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0131 辺村変じて変事の坩堝(2)[視点:伯楽]

7/8 …… 2章の改稿・再構築完了

 『西に下る欠け月』として知られる集団は、『関所街ナーレフ』を拠点とする組織であった。

 かつて彼らがまだ山賊と変わらなかった時分の初代頭領が、月が沈む未明に大きな取引を成功させた。その時に得た資金と人脈から"団"を結成させたことに、その名はちなんでいるとされる。


 表向きには"商会"とされているが、その起源も、そしてその本性もまた"密輸団"そのもの。

 ナーレフはその名の通り"関所"として、旧ワルセィレ地域一体の複数の村々や被制服民達に対する統制の役割を担っている。さらに、南には『次兄国』が、そして南西には【西方諸国連盟】の一角である【アスラヒム皇国】に面していることから、物資輸送面での検問も厳しく行われている。

 しかし、そこで繰り広げられる厳しい検問と統制と表裏を成すようにして、いくつかの"密輸組織"が街の発展とともに台頭しており、ほとんど公然の秘密として活動していた。


 "密輸団"であると同時に"追い剥ぎ団"としての性格を持つ『西に下る欠け月』。

 彼らと競合し、時には血で血を洗う抗争を展開する『霜露の薬売り』。

 そして両組織の"先達"として、かつては馬賊であり軍馬の輸送で名を馳せた『馬走りの老牢番』。


 表の稼業としては看板通りに商会、商隊、商団として振る舞うこともある彼らではあったが……取り扱う"商品"こそは、時に全く真っ当ではないルートから、時に正当なる金銭的対価を支払わずに(・・・・・)入手した代物の数々なのであった。


 彼らは、いずれもその実態は『関所街ナーレフ』の執政ハイドリィの走狗である、というのが、少しでも『関所街』の事情に通じた者達の間でまことしやかに語られる共通の認識。

 それこそ、各組織の一般の団員達の間でも、上役達だけが顔を合わせることの許される『猫骨(びょうこつ)亭の亭主』なる存在から"指導"を受けている、との噂が絶えず語られている。


 ――そして、これらの噂のいずれもが真実であった。

 この"亭主"なる存在こそはナーレフ執政ハイドリィの配下であり、その名をレストルト、またハイドリィの部下として人々に知られる"あだ名"は『懐刃』。


 ヘレンセル村に降って湧いた好況と好機に先んじた『欠け月』と『薬売り』、そして初動で出遅れつつ巻き返しの機会を狙う『老牢番』らの3密輸団は……自分達が、商機と勝機に恵まれて進出した、と信じ込んでいた。

 しかし、その実は、ヘレンセル村で発生した事態を制御し、また自らの望む方向へと動かさんとの思惑によって『関所街ナーレフ』から伸ばされてきた無自覚なる"目と手"なのである。


 そして、この日。

 『猫骨亭の亭主』より、1通の指令書が、ヘレンセル村外れの"野営地群"に陣取る『西に下る欠け月』へ送り届けられた。

 ラシェットや、彼と同じような立場である最下層民(下っ端)達が、それぞれの"指導役"から、森の奥深くへ。綻んだとされる【神威(イリセナ)】と、雪と危険な大型獣達の巣をくぐり抜け、"鉱脈"に向けて出立する――そう告げられる、数刻前の話であった。


   ***


 下っ端に、およそ、まともな休息を与えられるなどということはない。

 所詮は使い捨てであり、バイルのような男が"指導役"を務めているのは、そこにはある種の「選別」の目的があるということをラシェットは身に沁みて理解していた。『関所街』から『欠け月』と共に出てきた者達のうち、最年少は自分であったが……既に数名が消えて(・・・)いることをラシェットは知っていた。


