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0130 辺村変じて変事の坩堝(1)[視点:伯楽]

7/8 …… 2章の改稿・再構築完了

【盟約暦514年 跳び狐の月(4月) 第22日】


 頬骨が軋むかと思うような激痛。

 かと思えば、衝撃でもんどり打つことすら許さぬ勢いで頭を捕まれ、さらに頬に激しい張り手。

 二度、三度、殴打されるたびに青いようなオレンジ色のような閃光が、まるで魔法使いの"手品"のようにまぶたの前と裏で弾け飛び、ラシェットはとうに切れた口の中いっぱいに広がる血の味を噛み締めた。


「まだそんな眼をしやがる! まだ、まだ、この俺の"指導"が足りねぇみてぇだなッッ!」


 ラシェットの小さな頭を鷲掴み、野牛の衝突のような勢いで叩きつけられる分厚くゴツい手。

 そしてそれに負けないほどに野太く、威圧的で暴力的な罵声がびりびりと鼓膜をぶちぬいて脳天をも震わせる。だが、果たして自分が"声量"によって振盪(しんとう)させられているのか、それとも、張り手でぶちのめされ過ぎたために、既に脳天がガンガンと振動(しんどう)しているのか――少年ラシェットには判断もつかない。


 判断もつかないほどに慣れて(・・・)しまった展開だったからだ。

 辺りに立ち並ぶ、仮設住居を改修した"掘っ立て小屋"の屋根に降り積もった、寒くて凍えて忌々しい"雪"をまとめて振り落とさんばかりに響く、禿頭に血管を何本も浮かび上がらせた大男バイル――ラシェットの"指導役"――の鼻息の荒い大きな鼻の穴を睨み返してやった。


 どうせ、どれだけ殴られたって、こんなもの(・・・・・)だ。

 どれだけその図体全部を太鼓のように震わせて声を張り上げたところで、実際に辺りの"雪"を吹き飛ばすことなどできる訳がない。威嚇に過ぎず威圧に過ぎず、暴力しか取(魔法の才)り柄がない(能が無い)輩なんて、どうせ、そんなもの(・・・・・)なのだ。


 四度、五度、七度と殴打され、いつもの(・・・・)ようにバイルがラシェットをゴミのように放り捨てる。

 曇天の向こう側に隠れて久しい太陽がとうに地平の向こうへ沈んでいるのか、暗く濁った大気と、湿った雪と泥と、わずかに自分が撒き散らした鼻血だかが入り混じった泥濘の中を転がる。この雪に覆われた森の中で、ラシェット達が活動拠点となっている"野営地群"の外れでのことである。そのまま"掘っ立て小屋"の一つの壁に背中を打ち付け、ラシェットは苦痛のうめき声を上げて身体をくの字に折り曲げた。


「まったく……無駄に頑丈なガキだぜ、本当に、てめぇはよぉッッ!」


 殴り疲れて息を荒げながらも、その様子を悟られぬように強勢を誇っているか。

 "指導役"バイルは、手の甲で骨を数度ならしつつ、ラシェットに向かって唾を吐いてから、用は済んだとばかりに歩き去っていく。怒りと苛立ちで熱くなりすぎたのか、辺りの寒気を無駄に暖めるヤカンのような湯気が禿頭から湧いているのを見て――ラシェットは心の中でだけ、今日も完全には屈服しなかったぞ、と笑んだ。


 積もった雪を蹴り飛ばすように去っていく暴漢と変わらぬ"上役"。

 その湯だった筋肉ダルマのような姿に、恨みと滑稽さの入り混じった目線を送りながら、ラシェットは大の字に伸びて曇天を仰いだ。粉のような雪がひらひらと、腫れた顔の傷や痣の上に舞い落ちて、沁みる。

 雪は地面に落ちれば白いのに、どうして、地面から見上げたら黒くゴミのように見えるのだろう、と少年ラシェットはふと思った。思ってから――"街"に残してきた病気の母を思った。


(金が、要るんだ……)


 泥と混じった雪を握りしめるように、痛みに耐えかねるのではなく、他のなにか、強いて言えば己を取り巻く境遇そのものか、はたまた、もっと大きな何か――例えば雲の上(・・・)に広がっているであろう何かを睨みつけるように、ラシェットは血の味とともに歯を食いしばった。

