0098 掟つらるも禁じられし契り(1)[視点:兄妹]
7/8 …… 2章の改稿・再構築完了
"人攫い教団"の一団がヘレンセル村を訪れた頃より、少しだけ時を遡る。
行商人マクハードが、村長の部下であった一人の野心家を『関所街』に送り込んだ、その翌日のことである。
***
切り立った峡谷を繋ぐように、黒灰色の壁が高くそびえる。
さながら、雪に覆われた白い大地と、その雪を降らせている小春の曇天を引き剥がし――分かち隔てて分断するかのように、鋼の巨大な門扉がその威を振りまいている。
『長女国』の城塞に特有の尖塔――見張り塔を兼ねるだけでなく、上空からの魔法的な攻勢にも対処する魔法陣拠点としての役割を持つ――が一定の間隔でずらりと並ぶ様は、さながら看守をずらりと並べた牢門の如く。
【輝水晶王国】は南西。
『赫陽山脈』に至る丘陵地帯を挟んで、西は【生命の紅き皇国】に、南に【白と黒の諸市連盟】を睨む地に『関所街ナーレフ』は座していた。
かつてこの地にあった【森と泉】と呼ばれた共同体を、頭顱侯【紋章】のディエスト家が征服。森と泉と丘陵と山地地帯の、その交通の要衝を抑える位置に新たに建てられた『街』である。
門前には、四半円状に幾筋もの抉られた痕が大地に刻みつけられていた。
すなわちそれだけの重量を持つ鋼鉄の門であり――開閉するだけでも、途方もない労苦を伴うことが誰の目にも窺い知られる。そのような"門"が街全体の3方にあったが、それぞれ5日ごと異なる曜日にだけ開かれる定めとなっている。
何故ならば、ナーレフは『関所』であるから。
この交通の要衝を通る全ては、強制的に逗留させられ、待機させられる。そして、この訪れる者全てを拒むかのように重々しい黒門の内側では、あらゆる者が審査と"検問"を受けることが定められている。村から村へ移動する者だけでなく、『長女国』と『次兄国』の間を行き来する商隊や旅人などは、等しくこの『関所街』において、厳しく取り調べられる。
理由は主に2つあるが、両者は密接に関連している。
一つは、征服されて20年が過ぎるが、未だ【森と泉】の復仇を狙う者達が蠢動していること。
そしてもう一つは、『四兄弟国』の同胞である『次兄国』と、表向きは敵対関係にある【西方諸族連合】の一角である吸血種達の『皇国』を繋ぐ要衝であることから――密輸が絶えないことである。
端的に言えば、亡国の復仇と『長女国』への造反を目論む【血と涙の団】を名乗る活動家達の重要な資金源の一つが"密輸"なのであった。
ナーレフはその建設に当たって、『長女国』の物流を牛耳る【紋章】家が王国内から大々的に移民や出稼ぎ民、つまり旧ワルセィレとは全く関係の無い民を募って大量に流入させ、急激に発展した。逆に亡国の民は、その主要な4つの村の間に『関所』が居座ることで相互の交流を断たれているはずであったが――【血と涙の団】のシンパは、『街』の内部にまで潜んでいる。
こうした不穏分子の摘発と統制のために、ナーレフを通ろうとする者達はその素性を厳しく調べられ、特にわずかでも【血と涙の団】との繋がりがあれば、その屍を関所街内の『刑場』に晒されることとなるのである。
……ヘレンセル村で"村長派"としてセルバルカにすり寄っていた、とある野心家の男。
彼もまた、そうした"繋がり"を疑われ、見咎められ、刑場の絞首台に縛られた身を吊るし晒され、長き冬に餓えた『禿げカラス』達によってその全身を啄まれ、急速に朽ちて濁った露を垂らしていたのであった。
だが、それもまたナーレフでは見慣れられた光景である。
厳しい弾圧と、その目を掻い潜るような悪徳、そしてこの地を将来に渡っての繁栄の要衝にせんという【紋章】家の力強い意思が宿った、その"澱"とも言えるだろう。
