0123 闇に潜む厄介者達の自他称(2)[視点:命血]
7/8 …… 2章の改稿・再構築完了
【闇】から【闇】に虚空が渡る。
空間から空間へ、影から影へ。陰の内から翳が生まれ――ひずみと共に、血のような黒か、はたまた黒のような血かが飛沫となって辺りに薄く飛び散り、彼は『関所街ナーレフ』の薄暮れが角度を落としていく裏路地に、茫、とその姿を現した。
名はユーリル。姓は無い。
光の当たり方次第では――うっすらと赤みが差したようにも見える黒髪は、しかしやはり濡れた黒を基色としている。だが、決して光の当たり方によるものだけではない"赤"もまた、彼の頭髪には数多混じっていた。
――それは、滴る血の紅である。
黒髪だけではない。
まだ少年らしさを残す顔立ちは、痩せた幽鬼を思わせるような陰惨さが、年相応であったろうあどけなさを容赦なく蝕み尽くしている。そして、血の海を泳いで渡ってきたか、あるいは血の雨の中を全力疾走してきたかと思われるほどに、少年はその顔も掌も黒ずくめの動きやすさと隠密性を突き詰めたかのような装束一式をも"赤"に染めていた。
いつの間にか、ユーリルを孕んで産み落とした『影』――【闇】魔法――は霧散していた。
身体をくの字に折り曲げるように苦悶に喘ぎ、うずくまった姿勢でゆっくりと経過する時間そのものに耐えているかのようであったユーリルだったが……意を決したように足腰と背筋を伸ばして起き上がろうとする。と、同時にわずかに痙攣して片膝と片腕を地面に突いて、ギョロリと見開かれた三白眼を苦痛に歪めた。
「ッッ痛ぅ……――」
全身の骨にヒビが入るかのような激痛。
そしてそれは実際にその通りであり、まるで谷底を生身で転げ落ち、そしてそこから重力をひっくり返して山頂までもう一度転がり落とされ、数往復分ものシェイクでもされたかのように、全身の骨という骨にヒビが入り、また全身の皮膚という皮膚が裂けて、血を垂れ流しているのであった。
【森と泉】の"旧市街"。疲弊と不穏さが入り混じった、淀んだ空気が漂う裏路地の一角。
【闇】属性の"秘技"である【虚空渡り】という技術によって、ユーリルはつい先程までいた場所――"新市街"の監視地点から、わずか数十秒での長距離跳躍を果たしていたのである。ただし、イセンネッシャ家が扱う【転移】魔法とは異なる機序の超常は、彼の全身をズタズタにするほどの反動をもたらすものであったが。
ユーリルが現れたのは、カインマンという名前の主人が切り盛りする『肉屋』の裏口付近であった。
だが、彼が用事があったのはカインマンに対してではない。カインマンもまた、ユーリルの"上司"と"雇い主"の「監視対象」の一人――裏の顔は『血と涙の団』の幹部――であったのだが、既に"上司"の手によって篭絡された後である。
だからこそ、こうして堂々と、監視対象であるはずのカインマンの『肉屋』を雇い主にも秘密の合流場所の一つに"上司"たる人物は時折指定をしてきた。
――ほどなく。
幼少期に地獄を見て心を閉ざした戦災孤児かの如く陰鬱な無表情を維持していたユーリルであるが、時計の針にも近い極めて正確な自らの"心拍"の鼓動によって時間を測る。
そして寸分違わず、定められた時刻になった瞬間――まるで梟のような、ほう、ほう、というしわがれた笑い声が、まず、どこからともなく。それが何処なのか、とユーリルが辺りを素早く見回すと――まるでそれをずっと俯瞰していたことを明かすかのように、今度は頭上から降ってきたのであった。
まだ痛む身体を、気力で無理矢理吊り上げるように奮い立たせ――。
骨という骨が砕かれ筋肉という筋肉が寸断されているとは思えないほど、まるで飛翔するかのような身のこなしで、カインマンの『肉屋』の壁に取り付き、するするすると黒猫のような軽快さで壁を駆け上り、ユーリルは開いたままの窓から食肉加工場の2階に侵入する。
薄暗く、主人の気配もその他の人気も感じ取れない"食肉加工場"の内部では、屠殺された豚が血抜きのために吊るされている。むっとするような、こびり付いた血のにおいがユーリルの全身だけでなく臓物にまで染み込んでくるようであるが――むしろそれこそが、彼の"上司"が、ユーリルの秘密を委細承知している"梟のような男"が、この場所を指定している理由の一つである。
「ほう、ほう。相も変わらず血まみれだの、"血吸い"の坊よ。【騙し絵】相手に【虚空渡り】は控えよ、と何度も言っておったのにのぅ」
一瞬、どこから声をかけられたのかユーリルはわからなかった。