 結局のところ、才能も無くコネすら無いものは、自分自身の身一つでなんとか(・・・・)するしかないのである。

 ラシェットの場合は――たまたま、父母から"頑丈"な身体で産んでもらえたことが大きかったか。殴られた顔面はまだまだ悲惨だが、腫れ自体は引いてきている。それこそ"村長"に「野良犬」などと蔑まれたが、逆に言えば、そんな風に生き足掻かなければ道は開けない。ラシェットのような境遇の者にとってはそれが普通であるし、珍しいことでも何でも無いとわかるようになったのは、最近のことであったが。


 だから、今もラシェットは『西に下る欠け月』の大きな"荷駄車"を引く一人となり――足を取るような、雪と泥濘が渾然とした最悪の道なき道を、寒さと疲労に耐えながら進んでいた。


 数刻前に招集された『西に下る欠け月』の面々は、ラシェットが予想したよりは大所帯であった。

 自分と同じようなやつれた若者達や、バイルと同じようなそれぞれの凶相を保った"指導役"が数名を含めた十数人である。いずれも冷気から身を守る厚い装備に身を固めているが、驚いたことに、自分のような下っ端にまで、ボロ布を束ねたようなものと変わらぬがそれでもまだ"マシ"な防寒具が渡されたからだ。


 1名だけ、バイルら下っ端の指導役達に顎で指示を出している男がいる。

 眼帯をつけ、唇に大きな切り傷のある白髪交じりの壮年の男である。粗暴さの中に、生き馬の目を抜くような生き方で生き抜いてきた狡猾さと油断の無さが混じっている。

 "幹部"の一人だなとラシェットは当たりをつけたが、彼に率いられて『西に下る欠け月』は未明に出立。雪と泥を踏み分けながら、しかし、目的地ははっきりわかっていると言わんばかりに、確かな足取りで奥地へと踏み込んできたのであった。


 ――然もありなん。

 伊達に"野営地群"を構築した先駆者として、流れ者達を雇い、森の奥へ差し向けて捨て身同然の調査をさせ……そして生きて帰ってきた者達から「情報」だけではなくその成果(・・)まで奪い取るという非道を成してきたわけではないのである。ラシェットら下っ端がやらされていたのも、詰まるところは、そういう"下準備"か、あるいは"後始末"なのであった。


 "珍獣売り"の情報収集に動いているのも、同じこと。

 いち早く「新参者」の情報を下っ端達が集め、指導役達に報告し――どう利用するのか、または料理するのかを幹部達が判断する。それが『西に下る欠け月』の、ヘレンセル村の外れの"野営地群"での立ち回り方である。


 その意味では、ラシェットにとっては滅多に姿を見ない、というかここにいる下っ端全員が直接話すことを許されないであろう上位の"幹部"を前に、あのバイルがへこへこ従う姿を見て、やはり「暴力もまた"才"だな」という腐った思いを新たにするばかり。

 他の下っ端達も自分と同じような感想を抱いているんだろうなと、彼らの表情を盗み見ながら、ラシェットは黙々と――その"積み荷"を引いていく。


 ――そういう感覚(・・)があったからこそ、ラシェットは違和感にとらわれていた。


 どうしても、今運ばされている"積み荷"のことが、酷く酷く気になったからだ。

 人一人が入る程度のズタ袋が1つ、不気味なほど静かに(・・・)荷駄車に横たえられている。無論、その他にも試掘のための道具やら野営のための道具やらが乱雑にまとめられ、厚い布で覆われ、麻縄で縛られてまとめられ、ある程度長期的な現地調査にも耐えられるような装備が揃えられているのだが……どうしても、そのズタ袋の存在と、中身が、気になって仕方がなかったのだ。


 それはまるで目には見えない小さな虫のような何かが、危険な予兆を知らせているかのような。

 だが、そのことを、思い切ってそれとなく思い切り下手(したて)に出てバイルに聞いてみても……。


『気になるか? クソ餓鬼が、くくく。"餌"だよ、"餌"。この森にはうじゃうじゃと危険な獣がいるってことはわかってる。だから、いざ襲われた時に、夢中にさせる"餌"を用意してるって寸法よ』


