0105 人攫い教団の悪夢(3)
12/28 …… 空間魔法と領域の関係周りに関して大幅に加筆改稿
7/8 …… 2章の改稿・再構築完了
それは【闇世】と【人世】と、2つの世界をまたいで大きく"呼吸"することで、万物を構成する諸法則を「交換」させ、あるいは「交感」させる。
片や、その世界の自然法則を成り立たせるための"魔素"と"命素"をもう片方から吸入し――。
片や、奪われた"属性"によって不均衡が生じた結果、"荒廃"という現象が起きることとなる――。
それが"異界の裂け目"と呼ばれるもの。
【ルフェアの血裔】あるいは"魔人"と呼ばれる存在達が【人世】から逃れ、あるいは時が満ちた時に再侵攻の橋頭堡となるべき、経路にして場所たる現象である。そんな"裂け目"のうち、世界から忘れられていたはずの1つ――【エイリアン使い】オーマが支配する【人世】側の"口"にて。
おそらくは数十年、または数百年ぶりの快挙ともなろう、迷宮への探索拠点が静かに、貧しくとも無垢にして勤勉なる信徒達によって、静かに、そして速やかに構築されていく。
だが、その蹂躙もまた、始まりは静かに、そして速やかであった。
"人攫い教団"は、送り込んだ信徒達を緊急時に安全地帯まで呼び戻すために、常に後方に『迎え師』を配置している。それは幹部たる墨法師や重要な手駒を撤退させたり、同時に神出鬼没の"拉致"術を実行させる攻防一体の備えである。
これが、彼らにとっての常である「対人間」の"仕掛け"であれば、こうした「安全地帯」は見つかりづらい離れた場所に置かれるものである。
だが、情報が不足していた。調査も不足していた。そして思い込みと、過ぎた期待による不測が彼らには最初からあった。
すなわち、どれだけ聖アルシーレの【神聖譚】に描かれる"裂け目"の向こう側の【闇世】がどれだけ恐ろしく非常識な異界であったとしても――その手前である【人世】側は安全であるのだ、と。
迷宮内に入った「ハンベルス組」に対し、初手で【おぞましき咆哮】が浴びせられたのとは異なり。
外側の、つまり【人世】側の「待機組」に対する襲撃は――ビュォウ、と大気を鋭く切り裂く風斬り音によって皮を切られた。
それが着弾する、と同時のこと。
まるで肺の中身を胃袋の中身とごちゃまぜにされて血と同時に吐き出したかのような「ガュッッ……」といううめき声と共に、絶対に安全であったはずの場所で瞑想していた『標師』がつんのめるように吹き飛ばされ、そのまま彼を貫通した焔形剣の如く螺旋状に揺らいだ長大な"槍"ごと、拠点住居の1つの壁に突き刺さり縫い付けて大量の血をぶちまけたのである。
隣にいた相方の『迎え師』が、噴水の如き返り血の中、何が起きたのか理解できずに仰天したまま目を見開く、そんな間もない。次の瞬間には、音もなく眼前に現れた、ところどころがひび割れた、木の皮だかあるいは巨大な甲殻生物の殻だとかをツギハギしたかのようにも見える巨大な"球"が出現。
それが炸裂すると同時に大気を焼き尽くすような焼夷音、と共に『迎え師』は視界一面を焼けただれた緑色に塗り潰された。
否、視界だけではない。その緑色の禍々しい液体は、【転移】魔法の一部を実行するために露出していたその素肌を飲み込むようにぶちまけられ――『迎え師』は、まるで燃え盛り焼け落ちる建物の如き猛火の中に投げ呑み込まれたかのように全身の皮膚を瞬時に焼き潰され、脳髄まで爛れて焼き切れるかのような壮絶な激痛に、ほとんどショック状態で即死したのであった。
ことここに至って、異常事態に気付いた周囲の信徒達が動揺して逃げ出そうとする。
しかし、空気が焼き焦げるかのような恐ろしい音に生存本能を刺激されたか、彼らは一様に空を見上げてしまった。まるで噴水のように、あるいは【水】属性の【魔法球】のように、放物線を描きながらゆらめき、絶えず蒸気を発する緑色の液体が大粒の雨あられか、あるいは塔から流し落とされる"煮えたぎる油"の塊となって次々に降り注ぎ――。
***
制圧は速やかであった。
それでも、事前にルクとミシェールから"人攫い教団"の『墨法師』達の"入れ墨"に関する特性を聞いていなければ、撃ち漏らして情報を持ち帰られた挙げ句、相手の情報を隠匿されていただろう。
