どうしてこんなにも、私が理解できない彼女の姿は多いのだろう。
ホテルに到着し、フロントで鍵を受け取って敦子を部屋に案内すると、彼女はまず目に入ったダブルベッドに糸が切れた人形のように突っ伏した。、ボールが撥ねるのと同じようにベッドのスプリングが軋む音が一秒聞こえて、部屋中が静まり返る。
「大丈夫?」
私はもう一度敦子に尋ねた。個室と言う場所の効果もあってか、今度は「ちょっと辛い、かも」と先ほどとは違う反応を示してきた。何が原因かは訊くまでもない。水族館で彼女が黙って歩きだした際、あの場には同年代のカップルと思しき男女がいた。仲睦まじく肩を寄せ合い、お互いのこと以外は一切気にせずに水槽を覗きこむ二人。あの光景を見てから、突然敦子は真っ直ぐ出口を目指して歩き出した。おそらく今うなされているのは、その感情の延長だろう。何があったかは知らないが、友人が苦しんでいるのに何もしてやれないのは、私としても望むところではない。
ぐったりと頭を垂れて疲れ切ってしまった様子の敦子に、水道から水を汲んできて手渡した。ありがとう、と礼を言う前に、彼女はそれをすっかり飲み干してしまった。もう一杯汲んでベッドに運び、また水を飲み干す彼女の姿を見る。咽喉元を水が通り抜ける動きに倣って、白く薄い首の皮が力強く動く。敦子は心底気持ちよさそうに目を細め、私の提供した水を、時にコップを食むように、時に桃色の舌をちらつかせながらそれを飲み下す。黒く長い髪も首の動きに合わせて緩やかに上下を繰り返した。熱によって上気した頬にガラスを押しあてた敦子は、冷たくて、気持ち良い、と一音一音発音した後、息を漏らして静かに目を閉じた。
「ごめん、せっかくの旅行なのに」
謝られたが、私は首を横に振って応えた。
「いいよ。敦子の体の方が心配だし」
「……ごめん」
彼女は目も開けずにもう一度謝る。いいって、と押し切るとまた謝ってきそうだったので今度は黙っておくことにした。瞳を閉じた敦子の、長い睫毛が小刻みに揺れる。今仕方謝罪の言葉が放たれた薄い唇からは不定期に熱い息が漏れ、大学一年にしてはやや豊満な肉体がその呼気に合わせてゆったりと収縮を繰り返す。妙な話だが人の体をこれほど至近距離で見たのは初めてだった。ボディラインを強調するピッタリとした服のせいで、敦子の呼吸、敦子の体内の動きそのものが今私の目の前で再現されているような錯覚を覚えた。
私は無意識のうちに敦子の胸から目を逸らした。
「あのさ」
疲れているところ悪いなあ、と思いつつも、自分の中で擡げる敦子への感情を押さえ付けるには、何か言葉を発していなければならない気がした。認めがたい、許し難い何らかの熱情が、私の中で嵐となって渦を巻く。
「さっきの二人さ、どういう関係なんだろうね」
「……さあ」
それは今の敦子に対してあまりにも配慮のない言葉だった。何をしているんだ、自分は。敦子をこれ以上苦しめてどうする。自分が変な感情から逃れたいために、友人を余計に追い詰めるようなことをするなんて、最低にも程がある。
「でも」
敦子は枯れている咽喉を無理やりこじ開け、呼吸に合わせてゆっくり声を出して言った。
「私、男の人、苦手だから。男の人と、女の人が、ああいう風に、とても仲よさそうにしてるの、見ると、いつもこうなっちゃって」
いつも、なのか、とか、どういうことだろう、とか、思うところはたくさんあった。だがなぜか私の頭はそれ以上に別のところに激しく反応していた。男の人、苦手だから。敦子の口から洩れたその言葉が、何度も何度も頭の中で暴れ回って許し難いと言う通念に体当たりをする。駄目だ、と何回も否定する。何を考えているんだ、と理性が嘲笑う。相手は唯一の友人。あれだけ他人から否定され続けた自分を、他人を避け続けていた自分を信じてくれている人物。今、彼女を失えば、私が縋れるものはもう何も――
