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謝罪  作者: 岩尾葵
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不意に、私はそれを見るなり、そうか、頭が痛むなら水で洗えばいいのだ、と思いついた。

 昔から、長時間近くを見過ぎると、目が痛くなった。目が痛くなると、頭も肩も痛くなった。そうするともう、全身が疲れてしまう。そんな体質なもんだから、ちょっと頭を開けて、洗ってみよう、なんて発想になったのだと思う。

整然と並んだ机で黙々と黒板を写す作業。そう、授業は内容を理解するものではなく、作業だ。授業中もその後も、目の奥はずっしり重い。眼精疲労は、目の周辺にある輪状筋が長い間収縮しすぎることから起きると言う。だとしたら、この目の痛みも元を正せば筋肉の収縮だということか。英語の時間だと言うのに頭の中で生物の授業がフラッシュバックする。輪状筋がチン小帯を引っ張るのだったかな。水晶体はどういう動きをするのだったか。

至近距離で文字を書いていた紙から顔を上げた。ぼやける視界の向こうで、黒板に書かれた白い文字がゆるゆると踊っている。板書は既に試験範囲の内容を網羅したらしく、生徒は担任がぼそぼそと聞きにくい声で話を続けるのを適当に聞き流している。まだ続けるのか、とあきれ気味に左手で頬杖を突き、再度ノートに視線を落とす。勉強のしすぎのためか、頭が割れるように痛い。肩こりも激しく、腕を回すと筋肉と筋と骨が擦れる音がゴリゴリ聞こえる。授業の内容は頭に入らない、しかしノートだけは取る。取り続ける。

休み時間に入ったのはそれから間もなくだった。チャイムの音が授業終了を知らせ、教室から次々に生徒たちが散っていく。頭の重さと目の奥の疲労感は授業が終わってもなおしつこくまとわりついていた。病気ではない。たかだか授業を受けた程度でこんな疲労感を覚えるなんて、どこか変なのではないか。立つと現実味もなく目眩すらする上、全身は重く重力に逆らうのも難しい。自分の体がまるで言うことをきかない、上手く動かない。仕方がないので、体を引きずりながら窓際のガラス戸を開けてベランダに出た。休み時間の喧騒が嘘のように、外は静かだった。よく晴れた外の空気に体を晒すと、袖からすっと、冷たい風が入ってくる。熱さえ持とうとしている重い体が、冷却される。しかし頭はまだ重い。ところどころに、血液が行き届いてないのではないかとさえ思う痛みが走る。少し時間を置くたびに頭が押さえ付けられる。上下左右縦横から内側に何か刷り込ませるように力をくわえられている気さえする。ぎゅっぎゅっと、収縮していく脳みそ。私の脳みそ。

その時丁度、ベランダに備えられた水道が目に入った。蛇口が四つほど上を向いて取りつけられている、どこの小学校にもある石造りの水道。おそらくしっかり閉め切られなかったのであろう、一番右端の蛇口からは、細く微弱な水道水がだらしなくちろちろと流れ出ている。

不意に、私はそれを見るなり、そうか、頭が痛むなら水で洗えばいいのだ、と思いついた。重くて仕方がない瞼に一度手を当てて、鼻と目の間を緩く揉み解した。若干痛みが取れたので、その手を後頭部に持って行って、パカッと頭蓋骨を割って開いた。力はほとんど入れていない。体が外気に触れたときと同じく、頭蓋骨と脳の間にすっと冷たい風が入る。

頭蓋の内側をもぞもぞ探って取り出した自分の脳は片手に収まるほど小さかった。血液と同じ黒を混ぜたような赤い色の球体にびろびろと襞がいくつも付いている。鶏のトサカにそっくりだ、と脈絡なく思った。ああ、こんなに血が付いてちゃあ、そりゃあ痛いのも当然だ。近くを見てばかりで目を酷使したせいで、頭も遂にガタを迎えてしまったんだ、何と言う恐ろしいことだ。このままだと死ぬところだった、危ない。

私は手に持った自分の脳を右端の蛇口から細く流れる水でゆっくりと洗っていった。最初のうちはわずかな水量でも上手く血液を洗い流すことができたが、そのうち脳からの出血量が増えて来てしまったのでそれに合わせて水の量も増やした。最終的には洗濯物をしているかのようにじゃぶじゃぶ濯いで脳に付着した血液を取り除いた。脳はそれなりに頑丈なのか、透明な水をスポンジのように吸い込んでその色を赤へと変化させていった。赤い部分が減っていくと、今度は脳の中心部と思しき綺麗なピンク色が現れた。ゼラチン質のぶよぶよした脳の中心部。それが見えていくに従って、今まで重かった頭が急に軽くなっていった。気持ちがよくなっていった。もうそろそろ頭洗うのもおしまいにしようか、と手の中の脳を見た。そこで恐ろしいことに気付いた。

「あれ、どうやって戻すんだっけ」

頭蓋骨は、脳を出すときに割ってしまった。脳なんて、一度取り出したら簡単に戻せるようなものではない。神経や血管が大量に通っている、人間の中で最も重要な器官なのだ。それにもし運良く頭の中に脳を戻すことができたとしても、蓋となっていた頭蓋骨は既に砕けてしまった。完全に元に戻すことは不可能だ。私はこれから脳を露出させたまま生きなくてはならない。

そう考えていたら、目の前がだんだん暗くなっていった。頭だけが変に冴えて異常に軽い。何だこれ、何で昼間なのにだんだん暗くなっているんだ、まだ外は明るいぞ、と思っていても、瞼のシャッターの下降は止まらない。物の輪郭がぼやけ、色彩を失い明度を低下させていく。何だこれ、怖い、そう思ってやっと分かった。これは死だ。脳を取り出して元に戻せなかったから、体が脳の指令を受け取れなくなって機能を停止させようとしているのだ。死ぬ、このままだと死ぬ。嫌だ、死にたくない、でも脳は戻せない。目の前が暗闇で覆われてしまう。頭から重さが消え失せる、同時に熱も消え失せる。体の熱は指から触れている水に奪われて、いつの間にか人間の基準値を大幅に下回っている。生ぬるい。自分が徐々に生きているものではなくなっていく感覚。ぬるい、を経て外気と同化していく感覚。寒い。体から力が抜けていく。手からずるりと脳が零れ落ちる。落としたら死ぬ、嫌だ死にたくない死にたくない死にたくない。

そこで目が覚めた。

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