予想通り九月の水族館に人はほとんどいなかった。
夏休みの旅行はその後の話し合いで東京のとある水族館に行くことになった。敦子はバイトをしていたがそれでもあまりお金は溜まらないと言うし、私も私で親に高額の旅行代をせびるのも気がひけたので、交通費もあまりかからない首都圏ということで話がまとまった。ホテルの方も、オフシーズンだったので都内でも手軽に安く予約が取れた。水族館を選んだのも、都内のアミューズメントパークは値段も高いし人も多いから、という理由だった。私も敦子も、人ごみの中ではしゃぐタイプではなかった。落ち着いた静かな場所でゆっくり時間を過ごす方が好きだった。
予想通り九月の水族館に人はほとんどいなかった。大方、七月後半から八月いっぱいにかけて休みである小学生が、水族館の主な客層なのだろう。館内は全体的に照明が少なく、フロア同士の継ぎ目接ぎ目にある僅かな空間から外の光が漏れる以外には、唯一水槽の明かりだけが頼りだった。
水槽に囲まれた青い光の中を敦子と一緒に進んだ。その途中、私たちと同世代の男女一組が熱帯魚の水槽の前で足を止めていた。人がいないのをいいことに、その男女は共に腕を組み合って同じ水槽をしげしげと眺めている。私たちが同じフロアに入っても、こちらに気づいている様子はない。
気まずくさせるのも申し訳なかったので、私は敦子と目配せをして足音を忍ばせた。敦子も分かっている、といった様子で私の前を静かに歩き始める。
敦子の歩調には躊躇いがなかった。私が何となく背後のカップルが気になって何度か振り返りするのに対して、敦子は力強い足取りで迷うことなく前に進み続けた。彼女の歩幅は妙に大きく、通路の突きあたり、先ほどの二人からは見えない位置に来るとすぐに胸を張って先を急ぐように小走りになった。
「ちょっと待って」
熱帯魚のフロアを抜けた敦子はなおも素早く館内を進んでいった。何が気にくわなかったのか分からない私はただ彼女に付いていくのに精一杯で水槽の魚たちを見る暇もなかった。
「待って」
声をかけるが敦子は止まらない。競歩でもしているのかと思うほどの速度で水槽に目もくれずに前進していく。何がどうなっているのか分からない。気まぐれ、と呼べるものならばそう呼んでもいいと思う。だがこのときの敦子の気まぐれはあまりに突発的で私には理解できなかった。敦子の背中が遠のいていく。自動ドアが開いた先は、もう建物の出口だった。建物から出れば、もう中には戻って来られない。走らないと間に合わない。
私は遂に歩いていたのでは追いつけないと悟って敦子の背に向かって走り出した。そして私を振りきらんばかりの前進を止めるべく、不規則に揺れる彼女の右手を握った。
「敦子」
驚いて敦子が振り返った。急ブレーキでもかけたかのように、前に進もうとしていた全身の運動が停止する。外に続く自動ドアから光が細く漏れて、敦子の表情を一瞬のうちに照らし出した。何か思いつめた雰囲気をそのままにして、私の声に驚いた敦子の表情がそこに見て取れた。
「敦子……大丈夫?」
我に返った敦子は、ああ、と気のない返事をしてごめん、と謝った。
「どうしたの」
「ううん、別に。何でもない。ごめん」
謝る敦子にいつものお嬢様を感じさせる気品はどこにもなかった。左手で頭を何回か掻いて、溜め息をしてから大きく息を吸い込んでいる。珍しく、敦子が取り乱していた。息を荒くし、目もどこか焦点が合っていない。握っている右手が徐々に汗ばんでくるのが分かった。大丈夫なはずがなかった。何でもないという言葉は嘘に違いなかった。どうしよう、と私は一度考え、心身喪失した敦子の手を握ったまま、肩を叩いて声をかけた。
「ちょっと早いけど、ホテル行って休んだ方がいいんじゃない」
敦子は黙って頷いた。俯いて首を垂れたままの彼女を連れて、私は建物の外へと続く自動ドアを潜り抜けた。外の空気を吸っても、敦子は暫く暗く俯いたままだった。