 "街"で、それまで通りの「汚物(ゴミ)拾い」を続ける道もあったのだ。

 "新市街"と"旧市街"の狭間で、物だけではなく、色々なものが、そして情報が捨てられる裏路地の一つで、その日のノルマを地味に、意地汚く稼ぎ続けるのだ。


 だが、物心付く前に父親が死んで、ずっと病気がちだった母親と二人だけで十数年あまり貧しく暮らしてきたラシェットには――もはや、他に選択肢が無かった。


 だから、こんな怪しい、妙な空気と熱気と噂が漂う『村』までついてきた。

 よりにもよって、父親の(かたき)である組織(連中)丁稚(でっち)に身をやつしてまで。


 新しい"鉱脈"が発見され、一攫千金が得られる……と『関所街ナーレフ』の裏路地ではもっぱら噂が広まっていた。

 ただ、それが自分のような食い詰めている者達を集めるために、バイルが属しているところのような(・・・・)組織が意図的に流している噂である、ということも、年齢の割に擦れているラシェットは理解はしていたのであった。

 ――それがこの国の仕組みなのであるから。


 泥雪を握りしめる手指からふっと力を抜く。

 全身の痛みが引いてきていた。いつもよりは早い(・・)


 母は、自分の父は"街"の勇敢な守備兵だったと言う。何人かの部下を持つ分隊長で、いつでも最前列で仲間達を身を挺して護るように戦った人なのだ、と言っていた。


「だって、"頑丈さ"って、そんなの、イイ鎧とか、盾とか、つけてただけだろ……」


 腐ったような気持ちでつぶやく言葉は血と雪に混じって消え入るか。

 だが――。


 ふっと目の前に誰かが現れる。

 小柄で、自分と同世代くらいの少女。その少女にラシェットは見覚えがあった。

 確か、何度か(・・・)見かけた少女。

 まるで雪景色の中から、おとぎ話の雪の精のように現れたかのような。


 あ、とラシェットは声を出したつもりだった。それが彼女の耳に届いたか、届いていないか。

 だが、次の瞬間には少女が屈んで、ふっとやわらかな布地の感触が顔に触れ――。


「痛い痛いいってぇえ!?」


「うるさい! 見苦しいから拭いてやってるんだから黙って!」


 強引に押し付けられる無駄に凝ったハンカチの刺繍が、まるで狙ったかのように痣と傷口に擦り込まれるどころか開いて延ばす(・・・)が如き乱暴な手当と化し、ラシェットは先程までの様々な感傷も忘れて、バイルに対しても音を上げなかった大きな声で抗議するように苦悶した。

 多少、頑丈なだけ(・・・)で、体格そのものは決して同世代ほど恵まれているわけでもないラシェットは、とっくに体力を使い果たしていたため、身を捩って暴れようとするも、どうしてだか顔を執拗に拭こうとする少女の力に抑え込まれてしまう。相手も、きっと躍起になっているのか、ハンカチと同じぐらいにきめ細かい刺繍がワンポイントにもツーポイントにもなった――庶民ではない――その衣装を雪と泥と抵抗するラシェットの乾き始めた血で汚しているが、気にする様子が無い。


「もう! ここって、最悪! お父様が"近づくな"と言っていたから、どんなところだって思っていたのに」


 一番最初に喧嘩をして大きな怪我をした、まだ物心ついたばかりの頃。まだ多少は元気だった母に取り押さえられ、怪我の手当をされた時のことを思い出して、ラシェットは抵抗を諦めた。

 そしてまじまじと――その"街"と"村"で見知ったことのある、その少女の様子を間近で、ハンカチという名の暴力の合間から眺め垣間見た。


 衣装も、出で立ちも、雰囲気も、芯の強い声も、何か大きなものを見据えて苛立っているかのような眼差しも、自分や自分たちのような"貧民"かつ"才無き者"とは違う。

 だが……想像していたほどは雲の上(・・・)でもないのではないか。それに気づいたことが最大の驚きだった。


 泥にまみれることを厭うことなく、むしろ、衣装がその身を戒める縄か鎖のように鬱陶しそうに身を捩り、より効果的効率的にラシェットを介抱するためには、そこらのボロ布と変わらぬただの"布"としてそれすらも破らんばかりの勢いであったが――。