 普段であれば、ラシェットに指導と称して暴力を振るった翌日も、その翌日も、バイルは不機嫌なままである。だが、この時ばかりは――バイルの野卑さすらこもった笑みに、暴力とは異なる、もっとねっとりとした何か別の悪意と害意が込められていることをラシェットは敏感に感じ取っていた。

 そうした違和感と警戒心を抱えながら、幹部の男と指導役達に先導されながら、ラシェットは他の下っ端達と共に荷駄車を引いていく。


 だが、程なく。

 "違和感"への答え合わせの時はすぐに訪れることとなる。


 来やがったぞ! と前方で誰かが叫んだ。

 瞬間、サァァっという緊張感が、辺りを覆うこの肌を刺すような寒気よりもさらに鋭利な冷たい刃となって背筋と心臓をぞわりと貫く。と同時に、周囲の白く濁った灰色の森の凹凸を為した遠近の向こう側から、いくつもの吠え声(・・・)と獣――狩る者の気配がその圧迫するような濃密さを急速に増していく。

 吐く息どころか、言葉も思考さえもが凍りつくかと思われた静寂が、一気に張り詰めたものに変わる。


 前方で幹部の男や、バイルらの指導役達がそれぞれの得物を抜き放つ。

 やっぱりまだまだ無謀だったんじゃないか、と下っ端の誰かが毒づいた。いかに修羅場に馴れたならず者達ではあっても、相手は普段相手にしている「人間」ではない、容赦のない獣達である。そんな危険な存在がうようよひしめいている森の中に、このような強行で入ること自体がおかしかったのだ――。


 ――だが。


「今だ、クソ餓鬼! その"積み荷"を放り出せ! ずらかるぞ、てめぇら! ここにもう用は無ぇ!」


 頭ごなしにぶん投げられてくるバイルの怒声。

 と同時に――悔しいことだが――日頃の折檻の賜ではあるのか反射的に身体が動いて、ラシェットは荷駄車を振り向いて飛び乗った。そして、ずっと気になっていたその人の身体(・・・・)ほどもあるズタ袋の紐に慣れた(・・・)手付きで手をかける。


 こんな手の込んだ"遠征"まがいを、それも上位幹部の主導で実行していながら。

 しかし、その目的は――。


「……――ッッ! はぁ――!?」


 ズタ袋を開く。検める。

 その中身(・・)を視認して、ラシェットは今度こそ、ずっと抑えつけてきた違和感が奔流となって思考を埋め尽くすのを感じた。


「何してやがる! クソ餓鬼が、とっととそいつを猛獣共に放り投げろ!!」


 手が止まった。

 呼吸が止まった。

 心臓が止まった――直後に早鐘を打ち始め、全身に熱い、とても嫌な意味での熱い血潮が巡り、体中を刺す寒気を上書きするような気色の悪い汗がじわじわと滲んでくる。


「エ……リス……が、どうして――?」


 見間違えようのない少女の姿がそこにあったからだ。

 何度か遠目に見て、どうしてだか印象に残っていて、そしてつい昨日、思わぬ因果でその名と姿勢を知って――もっと知りたいな、とどこかで思っていた少女がズタ袋には入っていたのであった。

 手ぬぐいを噛まされ、後手に縛られている。一瞬、死んでいるかと戦慄したラシェットであったが――かすかな寝息を立てている様子にわずかだけ安堵した。だが、安堵は続かない。


「てめぇはいつもいつもよぉぉぉおお! 昨日の"指導"の今日だろうが!!」


 今度はただの怒声ではない。

 またしても思考よりも先に反射的にラシェットは、エリスを咄嗟に彼女が入れられているズタ袋ごと、ほとんど抱きかかえる勢いで荷駄車から転げ落ちた。ほぼ同時に、猛然と突進してきたバイルの棍棒(得物)が、ラシェットの頭がつい先程まであった場所の空を抉り抜く。