そのような地の"執政"として、【紋章】のディエスト家から一体の統治と掌握を任されているのがロンドール掌守伯家の継嗣であるハイドリィという男である。
代官邸にある自身の執務室から、南西の門前の「刑場」に吊るされた"残骸"を遠目に見やり、ハイドリィはその瞳を薄く細めた。頭髪が全て同じ長さに切り揃えられ、毛先まで丁寧に整えられている様は、彼の几帳面な気質を端的に表している。黒と紫色の装束に身を包み、手指の先まで長手袋によって肌という肌の露出を避けた格好は、『代官』を補佐して為政の頂点に立つ『執政』としてはやや官僚然としすぎているか。
だが……その『代官』が派遣されていない現状。
実質的な街の統治者として姿を晒すことも多いハイドリィは、その怜悧にして勘の鋭すぎる眼光から、脛に傷を持つ者達は元より、民衆からも決して好かれている者ではない。彼は、むしろ正しく畏怖によって街を統治する者であった。
その怜悧な顔にうっすらと浮かぶ微笑みは――彼が人と接する際にできる限り柔和な印象を与えようとするものである。しかし、細められた瞳には審問官のような厳しい眼光が油断なく宿っている。時に間諜のようにその気配を薄く消し隠しつつ、しかし必要な場面では処刑人のような威圧感と共に姿を現して鶴の一声を発する。
彼こそは『関所街ナーレフ』において、その"関所"としての存在意義の根幹たる「検問」と「審査」とを総括し、通過者達の取り調べを統率する元締めなのであった。
「『禁域』を放置していれば、いずれ"何か"が出てくるとは思っていましたが。【火】属性とは、これまた実に都合が良い」
紫色の長手袋越しの指先を顎に軽く当て、窓の外を見やりながら、ハイドリィが薄く呟いた。
ナーレフは20年かけて建設初期の莫大な投資を終えつつあり、街としては急速な発展期に入りつつあった。新たな区画では資材と人力と魔導が取り入れられ、急ピッチで上物の建設が進められており――その意味での出入りもまた活発であり激しい。
その全てを検問し、審査し、審問するという意味ではハイドリィが司る職は、単純に言って激務である。魔導の灯りによって不夜城の如く眠らぬ代官邸の一角では、その手足となる数十人の部下達が、昼夜を問わずに5日ごとの門の開閉という日程に間に合うように"取り調べ"を進めていくのである。
そしてそれは、当然、単なる事務的な手続きのみではない。
ハイドリィの後ろでは、執務机を挟んで、各分野の補佐官を務める部下達が傅いていた。
「まずは、エスルテーリ家に指示を。適当な"密輸団"をいくつか動かしましょう、ギュルトーマ家の連中に飲ませてやる煮え湯が一杯ほど、手に入るかもしれませんから」
一礼し、部下の一人が部屋を出ていく。
「次に、旧市街、特に『救貧院』周辺に『ヘレンセル村の"鉱脈"』の噂でも、流しましょうか。それで、あの狂信者達の耳にも届くでしょう。当然、それだけでは半信半疑で、動いてくれるかは五分でしょうが……」
部下のうち、二人が目配せをし、一人が先に部屋を出ていく。
残った一人がハイドリィの話の続きに静かに意識を傾ける。
「さて、レストルト。いまや国中を嗅ぎ回る勤勉なツェリマ女史にも、この話を流してしまいましょう。それで"人攫い教団"の、できたら鉱山系の支部なんかが動いてくれれば、話が早くてちょうどよいですかね?」
レストルトと呼ばれた男は、ハイドリィと雰囲気の似た細い目をした、眉間に傷のある青年官僚であった。しかしハイドリィとの違いは――彼の主が、取り繕うためとはいえ"微笑み"を浮かべているのに対し、抜き身の刃の如き突き刺さんばかりの眼光を発しているところにある。
魔導的な防護が施され、部屋での会話が外に漏れるというような心配の無い執務室。
しかし、レストルトはまるで虫一匹忍び込むことすら見透かしてくれよう、とばかりにその刃の眼光を、数秒ごとに部屋の四隅へ静かに這わせるのであった。