ない、と断定的な否定を下そうとした一瞬の間、突然脳裏に以前の敦子の姿が閃いた。電車の通過が終わっても尚、私の言葉をふざけて聞こえない振りをしていた敦子。私は化粧などしないのに、誕生日にわざわざ化粧品入れをプレゼントに選んだ敦子。どうしてこんなにも、私が理解できない彼女の姿は多いのだろう。それは本当に、単に彼女が自らのことを語ろうとしないせいだけなのだろうか。きっと違う。私には敦子しか信じられるものはなかったが、敦子はおそらく私がいなくなったところで困ることは最初から何もなかったからではないのか。彼女は最初から私のことを面白い夢の話をする人、としか捉えていなかった。私もそれで困ることはなかったからそのままにしておいた。だが、この友人関係に惑わされていたのはもしかしたら私だけなのではないか? 敦子には私以外にももっとたくさんの救いがあって、私が彼女と過ごしてきた時間以外にも、たくさんの面白いことを経験している。私はその、たくさんの面白い、のうちの一つでしかない。寧ろこの関係に依存していたのは私の方だけで、彼女にとっての私は特別でも何でもなかったのではないか。だとしたら、今この瞬間湧きおこる熱情を、常識と言うありきたりなもので蓋をしたところで、今後一体何になろう。遅かれ早かれ、どうせ私は捨てられるのに。
「ねえ、敦子」
気付くと私はひどく甘ったれた声で敦子の名を呼んでいた。膨張する感情の前で、冷たく私を見下ろしていた理性は既に砕け散って粉々になっていた。もうどうなったっていい。彼女との関係において、思い残すことは何もない。目の前にある彼女に、このタイミングで何を言ったところで、この後の私たちには何も影響しない。
「じゃあさ、女の人、ならどう?」
ふえ? と熱に浮かされた敦子が呂律の回らない声で応えた。瞼が開けられ、黒目がちの瞳がこちらを見る。
女の人、正確には、女の子。これを聞いて、頭のいい敦子がその裏に隠された言葉を読めないはずがない。私は彼女が横たわっているベッドに腰掛けて、飲み干されていたガラスのコップを自分の手に取り、その淵を一周、わざと舌を見せつけるようにしてゆっくりと舐め上げた。熱のせいなのか、私のしていることのせいなのか、敦子は顔を赤くしたまま呆然としていた。深い熱に染まった私には、こちらを見上げているだけのその視線すらも、ただただ愛おしい。次に出てくる言葉は何だろう。冗談でしょ、と言っていつもみたいに美しい笑顔をこちらに向けてはぐらかすだろうか。実は女の人も駄目なの、といつかの駅のホームでの会話のように寂しげな顔で断るだろうか。燃え上がる敦子への思いとは裏腹に、理性がどんどん息を吹き返して現実的な方へと思考を導く。ああ、もう私と彼女の関係はこれでお仕舞いだ。後期からは、お互いに顔を合わせても言葉一つ交わさない微妙な距離を保ちながらの生活が始まるのだ。私の救いはなくなったのだ。私のことを、これから敦子はどう他の人に言いふらすのだろうか。私はそれを受けて、これからどう過ごしていくのだろうか。
「いいよ……芽衣ちゃんなら」
だから聞こえてきた敦子の声に、私はまず耳を疑わなければならなかった。悪ふざけなどでは決してなかった。真剣に自分のほとぼりと向き合い、今後の私たちの関係と向き合い、あまつさえそれが否定された後のことでさえ、全て想像済みだったにも関わらず、いやだからこそ、私は敦子の放ったイエスの答えが信じられなかった。素直に私と敦子の思いは同じだった、などと手放しに喜べるわけもなかった。だがどういう返答を想像しても浮かんでくることのなかったその言葉が、ぐちゃぐちゃに燃えていた私の敦子に対する思いを一気に高ぶらせた。
私は腰掛けていたベッドにのし上がって横たわると、その脇に仰向けに寝そべっている敦子の体を力の限りに抱きしめた。髪の中に顔をうずめようとすると、首筋付近からピーチミントの香りがした。敦子が普段使っているシャンプーの匂いだ。熱を持った体に桃の甘い香りとミントのさわやかな香りが混じり合って、さながらミルク系の入浴剤を入れたお湯に包まれているかのような温かさを感じた。そのまま鼻の頭を敦子の肩口に押し付ける。鼻腔いっぱいに敦子の匂いがする。