彼らの「分割」された【転移】魔法の発動工程における核たる存在は『標師』である。
だからこそ、不意討ちの初手で、現状、弾速が最速である投槍獣のミューによる豪投でピンポイント狙撃。さらに、その"死"に際して発動する二重の【魔法陣】――緊急回収――の仕掛けを物理的に破壊すべく、爆散蝸のベータを投入して、そばにいる『迎え師』諸共にその皮膚に刻まれた"入れ墨"を焼き潰したのであった。
ダメ押しで"名無し"の爆散蝸と噴酸蛆らが「拠点」に向けて空中から雨あられと強酸を降り注がせ、逃げ道ごと叩き潰す。
その中をミューの投槍の豪槍が次々と投擲され、即席の簡易住居の壁や支柱をへし折り砕き、ベータによって【転移】させられた強酸爆弾が内側から吹き飛ばす。全身を焼け爛れさせた教団の哀れな信徒達が飛び出してくるや、頭上から風斬り燕のイータが『因子:豊毳』による鋭い針のような「風斬り羽」をばらまいて次々に串刺しにしていき――動きが止まったところで、突っ込んで一人ひとりを切り裂いてトドメを刺していった。
つまり、拠点はもう無い。
いかに迷宮内に侵入した連中が、危険を察して撤退のため外部に【転移】しようとしても――その肝心の転移先が消滅していたのでは、どうしようもないだろう。
これまでの【人世】での彼らの"仕事"では、常に上役たる『廃絵の具』のフォローアップがあっただろうに、それ無しで入ってきてしまったこと。そして、今回手を出してしまった相手が組織的な存在である、という想像力が無かったことが、彼らの命運を分かつ最大の過ちとなる。【転移】魔法によって拠点を簡単に移設できてしまうということが、逆に、拠点を選ぶべき場所を十分に吟味して選定して調査してその上で構築する……という慎重さを奪ってしまったのだ。
――そして、撤退を封じられて完全に逃げ道を失ったことを悟った迷宮内の『墨法師』二人。
リュグルソゥム兄妹から聞かされていた、その死亡時または鹵獲時に情報隠匿のために強制的に起動するという、『廃絵の具』によって仕込まれた【強制転移】魔法が発動する、まさにその瞬間に合わせて。
俺は己が迷宮領主として与えられた権能に、1つの確信を持ちながら、臓漿を通して周囲一帯に【領域定義】の力を魔素のあらん限りに叩きつけた。
――【領域】の干渉を検知。【領域】の相殺現象が発生。
脳裏に迷宮核を発信源とするシステム通知音が流れる。
瞬間、まるで俺の迷宮全体に"異物"が入り込んだかのような強烈な違和感。
もしも迷宮全体を一個の生物に喩えたとすれば、さながら「えずき」のような喘鳴じみた震動が、ぶるりと、魔素と命素の流れごと【異星窟】全体を震わせ――次の刹那には、その震源地となった地点、『墨法師』とその見習い達の【強制転移】と【領域定義】が正面衝突した箇所で【空間】魔法の力が捩れ弾け歪み噴き跳び砕けたのであった。
「さて、どうなった? 報告しろ副脳蟲ども」
≪きゅぴ……なんじゃぁこりゃぁさんになってるのだきゅぴ≫
≪あははは! あはははは! あっははは!≫
≪ひ、ひええ……ま、造物主様、飛び散ってるよぉ……≫
迷宮全体を不整脈の如き駆け抜けた"衝撃"が収まるまで数十秒。
その頃合いを見計らい、俺は隣で控えていたソルファイドに目配せして、その手甲に触れる。
そして迷宮領主の種族技能【領域転移】を発動させるや――全身がまるで泡になったかと幻視するような、擬似的なぶくぶくと直接脳裏に響く微細にして無数の破裂音に包まれ始める。そうして、たっぷり5分かけて視界が、あの"異界の裂け目"たる水面と同じく銀色に埋め尽くされていったかと思ったその瞬間、俺は触れていたソルファイドと共に『司令室』から現地にまで【転移】していたのであった。
主観的には、まるでミュージカルで、同じ空間にいながら場面がガラリと変わったかのようなものである。俺自身は、銀色の揺らぎ――"裂け目"の水面を通る時にとても近い感触――に包まれた感覚以外は、特に何も動いていなかったような心地であり、周囲を包む空間や景色そのものが、空間的なレイヤーをそのまま差し替えたかのように「場面転換」して、全てが切り替わったのであった。
――だが、そこに広がっていたのは、副脳蟲達の控えめな表現から比べれば十分に異常で異質で異端的な、惨状としか喩えようのない有様であった。