頭上、かと思った瞬間には背後に"梟"の鳴き声に似た声が移動し、そちらに反射するように振り返った次の瞬間には、部屋の央側にある小椅子に、小柄な、触れれば折れてしまいそうなほどか細い老人が座っており、好々爺然たる笑みを向けてきていたからである。
「――ただの定時連絡を、緊急の呼び出しだと報せたのはあんただ、"梟"」
「ほう、ほう! 折檻されるのが嫌で、慌てて飛んできおったということかの? じゃが、その傷の負い様では――ほう、ほう、折檻されたのと大して変わらないんじゃないかのぅ」
瞬間、ユーリルはいつものように"梟"と呼んだ上司に「仕掛ける」想像をする。【濡れ潰す曇黒】を初手で放って視覚を潰し、装束の懐に小さな留具でいくつも仕込んだ短剣を取り出して、牽制に投擲する分と【闇】をまとわせた本命で襲いかかるのである。
おそらく"梟"は座っている椅子か、周囲の吊るされた豚の肉塊を弾き飛ばして妨害と成し、応戦してくるだろう。奇襲が通じない以上は、どれだけ素早く懐に潜り込んで手数勝負に持っていくかとなる。おそらくは、7割以上の確率でユーリルは短剣を全て叩き落されるが――。
全く駄目だ、とユーリルは頭を振って、頭脳の内側での模擬戦を中断させた。
例え――自分が単なる【仕属種】階級の吸血種に過ぎずとも、身体能力は「ただの人間」を上回る、はずである。
力だけではない。"隠れ里"で、あらゆる「血」の付く慣用句をそのまま文字通りに経てきたユーリルにとっては、例え『長女国』の戦闘魔導師が相手であろうとも、魔法込みの格闘戦で後れを取るつもりはなかった。
……だが。
「ほう、ほう。しかし、坊もツいていないのう。よりにもよって『ハンベルス鉱山支部』が、と、思っていることだろうのぅ」
枯れ枝をいくつか寄りかからせただけの、本当に、吹けば飛ぶような小さな老人なのである。だが、しかし、幾度仕掛けようとしてもその全てをユーリルは寸前で思い留まらされていた。
"梟"と呼ばれる老人――ネイリーは、魔法で仕掛ければ魔法をいつの間にかかき消し、格闘で仕掛ければ格闘をいつの間にか受け流し、罠を以て仕掛ければ罠をいつの間にか無効化する。仕掛けた手の全てが、その先まで続くことを許されずに潰えさせられる。
そんな想像をさせるような、先を見通すことのできない、不気味な不透明さをたたえた存在である。ただ、その枯れ枝のような痩躯は、一種の擬態であるとユーリルの吸血種としての直感と、それ以前に自分自身の生物としての危機本能が警告しているのであった。
そんな風にユーリルが常に警戒していることなど、重々承知であろう。
何より、ユーリルは自身の『正体』をネイリーに知られており、半ば強制的に、飴と鞭によって屈服させられる形でその「部下」となり、この『関所街ナーレフ』を拠点とした行動の自由を得てしまっていたのであった。
だからこそ、痛いところを突かれても、口を真一文字に結んでネイリーを三白眼で睨めつけるぐらいしか、抵抗の術が無い。
――何もかもが"裏目"に出ていた。
【四元素】家に匿われたはずの、ユーリルの"探し人"の少女。
彼女は"隠れ【盟約】派"であるところの【皆哲】家に密かに引き渡され、彼らの手引きでユーリルと合流をするはずであったのだが――あろうことか【騙し絵】家の走狗として悪名高い『人攫い教団』の手の者の襲撃によって拉致された。
この襲撃は、監視対象でもあり教団の上役であるはずの"廃絵の具"の差し金ではなく【騙し絵】家からの直接の指示であり、ユーリルはその危難を察知することができなかったことに痛恨を感じ続けていた。今、この瞬間もなお。
それだけではない。
頼るはずであった当のリュグルソゥム家が、西方の戦線で、王都で、そして自らの根拠であるはずの侯邸で、これもまた【騙し絵】家が中核となった、全頭顱侯の連合軍によって滅亡させられたという。
――それで、その当時はまだ頭を下げていなかった"梟"ネイリーに、ユーリルは頼らざるを得なくなったのだ。
だが、そうしてネイリーの"雇い主"のために働くようになってから、いくつか危険な橋も渡って、ようやっと、その少女が拉致されて運び込まれた場所が『ハンベルス鉱山支部』であると、掴んだ矢先のことなのであった。
「さて、坊……ヘレンセル村へ行く準備は、できているのだろうの?」
ネイリーが、梟の鳴き声のような笑い声の中に、現状確認を交えていく。
有無を言わせず、また、そもそもユーリルに断る選択肢が無いとわかった上での物言いである。