「お嬢様! エリスお嬢様! こんなところで何をしていらっしゃるか!」


 呼びかけられるよく通った声。

 ――バイルに象徴される、生皮一枚剥がせば、力と暴力が容易に顔を覗かせる"この場所(野営地群)"にはあまり似つかわしくない、そんな秩序という言葉をまとった力強い声が投げかけられ、直後には「離してよセルバルカ!」というエリスと呼ばれた少女の抗議の声。

 だが、抵抗虚しく、ちょうどボロボロになったラシェットがエリスにすら抗えなかったのと同じように、あっさりと、首根っこを掴まれた猫のように、エリスがセルバルカと呼ばれた壮年の男に……。


「"村長"じゃねぇか……」


 唇を動かしただけだったが、聞こえていたのか。

 一瞬だけ、ゴミを見るような眼でラシェットを見やるセルバルカ。

 だがすぐにそれを、抵抗を辞めて大人しくなりつつもエリスに見咎められ、バツが悪そうな顔になってから、ため息をつきながら手を差し出してくる――彼こそは『ヘレンセル村』の村長。

 力が少し入るようになってきた腕で、その手を取り、ぐっと力強く乱暴に引っ張りあげられラシェットは立たされた。


「見たところ……あぁ、『欠け月』どもか、それか『霜薬』どもの使い走りというところか。ここでお嬢様を見たことは、誰にも口外するな――お嬢様、お願いですから」


 あれほどの威勢の良さはどこへやら。

 躾けられたばかりの子猫か、あるいはそれを被っているかのように、エリスがセルバルカの後ろで黙り込んだままラシェットの様子をうかがっている。だが、セルバルカの言葉の途中で、胸に突きつけるような勢いでラシェットにハンカチを押し付けてきたのであった。

 受け取れ、とも、綺麗にしておけ、とも言われたように感じて、その勢いに押されるままに受け取るラシェット。


 セルバルカが眉間のシワを深め、さらに深い溜め息をついている間に――わらわらと、数名、一見して手練れとわかる男たちが辺りから集まってきた。


「セルバルカ殿、見つかったのですな……そこの"野良犬"は?」


「お嬢様の"気まぐれ"だ。捨て置け、帰るとしよう、ミシュレンド殿」


 なるほど、と応じてジロリとラシェットを見る大柄な男は、明らかに手練れだとわかるが、その動きはバイルやその取り巻き達のような"貧民"同士の喧嘩で成り上がったものではない。訓練された兵士のような――死んだ父がそうであったという守備兵のような――油断の無さと洗練さがあった。

 去っていく『村長』とエリスと、彼女を隠すように周囲を固める数名の"兵士"達を、雪の中、村外れの野営地群のそのまた外れで見送りながら、ラシェットは呆然とも釈然ともしない気持ちであった。


 いつもであれば、バイルにぶん殴られて、伸びて、勝手に回復して自分で手当して、また"仕事(ノルマ)"に戻って終わりである、そんな日課の、その最後の部分がいつもと大きく違っていた。


 だが、何より気になったのは――。


   ***


「どういうことだよ。"村長"の娘じゃ、なかった、ていうのか……?」


「それは、ラシェ坊主。あれだな、お前の話を聞く限り、明らかに"雲上人"様――つっても『指爵』様の関係者ってところだろうがなぁ。エスルテーリ指爵家、御令嬢がいるって噂は聞いていたが」


 重い身体を引きずってそこまでたどり着いたのが四半刻ほど前のこと。

 どういうわけか無人(・・)のまま、この雪深い森の奥に並んでいた仮設住居(掘っ立て小屋)達を急ごしらえで修繕し、改装して形成された"野営地群"が、ラシェットや彼の指導役たるバイル、そして彼らが属する組織――『西に下る欠け月』が活動する場所である。

 その中心部、からはやや外れた場所であるが、夜が更けつつある中で、未だ眠らず喧騒と熱気を湛える建物が一つあった。


 即席の『酒場』である。

 そんな場所で、子供(ガキ)用の酒精を薄めに薄めた蜜酒を、飲め飲めと強制されながらも、ラシェットは先程の遭遇話をその人物――『関所街』から大量の酒と食料を雪の中運んできた商人マクハードに打ち明けていた。


 元より『関所街』での顔馴染みではあった。

 だが、マクハードという男は、かつてこの地にあったという【森と泉(ワルセィレ)】という共同体――【紋章】家とかいう雲上のそのまた雲上に突き抜けた存在に征服された――の出身である。一方で、ラシェットの父母は『長女国』の東方の田舎から、『関所街』ナーレフができた際に、移住してきた身の上。