「いい匂い」
呟きと共に漏れた息が首に当たったのか、敦子がビクン、と体を震わせた。背中に伸ばした腕の下から彼女の腕がそろそろと現れ、熱烈な抱擁にひくひくと筋肉を引き攣らせる私の胸の前をつっと通り抜ける。しなやかな指が私の背骨を一つ一つなぞり、腰の中心の辺りで手が止まる。か細い腕、温かな鼓動。隙間なく密着した二人の体から流れ出る脈の音が、敦子と触れ合っている体の至る所が、彼女の体温と自分の体温が溶け合って生み出された熱に飲み込まれていく。ふと顔を首から離すと、目の前に潤んだ瞳をこちらに向けた、敦子の悲しげな笑みがあった。肩に回していた手を戻して髪と頬の間に滑り込ませると、弾力のあり柔らかく瑞々しい頬が、じわりと涙に濡れていた。
私は衝動に任せてそのまま敦子の唇を奪った。優しく触れたつもりだったが何分初めてだったために変に勢いが付加されて唇より先に歯と歯がぶつかり合ってしまった。だが、敦子はそれをカバーするように唇同士が触れ合う位置まで自分の顎を引いた。初めて味わった他人の口腔の中はそれこそ水を含んだ脱脂綿のように柔らかく湿っていて、生温かい息遣いが咽喉を通して自分に伝わってくるかのようだった。私はしゃぶるように、貪るように、自分の抑えきれない感情の高ぶりを何度も敦子にぶつける。敦子もそれにこたえるかのように私の口の動きに合わせて首を左右に動かす。私たちの間にもう言葉はなかった。足がベッドのシーツを滑り、お互いの衣服が体の間ですれ合うのがもどかしい。二人分の体重を支えているベッドのスプリングが、僅かな動きにも反応してギシギシ歪む。自然と舌が絡み合い、手が着衣の間をまさぐった。止まらない熱と感情のままに、私は白い肌を薄く染める熱を逃がしてやるつもりで、敦子の服に手を掛けた。
そうして目にしたものに、私の熱は途端に寒気に成り代わった。
敦子の体には無数の青痣が浮かび上がっていた。思わず吸いつけられるようにして見た胸周りだけではない。肩も、腹も、鎖骨や肋骨周辺にも、ほぼ体の全てに見るも無残な痛々しい傷跡が残っていた。何で傷つけられたのかも不明なほどの大きな丸型の跡。今も完全には治癒しておらず、どこか赤みを孕んでいるように見える点々としたカサブタ。その一つだけでも、常人を震え上がらせるのには十分なはずのインパクトにも関わらず、敦子はその全てを自分の体に色濃く刻んでいた。
私が硬直していると、敦子はまだ熱を放出しきっていない体を自分の手で覆って、少し気まずそうに目を逸らした。上半身下着のまま体をベッドに横たえている彼女は、呆然とする私に「ごめん」と声をかけてゆっくり起き上がった。
「さっき、男の人が苦手って言ってたでしょ。その理由が、これ」
どういうことなのか、と追求するまでもなかった。敦子は私が脱がせた自分の服を、寒いからちょっと着させてね、と元通りに着直すと、ベッドの端に腰かけてふう、と一息ついた。
「長い話だからどこから話せばいいかわからないけど、とりあえず、最初から、でいいかな」
同意を求めるようにこちらを横目で見やった敦子に、私ははっとして頷き返した。
敦子の話は確かに信じられないほど長かった。一方的に話されていたのではなく、ところどころ分からないところに説明を求めながら聞いていたせいもあるが、とにかく全て聞き終えたときには、高い空にあった太陽が西のビルの向こう側に沈みかけるほどに時間が経過していた。そしてその後、寂しかったんだよ、私、誰かに触れていてほしかったんだよ、と言い募って泣いた敦子と共にその夜眠り、何度も二人で夜中目を覚まして笑いあったのが私たちの最後の思い出になった。
私が起床したとき、既に隣にいた敦子はどこかに姿を消していた。部屋のベッドスタンドには一泊二日分の宿泊代が入った封筒と、ごめんね、と書かれた紙が一枚置かれていただけだった。