――ユーリルが"廃絵の具"を追うことができるようになったキッカケは、それもまた運命の因縁であるにすぎない。
リュグルソゥム家の『残党』が、ナーレフ近郊で目撃されたのである。たちまちのうちに『追手』として"廃絵の具"を率いてツェリマがナーレフに乗り込んできて実質的な拠点が構築された。
当然のことながら"雇い主"――『関所街ナーレフ』の執政ハイドリィは、野心家らしく彼らを疎ましく思っていたことだろう。好機があれば、よそへ追い払おうとしていたはずだ。
そして、その中での【火】の魔石の"鉱脈"が出現したとかいう「噂」。
『禁域』の"ほころび"と、迷宮からの大氾濫の疑惑が生じ――ハイドリィがその情報をヘレンセル村の『人攫い教団』の支部へ流したことで、あれよあれよと、『ハンベルス鉱山支部』の反逆、などという事態にまで一気に進展してしまった。
「リュグルソゥム家の"残党"を捕らえられればそれでよし。失敗したとしても、それで迷宮が活性化した証になる……とツェリマは見立てていた」
「そうじゃのう、ほう、ほう。そんなわけだから、壊滅したのも想定内じゃったろうて。それで自ら"廃絵の具"を率いて乗り込もうとしたわけじゃが――」
【騙し絵】家の本家が情報を察知して、ツェリマから指揮権を奪うべく侯子デェイールを派遣したのがハイドリィの工作――つまり、ネイリーの誘導であると理解しているユーリルは、三白眼をますます見開いて老梟の言の意図を測った。
一見すると"廃絵の具"達が追い払われ、ハイドリィは邪魔者に気を使うことなく、改めて自身の旧ワルセィレ支配のための構想を実行し始めることが、できるようになっている……それが具体的には何であるのか、ユーリルは詳細を掴んでいるわけでも、知らされているわけでもなかったが。
「あんたの言った通り、ツェリマは執政に自分の実力を売り込む構えだった。なぁ、いい加減、少しは俺にも教えてくれたらどうなんだ。ハイドリィは――あいつこそ、叛逆でも企んでいるのか?」
――ユーリルには、『長女国』とは敵対する西方領域の出身である吸血種のユーリルには、とある"使命"があった。
それが、彼がもう何年も何年も、この地域で活動を続けてきた理由であった。
そして、その"使命"を成す上で、それが"使命"であるが故に、彼はその"使命"の成就において役立ちそうであり重要となりそうなものを――見過ごすことができない。
彼にとって、物事とはそういう風に回っていた。
「せっかちな"部下"じゃのぅ、本当に。ほう、ほう……だから、坊をヘレンセル村に派遣するのじゃろうが。派遣組は壊滅し、派遣元の鉱山支部が叛逆して、あそこからは【騙し絵】家の影響力が、一気に無くなった。すると、次に起きるのは何なのか、わかるじゃろ?」
「既にいくつもの商会が動いている。裏の連中も、だな。"密輸団"にも手を回したんだろう、あんた」
「儂じゃない、ほう、ほう。儂じゃないとも、それをしたのはハイドリィの坊っちゃんじゃよ……どうせ"懐刃"辺りが元締めじゃろうがのぅ」
「抜かせよ、"梟翁"め……」
【紋章】のディエスト家の執政家を務めるロンドール家。
病に伏せる当主に代わって、その代行として働く伯子ハイドリィは、齢30を越えたばかりであり俊英の誉れが高い次世代を率いる器である。そして【紋章】家の表と裏の物流を預かる"走狗"組織としても、ロンドール家の存在は重要なものであった。
ユーリルのような、直接的あるいは間接的にロンドール家に使役されるような者達に知られるハイドリィの重要な部下が5人存在する。今しがた、自らもその一人であるはずのネイリーが挙げた名前は、ハイドリィがネイリーには任せられない"中間"の仕事を任せる部隊の長であった。
だが、そんなことをネイリーが知っているということ自体が、ハイドリィが引き起こそうとしている何事かの規模の大きさを窺わせる。
そうしたきな臭さを感じていたために、ユーリルはこの地に活動の拠点を置いていたのである。
事実、色々な現象が起き始めていた。
地域一帯を覆う『長き冬』は収まる気配を未だ見せることなく続いており、ヘレンセル村から発見されたという【火】の魔石は瞬く間にナーレフの商人達が買い占めていった。
そんなヘレンセル村に『人攫い教団』が吸い寄せられ、退けられて後は、さらに色々な思惑や欲望を持った者達が吸い寄せられていき――当然、その中には、未だにハイドリィが壊滅させないで放置し続けている『血と涙の団』もまた存在している。
