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謝罪  作者: 岩尾葵
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「そうね。丁度、味噌ラーメンだしね」

「え? ベランダの水道で脳を取り出して洗った?」

私が夢の話をすると、向かい側に座っていた敦子はカレーライスを口に運ぶ手を止め、素っ頓狂な声でそう尋ねた。

「そう。しかもね、それがまたすごい設定で」

「へえ」

 敦子は私の方に視線を向けたまま止めていた手を再度動かす。口に入れたカレーをもぐもぐ咀嚼し、飲みこんでからもう一口分をスプーンですくう。

昼休み直前の食堂にはまだほとんど人はいなかった。私と敦子、それから数人の学生と、厨房で暇そうに掃除をしている調理師の人たちだけが、黙々と各々の作業や食事に没頭している。彼らとの距離間では、元々声の大きい敦子と私の会話は変に目立って注目されそうだった。それでも私は構わず話を続ける。

「授業中に頭が痛くなったから洗いに行こう、って思ったんだけど、そのとき考えてたことは高校の生物の話なのに、いざベランダに出てみたら水道があって。どう考えても小学校だったんだよね、あそこ」

ベランダに水道があったのは、私の経験では確か小学校だけだった。一年生が利用していた一階は外の水道と兼用だったが、中学年以上が利用する二階、三階には各クラスのベランダに一つずつ、水飲み用の水道があった。風の強い日には泥が溜まり、日差しの強い日には水がしばしば干上がることもあったが、なぜか同級生たちはトイレの水道よりベランダの方をよく利用していた。私も、どちらかといえばベランダの方をよく利用していたような気がする。

「しかもそこで突然、ああ、頭が痛ければ脳を洗えばいいんだ、っていう発想に辿りついて」

「どうしてそうなったのよ」

「そのために頭蓋骨を手でかち割っちゃったり」

 矛盾しかない現実離れした夢での体験に思わず笑いがこみあげてくる。それにつられた敦子も、相変わらず面白い夢をみるね、とぴんと来ない景色を想像して笑う。

「とりあえずホント、何やってるか自分でもわからなくってさ。しかも脳の大きさ、手のひらサイズだし、色は真っ赤なんだよね」

 鶏のトサカみたいに、と説明し、私は持っていた箸を机に置いて、茶碗を持つ形を右手で作った。この点には間違いがいくつもある。当たり前だがヒトの脳の大きさは片手でつかめる大きさや重さではない。大きさは頭部の三分の一は優に占めるし、重さに至っては体重の約二%とさえ言われている。少なくとも脳の重さだけで一キロくらいはある。それに、確かに人間の脳には血が通ってはいるが、きれいな赤やピンク色ではない。標本などにある通りのくすんだオレンジ色だ。脳は分化の過程から外胚葉系に分類されるので、色も同胚葉から分化する表皮、つまり肌色に似ているのだろう。もちろん形も鶏のトサカではなく、れっきとした迷路型だ。つまりイメージとしては人体模型そのままなのである。

 一通り考察を交えてその夢のことを語ると、敦子も確かにその時点でいろいろ気付いてもおかしくないかも、と話に乗って来た。

「脳って、神経細胞の集まりだから普通はオレンジの下にある色は灰白質で灰色だし」

 実際に脳を取りだすと、頭蓋骨と脳の間を覆う液体でぬるぬるしているはずだし、ダンベルみたいに重いから戻すよりもまず取りだす方が難しいでしょ。敦子は持っていたスプーンの腹でカレーのジャガイモをすり潰す。その上にルーをぽたぽた垂らして口の中に運ぶ。

「そもそも、脳を取り出して洗っても、全身が機能してる、っていうだけ十分おかしいけど。脳そのものを全く別物に造り変えるのが夢らしいね。夢ではどんなことも可能ってことか。どっちにしろ、芽衣ちゃんの夢は摩訶不思議で面白い」

