0104 人攫い教団の悪夢(2)[視点:その他]
7/8 …… 2章の改稿・再構築完了
オゼニク人の英雄たるアイケルがその【英雄譚】において"魔王"を敗死させ、【闇世】の軍勢を"異界の裂け目"の向こう側に押し返した。
その後、長兄と次兄がそれぞれ【東征譚】と【海運譚】によってオゼニク人の生存域と繁栄を支え広げる一方で、娘達は父に寄り添うことを選んだ。このうち、流れ込んだ大量の瘴気によって"荒廃"した大地は、長女ミューゼがその【浄化譚】によって再生させるために終生の尽力をする。
そして"大裂け目"が消されたとはいえ、各所に残る"裂け目"の向こう側――【闇世】との戦いは、末娘アルシーレの【神聖譚】に引き継がれることとなった。
以上が『四兄弟国』の【盟約】の一部を成す根幹的な"役割分担"の一端である。
魔導の大国たる【輝水晶王国】であっても、征東の帝国たる【黄金の馬蹄国】であっても、繁栄と開拓の商国たる【白と黒の諸市連盟】であっても、直接に迷宮と関わること、ましてその"向こう側"に侵入することを許されてはいない――というのが、長らくの秩序であった。
しかし"破約"を掲げて謀略と暗闘と闘争を繰り返し、『長女国』で巨大派閥を率いるにまで伸長した【騙し絵】のイセンネッシャ家は違う。
"裂け目"の先への直接の侵入こそ、『末子国』との関係性を重視する【盟約派】――ミューゼの第三弟子サウラディを祖とする【四元素】家を筆頭とする――によって繰り返し阻止されつつも、精力的に国内国外の迷宮に関する情報を収集してきたこの一族にとって、それは忌避すべきことではなく、血路を開いてでも至るべき場所とされていた。
そうした主家の薫陶と教育を受ける"走狗"、貧民窟に興った新興宗派たる【幽玄教団】。その徒達も、【人世】の禁忌である"裂け目"に至ることや魔人や魔獣といった存在に関わることへの抵抗が薄い。
彼らによる無節操で無茶で強引で、時に挑発的であるとすら言える危険な坑道開発は、まだ見ぬ「未知の"裂け目"」を文字通り掘り起こそうという事業拡大方針によるものであるが、ここには主たるイセンネッシャ家の強い意向が働いている。
時に露骨に『末子国』指定の"禁域"に迫り、ぐるりと取り囲んで、その気になれば広大な【魔法陣】すら描くことができると言わんばかりに採鉱するという示威もまた常となっていたのである。
故に、信徒達も彼らを率いる『墨法師』達も迷わない。
ヘレンセル村の『禁域の森』に拠点を構築し、発見された"裂け目"が放つ銀色の水面の異様さと、流れ出る瘴気に顔をしかめつつも、圧倒されるということはない。
彼らは【転移】魔法を駆使する組織であり集団。必要あらば国内のあらゆる地下、山中、空洞の類に放り込まれて"坑道"を掘り進めるために洗練されてきた、信仰によって結ばれた命知らず達である。
教団の本部を中心に複数の上級の『送り師』達による強固な後方輜重部隊や兵站部隊が常時の「輸送」体制を構築しており、それがこうした即時性を支えていた。例えば、新天地の開発の際に持ち込むべき「初期開発」のための工具であったり、もしもその地が多数の危険生物の巣窟であれば――魔導のものを含めた「武具」でさえも潤沢な物資として直ちに送り届けることが可能なのが【幽玄教団】である。
それは"飢餓"すら無視して行軍することのできる【聖戦】のラムゥダーイン家や、優れた輸送手段と物流組織を掌握する【紋章】のディエスト家などと比べても遜色は無い。
こうした強力な物資輸送手段の活用として【空間】魔法の強みを活用しているのが【騙し絵】のイセンネッシャ家なのであった。
総勢、50名程度にまで膨れ上がった「初期開発」役の信徒達が、次々に道具と武器を持って"裂け目"の向こう側へ、【闇世】の迷宮へと踏み込んでいく。
彼らにさらに先行する形で、荒事を担当する"武装信徒"20名と『墨法師』の俊英達が進んでいた。