"密輸団"のいくつかは、彼らの傘下であることをユーリルは立場上知っていた。
本音を言えば、ユーリルはすぐにでも『ハンベルス鉱山支部』に赴きたかった。
"使命"を、捨てられるものならばかなぐり捨てて、リシュリーの下へ往きたい。
――だが、"使命"がそれを許さない。
吸血種の仕属種に、自由意志など無いのである。
そんな、およそ『神の似姿』には理解できないはずのユーリルの懊悩を、しかし、まるで老人とは若者の全てを知る人生の先達である……と言わんばかりにネイリーが見透かしていた。
「坊、悪いようにはせぬとも、ほう、ほう。今回の件、"廃絵の具"どもは『鉱山支部』の叛逆だなどと思っておるようじゃが――ほう、ほう、ほう……儂はそんな生易しいものではないと踏んでおる」
「……どういうことだってんだ」
「わからぬか? わからぬのだのう、ひよっこめ、ほう、ほう。ヘレンセル村が、あの辺鄙な森のそばの寒村こそが、始まりの地だということがわからぬのだのう。『ハンベルス鉱山支部』の変事もまた、元を辿ればあそこから起きた話、そうじゃろう? その故に儂は――ハイドリィ坊っちゃんは、あそこで仕掛けるということなのだのぅ――回り道をしたくなければ、渦の中心に飛び込みたくば、そこへ飛び込むのが"探しもの"を見つけるための近道じゃ」
少女を。
彼女を。
――リシュリー=ジーベリンゲルの行方を求むるならば、『ハンベルス鉱山支部』ではなくヘレンセル村へ行くべしと"梟"が嘯く。
その論法には、合理性や明快な証拠や客観的な事実といったものがあるわけではない。
しかし、吸血種ユーリルをして、全身の"血"をぞわりと泡立たせるような、沸騰させるような、熱くこみ上げる形で腑に落ちるような不可思議な説得力が宿っていた。
「探れ、と言いたいのか? あんた、"梟"は。"廃絵の具"どもが、【騙し絵】家が血眼になって探す何かがあそこで見つかったから、こんなことが起きている、と。そしてそれをあんたは、ハイドリィに――」
「まぁ、面白そうじゃからのう」
次の瞬間、ユーリルを覆っていた、煮えたぎるような"血"の衝動が急速に失せていく。
正直、相手がただの枯れた老人――そう見せかけているだけだとしても――であっても、それが『神の似姿』である限り、必然的に吸血種としてのユーリルに湧き出づる"衝動"を急に制御できなくなったかと、焦ったところであった。
――しかし、たとえ"血"の力を使ったとしても、この妖怪のような老人を相手に勝利する図を思い描くことができない。
やり場の無い衝動がそのまま暴走して、せっかくのこれまでの隠密の努力が水泡に帰するかとすら、頭痛の種が湧いた矢先での"解放"である。
そんなユーリルの様子を、知ってか知らずか、そして知っているならどこまで知っているのか。
およそ『長女国』にあって、吸血種を利用しようなどという豪胆な存在は数少ない。なぜならそれは、危険だからということではなく――【聖戦】家による"対吸血種"の魔法が編み出されるまでは、吸血種による破壊工作の嵐が吹き荒れた時代もある――『長女国』の首脳によって禁じられているからである。
ネイリーが本当に仕えているのが、実はロンドール家ではなく【紋章】家であろうが、はたまた別の家であろうが、それともさらに別の何者かであろうがユーリルには関係の無いことではあった。
だが、彼の吸血種に対して『長女国』に住まう者であれば、誰もが持っているはずの「恐れ」が一切無いことが、ただただ、ユーリルにとっては不可解であり、逆に恐ろしく感ぜられる。
ほう、ほう、と梟のような笑い声が消えていく。
1階で待たされているカインマンと、まるで入れ替わるようにしてネイリーが階を降りていき、堂々と『肉屋』の正面から表通りへと、音と共に姿も気配も消していく。まるで最初から辺りには霞しか無かった、かのように。
完全に、その姿と気配が遠ざかって初めて、血と黒の色をした少年は深い安堵のため息を吐いた。
――そして抑えに抑えていた【血操術】を発動。
【虚空渡り】によって全身に刻まれた傷から、少しずつ流れ出ていた"血"が――徐々に、徐々に、ユーリルの身体にまるで紙芝居が逆に送られるかのように、文字通り、巻き戻っていくようにして体内に取り込まれ、取り戻されていくのであった。
※本話は再構築に伴い、話順が入れ替わりました。上書きによる入れ替えしかできないため、過去にいただいた感想と話の内容が噛み合っていませんこと、ご了承下さい。