 敦子はまたこちらを見つめてにこっと笑う。摩訶不思議、なんて単語、過去十八年間の人との会話で聞いたのは初めてだ。どうしてそんな表現がぽんぽん思いつくのだろう。敦子のこういうところに、自分は惹かれたのだろうと実感する。

 敦子と出会ったのは今年の春、大学入学して一週間にも満たない天候も暖かな時期だった。私の入学した学校の理学部生物学科は、男女比こそほぼ一対一であったが、元々の人数が三十人ほどとやや少なめであったためか、仲間内での結束力がとても強かった。高校まででさえ友達が出来なかった私が、入学当初から積極的に人に話しかけるなど出来るはずもなく、オリエンテーションの際、学科別で分けられる席順では最後列右端になってしまったことも相まって学科内で一人取り残される寸前まで行ってしまった。そればかりでなく、私と彼らの会話の波長が合わなかったのも大きな原因の一つだと思う。いつの間にか形成された友人の輪の中に一人交われない子がいる、と気付いた心優しい何人かが私に話し掛けてくれることは少なくはなかったが、決まって彼らは数日もしないうちに私の元から去っていった。以前小耳にはさんだ風の噂では、「あの子は気持ち悪い夢の話しかしない。気味が悪いにもほどがある。絶対に近づかない方がいい」と陰で言われていたとのことらしい。事実かどうかは知らないが、確かにあの時の私は夢の話が会話の大半を占めていたため、その事実が否定しきれない以上彼らとの交流は諦めざるを得なかった。

 しかし、そんな中でも奇跡的に私と会話が成立する者がいた。それが敦子だ。後で聞いたところではどうやら敦子も学科の子たちと話が合わなかったらしい。黒髪ロング、いつもふわふわした触り心地のよさそうな服を着ていてお淑やかな見た目。人あたりが良さそうなにこやかな笑みを浮かべ、おっとりした口調の物腰はまさに理想的な女性像そのものと言っても過言ではない。にもかかわらず、実は敦子にはそんな外見とは裏腹に、やたらと面白いものを求め、冒険が好きだった。それが入学当初から早くも同学科の子たちの繰り返す日常的な会話に倦怠感を覚え、どこかに面白いことを言っている奴はいないのかと探した結果、夢の話ばかりする私に辿りついたとのことだった、らしい。彼女の思考回路は良く分からないが、私も話し相手が出来たこと自体には文句はないのでそのまま会話を続けた。すると意外にも敦子は私の会話に面白いほど食いついてきた。私の夢は他の学科の子が言うように限りなく悪夢に違いなかったが、朝登校したばかりであっても、食事をしている時であっても、敦子は私の話を聞いてある時は学問的に、またある時は物語の一節を引用しながら私の話に真面目に返答した。それによって私は彼女の知識の幅の広さを実感し、彼女とであれば付きあっていけるであろうと確信した。

 敦子がにこにこしながら食事を続けるのを尻目に、私もテーブルに置いていた箸を再度手に取った。今日の昼食はラーメンだ。あんまりゆっくりしていると麺がスープを吸って伸びてしまう。そう考えて焦って箸先を碗の中に突っ込むと、ワカメとメンマの間から、黄色く細長い中華麺がぬるりと現れた。

「おお」

 ふと、とある発想が浮かぶ。

「ん?」

 思わず私が声を上げると敦子が目だけをこちらに向けて来る。対を為す食器が器用に麺を掬い上げると、やっぱりそうだ、そうだこれだと思い当る。

「この、ぐるぐるした感じが、何とも脳みそっぽい」

 ほら、と私は腕の限界まで箸を持ち上げてめいっぱい麺を見せびらかす。途中でスープから完全に離れた麺は、腕から受ける振動によって、スープをぽたぽた落とす。

 私の主張を受けて、敦子はまたにっこり笑った。

「そうね。丁度、味噌ラーメンだしね」

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