「どうも、凄まじいことになっているようだな、主殿」
せっかく与えてやった眼球を、また眼帯の内側に覆い隠して"全盲"状態を維持しているソルファイドであるが、その【心眼】によっておおよその状態を把握できているらしい。沈着な武人である彼にしては珍しい、驚きの色が声に宿っている。
端的に言おう。
【強制転移】が発動してそれが暴発した結果、弾け飛んで肉体がいくつにも裂け千切れて血の噴水をぶちまけている数名は、まだマシな方だ。
ある者は、その全身がいくつにもいくつにも分断されて周囲の壁や天井とまるで溶け合うかのように「融合」してしまっていたのである。
まるで粘土で作った洞窟の、その粘土部分から戯れに一部をちねり、人間の腕だとか下半身だとか顔面の半分だとかを造形したかのように。
原初の混沌から、悪夢と芸術を司る存在が、既に完成された生物の身体構造の一部をわざと三次元空間に再表現して再構築したかのように。
およそ「壁の中にいる」だとか「岩の中にいる」だとかいった言葉が意味するものとは"こう"であるということを雄弁に示すかのように、ただ狂気と衝撃に染まったうめき声を上げながら、未だ生きているその人間のバラバラになったパーツ達は、壁や天井に溶け合い生えた状態のまま、うめき声を上げているのであった。フィラデルフィア実験も真っ青の有様であろう。
――だが、それだけではない。
「壁の中にいる」すらも、この『転移事故』の中では単なる"前座"に過ぎない。
そこには「エイリアンの中にいる」が2体、出来上がっていたのであったから。
声にならないうめき声。
感情すら宿らぬ原初の"反射"としての嗚咽にも似た喘鳴。
そんな状態で――走狗蟲と溶け合い混じり合ったかのように、首のそばから変な角度で首を生やし、脇腹と背中から右足と右腕を、その強靭でトレードマークでもある"足爪"の直上と大腿の付け根から左腕と左足を。
さながら、粘土で模した人型と走狗蟲を、形という概念が希薄な幼児が好奇と快不快の衝動のままに合体させたか、手足が着脱式の全く異なるメーカーが作った「人形」だか「玩具」だか「ロボット」だかの手足を相互に強引に取り付けたか、はたまた3Dモデリングのキャラクターのレイヤーを間違えて1つに統合してその形状として"演算"されてしまったか。
斯くの如く走狗蟲とそれぞれに混ざり合った「人+エイリアン」という双頭八臂の姿形と成り果て、しかし、その実、その『墨法師』二人はまだ生きていたのであった。
加えて、混ぜられた走狗蟲2体は、よたよたと動きにくそうにしながらも、徐々にエイリアン的連携によってなお運動能力が急速に学習され最適化されていっているのか、周囲の他の走狗蟲達とじゃれ合うように走り回り始めてすらいたのであった。
「……それぞれ俺の眷属としての異常は無いようだな」
≪きゅぴぃ、バイタルサイン、オールグリーン、異常無しさん! きゅぴぷー人、死亡かきゅぴ認なのだきゅぴ!≪
「いや生きてるだろ……ん? ということは正しい判定なのか? ――うん、まぁいい。今日からお前達は"名付き"だ、名前はそれぞれ『ジェミニ』と『ヤヌス』とする」
どうも、自らの意思で発声している様子は無く、生物学的な刺激によってよだれを垂らすか反射でびくんびくんと「人間部分」の手足が痙攣している様子が窺える。【共鳴心域】を通した感覚情報をエイリアン達に確認させても、そこに何か"妙なもの"が混じっているということは無く――実態としては植物人間状態に近いか。
肉体的には確かに生きてはいるが、精神的には完全に崩壊した、言うならばちょっとした"おでき"のようなもの。わけも分からず、非常に興味深い個性の塊がサンプルが出来上がってしまった。"名付き"にしない理由がない。
……なお、物は試しとこいつらに【因子の解析】を発動したところ。
対象を征服した状態で共生しているイメージに近い、新たなる『因子:殖生』とかいうのが一気に解析完了となり、そしてごくわずかであるが『因子:混沌属性適応』、あとこれはおそらくは――元は『墨法師』のものであった"入れ墨"が融合事故の際にジェミニとヤヌスの全身に引き伸ばされて着色されてしまったようなものであろうが、『因子:空間属性適応』も採れたのであった。