 いつもの"指導"ではない。殺意のこもった本気の一撃であったと悟って、ラシェットの鼓動がますます緊迫の度合いを嫌でも高め早めていく。


「待てよ! なんなんだ、なんなんでこの子が……()だって!?」


 叫ぶと同時に、抱きかかえ共に荷車から転げ落ちても起きる様子の無かったエリスが、わずかにうめき声を上げて身じろぐのに気づく。だが、そんなラシェットの機転を妨害するかのように、荷車をそのままぎしぎしと踏み抜く勢いで飛びかかってくるバイル。

 ラシェットは一旦、エリスの解放を諦めて、ズタ袋ごと引きずるようにし――運び手達が逃げて半分傾斜した荷車の下に逃げ込んだ。


 森に巣食う危険な猛獣達に襲われるよりも前に、バイルという存在自体が獰猛な獣に等しい何者かとなって命を脅かしてくる状況は、しかしすぐに終わりを告げる。


「何をすっとぼけてやがる、バァイル! そいつも"餌"にしてとっとと逃げるぞ!」


 禿頭の暴漢と比べてしまえばずっと小柄で、また年老いた体躯のどこにそれだけの声量が込められているか驚くほどであったが、場を圧するような、そのよく通る声に射抜かれたか。

 まるで鞭打たれた馬のように――ちょうどラシェットが日々"指導"を受けて、バイルの怒声や命令には身体がほぼ反射的に反応してしまうのと同じように――やや甲高い「へい! お頭!」という声量はでかくとも若干情けない声を上げ、跳ねるように立ち上がったバイル。

 彼は一瞬だけ、荷車の下のラシェットを憎々しげに一瞥。腹いせに激しく荷車に前蹴りの一撃を加え、お頭(・・)の後を追うように全力で逃げ去っていく。


 ――だが、ラシェットにとって真の危難はそこからであった。


 まるで示し合わせられていたように、自分とエリス以外の全員がその場から逃げ去っていることにラシェットが気づく。得物も手に持った道具さえも捨て去り、中には転んで身体を引きずりながらなんとか助け起こされた者もあったか、あたりの雪原にその混乱と恐慌の痕跡がぐしゃぐしゃと残っており、冷たくぬかるんだ湿地の濃い茶色い土壌をえぐれ返し晒されていた。


 獣の気配が近づいていた。


 湿地を駆け、また泥沼の中を泳ぐ能を持った『緑漣牙虎』達の雪を溶かさんばかりの熱い吐息が、今にも頬に吹きかけられそうな気に囚われる。

 雪の中で糸を手繰り、樹上であろうが泥濘の中からであろうが、獲物を死地に追い詰め確実に捕らえる『痺れ大斑蜘蛛』達の何十もの眼光に、射すくめられたような怖気が全身の皮膚を這い回る。


 あらかじめ、森にどのような獣がいるのかを、ラシェットは十分に聞かされていたし知らされていた。その詳細について、マクハードの部下達からも嫌というほど教えられていた。


 ――なぜなら、こうして"囮"のような状況にされたのは、別に初めてのことではなかったからだ。

 ――ズタ袋を引きずった経験が、初めてではないように。


 ラシェットは何度も何度もやって(・・・)来たのだ。

 『西に下る欠け月』の命令に従って、"街"でも、そしてこの森の領域でも、何人も捨てて(・・・)来たのであるから。


 だが。

 周囲に感ずる凶猛な存在達の気配は、"虎"と"大蜘蛛"だけでは(・・・・)なかったのだ。


 不気味な唸り声が、まるで身の毛がよだち腸をかき回され生きながらにして内臓をぶち撒けるように吐き出させられるかと錯覚するようなおぞましい(・・・・・)遠雷のような重奏が、森の遥か遥か遥か深部から響き渡ってくるのを、確かにラシェットはその耳朶と捉えていた。