先行班を率いるのは『送り師』である40代の男のマッセイと『標師』である30手前の男のグルセオ。『関所街ナーレフ』よりさらに東の『末子国』との境目の山岳地帯で、公然と坑道を『末子国』側に向かって侵犯させることを主目的とした『ハンベルス鉱山支部』の若手世代の代表者である。
武装信徒は"ハンベルス組"で固められており、つまり今回の任務における手柄の重要な部分を1つの支部で独占する構えであった。
「それにしてもグルセオ、これは……"泥"か? それとも"肉"か? 屠殺場でぶちまけられた豚の内臓の上でも歩いている気分だ、全く。それか【精神】魔法でもかかっているんじゃないだろうな」
「一応、【魔法察知】の【紋章石】で確かめましたが、そんな反応はありませんよ。しかし、少し疲れやすいのは感じますね、【闇世】はそういう場所だと噂では聞いていましたが」
「どうだか。【皆哲】家は【歪夢】家ほどでなくても【精神】魔法を使うらしい、その【紋章石】も壊して良いから定期的に使っておけよ」
"裂け目"の向こう側には、いきなり巨大な断崖絶壁が存在しており、崖や周囲の壁を何やらドロドロした、黒みを帯びた肉塊とも粘液ともつかない、踏んだ感触すらもが生理的な怖気を催す邪悪な絨毯が広がっていた。それにわずかに気圧されるも、逃げ込んだ標的の嫌がらせの罠の類だろうと判断し、探索を進めていく。
彼らの役割は周辺の地形把握と情報収集、特にこの「天然」の空洞がどのように枝分かれし、また外部との接続がどのようになっているかを確かめることである。危険な生物――特に『魔獣』との遭遇の恐れは無いとは言えなかったが、この地は公式に『末子国』によって『禁域』に指定された場所。
つまり、数十年前か数百年前に"掃討"が終わっているはずなのだ。
加えて【紋章】家によって征服された後も氾濫が起きたという記録は無い。
だが、仮に魔獣が"自然発生"したとしても――すぐに【転移】で安全地帯まで呼び戻してもらえれば、何の問題無いと墨法師達はたかを括っていた。
仮にリュグルソゥム家の残党が追跡に気づいて罠を張っていたとしても同じことである。リュグルソゥム家が「少数精鋭」の武威を誇ることは知られていたが、同時に、彼らが悪辣な罠や【魔法陣】による仕掛けを駆使する者であることを"人攫い教団"はその骨身に沁みた実体験として、知っているのであるから。
故に、信頼が置けてしかも使い潰すことのできるベテランの"武装信徒"を伴い、慎重かつ大胆に探索を進めていく「ハンベルス組」。
何か危険があれば、即座にマッセイの弟子である『送り師』の"見習い"達によって、重要なメンバーは"裂け目"の外側まで【転移】する手筈となっていた。
「だが、この魔力の気配は……凄まじいものだな。我々のような"枯れ井戸"の目にすら、魔力の流れが見えるのはどういうことだか」
"枯れた井戸"と、魔法の才能が無いことを揶揄する『長女国』の市井の言葉を口にして『送り師』が思わず吐息をもらす。床を、壁を、そして天井をも這うこの黒い泥のようにぐずぐずな肉の絨毯は、途切れることがないかと思えるほどに洞窟の奥まで続いていたが――その"切れ間"から、時折青と白の淡い仄光が絶えず明滅していたのだ。
「これは久しぶりに【魔石】も大量に採れそうですね、それだけでもまた我らの支部の収益は激増。【騙し絵】家のお歴々が迷宮にこだわるのは、こういうことだったわけですねぇ」
「『標石』を大量に持ってきたのが無駄になりそうだな? どこを掘っても魔力、魔力、魔力だ。"教団"の人員の2割……いや、3割を投入して一気に開発しても良いかもしれないな、これは」
「そしてその差配をするのが、私達」
「そうだ、新支部の立ち上げだ、これは。老人どもの鼻をあかしてやれるし、『廃絵の具』どもの頭を飛び越えて"雲上人"どもと直接取り引きできそうだというのも、気分が良い」
父母が教団員であり【騙し絵】家によって"救われた"後に生まれたグルセオと違い、マッセイには30年前の『長女国』からの壮絶な弾圧の記憶がありありと心の傷として残っていた。確かに【騙し絵】家によって土壇場で殲滅は避けられたが――生き残った教団員達が、下水道に立てこもっていた中、恐るべき【氷】の魔法によって、父母ごと見知った者達がまとめて氷の彫像に変えられた光景を忘れることはなく――つまり"魔法使い"への恨みは深い。