彼こそは、執政ハイドリィの部下の中でも"懐刃"とあだ名され、最も危険な任を預かる者達の取りまとめ役たる青年であった。
「ハイドリィ様、よろしいので? "廃絵の具"ども、各街で大分強引な"捜査"を行っているようですが」
「我らがナーレフにも打診、という名の要求は少し前から来ていましたよ。だったら、頭顱侯同士の"手打ち"で押し込まれる前に、むしろこっちから迎え入れてやった方がまだマシです。わかっているとは思いますが、相手は【騙し絵】家なので――迷宮の"再活性化"をにおわせてください」
レストルトが一礼し、先に部屋を出たもう一人を追いかけるように足早に去っていく。
部屋には後二人残っていたが、いずれもレストルトの指揮下にある副官達である。重要な話は既に済ませている、とばかりハイドリィは振り返らず、彼らに聞かせるように事務的に指示を下す。
「"鼠"どもへの監視と取り締まりをしばらく強めてください、強引で構いませんし、むしろそれで良い。"大鼠"どもの動きが見たい。現時点でどこまで連携が取れているのかで、外にいる"鼠"どもの操縦が微妙に変わりますので……あぁ、それとサーグトルとヒスコフを呼んできてください。彼らにも頼むことがあります」
残った部下達も執務室を辞する。
こうして、部屋にはハイドリィ一人しか残されていない状態となっていたが――それでもハイドリィは、まるで誰か、もう一人そこにいるかのように言葉を続けた。
「どうせそこにいるのでしょう? "梟"、出てきて報告をください」
幾分、呆れと楽しみが同居したかのような物言いである。
ハイドリィが言うや否や――部屋の隅の方で【闇】魔法の気配が凝集する。
と同時に執務室の全体に外部との音の伝播を抑制する術式が働き、そこに人一人分の気配が現れていた。
そこで初めて振り返ったハイドリィが目にしたのは、まるで枯れ枝のような、触れればそのまま折れて逝ってしまうかと思う程に弱々しい黒装束の老人であった。
「ほう、ほう。あの者らは駄目ですな、大分、緩めの隠形だったのですがなぁ。レストルトの小僧も見る目が落ちたかのう」
「"表"での統治には、ああいう幕僚達も必要ですから。ネイリー、下手に貴方の技を見破る者など逆にそばに置いておきたくなどありませんよ。それこそ"懐刃"で十分です」
「ほう、ほう。さても坊っちゃん、おっと失礼、ハイドリィ様の大望の広さと志の高さは、いや、ロンドール家始まって以来ですなぁ」
若き執政から呼ばれたあだ名のままに、まるで梟を思わせる独特な抑揚を帯びた笑い声をあげて、枯れ枝の老人ネイリーが相好を崩す。やんちゃ坊主を見守る好々爺の如き眼差しであったが――当のハイドリィは、張り付けたような微笑みを崩さず、むしろ一定の距離を置くような険すらこもった眼差しを向け返す。
その態度を理解しているのか、ネイリーも部屋の隅から動こうとはせず、ハイドリィにそれ以上近づくこともしない。
「……【皆哲】の後釜がリリエ=トール家に決まった、と聞いているでしょう? 確かに『逆賊討伐』で大功を挙げたと聞いてはいましたが」
「ギュルトーマ家が頭顱侯に復位する、というのが下馬評でしたからのう。【四元素】家め、【紋章】家に今回は譲らなかったと見えますのう、ほう、ほう」
頭顱侯【紋章】のディエスト家に仕える掌守伯家のうち、最も有力なものが2家あった。
一つは、ナーレフの執政を任され、また【紋章】家の経済力の源である流通業を取り仕切るロンドール家。そしてもう一つは、50年前は元頭顱侯であったが力を落として"降爵"された――『封印』魔法を秘匿技術として持つギュルトーマ家である。
両家は水面下で対立関係にあったが、主たる【紋章】家は、ギュルトーマ家の頭顱侯への復位を後押ししていたはずであった。