 征服された旧ワルセィレの民が、果たして"旧市街"でどんな風に暮らしているかを、ラシェットは垣間見てきたのだ。

 弾圧と摘発と、そして執政ハイドリィによる"縛り首"が覆う日々。

 毎日か、毎週か、誰かが「反徒」との繋がりを疑われ、そして数日後には烏の餌(・・・)となる。

 ……果たして、下層民の悲哀そのままに生きる自分達のような存在と、どちらが不幸であるか、若輩なりに比較して考えずにはいられない。


 だが、ラシェットの目から見ても、そうした生き馬の目を抜かねば生き抜いてくることのできないような『長女国』の社会の中で、マクハードという男はよく『関所街』に溶け込んでいた。この地域の出身者である強みを生かしているのか、旧ワルセィレに広がる村々と『関所街ナーレフ』を繋いで物資を輸送しており、商人としても賢明さ勇敢さを兼ね備え、そこに効果的な狡猾さも交えて立ち回っていたのであった。


 ――"魔法の才無き者"であるにも関わらず。


「それにしても、お前の話を聞く限り、なかなかのお転婆と来たもんじゃないか? こんな――辺境のそのまた辺村の、そのまた外れに生えてきた危なくて怪しい"外れ"にお忍びとはねぇ」


「自分が"生やした"癖に、よく言うよ……」


 最初にその少女、エリスという名前であることは今回初めてわかったが、ラシェットが彼女を見かけたのは『関所街ナーレフ』にてのことであった。掌守伯家の実力者にして、ナーレフを統治する「執政」ハイドリィに謁見するためかは、知らないが、セルバルカを含めた、周辺の村々から村長とそれに付き従う者達が訪れた日の喧騒で、たまたま目にしたのだ。


 どうしてだか、ラシェットは彼女のその姿がずっと印象に残っていた。

 決して、彼女をまた見る機会があるかも……という下心が生じて『欠け月』での招集に応じて、仇であるバイルについてまで『ヘレンセル村』へ行くことを決めたわけではない。だが、何か、妙な意味で心が騒めくものを感じていたのもまた事実であった。

 そうしてヘレンセル村を訪れた最初の日に、遠目に『村長』の宅に入る彼女を見た。

 それでその娘だとすっかり思いこんでいたわけである。


「『村長』とその取り巻き達がものすごい顔色してたよ」


「ははは! その連中がもう少しだけ早く来ていれば、お前のその"顔色"だってもっとマシになっていただろうに!」


「指爵家ご令嬢の覚えもめでたき、向こうっ気の強い坊主に追加の投資だ。おら、俺の酒を飲みやがれ!」


「末は婿殿か、最低でも次期"村長"か。なぁに恥じることなんて無いんだ、それが俺達(庶民)の夢ってもんだろうが? 男だってなぁ、そういう手管が必要なんだよ」


 マクハードを取り巻く商隊の男達が、まるで勲章か何かでも褒めるような口調で囃してくる。

 それに釣られて、良い意味で揉まれ(・・・)ながら、ラシェットもつい緊張感が取れたように、にへらと笑う。


 まったくもって、気持ちの良い好漢達であると感じるのは、今ラシェット自身が所属している組織――商人まがいの"密輸団"がその生業である『西に下る欠け月』の粗暴過ぎる一面をその身に染み込ませて理解していたが故か。


 この酒場(・・・・)こそは、マクハードが力を持つ縄張りであった。

 事実、提供される酒も、食事も、食器も、そして給仕役達さえもが彼の商隊が手配したものなのである。いくつかの小さな机を囲む二十弱の座席には、それこそ『西に下る欠け月』や、競合組織(ライバル)である『霜露の薬売り』の構成員もいるにはいたが――誰も、あえて酒場の中央であらゆる話題の中心となっているマクハードの商隊に悪い意味で絡もうとする者達はいない。


 どういう因果か、マクハードというこの"野営地群"を取り仕切る実力者の一人に気に入られたラシェットは、半ば本気で『欠け月』からの足抜けも頭をよぎっていたのである。

 だが――街に残してきた病身の母親は、その居場所も何も全て『欠け月』の連中に知られているのであった。

 内心に罪悪感を抱きつつも、バイルの命令によって「何か金になる情報」をマクハードらから聞き出してこいと言い含められ、この酒場に送り込まれてきているのが実情。この"才無き者"達としては大きく成功の道を歩んでいる年長の男達の後ろ姿を、純粋に憧れるような眼差しで見ることができないことが、ラシェットの苦悩であった。


