ進み出てミシュレンドを見下ろした。
「セルバルカ達は、今も教父様が診てくれています。命に別状は無い……とおっしゃっていました。ですが、傷が深く、教父様が"通常の医術"では厳しい、とおっしゃって」
エリスの言葉に反応したのはミシュレンドではなく、彼の背後で同じように傅く兵士達であった。
「なるほど、では"礼拝所"の方にいるわけですな。腐っても【聖墓教】の教父ではあらせられる、と」
「大酒飲みの上に色欲にまみれたあの"生ぐさ"殿がねぇ」
「道理でここにはいなかったわけだ。ここは"生ぐさ"くはないが、ちょっと"獣"くさくてかなわない」
――揶揄されているのは、果たして"珍獣売り"の2名だけであったか。
目を合わせようとはしてこないが……どうにも兵士達の意識が、自分と、そして腑に落ちないがエリスに向いているような気がしてならない。ミシュレンドが、お嬢様の御前だ、黙れ馬鹿者どもと軽く叱りつけるが、どう見ても本気の叱り方ではない。
お前達だって"才無し"のくせに。
そんな思いをラシェットは飲み込んだ。
エリスが握る拳にやや力が入っているのを見て、ますます違和感を募らせたからだ。
だが、この妙な気持ちの悪い緊張した空気を弛緩させようとしたか。
"珍獣売り"達が、いとも軽い調子で口を開いた。
「やれやれ、怪我人であるどころか仕えるべき"御方"の眼前で物騒な兵士達なことだなぁ」
「聞いているぞ? 何やら"村長"殿が暴漢に襲撃された様子。そこにいる勇敢なご令嬢殿が、拐かされるのを阻止しようとしたとか、なんとか」
はたまたそれは痛烈な皮肉を込め、怒りを己らに向けさせるという意味での助け舟であったか。
兵士達の表情が明らかに強張り、半数が立ち上がり、にわかに殺気立つ。抜き放ってはいないが、腰の剣の柄に手をかけようとしている。なんと、剣呑であることか。
ゼイモントが何か意味深にメルドットに目配せをする。扉の"外"を目で指しているようであった。
だが、メルドットが眉をハの字にして軽く肩をすくめた様子をするや、同じように肩をすくめて、ミシュレンド達の様子を見守ることにその目線を戻した。
それで、ラシェットにも、やっと事態が飲み込めてきたのであった。
――何者かがセルバルカ達を襲撃し、エリスを攫った。
――そのエリスが『西に下る欠け月』の手に渡り、あろうことか猛獣達の"餌"にされるところであったのだ。
だが、そうすると今ここにいるミシュレンド達は?
彼らもまたセルバルカと共に"指爵"家に仕える兵士なのではなかったのか?
いや、そんなことよりも――。
「『欠け月』がこの事態を引き起こしたことは知っている。貴様らはそれを手助けする者か? "珍獣売り"よ」
ミシュレンドが厳かに語り、すっと立ち上がる。
だが、彼はゼイモントらを見ていない。その鷲のように鋭く見開かれた眼は、射抜くようにラシェットを貫いていたのであった。
――ミシュレンド達の"狙い"を理解するのが最も遅かったのはラシェットであった。
いつのまにかさらに半歩前へ出たエリスが、今度はラシェットを庇うように立ちはだかっている。
「エリスお嬢様。お退きください、その"野良犬"は『欠け月』の構成員。我ら"従士団"は、セルバルカ殿を助けて村の治安を保つようにお父上――アイヴァン様から命じられ、この地に派遣されてきたのです。そして、これは私の想像以上に村の"外れ"が騒々しい……が、まさか、我々が到着したその直後に、このような事態が起きようなどとは」
まるで壁のように圧が迫りくる。
ミシュレンドの指令一つで、次の瞬間にはラシェットは乱暴に拘束されていてもおかしくはない。じんわりと、猛獣達を前にした時とは全く異なる緊張感が汗ばみとなって握りこぶしの中に滲んでくる。
だが、そんなミシュレンドら"従士団"に、さらに扉の外側から声を掛ける者があった。
「おやおやぁ? てっきり、逃げ遅れてのされた『欠け月』の馬鹿どもが伸びてるって思ったのに……いるのは痩せた子犬と、怯えた貴種様と、その手首でも噛もうとしてるっていう怖い怖い猟犬達じゃないかぁ」
まるで道化のような酷く挑発的な口調であったが、現れたのは"珍獣売り"の2名とも異なる、別の闖入者であった。
一見すると薬師のようにも見える、薬草やら香草やらの匂いをまとった老女であったが――剣の柄に手をかける寸前の殺気立った兵士達に対する態度は、ゼイモントとメルドットの比では無いほど無礼な調子であった。
その人物をラシェットは知っている。
名は体を表す、という言葉ではないが、薬師のような外見からも明らかな通り――『霜露の薬売り』の関係者だ。それも、大物の。
「下郎め。『薬売り』の"長"ヴィアッドか。怪我人に自慢の薬でも塗りたくりに来たか?」
「貧乏人達からなけなしの金子すら巻き上げる。悪どい連中め……」