「そのまま自立して我々の縄張りから出ていってくれれば良かったものを。計画も見通しも、色々と狂わされましたよ。あの、リリエ=トール家の"大道芸人"めが……」
「ほう、ほう。じゃが、決して悪い方に狂わされたわけではない、そうじゃろう? ギュルトーマ家が差し置かれた――そのことの意味がわからぬ坊っちゃんでは、ないじゃろうにのう。せっかちにならぬことじゃ、長く長くじいっと忍耐すれば、必ず時機が来る。そう教えたこと覚えておるかのう?」
「抜かしてくれますね。私が生まれた時から老人である貴方ほど長生きなら、いつまでも忍耐できるのでしょうが」
ネイリーという名のこの枯れ枝の如き老人は、ロンドール家に3代前から仕えてきた"影"である。幼い日のハイドリィの傅役であったこともあり、【紋章】のディエスト家の家老たるロンドール家の「暗部」を取り仕切る存在であった。
そんな"妖怪"のような老人を前に、ロンドール家の若き俊英とも評されるハイドリィは、適度な緊張を絶えず維持し続ける。それは、肩をすくめたネイリーから、関所街に集う各勢力の動向に関する報告を聞いている最中も変わるものではない。
何故ならば、ハイドリィは知っていたからである。
ネイリーが、その真実はロンドール家の家臣などではなく、他に仕える者が存在する間諜である、ということを。
だが、そのような重大な秘密を知っていながら、抹殺されていないのには理由があった。
"梟"が自分に期待していることを、ハイドリィは知っていた。当主たる父が"病に臥せっている"のが、実際にはこの老人の暗躍によるものであると、ハイドリィは偶然であるとはいえ知ってしまったからだ。
決して頼んだ訳では無い。
だが、裏方と"汚れ仕事"に徹してきたロンドール家が表舞台に出ることを望み、自らにはその力と才覚があると信じて精力的に活動を続けてきたハイドリィである。彼が【紋章】家の家中で、並み居る候補者達を差し置いてナーレフの「執政」に抜擢されるなどという、一挙に活躍の場を広げる"お膳立て"を得たことについても――あらゆる邪魔者がいつの間にか排除されていたその"影"に、常にこの老人の輪郭がちらついていたのであった。
「ほう、ほう。"廃絵の具"に放り込まれた私生児に、放浪無頼の放蕩侯子殿に、次期導侯筆頭の御曹司たる俊英、と。よくもまぁ個性的な面子を集めたものですがのう、常ならば知らず、むしろこのタイミングで来てくれるというのは、坊っちゃんにとってはちょうどよいことなのではありませんかな?」
「腕に自信がある者達なのは、良いことです。この地の『問題』をついでにまとめてさらって解決していってくれるよう、せいぜい、歓待させていただきますよ」
「それもそうですのう、ほう、ほう。ちとこの寒さは続き過ぎていますのう、老骨に堪えますゆえ。坊っちゃんには、今少し解決を急いでいただけると、爺やとしてはとても嬉しいものです」
自らが決してネイリーの"駒"である、とハイドリィは考えてはいなかった。
この枯れ枝のような、ロンドール家の暗部の全てを一人に凝集して擬人化させたかのような老人の「背後」が如何なる存在であれ――少なくともそれはどこかの頭顱侯などではないとハイドリィは知っている――"共闘"に近い今の関係が継続できているのは、ハイドリィの「真の目標」がネイリーにとっても有益だと判断されているから、に他ならない。
ならば、それでいい。
何者に魂を売ってでも、自らの願いを達する――ロンドール家を頭顱侯の地位に押し上げる、というハイドリィの目標は、幼い日に母が誅殺という名の謀殺の憂き目に遭った時から変わるものではなかったのだ。
言葉を選びながら、ハイドリィはネイリーに追加の指示を出していく。
ネイリーに任せている、街内に根を張りまた拠点を構えている各勢力との折衝は、ハイドリィの"目的"が成った、その後にこそ重要なものとなるものであったからだ。