「どれ。今日はそこに、この地の別の"実力者"様が来なすったぞ?」


 いたずら心を秘めたような意地の悪い笑みを浮かべ、純真なれど純粋であることのできない少年に、小声で指さしたのはマクハードであった。


「魚を! リッソ魚が届いた、というのはわかっています。マクハード殿なら大丈夫でしょ? そうでしょう? 私が頼んだのですから! あぁ、それとそこの君、ヴィネーの壺酒も!」


 神経質そうなやや上ずった声で、即席酒場の即席店員に早変わりしていたマクハード商隊の年若い丁稚達に矢継ぎ早に注文を出す男がいた。

 白を基調としていた(・・・・)であろう法衣はよれによれており、長年それ一着しか着回していないかのように、ところどころがくたくたとなっている。しかし、これまた年季を感じさせる相当にくすんだ代物ではあったが――左右8本の指に嵌められた意匠の凝った指輪と、首に掛けられた『八光』を表す星型の首飾りが、彼が【聖墓教】の関係者であることを雄弁に物語っていた。


「うぇぇ、あれって"教父"様じゃん。ちょっと待ってよ、"教父"様って……酒なんて飲んでいいのかよ? うわ、顔、真っ赤」


「あっはっは、まだここで(・・・)飲んでも無いのに出来上がってる理由に心当たりが無いわけじゃないがな? ま、あんな小さな、それも征服された村の説教と布教の担当なんだ。溜まるモノも溜まるんだろうよ」


 マクハードの片目が細められ、少しだけ揶揄の言に刺々しさが宿ったことにラシェットが気づくか気づかないか。

 ヘレンセル村付きの【聖墓教】教父ナリッソは、神経質そうに指と膝をカタカタさせていたが、しかし運ばれてきた好物を目の前に、思わずその長年の神経痛で歪んでしまった険しい相好もほころばせたようであった。


「おお、これこそ遍し8つの光の恩寵……私の修練と修養、苦心と苦嘆をほろ苦く癒やす日々の糧なり……あぁ、そこのあなた。酌をください、あなたに、いと高き『八柱(やつはしら)』の御方々の"愛"とご加護があらんことを」


「あのさぁ、マクハードさん」


 この酒場に来る、という噂は聞いていたが、ラシェットにとっては教父ナリッソもまた――指爵令嬢エリスと同じく、このような至近で見かけるのは初めてのこと。

 噂通り(・・・)の煩悩の塊であることもまた、ひと目も憚らずに、給仕役を務めるマクハード商隊の若い女性の腰に尻にと際どい所に手を回していることから明らかであった。


「皆まで言うな。"街"にいる連中が、ちょっとばかりお行儀がよすぎるんだろうさ、ははは」


 とはいえ、流石は『関所街ナーレフ』において――「執政」の息がかかっていると言われる『西に下る欠け月』『霜露の薬売り』といった組織と硬軟織り交ぜて渡り合ってきた歴戦たるマクハード商隊の女。ぴしゃりとナリッソの邪心に満ちた手指を打ち払いつつ、かわしつつ、彼が唱える本気なのだかそうではないのだかわからない聖句に適当な冗句で茶化しつつ、ここぞとばかりに高い酒を飲ませていく。


 みるみるうちにナリッソの赤ら顔がますます赤くなっていき……ものの四半刻もしないうちに、半分も食べ終えていない肉厚のリッソ魚のスープの隣に頭を突っ伏すようにしていびきをかき始める教父。


 ――これがバイルや、もっと凶暴な彼の同僚や"上役"達にに見られでもしたら、そのまま攫われてしまってもおかしくないだろうに。


 無論、この即席酒場が、そのような狼藉を許さないマクハードの縄張りであるからこそ可能な油断か、はたまた胆力であるか。

 別に『長女国(この国)』において、"人攫い"は別に【人攫い教団(その名を冠する連中)】の専売特許というわけでもない。『関所街ナーレフ』を根城にする密輸団(・・・)のうち、『西に下る欠け月』は、そういう(・・・・)商品も取り扱うことにかけては『霜露の薬売り』に先んじた存在なのである。