 震わされたのは鼓膜だけではない。

 恐怖であるだとか、熱すぎる鉄板に触った時のような瞬間的な痙攣じみた"震え"とは異なる。

 もっと根源的な、強いて言うならば、自分、という存在が内側から侵食されて裏返って(・・・・)しまうかと眩暈(げんうん)させられるかのような、そんな感覚だった。


 しかも、それだけでも(・・・・)ない。

 ガサガサと、カサカサと。枝が揺らされ、揺すぶられ、にわかに木々が騒めく。

 あたりの木々の"枝"という"枝"から積もった雪が振り落とされ、あちこちに雪煙が作り出されており――しかし、ラシェットにはどうしてもその枝葉の揺れる音が、この森に潜む恐ろしき何者達かの"会話"としか聞こえなかったのだ。


 胃の中身を全て吐き出してしまいそうな恐怖は既に臨界に達しようとしていた。

 そのまま逃げる――という選択肢が脳裏をちらつく。

 命あっての物種なのだ。自分には金を稼がなければならない理由があり、生きて帰らなければならない理由がある。それでも危険を冒して、命を落とす可能性があることを承知で、父の仇である組織の連中についてきてまで、こんなところへやってきたのには理由があったのだ。


 幸いにして、"餌"ならば、目の前にあるではないか。

 どれだけ強力な薬で眠らされているのかは知らない。あの屈強な"村長"や護衛の兵士達の目を、どのようにして誤魔化してこの少女――エリスを拐かしたのかは知らないが、人を襲う獣達ならば、きっと目の前の弱った動けない"餌"を優先的に狙うはず――しかし、しかし、しかし。


『お父さんのような人になってね』


 まぶたの裏側に蘇るのは、母の言葉。

 その母の薬代を稼ぐために、自分はここにいるはずなのに――。


 顔も覚えていない父の、しかし、母や路地裏の仲間達に言われ続けてきたせいで、きっとこうだったのだろうかと頭の中に空夢のように作られた、まるで記憶に存在しないはずの、そんな、ありもしない勇姿が思い出され(・・・・・)る。


 "長い冬"ではないが、それでも、父が死んだのはこんな雪道の中でだった。

 森の奥深くではないが、それでも、こんな風に街の外で、街道で、襲われた仲間達を守ったのだ。街の守備兵の隊長として。他の兵士達よりは、少しだけ質の良い鎧と盾を与えられて、その身を全て挺して。

 原型もわからぬほどに鎧も盾も破壊され、その内側(・・)さえも破壊されてなお、文字通り粉微塵になるまで抗って、そして守り通したのだ。


 ――だが、何のために?

 ――幼い自分と病弱な母を、どうして遺して死んでいったのか?

 ――盾も鎧も武器も捨てて、どうして逃げ出さなかったのか?

 ――"枯れ井戸"の貧者仲間に過ぎない連中の命の方が、大事だったのだろうか?


 いくつもの疑念が、いつもの疑念が、父の死やその思い出を母が語るたびに、もう数え切れないほど繰り返し繰り返し自問し続けてきた想いが、まるで内側から裏返ろうとする身体と共に全て腹の底から吐き出されぶちまけられるように溢れ出そうとして。


 しかし、ラシェットが自分自身で気が付いた時には、頭よりも身体が動いていたのだった。


 装備として手渡されていた短刀で、エリスの後ろ手と口を塞いでいた縄やらを切り解く。

 裏返ろうとする身体の中から、もう一度、自分という存在の"芯"を(ただ)(ただ)(ただ)すかのような、腹の底から、ただ雄叫びを上げた。


 ここに俺がいるぞ、と。

 ここには俺しかいないぞ、と。


 逃げ(おお)せた"才無し(臆病者)"達が落としていった得物から適当な(なた)を拾う。

 森の奥から姿を表し、用心深くラシェットの周囲を囲み始める"虎"や、樹上や樹の影から糸を紡いで飛びかからんと備え始める"大蜘蛛"達や、まるで彼らに指揮を与えるかのように、笛で蛇を操る大道芸人の逸話のように木々を揺らす――まるでその木々同士が会話(・・・・・)しているかの錯覚させられるが如き、確実に忍び寄る破滅と終わりへの重奏の中で、ラシェットはできうる限り、体力と知恵のあらん限りを投じる。