「ひとまずは"人攫い教団"どもの動き次第、ですね。まだ、盤石とは言えません。やるべき備えは、まだ何段階もありますから」
「せっかちであるというのに、完璧主義で潔癖主義というのは難儀じゃのう、ほう、ほう……おっと、"殿下"のお守りの時間ですので、爺やは一旦これにて」
【闇】の中から現れ、そして今また【闇】の中に掻き消えるように梟のような枯れ枝のような老人の気配が執務室から消え失せる。一呼吸だけハイドリィは緊張を解いた息を吐き、そして、部屋の外で待っているであろう先程呼ばせた二人の"腹心"を招き入れたのであった。
***
――斯くして、リュグルソゥムの兄妹の下に【幽玄教団】または"人攫い教団"と呼ばれる集団が送り込まれる巡り合わせとなった。
かつて【輝水晶王国】の貧民窟にその新興宗教が急激に広まったのが30数年以前のこと。
教義は多分に来世信仰的な要素を含み、苦行を通じた精神の修養を積み重ねることで"この世ではない『幽の世』"へ"玄妙な魂のまま"移ること、が最も尊ぶべきこととされている。
当初は数十人の集団に始まった、托鉢の変わり者集団であったが、わずか数年で貧民窟に一挙に浸透して、最盛期には万に昇る信仰集団を形成するに至ったのである。
これは『四兄弟国』で遍く広まり、各国の国教の地位を得ている『聖墳墓教』に基づく民衆の統治や慰撫を手管の一つとする【末子国】の勢力や、統治層である各頭顱侯家には都合の悪いものであった。
「玄妙」なる魂に至るための喜捨と清貧、勤労が貴ばれて財を持たぬ者達に受け入れられたが――それは同時に、彼らを労働力としてただ同然で活用する教理をも啓いたことで、指差爵や測瞳爵から果ては掌守伯家、そして商家といった層に広まる動きを見せたのである。
特に『長女国』において、表も裏も頭顱侯によって各産業分野が壟断されて棲み分けられ、権益と利権が吸い上げられる構造に対する重大な挑戦となる一面を持っていた。
裏の領域、最下層においては貧民窟をある種の"供給源"とする領野も存在していたが――既存の様々な分野の「支配者」達に対抗しようとする新興勢力にとって、『聖墳墓教』の色が付いておらず、また雲上の頭顱侯の手も伸びていない、修行心の篤い勤勉な信徒集団は格好の労働力に映ったのである。
ただし【幽玄教団】の信徒達とその草の根の指導者達は決して従順な存在であったわけではない。
彼らの力を中途半端に利用しようとした貴族家が一つ、丸ごとその勢力に乗っ取られ、"荒廃"を掌握して統御すべき重職たる『掌守伯』家が機能不全に陥ったことがあったのである。これに激怒したのが、その掌守伯家の上役であった【冬嵐】のデューエラン家であり――『導侯会議』において『盟約派』の主導によって大弾圧と浄化が決定され、貧民窟に魔導兵の部隊が投じられることとなる。
……しかし、壊滅の一歩手前まで追い込まれた信徒達に手を差し伸べる者があった。
【騙し絵】のイセンネッシャ家である。
各分野、各業界から「跳ね返り」達が追放される表と裏の経済内戦の中で既に【幽玄教団】のシンパは炙り出され、教団としての政治経済力が失われたとみなされたそのタイミングでの救いの手であった。
生き残った千名弱の信徒達は【騙し絵】家の所領に引き取られ、匿われ、あるいは隔離されることで"手打ち"とされ――『幽玄』に救いを求める勤勉なる信徒達は、勤勉なる"走狗"に作り替えられることとなる。
――その全身の皮膚に直接【空間】魔法の術式を入れ墨されたことで、【騙し絵】家が対【空間】魔法の防護がなされていない各所へ送り込む、荒事や暗闘を含んだ"汚れ仕事"を「勤勉実直」に成し遂げるための集団、"人攫い教団"となったのである。