「アルファ、ベータ。新しいメンバーだ、教育しておいてやってくれ、何ができるのかできないのか、その特性を把握しつつな。一旦任せた」
言うなれば融合種とでも言うべき存在であろうか。
興味深いことに【情報閲覧】を発動したところ、なんと人体部分とエイリアン部分の「それぞれ」のステータス画面と技能テーブルが表示されるという有様であり――しかも、それが時折、バグったかのように文字化けしてところどころ、青いウィンドウが砂嵐によって掠れるとかいう具合となっていたのであった。
だが……量子理論も斯くや。
俺が「そう」認識した瞬間、ぐにゃりと2つのステータス画面が入り交じる。
そして俺の見ている眼の前で、ある意味ではこれまで直接その瞬間を"観測"することができなかった、新種族の誕生、あるいは発生の過程がシステム面から俺の眼前で描出される。
元『墨法師』の2人の『職業技能テーブル』が光の粉となって消え去り、その中のうちのいくつかエイリアンにも適用できそうなものが『継承技能テーブル』に移り、他方で2つの『種族技能テーブル』が入り交じる。果たして現れたのは、次のようなものであった。
ちょうど、エイリアン=ビースト系統とオゼニク人の技能テーブルが1つに入り混じり、双方のいいとこ取りをしたような形態と化している。だが、たった今の現象における"機序"で最も重要であったのは――この俺が観測した瞬間に、それが起きたということである。
何故なら「エイリアン=シンビオンサー」なる"系統"が新種として派生したのは、タイミングだけで言うのであれば、俺が到着するよりも何分も前。例の『転移事故』が起きた直後のことであったのだから。
ちょうど「エイリアン=オリジン」が新たに派生したのと同じような流れである。
「実際に"新種"として、誰かが認識する、つまり"観測"された瞬間にその性質が定められる。もし、俺がこいつを"観測"しないままでいたら――こいつはそのままだったのだろうか? 暫定的に『ビースト』と『オゼニク人』の2つの技能テーブルを重ね合わせたまま、活動し続けたのか?」
そうであったとしても本人、いや、本エイリアン的には、問題が無かったと見えるか。
実際にこうして、エイリアン的連携の中で、多少他とは個性が異なる"おでき"を上手く操りながら、他の走狗蟲達と遜色なく動き回れるようになっていたからだ。
現れたアルファと、何故かミューを引きずってきたデルタとその肩に乗るベータが、早速ジェミニとヤヌスに「可愛がり」をし始めるが……つまり俺の眷属としての活動は、繰り返すが何も問題は無いのであった。
「やはり技能とは、後天的に"神"から与えられる、着せ替え人形の洋服的なものと考えた方が良いのかな……少なくとも、とらわれすぎるのは警戒した方が良いんだろう。いや、知っているということが、逆にそれしか選択できなくなるということか?」
≪あははは! あっははははは!≫
未だモノが爆笑し続けているのに気づいて、俺はふと違和感に気付く。
常であれば、アインスあたりがモノをそろそろ止めるところであるがそうしない――モノは俺にだけ、爆笑している姿を聞かせ続けている、と俺は気付く。そして、俺がそのことに気付いたことにモノが気付いた瞬間、まるで壊れたラジオが不意に止まるかのようにモノの爆笑がぴたりと止まり、次の瞬間、モノがウーヌスにまるで長年連れ添ったメンヘラパートナーであるかのように《ねぇウーヌス構ってよーつまらないよー》などと絡み始めたのであった。
――俺の『警戒心』として今果たすべき役割を果たした、とでも言いたいのだろうか。
『技能テーブル』もまた"認識"によって構築される。
それが"新種"であると、たった一人の観測者である俺によって観測された瞬間に、これまでエイリアン達はその種族を分化させ、変容させ、それは『技能テーブル』にまで及んで改変されてきた。
「……ならば既存の、俺が現れる前から既に存在してきた他の技能達は、どうなる?」
たとえば『迷宮領主』。
たとえば『ルフェアの血裔』、『竜人』、そして『オゼニク人』。
彼らの種族技能テーブルのメニューは。
誰がどのタイミングで"観測"したことで、決まったというのだろうか。