「さぁて、くたびれた中年どもの愚痴話の聞き役になってくれていたラシェ坊主への"駄賃"でもやろう。エスルテーリ指爵様の腰巾着……おっと、"村長"殿がここいら(・・・・)に首突っ込んできてるってのは、偶然じゃあないのさ」


「でも、ここは、あんたの縄張りなんだろ? マクハードさん」


「買い被るな。俺と、お前のところの『欠け月』――正確にはその後ろにいる、途轍もなぁぁく偉いお方と、そしてあの酒酔れ教父様と、あとなんだかんだの有象無象どもが互いに協力しつつ、牽制しあいつつってのが実態だ」


 ――【火】属性の魔石だとかいう、訳の分からないとんでもないものが採掘できる"鉱脈"に通じる"裂け目"が、『禁域』の綻んだ雪深い湿地森の先で見つかる。

 と同時に、先んじて"鉱脈"を占領せんと『関所街ナーレフ』の支部から出張ってきていた【人攫い教団】の信徒集団が、森の奥で忽然と姿を消したことは、ヘレンセル村を取り巻く波紋をさらに劇的に広げるものとなっていた。


 噂が風よりも早く広がるように、ナーレフを経由して"食い詰め者"達が集まる。

 地域一帯の、特に村々の連携を分断して交通を制限させるための要衝として建設された「関所」としてのナーレフでは、即座にその動きが察知され、こうして思惑を持った者達がヘレンセル村の外れまでやってくるようになる。

 そして誰が最初かはラシェットにはわからぬが、噂通りに、忽然と姿を消した【人攫い教団】の信者達が残していった"拠点"が打ち捨てられていたのを発見し――いち早く人手を集めて乗り込んで、そこに仮設の掘っ立て小屋に近いものとはいえ"野営地群"と呼べる規模の、最低限、寝泊まりして食って飲むことのできる本格的な調査拠点を構築したのが、マクハード商隊と、そしてナーレフから派遣されてきた2つの密輸団だったわけである。


 そしてそこにヘレンセル村への治安の影響を憂えた"村長"セルバルカが、村の統治を巡って微妙な関係性であったはずの【聖墓教】教父ナリッソに協力を依頼。

 即席の酒場とは、野営地群の中心にある会合所を挟んで反対側に、彼が日々ありがたい『八柱神』の霊験を説くための、これまた即席の礼拝所に割り当てられた建物がある。そうした大人達の微妙な駆け引きと抜け駆けのバランスの上に、この"野営地群"が形成され、拡大しており、流れ込む食い詰め者や命知らず達……そして耳が早く鼻の鋭い"商人"達も、日を追うごとに「新顔」と「新参」が現れる。


 マクハード商隊も、2つの密輸団も、自らも【魔石】の鉱脈の調査に手は出しつつも――こうして流れ込んでくる者達を金と食料で雇い入れて、早い話が、どんな魔獣が潜んでいるかもわからない恐ろしい"裂け目"に突撃させる尖兵とする稼業に勤しんでいたのである。無論、正当な報酬とちゃんとした説明をするマクハードと違い、密輸団の方は……いささか卑怯で冷酷な騙し討ちも行っていたが。


 いずせにせよ、そうした"商才"があれば、つまり"人を使う才"があれば、なるほど"魔法の才"が無くともそれなりに生き抜いていくこともできるのだな、と改めてラシェットは自分が生きてきた裏路地の狭さと汚さに心細いような気持ちを感じてしまう。

 極論、バイルが無駄に振るっている"暴力"ですらも、人を自分の意のままにさせようとするという意味では"才"なのかもしれない。


「正直、俺は……こんな悠長なことしてるつもりじゃ、ないんだけど。金が要るってのに、これじゃ"街"でやってたことと大差無い」


「最低でも『森林虎』と、あとありゃあウルシルラ方面から流れてきたとしか思えないんだが『大蜘蛛』がうようよ潜んでいる森の中を突っ切るには、ラシェ坊主の頑丈さでもちっとばかし厳しいよなぁ」


「大将、子供(ガキ)に何期待してるんだよ! 囮にはなるかもしれないが、俺達はそういう(・・・・)稼業はしないしなぁ」


 早い話が、ラシェットは直接【火】の魔石なる貴重品を手に入れられると、そしてそれを売って母の薬代を手に入れられると思って、このような辺村までやってきたのだった。

 だが、厳しく長く異常な"冬"の中で雑用や使い走りをさせられ失望が募りつつあった中でも――確実に"新奇さ"をラシェットは目の当たりにしていた。


「なぁ、マクハードさん。例の……"珍獣売り(・・・・)"の二人組は、結局、どうなんだ? あんたの目から見て本物なのか? 教えてくれよ、バイルの野郎がそれも聞き出せって、うるさくって仕方がないんだ」