彼らの全身の肌を隠すような特徴的なローブは、この刻み込まれた魔法陣の入れ墨を隠すため。【騙し絵】家の暗部部隊である"廃絵の具"の指揮下に組み込まれてから、その身に纏うようになった装束であると、リュグルソゥム家の兄妹は一族の知識から知っていた。
「"矢弾"役のごろつきや食い詰めの不法者どもが送り込まれてくる、とは思っていたけれど……まさかいきなり"人攫い教団"が来るとはね」
「もう、私達の居所がバレたのでしょうか、ルク兄様」
『止まり木』に再構築された、元の一族の屋敷とは比べるまでもない、小さな四阿。
"書庫"から持ってきたいくつかの文献を二人で手分けして確認しながらも、ミシェールの不安そうな声にルクが難しい表情で堪える。
曰く、"人攫い教団"の到来は偶然だろう、と。しかし、予想を大きく超える事態であったことは確かであり――準備が十分に整わないまま、ヘレンセル村を半ば隠れ潜むように出ていかざるを得なくなったことは事実であった。
そして、何がこの事態を引き起こしたのか、自身や他の者達の発言を再点検しながら――ルクはほぞを噛むような表情を浮かべる。
「そうか、『鉱脈』か。マクハードとか言ったか、あの行商人め、やってくれる。上手く"廃絵の具"の関心を引いてくれたな……なんて失態だ」
心身の陶冶のための純粋で勤勉な気質に染められた、失うものを持たぬ貧しい信徒達。
そしてそんな彼らに与えられた、限定的な【空間】魔法による空間転移能力。
その2つが合わさったことで――【騙し絵】家は『採鉱業』への影響力を急激に高めたのである。
彼らは、危険で通行も開通も維持さえも困難な坑道を、リスクを背負ってまで掘り抜く必要が無い。何せ直接鉱脈のある場所にまで"転移"させ、採掘物と共に倉庫や処理場まで再び"転移"して戻せばよいのであるから。
採算が取れなくなり、『次兄国』の商人達が手放した廃坑ですら、【騙し絵】家には底値で買い漁ることのできる文字通り"宝の鉱脈"と化し――国外で急速に採掘事業を強盛化させ、【騙し絵】家はこの30年ほどで大きくその経済力を増してきた。
元来、『長女国』の"荒廃"せる領域では丘陵に乏しく平地・平原が多い。採鉱業に関しては、各地に中小規模の鉱山が無いわけではなかったが、それぞれの地域を牛耳る商会が個別に取り仕切っていたに過ぎない。
だが、ルクの読み取るところ、【騙し絵】家は数十年がかりでその"支配"を計画していたのであろう。
最後のピースとしての「転移術式を彫り入れた労働力」をついに得たことで、彼らを駆使した暗殺、拉致、破壊工作、強奪といった派手な"人攫い"の嵐を吹き荒らさせる。そしてその裏で、暗部"廃絵の具"の指揮下、『長女国』内の主要な採掘業――鉄や銅から炭石、宝飾品に至るまで――を着実かつ迅速に"人攫い教団"の各『鉱山支部』に置き換えていったのだ。
『長女国』内では、およそ100年に渡って『盟約派』と『継戦派』が共同戦線を組み、『破約派』たる【騙し絵】家の一派を締め上げてその力と活動を掣肘していた。が、【四元素】家が事態を察知した頃には、既に『長女国』における"荒廃"を抑制する機構である『晶脈ネットワーク』の要たる、王家の「水晶鉱山」すらも【騙し絵】家によって掌握されており――つまり『晶脈ネットワーク』の維持そのものが人質に取られたも同義。
その"手打ち"として、「水晶鉱山」の開放と明け渡しと引き換えに、『破約派』に対する経済的な締め上げは、事実上、全て撤回されたのである。
そして"人攫い教団"もまた、【騙し絵】家の謀略に付き従う形で全国へと散り、再び王国の信仰の基盤を蚕食して信徒を集め、再び勢いを増しているという。
「『次兄国』で広まっている【拝竜会】が『長女国』に浸透してこないのが"人攫い"どものおかげだって見る向きもあるけれど――イセンネッシャ家の力は、ここ50年ほどでかつてないほどに高まっているのは事実だ。でも、それでも、あの【空間】魔法もどきを解析できた、とは思えない。僕達の居場所がわかったならば、"廃絵の具"自身が飛び込んでくるはずだよ、ミシェール」
