「あなたは、何なんですか?」
「脳血管には問題ありません、大丈夫でしょう」
突然の担当医の言葉に、心臓が撥ねるのを感じ、ふと我に返った。ここはどこだ、と辺りを見回す。白い壁に白色蛍光灯。脳を輪切りにしたCT写真が、医師の見つめるレントゲン板で光っていた。治療をされていたのか。
何かを思い返している間に、目の前にあることがどんどん変わっていってしまったらしい。初めてのことではないから驚きこそしないが、唐突に自分に返る感覚や、目に移るものが全て嘘であるかのような感覚には未だ慣れない。私にとっては、夢や回想の方がよほどリアルで、先ほどまで見ていた脳の話こそ、先ほどまでの私にとっては現実だった。寧ろ、今この瞬間ここにいる私は現実、でよいのだろうか。そもそも現実とは何だろう。存在していることが現実、でよいのであろうか。私は今存在しているのだろうか。
医者は訥々と何かを述べているが私の頭には何一つとしてその言葉が残らなかった。ただ一つ、脳、という単語には意識の一部がぴくりと反応するのが分かる。雑音の中に脳、という言葉が混じって聞こえるが、それ以外はよく分からない。まくしたてるように、あるいは呟くように、私と言う人間に向かって何らかの音を発し続ける医師。白い蛍光灯、白いレントゲン板、白い部屋の中に、白い服を着た医師がどんどん溶け込んでいくのがわかる。目の前の光景が白に覆われてしまいそうで、私は途端に不安になる。
「先生」
早鐘を打つ心臓を宥めるかのようにゆっくり息を吸って、尋ねた。
「あなたは、何なんですか?」
化け物だったら多分、今言ったことを理解できても、私が言葉を聞き取れないはずだ。聞き取れなかったらこれは夢だと分かる。記憶の中の敦子が、夢ではおよそどんなことでも可能なのだと言っていた。とすれば目の前の医師が私に何をしようとも、おそらく私は彼を倒すことが出来るだろう。医師は私よりも二回りも大きい熊のような体格をしているが、きっと大丈夫だ。私は彼に対抗できる力がある。夢であれば、体格差なんて大したものではない。
医師が何かを言っている。だがやはり脳、という単語以外には何も聞き取ることが出来ない。夢だ、これは夢で確定だ。目の前の医師は、化け物だ。急激に膨張する不安を感じ、私は座っていた椅子から飛び跳ねて部屋の隅まで退却した。驚いて目を丸くする相手に、近寄るな! と叫んで右手を床と平行になるように上げる。筋肉などまるで付いていない、細くて短い腕が相手に弓を番えるかのようにすっと伸ばされている。相手はこちらを一瞥したが、やがてこれまた熊のような動きで席を立つと、危惧していた通りゆっくりこちらに近づいてきた。伸ばした腕に自然と力が入る。自分が未知なる生き物と対峙しているのだという意識が、その感覚をより鋭敏にした。大丈夫、所詮は夢だ。相手がどれだけ自分より大きくとも、意識がこちらにある以上は、私が負けるはずがない。もし負けたとしても、夢なら醒めればそれで終わりだ。ぐっと右手に力を入れると、自然と左手が拳を作った。それと同時に、左手にすれた感触を持つ何かがあるのに気付いた。
それはどこにでもある大学ノートだった。何も書かれていない表紙の色は青、表紙を開けて最初に出現する中表紙にもやはり何も書かれていない。しかし次のページをめくるとシャーペンで書かれた濃い筆圧の文字がずらりと並んでいる。これは、敦子との思い出だ。夢の話だけがひたすらに綴られる、私の記憶だ。その中の一つ、日付は明記されていないがおそらく五月くらいの内容に目が止まる。
熊のような相手は私がノートに気を取られた一瞬の隙を狙って距離を詰めてきていた。しまった、と思った頃には遅かった。相手は私に飛びかかろうと両手を広げてこちらに急接近してきた。あまりの不意打ちの恐ろしさに、私は思わず伸ばしていた右手を素早く振り下ろした。それは手刀という言葉どおりの鋭さで、ぼんやりと浮かぶ白い空間を一刀両断した。