「何をしに来た? 教父殿がそれはそれは頼りになる神威を行使してくださると聞いている。禁制品を密輸し、密造しようとしたという咎で、今ここで貴様を切り捨てることもできるのだが?」
とても、『西に下る欠け月』という、ナーレフという厄介な土地に根付いて武闘的に振る舞う"追い剥ぎ団"と拮抗し対抗する組織である『霜露の薬売り』の指導者とは思えない、小さな隠れ家にでも住んでいそうな老女である。だが、呵呵と歯を剥いて笑うその眼光は、決して歴戦の兵士を相手に怯むものではなかった。
「元気そうなあんたらに効く"薬"は、今は持っていないねぇ! でも、その茹だった頭をちょいと冷ましてやるネタなら、無いわけじゃあないんだ――怪我人どもとあたしらだけだと思うかい? 近々、"馬追い"どももここにやってくる手筈になってるんだよ」
"馬追い"と聞いて、ラシェットは間違いなくそれが関所街ナーレフにいる3番目の密輸団である『馬追いの老牢番』であることを理解する。そのこと自体は、既にそういう動きがあると下っ端同士の噂で、なんとなれば裏路地にいた時から聞いていたが……。
ラシェットが驚くほど、その情報はミシュレンド達にとって、驚くべきことであったようだった。
「あぁ、もちろんそれだけじゃない。"猫亭主"殿によれば、それだけじゃなくって外からもまだ来るらしい……"絵画売り"なんて、こんな辺村でどんな需要があるのか、あたしにはわからないけれどねぇ」
"絵画売り"については、わからない。
そんな異名や、そんな異名を連想させるような組織は、少なくともラシェットはナーレフの裏路地で聞いたわけではなかった。だが、"薬売り"の長ヴィアッドが言う通りに「外」から来る存在なのであれば、仕方ないことだろうか。
ミシュレンドがここで初めての真剣な表情を作り、部下達に抑えるよう手で強く制した。
「学が無いからねぇ、あたしには薬しかないからわからないけどねぇ! 指爵様ってのは、掌伯様の要するに"下っ端"なんだろう? いいのかい? 言うことを聞かなくて、ひっひっひ」
"指爵"であるだとか"掌伯"であるだとか、ラシェットにとっては要するに雲上人としかわからない。だが、そんな権力者の間にも――きっとまるで"才無し"と"才有り"のような、そんな格差が存在しているかのような、そう思わせる程度にミシュレンドの顔はくるくると変化し、時折苦渋を隠そうともしない様子であったのだ。
まだ、何か言いたいことがあるかのように、ニ度三度と口を開きかけてラシェットを向くが……ついぞ、何も言わずにふっと肩をすくめた様子を見せた。
そして、踏み込んできた当初とは打って変わり、怒気のこもらぬ忠実な従者の眼となってエリスに改めて傅くのであった。
「エリスお嬢様。ここは、この村はあまりにも治安が悪い。いっそ危険だと言えるほどです。セルバルカ殿のご容態も気になる。我らは――アイヴァン様の指示を再び仰がねばなりません」
言外に、付いてくるのだろうな、という強い意思を滲ませた物言い。
その意が確かに伝わったのであろう。エリスは無言でうつむくように頷き、そしてラシェットを一度だけ振り向いて、立ち上がって誘うような所作を見せたミシュレンドに招かれ、すぐ隣の"即席礼拝所"へ出ていくのであった。
――どういう事情でこの"野営地群"に来ていたのか。
――どんな理由でここを離れなければならないのか。
話したいことが山ほどあるような、しかし、もう十分に話すべきことを話したかのような、奇妙な居心地の悪さだけが、まるでラシェットの心そのものであるかのように取り残された。
……だが、物事の波紋というものは、彼をそんな一人きりの自問の只中に置いたままにはしてくれない。
「そうそう、『欠け月』の下っ端の小僧っこ」
唐突に声をかけてきたのは"薬売り"ヴィアッドであった。
まるでネズミを見つけた猫のように、いたぶるような、面白おかしそうな顔で目を細め、老女が言う。
「――バイルの坊主が、そりゃあ血相変えてあんたのことを探していたよ。とっとと、あんたは、行くべきだねぇ」
バイルの元に、ではない。
この村の外へ。そしてできれば『西に下る欠け月』の影響の無い、関所街よりも外へ。
だが、それは母を捨てていくことと同義だ。
そして、ここに留まっていれば、また近いうちに再び出会うかもしれないと直感しているエリスとの縁をも捨てる選択であった。
「悪いけど、俺には、やらないといけないことがあるんだ。俺は……逃げない」
そう決意した少年に、まるで特別に苦い薬を煽ったかのような変な顔をしたヴィアッド。
真逆に、特別に芳醇な甘露でも頬張ったかのように、心が踊るのが止められないし止まらないといった様子のゼイモントとメルドット。そんな、対照的な意味での"好奇"の眼差しを受け止めるラシェットであったが――。
そんなヘレンセル村外れの"野営地群"へ、ふらり、ぶらり、と。
三叉に分かれた奇妙な"杖"を持つ旅人が森の奥から訪れたのは、まさに、ちょうど、そんな折のことであった。