 ここ数日、辺村からも外れた、国境どころか「世界」の"裂け目(境目)"に面した調査拠点で、流れてきた者達や、この地を取り仕切るマクハードらの商人(・・)達ににわかに注目される「新顔」がいたのであった。


「あぁ、あいつらか。あいつらは――俺目線、かなり面白い。あんな目がキラキラ(・・・・・・)した連中、今どき、なかなかお目にかかれないぞ? その癖油断も隙もないときた。そして……だいぶ危ない(・・・)。聞きゃしないだろうが、やめとけ、とお前に男の勲章を与えてくださった筋肉ダルマには伝えておくといい」


 落ち着いた声で告げて、にやりと笑うマクハードの眼差しには、ただ単に興味深いという以上に、いかにも手練れの商人らしく、何かを緻密に計算高く値踏むような色合いが浮かんでいた。だが、それが一体誰に対する"値踏み"なのか、ラシェットにはわからなかったが。


 話を"珍獣売り"に戻せば、その二人組が自ら自称し吹聴して曰く。

 『次兄国』の南方、【ネレデ内海】で大型の海魔や凶暴な海獣がひしめく魔の海域を越えた先にあるとされる"砕けた島々"と呼ばれる地での冒険から帰ってきた、とのこと。

 そして実際に、彼らの「荷駄獣」として使役されていたのは、湾曲した太い牙(・・・)と全身に非常に長い毛(・・・)を持ち、まるで特大の笛かぐにゃぐにゃ曲がる丸太のような長い鼻(・・・)を備えた、どこでも見たことのない大型の獣なのであった。


 それだけではない。

 複数の大型の獣によって曳かれてきた"檻"の中にも、彼らが『砕けた島々』で捕らえてきたという「珍獣」が多数入っていたのだという。そのようなことに学の無いラシェットにはぴんと来なかったが、それでも全く見たこともない(・・・・・・・・・)珍獣の数々に度肝を抜かれたのが数日前のこと。


 まして、この地域の歴史や文化だけではなく動植物や環境、自然にすら広く深い知識を持つマクハードをして、酒場で酔って喧騒の中心になっているわけでもないにも関わらず、その場で顎が外れんばかりに噴き出して、速攻でその「砕けた島帰り」の二人組に声を掛け、自らの派閥に「新顔」として引きずり込んだという"噂"は、ラシェットの耳に届いていたのであった。


 ――なんと、世界の広いことよ。

 そう思ってしまう自分自身に、ラシェットは刺すような罪悪感を胸の痛みとして感じた。しかし、マクハードに、単にバイルに言い含められたからという以上に自分自身がどうしてもそれを聞きたいという思いから、食い入るようにその「珍獣」達の話を聞くことを止めることができない。


 ――しょせんは"才無き"庶民の、それも貧民に過ぎないというのに。

 そんなつもりは全く無いが、しかし、自分自身のその行いが、まるで病気の母を切り捨てるような行為である気がして。物心のついた小さい頃から聞かされてきた、仲間と家族を守った男である、という父親の話がめらめらと浮かんできて、胸を突き刺すようで。

 そして、そのしんどさから逃げるように、ラシェットはさらにマクハードに話をせがむのであった。



 ――果たして。

 そのような渇望が手繰り寄せたる運命であったか。



 翌朝、眠気と、ぶり返す折檻の疼痛に耐えながら身体を引きずって『欠け月』の縄張りに戻ったラシェットに告げられたのは、いよいよ『西に下る欠け月』自らが本格的な調査隊を組織して"裂け目"へ向かうので、すぐについてこい、という考える暇も余裕すらも無い、全く降って湧いたような急な予定と都合なのであった。

読んでいただき、ありがとうございます。

また、いつも誤字報告をいただき、ありがとうございます。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 本格的に展開が変わってきてますね。新しい展開にわくわくします。 [一言] お久しぶりです。最近ずっとダブルワークしててしんどいんですけど、小説が更新されて楽しみが増えました!元気貰ってます…
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