【騙し絵】家による教団への行為も、今自分とグルセオがやっているのと同じこと、つまり体の良い使い捨ての駒を確保することだったと冷めた心で捉えている。
故に、マッセイは極めて実利的・実務的な思考に進んだ。
危険も大きいが、その分、栄達の機会が掴むことのできるハンベルス鉱山支部を希望したのもそのためである。それでも、そんなハンベルス鉱山支部であっても、【騙し絵】家が与える恩恵のおこぼれを『廃絵の具』の薄汚れた手から垂らされるのを、這いつくばってよだれを垂らす犬のようにありがたく受け取る老人達が上層を占めている。
危険があるかもしれない新地の探索の場であるにも関わらず、盛大なる上層批判の華が元弟子であるグルセオとの間に咲くが――これもまた『墨法師』達の間ではよく見られた光景。実際の所、『廃絵の具』は"人攫い教団"の不満が一致団結して【騙し絵】家に向かぬよう、世代間の対立をあえて助長していたのである。
だが、見習いの一人が大声を上げたことで二人の表情にも緊張が灯る。
息を切らして先の道から戻ってきた見習いと、伴の武装信徒が言うには――"見たことも無い"巨大な魔石を抱えた、大型の犬ほどもある蟲の魔物が数体、空洞の奥まで逃げていった、とのこと。
証拠として見習いが取り出したのは、明らかに"天然もの"のカットも精錬もされていない【魔石】の青い輝きであり……件の"蟲"を確保するべく慌てて"槍"を投げたが、逃げられた際に落としていったものであるとのことだった。
にやりと相好を崩して顔を見合わせる、今は同志たる元師匠と元弟子。
しかし、良い報告ばかりとは限らない。
忌々しさを込めながら"肉泥"を踏みつけ進んでいった先には、ハンベルス組が全員で拡がってくつろいでも十分なほどの「広間」があったが、奥まで続く分かれ道に手分けして信徒達を送ったところ、ほどなく道の一つから悲鳴と叫び声が聞こえてくる。送ったはずの3名のうち、1名のみが全身を血まみれにさせながら戻ってきて言うには、おそろしい爪を振るう、トカゲのような敏捷な魔獣に襲われたらしい。
どうも、例の【魔石】を運んでいた"蟲"のはぐれを見つけたらしく、どこへ向かうのかを追っていたようであったが――突如現れた魔獣に襲撃を受けたという。
2名が胸と喉を掻っ切られて殺され、必死に抵抗してなんとか手傷を負わせてひるませ、逃げてきたとのことだった。だがその際、後方でそのおそろしい爪のトカゲがギャアギャアと叫び、"蟲"と思われる魔獣がギィギィと悲鳴を上げて襲われている……ような激しい鳴き声が聞こえた、とのこと。
だが、傷が深かったのか、報告をした信徒はそれだけ話すと力尽きてそのまま事切れてしまうのであった。
さすがに、冷水を浴びせられたような嫌な空気がじわりと染みのようにハンベルス組の間に拡がり始める。リュグルソゥム家の残党という標的との交戦を想定してはいたが、本格的な魔獣退治の可能性については――それが実際に眼の前で生々しい現実として起きるまで、考えないようにしていたことに気付かされたのだ。
「やはり一筋縄ではいかないですね、あの道は確か、風の通りから一番"外"に通じる可能性が高かったところだったはずですが」
「標的の罠という可能性は……だったら連中の方が先に襲われているか。どうする? ここはちょうどよい広さがある、入口の開拓部隊をここまで呼ぶか? 守りさえ固めれば、拠点にはちょうどよいかもしれない」
「中継点も必要ですからね。【魔石】を見つけたはいいものの、それを守る"蟲"に、それを襲う"トカゲ"の魔獣。生息範囲だとか、性質だとかを調べながらなので、もっと駒が要るかもしれませんが」
真剣な表情で意見交換をするも。
グルセオの見習いが、死んだ信徒が手に何かを握りしめていることに気づいて声を上げる。