以前の「エイリアン=オリジン」の"出現"の時に、喉元まで出かかるようで出なかった、何かへの気付きがより強固なものとなる。それは今回も出てくることはなかったが――だが、何を確かめれば良いのかについて、俺の中で方針が固まる。
今回の"人攫い教団"の始末に対する【騙し絵】家の反応を見極めてからではあるものの、この後の【人世】ではまずは"人間観察"を中心に進めて、検証していくべき事柄なのだろう。
大禍が無ければ、とあるシナリオによってまずはヘレンセル村を、ついに訪れようと準備を進めているところであるが――。
そこまで考えてから、俺は改めて意識を迷宮システム中の【領域転移】に移した。
この迷宮領主技能、「転移」とは言うものの、俺が知っている他の【転移】現象とは明確に異なる点がある。
その肝は、言わば保護膜とでも呼ぶべき役割を果たす"銀色の靄"が発生することにあった。
"異界の裂け目"を形成する例の銀色の靄と同質のものが、まず【領域転移】技能の使用者たる俺自身を数分かけて徐々に包み込み――この時、転移先にも同じような靄を発生させているのである。そして転移先のそれが、転移者がそこに出現するのに十分な「空間」を確保できた場合にのみ、この2箇所の銀色の靄が重なり合ってポータル化し、まるで"裂け目"を通った時のように【領域】を【転移】させる、というもの。
この際、転移者は自らの「一部」や「連れていきたい」と認識したものに触れることで、ある程度、他者なり付属物なりを同時に持っていくことができる。衣服は無論、眷属なども大丈夫だったわけであるが――あくまでも自身の迷宮として"定義"された【領域】内でしか働かない。
しかも、この迷宮領主版の"裂け目もどき"の形成には、点振り1の状態ではあるが数分間も時間がかかっており、即時性や瞬間性は削ぎ落とされている。それこそ"緊急避難"のような用途には使えず、あくまでも内政用と割り切るべきだろうと思われたが――。
≪つまり、即時性を犠牲にしつつ、術者の安全性が最大限に考慮されている、ということですか? でも、オーマ様、それが意味することは――≫
俺が至ったのと同じ疑念に、ルク青年もまた至ったようである。
「【黒き神】から与えられた力のうち、迷宮領主を『安全』に運ぶのが【領域転移】なんだろ? だが、そうすると【黒き神】は、そもそも【転移】が危険なものだと知っていたってことになるよな?」
そしてその同じ【黒き神】から、【闇】属性と【空間】属性の混じりものとして与えられたベータの【虚空渡り】。
その本質は「【闇】の中での移動術」だ、という意味で厳密な意味で比較対象にできないかもしれないが、しかし、ベータはこれを発動するたびに、まるで生物が本来動くことが想定されていない空間を強引に突破してきたかのように全身が反動でボロボロとなっていた……という事実と比較すれば、その疑いはますます強まる。
≪イセンネッシャ家の連中が、互いに別々の【空間】魔法を発動する際には細心の注意を払っている、というのは確かに知られていたことです≫
≪そして『人攫い教団』もまた、少なくとも複数の支部から同時に同じ場所に来ることはありません。必ず"時差"を設けて発動をしていました、我が君≫
『長女国』の主要都市や重要施設やらに配置されている、対【空間】魔法の術式もまた、役割としてはそういうことであろう。
【空間】魔法という3番めの【転移】においても『転移事故』という、術者への看過できない"害"の存在が、当の【騙し絵】家自身によって自覚されているのである。
≪御方様、そうするとこの『墨法師』どもに与えられた【空間】魔法が"分割"されている、というのは……≫
「技術流出を防ぐためなのは当然だが、同時に"安全装置"の役割も果たしていたんだろうな。下手に簡単に発動して、混ざらないようにするための、な」
【闇世】Wikiからは、【領域転移】という技能は「経験を積んで力を増した迷宮領主は――大体、侯爵級以上のようだが――自らの【領域】の内部を自由に【転移】することができるようになる」という記述が見つかっていた。
その意味するところは、【虚空渡り】や【空間】魔法による転移――16属性論に基づく"本来"のものであるのか、それともそこにイセンネッシャ家の「秘匿技術」があるのかはわからないが――に危険性があることを、迷宮システムを作り上げた【黒き神】は認識していたということ。