「やはり、あの【火】の魔石の影響……ここの地域について、調査が後回しになっていたことが、こんな形で祟るだなんて。ルク兄様」
不安そうに体を寄せてくるミシェールを抱きしめるルク。
――心なしか、近頃、二人でこうして身を寄せ合うことが随分と増えたように感じていたが、家族を丸ごと殺されて失った身の上である。唯一の肉親であり……あと何年一緒にいられるかもわからない、たった一人残ったミシェールを、できるだけ安心させようとルクは抱きしめる腕に力を込めた。
相手が"人攫い教団"だけであれば、何十人同時に襲ってこようがリュグルソゥムの高等戦闘魔導師の敵では、ない。いかに勤勉実直であり【騙し絵】家の戦闘訓練を受けているとはいえ、その"人攫い"の主な手口は、さながら蜂のように寄ってたかって飛びかかり、囲んで捕らえてつかまえた信徒ごと転移術式に乗せて拠点に拉致するというものである。
掴まれないように立ち回るか、掴もうとしてくる動きを読んで罠を張れば良く、またそもそも【空間】魔法の術式という種が割れている以上は、対抗魔法か妨害魔法で備えればよい。
"人攫い教団"が真に厄介であるのは、彼らを文字通り生き餌として操る【騙し絵】家暗部"廃絵の具"の目がついていることであった。
雑魚をいくら蹴散らしても意味は無いどころか、派手に立ち回るほど、自分達がここにいると居場所を宣伝することに等しい。その意味では、そもそも"人攫い教団"がこの地にやってくる事態を防げなかったこと自体が、無意識の悪手と言うほかはなかった。
「でも、そこまでやってしまうと、この村での偽りの身分は確実に破綻する。どうせ、居られなくなるなら、余計な情報は残さない方がいい」
「マクハードさんが色々手を回して、村の自警団の人達も"人攫い教団"の信者達を下手に刺激しないようにしていましたね。だから、早晩、森にも入り込んでくると思います」
「いっそ襲ってきてくれたらどれだけ楽だったことか……いや、何を言ってるんだろうな。それじゃ"廃絵の具"どもに秒で気付かれるか。こんなことなら、多少怪しまれてでも早く村から出ていくしかなかったのか。頭じゃわかってるんだけれど」
「シャンドル=グームは遠いですよ、兄様。冬の"山越え"の備えも、全然できていない。やっぱり『次兄国』を一度、経由しませんか?」
"人攫い教団"に見つからぬよう、現世ではヘレンセル村を後にして『禁域の森』まで入り込んだ二人である。まだ【忘れな草の霧】の神威の本格的な影響範囲には入り込んでおらず、小さなテントと風除けの魔法を汲んで夜を明かしている状態であった。
「……駄目だ、連中は貧しく短絡的だが、それでも馬鹿じゃない。『標師』だけでなく『送り師』の、多分"見習い"が最低でも3~4人は混じっていた。僕らが消えたとわかった時点で、"廃絵の具"どもに情報が伝わるだろう」
「街道は押さえられてしまう、ということですね」
「だから――『赫陽山脈』を越えるしか、ない。そしてそのために、この迷宮が再活性化したかもわからない森を越えるしか、ないんだ。畜生、なんてこった」
大いなる危険への懸念が、単なる己の杞憂であってほしい、とルクは願う。
だが、リュグルソゥムの血族として、楽観論に逃げることだけはできない。
最悪の場合は――大氾濫の中を掻き分けて、山越えをすることにだってなるかもしれない。
ルクはミシェールを抱きしめる腕に力をさらに込め、彼女の額に己の額を当てるのだった。
そしてあまりに物思いに沈み込んでいたために。
妹がその時、どのような表情をしていたか、気付くことはなかったのであった。