それを検めたグルセオもまた、思わず驚愕の声を上げ――冷静な同志の滅多に無い反応にマッセイもそれを見て、皆して息を飲み込んだ。
それは白い魔石の欠片であった。
およそ魔石というものは青く輝くものであるということは、一度でもそれを見たことのある者であれば心にそう刻まれるのが『長女国』である。そして、数は少ないものの、魔石に後から【属性】を注入することで特定の属性を持つ魔石が生み出されることはあったが、白色というのは存在しない色合い。
マッセイが息も唾も飲み込んで、慌ててグルセオから【魔法察知】の【紋章石】を奪い取り、その属性を確かめようとするが――それは、如何なる属性でもない。
全くの未知の魔石であった。
「どうしましょうか、いっそ老人どもを無理矢理呼び寄せて、我らの支部だけで独占してしまうべきでは?」
「……お前は変わらないな、俺の考えをどうしてそう読む。同じことを考えていた、表にいる他支部の連中と分け合うのと、どっちが旨いかをな」
「彼らと連携して教団を掌握するのも魅力的なんですよね十分。ですが、これだけの代物の発見なら、私達が一足も二足も跳んで支部を掌握するには十分すぎる。リュグルソゥム家の標的を追い詰めるという餌は、他支部の方達に与えてやってもお釣りが来るくらいには……」
――この判断が、"人攫い教団"ハンベルス鉱山支部の挑戦心溢れる『墨法師』達の分岐点となった。
マッセイとグルセオが、さらに適当な理由で追加の"武装信徒"をハンベルス支部から10名都合させ……迷宮の外にいる『迎え師』ではなく、見習いのうち『迎え師』である者に直接、迷宮内部まで【転移】させたのである。
そして広間に簡易的な陣地を構築することもそこそこに、更に奥まで進んでいった。
「おそろしい爪のトカゲ」には十分に警戒を払い、何かあれば即座に表に【転移】できるようにした状態は厳重に維持しつつ。
そうして彼らが向かっていたのは――正確には【エイリアン使い】オーマによって誘導されていたのは『結晶畑』の方面であった。"鉱脈"を見つけ出そうとするその試みは、正しく正解の道筋を引き当てていたのではある。
だが。
流れ込む魔力の気配と、青と白の仄光の明滅が輝きを増す中で。
不意の奇襲に備えていたハンベルス組は、ふと、漂う空気にねっとりとした「熱く」て生臭い吐息のようなものが微かに漂い始めたことに気付いた。
まるで洞窟全体がぞわりと蠢いたかのような。
何かとても巨大な生き物の内臓の中に迷い込んだかのように、地面が、壁が、そして天井が極めて肉感的に蠕動したかのように感じたのである。
否。
彼らが踏みつけ、ツルハシで穿ってきた、この出処不明の"肉の泥"が、まるで一個の巨大な海面であるかのようにぐらぐらと、ぶちぶちと何かを細かく引き裂くような音と共に、実際に蠢いていたのである。
――そのことにマッセイとグルセオが気付いた、次の瞬間のことだった。
ハンベルス組の者達はその瞬間、全身を巨大な何かでぶん殴られたかのような衝撃を受ける。
しかし、実際に殴られたわけではない。
それは心胆を寒からしめるかのような、【おぞましき】絶叫。
文字通り心臓が跳ね上がり、口から吐き出してしまうかのような胸の激痛すら伴った強制的な衝撃である。それこそ『廃絵の具』が反抗的な教団員を拷問する時に、その身体から"内臓を抜き取る"時の激痛にも似た何かが、洞窟内のありとあらゆる方角からもみくちゃの颶風となって幾重にも反響して轟き、混乱と恐怖が増幅される。
そしてそのために、彼らは全員、見落としてしまった。
天井で、壁で。
あちこちでまるで分厚い苔のように周囲の洞窟を覆う、この黒い肉の泥が、生理的な嫌悪感にもなんとか慣れてきた頃合いであったこの悪夢の生物的な絨毯が、あちこちでぶちぶちと千切れ、さながら大型の犬か鹿でも通ることができるような隠されていた脇道を邪悪な捕食者が口を開くかのように現したことに。
気付いた時には既に遅い。