この危険への対策として、わざわざ"保護膜"などという代物が用意されていた事実こそ、俺の考察の根幹なのである。
もしも【領域】能力が「何かの現象の"改良版"」であるとするならば、それは16属性論以前の【空間】の力に他ならないだろう。すなわち、それはこの世界という巨大な「空間」を主神として共同で創造した【黒き神】と【白き御子】の力である。
少なくとも、その後さらに"異界の裂け目"を通して【闇世】を分離した【黒き神】については、正しく【空間】の力も司っている、と考えるべきである。
そして、16属性論すなわち『魔法学』が興隆する『長女国』において、【騙し絵】のイセンネッシャ家がこの【空間】魔法を独自に復活させ、確立させた――とされていることを、俺はルクとミシェールから従徒献上された知識から、知っている。
実力によって第2位までに上り詰めた【騙し絵】家ではあるが、歴史は比較的浅い。その興りは、ちょうどリュグルソゥム家の始祖と同じく約200年ほど前であり――当時の第2位であった【九相】家の宮廷にぶらりと現れた『画狂』イセンネッシャという人物に遡る。
この暇さえあれば絵を描き、また弟子達に描かせて鑑賞と感傷に浸っていたという奇人は、当時『長女国』では誰も扱うことができなかった、学問上の存在とされていた【空間】魔法を復活させただけではなく、それが禁術であった【闇】魔法とは別物であると証明してみせた。
こうした活躍もあり、あれよあれよという間に【九相】家の客分でありながら、王家ブロイシュライト家の宮廷魔導師の地位をほしいままに固めるという立身出世の街道を歩いていった後、画狂は【生命の紅き皇国】と【九相】家の「内通」の証拠を掴むに至る。【九相】家は誅滅され没落するが――その地盤と権益をまんまと手に入れたのが画狂とその一派であり、今に至る【騙し絵】家が確立されていった。
≪……しかし、この自称『画狂』が【九相】家に仕える前の情報は驚くほど出てきません。始祖リュグルとソゥムと同時代の者ですし、あの時代はまぁ、ちょっと、うん、色んな意味で"交流"もあったはずにも関わらず――≫
≪イセンネッシャは、その一切の経歴が不明に包まれているのです。ですが、もし我が君のお考えが正しいとすれば――酷く意外で、そして滑稽な仮説が成り立ちますね≫
ここで言葉を整理しよう。
同じ【空間】魔法と一口に言っても、世界創世時の原初の【空間】魔法と、16属性論で定義された【空間】魔法、そしてそれを復活させたと主張するイセンネッシャ式【空間】魔法の3つが最大であり得る。
さらにここに迷宮領主の【領域】能力を加えるとすると――果たして『画狂』イセンネッシャが扱っていたのは、この4つの中のどの力であったのだろうか。
「主殿。それはつまり、イセンネッシャが使う【空間】魔法が……主殿と同じ迷宮の力かもしれない、ということなのか?」
≪最低でも、彼らは御方様と同じ【領域転移】の力を持っている、と? 確かにそれならば、リッケルめの時と同じように【領域】同士が"衝突"したこの現象はあの時と同じことが起きた、ようにも見えますが≫
ル・ベリが思い出した通りである。
無論、イセンネッシャ家そのものが完全な迷宮領主であるはずは無いが――本来あるべきペナルティをどうにかして回避して迷宮核を持ち去ったのでもなければ――この『転移事故』で俺が連想したのが、迷宮闘争における【領域戦】という段階であった。
【樹木使い】リッケルとの死闘では、散々【領域戦】で激烈な"上書き"合戦を行っていたが……もしも【領域転移】の最中に、まさにその【領域】が"上書き"されたら、どうなるか。
俺はあの時はこの技能を持っていなかったので、検証しようと思ったら次またどこぞの迷宮領主と戦う時になるだろうが――なんと【闇世】Wikiにはこのことに関する記述があった。
曰く、転移先と転移元の座標が喪失して、単に転移が不発に終わるのみである、と。
そういう意味でも"安全装置"でもあると言えるが、少なくとも【領域】同士が干渉しあい、それが【転移】現象に影響を与えるという視点が見逃せなかった。
繰り返しとなるが、【黒き神】があらかじめ銀膜によって迷宮領主同士が【領域転移】の発動によって無用に傷つくのを避けたということは、逆説すれば、【領域転移】は他の転移と危険な形で干渉し合うということ。