 後ずさりつつ、荷駄車の上にあるありとあらゆるガラクタを振り落としたのだ。

 いずれも木箱やズタ袋に入ってはいたが、中には採掘だったり拠点構築のための工具もあったため、乱雑に振り落とされたそれらが刃を向いてラシェットの防寒着を貫通して傷をつける。

 だが、もはや構うものではない。

 その木箱やら道具やら工具やら布切れやらを、蹴り入れるようにして荷駄車の下へ。

 (つっか)えとし、同時に隙間を埋める"壁"となし、ラシェットはエリスの周囲を"積み荷"で固めていくのであった。だが、そうこうしている間にも"虎"達の飢えた呼吸が、"大蜘蛛"達の無感情な眼光が迫る。その、迫る速度そのものが、空間が歪んだかのように早まっていく。


 ――足りない。

 荷駄車の積み荷を全て振り落とし、バイルが蹴り壊した箇所をも壊して崩してその資材をも使って、周囲を得物で掘った雪と泥濘で固めて、ラシェットは即席の小さな"砦"を作った。

 "虎"の体当たり一つで壊されてしまうかもしれないほどに、情けない、頼りない見様見真似の"砦"。

 だが、エリスがまだ目を覚まさない以上、そして既に後方に"大蜘蛛"達が回り込みつつあり、枝を揺らし葉がかささくような"会話"が周囲を押し包み始めている以上、取るべき選択肢は「逃げる」ことではなく「護る」こと以外には、無かった。


 そしてそんな肝心の"砦"に、周囲を全て埋めきることのできない"穴"が空いていた。


 思考は一秒。決断もまた一秒。

 ラシェットは迷わず、自らがその間隙を埋める"壁"となるべく、身を捩るように、しゃがみながら、この時ばかりは小柄な身体であったことを喜ぶべきか逡巡しながら、ふっと笑みをこぼして、そこに身を収めた。


 すぐ後ろで、エリスがぴくりとも動かない。

 胸の上下で、かろうじて呼吸はしており息があることだけがわかる状況。

 ――今自分がそこから逃げ出せば、間違いなくその"穴"から、彼女は引きずり出され八つ裂きにされ腸を食い破られ、この森の中に鮮血をぶち撒けるようにして貪られてしまうことだろう。


 だから、ここから退くわけには、いかない。

 ちょうど昨日、エリスから強引に渡された、自分の血で汚れて洗う暇も無かったハンカチがまだ防寒着の内側、胸元のポケットの中にあることを思い出した。


「さぁ、来いよ……猛獣ども! 食えるなら、俺を食ってみろ……ッ!」


 ――()れるものなら、俺を()ってみろ。


 ただし、ただでは食われない。拾える限りの鉈やら短刀やらを構え、懐に忍ばせ、口すら加えて、歯を食いしばるように、"虎"達に己の犬歯を見せつけるように剥いた形相で、消え入りそうな恐怖と震えを腹の底から湧き上がる何かで押さえつけるように、ラシェットは迫りくる死の影を睨みつけた。


 彼の記憶に残っているのは、そこまで。

 迫りくる容赦のない弱肉強食の無慈悲なる具現と、そして、背中の後ろに感じるかすかな温もりのみであった。

読んでいただき、ありがとうございます。

また、いつも誤字報告をいただき、ありがとうございます。


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また、次回もどうぞお楽しみください。

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― 新着の感想 ―
[一言] 中身は遺体っていうオチじゃなくて良かった
[良い点] ラシェットの勇ましさがより伝わってくる オーマが好みそうな行動で、前作のラシェット少年に生えたレア称号と職業に対する実験動物的な実用的な興味よりもより自分の感性を全面にだしたダンジョンマス…
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