誰かが何かを言う間もなく、不意に遠くではなく至近距離から轟いた【おぞましき咆哮】が四方八方から30名余りのハンベルス組に叩きつけられ、同時に幾筋もの"おそろしき爪"の軌跡が踊るように閃いて切り込んできたのである。
瞬く間に鮮血を撒き散らし、数名が倒れる。
喉の奥から声帯すらも引きずりだすような悲鳴と絶叫が辺りに響き、魔獣達が叫ぶ【おぞましき咆哮】と混じり合いぶつかりあって、亡者の叫喚と獄卒の阿鼻めいた凄惨な絵図が繰り広げられる。
一般の信徒と異なり、荒事の経験も多い"武装信徒"がなんとか身体を動かす。
生存本能と、そして修練の成果を今こそ示す時であると、なけなしの勇気を振り絞って走狗蟲達に抵抗するが――彼らに襲いかかったのは10体の走狗蟲と2体の戦線獣、そして猛然と恐怖と悪夢の突進存在と化して突っ込んでくる螺旋獣のデルタであった。
螺旋獣が"裂けた腕"を豪と振るうや、2名がまとめて1つになって壁に叩きつけられる。かと思えば、戦線獣の豪腕と剛爪に正面から薙ぎ払われて、さらに数名が何倍にもなって、裂けた血袋のようにその内容物をあたりにぶちまける。
恐怖は伝染し、恐慌は伝播し、狂奔した走狗蟲達の爪にかかって次々と武装信徒達が切り刻まれていく。ある者は喉笛を"十字牙顎"でぐちゃぐちゃに抉り食い千切られて血泡に沈み、またある者は袈裟懸けに胸を切られて倒れ落ちる。
荒事や戦闘の訓練を受けた武装信徒として必死に武器を振るい、それは実際に化け物の如き魔獣達に突き刺さるのであるが――しかし魔獣達は怯まないのである。突き刺さった武器を咄嗟に手放すことができず、逆に引き寄せられて戦線獣と螺旋獣の暴威的な豪腕によって粉砕される。
それもそのはずであろう。彼らは【転移】魔法を利用した"人攫い"教団だ。
"手放す"のではなく、掴み続けて拉致する、ことこそが彼らの戦闘術の基本なのであるから。
俊敏で恐ろしく、3名を瞬時に負傷死させる"おそろしい爪を持ったトカゲ"の魔獣の存在を想定して、30名の武装信徒で進んだマッセイとグルセオの判断は、全く自らにとって都合の良い現実だけを見たものであった。
そして当の二人は――そんな光景に背を向けるように脱兎の如く逃げ出していた。
彼らは顔を歪め、激しく後悔していた。生命としての生存への危機本能の為せる業であるか、さらに洞窟内のあちこちから、無数の這いずる音や駆ける音が、化け物どもの血に餓えた鳴き声が聞こえてきたのである。その中には幾分、恐怖が聞かせた幻聴も混じっていたかもしれない。
だが、この時点でも二人にとってそれはまだ、「欲をかいて手駒を無駄死にさせた」という程度の"後悔"であった。
何故ならば彼らは【転移】魔法を賜りし"人攫い教団"の『墨法師』である。彼らの上体に刻まれた【魔法陣】の入れ墨こそが、彼らを生存させるための絶対の信頼を置くことのできる護符のようなもの。
"武装信徒"達を生贄とし、それでも足りずに見習い達を捨て駒にして遁走した二人は、走りながら、それぞれ『送り師』として、そして『標師』として、迷宮の外で常時「迎え入れ」態勢を取っている、そのはずである、留守番組の『標師』の"座標"に向けて【転移】魔法を発動させて、その場から逃れようとするが――。
「何故だ、な、なぜだあああああァっっ!?」
「は、発動しない!? そんなことがあるはずが!」
【転移】魔法の不発に動揺する『墨法師』の二人。
――その様子を迷宮の奥でつぶさに見守っていた【エイリアン使い】が呟いた、「当然だろ」という言葉は二人には届くことはない。
マッセイが咄嗟に選んだ【転移】先は、迷宮の外の拠点で待つ『標師』の地点である。だが、"人攫い教団"の【転移】魔法が完遂して発動するのは、「元座標の指定」「送り準備」「目標座標の指定」「迎え準備」「実行」という一連の分割された術式の工程が欠けることなく連続的に発動された場合のみ。
「迎えてくれる拠点」が既に無くなってしまっているのであれば、分割された【転移】魔法の"一部"の発動など、書きかけて記憶されずに消えてしまうタイプライターのように空虚な魔力の空転に過ぎないのだから。