そしてイセンネッシャ家の【空間】魔法においても、ルクが述べた通りの「注意」が存在しているとすれば――もっと言えば、例の「鈍色仮面」が扱っていた【空間】魔法のようで【空間】ではないだとかいう5番目の"力"だって示唆的だが――いずれもが【黒き神】に関係していると思えてならないのは、迷宮領主としての"直感"によるものであるか。
――はっきり言おう。
【虚空渡り】も原初【空間】魔法も、『魔法学』上の【空間】魔法も、イセンネッシャ家の【空間】魔法も、【領域】の力もいずれも【全き黒と静寂の神】に由来する、"根"を同じくする超常であると俺は考えている。
それはこの俺自身の"世界観"の根幹たる【因子】という観点からも示されていることであった。
「【騙し絵】家の【空間】と【領域】の力のどっちが先か、まではわからないがな。ただ、経歴不明で突然現れたことなどを考えると……最有力の可能性として、元ネタが迷宮由来というのは想定できる。だって、イセンネッシャ家は"裂け目"の情報収集に熱心なんだろう?」
≪だからオーマ様はあんなにも自信満々に、入れ墨どもの【転移】に対しては手出し無用と、おっしゃっていたわけですか≫
≪まさに、煮殺されることを知らずにやってきた"鴨"のようでしたね。言い得て妙でした、我が君≫
ルクの呟きは、心なしか酷く疲労したる――心話にも関わらず何故かすぐそばから少女がくすくす笑う声が聞こえる気がする――もっと抑えろこの大馬鹿者め、という念を個人的に彼女に送りつけてそれは黙殺する。
「わかっているとは思うが、あの『エイリアンの中にいる』は完全な事故だぞ? 狙ってやれるかあんなもん。だが、もしも【騙し絵】家式【空間】魔法が"後"だったとしたら――案外『銀膜』を外したせいで、あんな事故が起きたのかもしれないな?」
その場合、卍だか鉤十字だかでも知っていたら喜々として自称していたかもしれない『画狂』は、本当に元迷宮領主か、はたまた、最低でも【領域】に関する権能を与えられていた従徒ということになるだろう。
だがそうなると――さらに気になることが生じる。
何度か言及してきた【闇世】Wiki上の【領域転移】に関する説明記事について、実は、その「編集者」が侯爵である【絵画使い】とかいう輩だったのである。これもまた、俺の中で【空間】魔法と【領域】がいずれも同根であると考える理由の一つだった。
【騙し"絵"】家に、『画狂』に、【絵画使い】などとは、偶然と考えるには言葉が符号しすぎている。
そして仮に画狂が【闇世】の出身者であったとすれば、その辺りの事情を【鉄使い】フェネスが知らないということはまさか無いだろうと思われた。
この俺のような低爵位の存在が【人世】へ行くことが、よっぽど重大な規律違反であるかのように言っていながら、である。だが、それこそ何百年という迷宮領主の寿命を持て余したかは知らないが、裏で様々に策士・陰謀家を気取っていることを隠さないあの"懐刀"殿に、このことを今ぶつけるのは危険かもしれない。
――『ヘレンセル村』に『関所街ナーレフ』に『長女国』と、フェネスが派遣した"監視役"との合流のために必要な地名などの情報は既に得られていた。
だが、現時点では、こちらの情勢についてまだわからないことの方が多かった。むしろ謎が謎を呼んで、確かめるべきことが増えたようにも思われる。
確かに、ルクとミシェールが推薦してくれた"生贄"からは想像以上の考察材料が得られた。
イセンネッシャ家という、迷宮との関わりが疑われる魔導王国の最高位貴族家からは……事と次第によっては、更なる"情報"が得られるかもしれないのである。
だが、それをフェネスという油断のならない存在から獲得することには慎重になるべきだろう、現時点では。
俺は未だ、"懐刀"たる奴の目的も、奴が仕えているらしい"界巫"の思惑も何も知らない以上、下手なことを問うことはそれ自体が相手側に余計な情報を与えるだけとなる恐れもあるのである。
故に、自ら調べる。無論、ルクとミシェールへの"報い"という意味もあったが――俺は俺自身の目的と、そして謎解きのために、イセンネッシャ家を当面の標的とすることに決めたのであった。





