二章十話 『譲れないもの』
ふざけるのも大概にしておけよ――――。
ヴォルフより放たれたその警告は、あまりにも突拍子も無いものであった。しかしその声色には一切の冗談も混じっておらず、理解の追い付かないジードはただ身を凍らせるばかり。
『い、いきなりどうしたんだよ……?』
それでもどうにか絞り出したその言葉は、鬼の怒りに火を注ぐには充分過ぎるものだった。
「どうした、だと……? 貴様は今、一体何をしようとしたっ!!」
『……な、何って魔力の吸収だけど――』
『――このうつけ者がっ!!』
脳内に響く怒号に顔を顰めるジード。するとその時、子鬼から魔力を吸収すべく突き出された掌より、魔力波が放たれた。
「――なっ!?」
少年の意思とは無関係に放たれたその魔力波には『滅却』の力が込められており、眼前の子鬼は疎か魔鳥車の屋根の一部分までもを消失させたのだ。
勿論、今のジードにヴォルフの固有魔質である『滅却』の力を扱える筈もなく、犯人は言うまでもなく怒りに任せた鬼の仕業である。
「――ちょっとジード! どうしたのよ!?」
「おい、その魔力……!!」
「あ、いや、悪い。なんかヴォルフが怒っててさ、少し待っててくれないか……」
様子のおかしいジードを不安げに見つめるエレナと、唐突に感じる事となったヴォルフの面影に目を輝かせるジルヴェルト。
そんな二人へ頬を引き攣らせながら現状を伝えたジードは、短く息を吐くと念話を再開した。
『なぁヴォルフ――俺、なんでヴォルフが怒ってるのか、さっぱりわかんないんだけど……』
『ほう――貴様はこの仕打ちを無自覚と言うか……あろう事かこのオレの魔力に! 最も低俗な魔力を混ぜようとした、この屈辱的な仕打ちを……!』
『あっ――』
そこまで言われてジードは漸く理解する。何故ここまでヴォルフが怒りを露わにしているのかを。
――そう、ヴォルフは鬼族の末端に属する子鬼をこれでもかと毛嫌いしているのだ。それこそ、視界の端にでも映ろうものなら問答無用で消し去る程である。
そんな相手の魔力を、自身の魔力と混ぜ合わそうとされては、黙っている訳にはいかないだろう。
だが、それでもヴォルフがギリギリの所まで制止を掛けなかったのは、ジードが自身の思いに気付くと言う期待があったからか。
結果、見事期待は打ち砕かれ、怒りは二倍増しとなった訳であるが。
『これも貴様が成長する為の手段と割り切り、受け入れるのも致し方なしと思っていたが、選りに選って子鬼だと? この先如何なる事があろうとも、奴等から魔力を吸収する事だけは許さん。良いか、如何なる事があろうともだ!!』
『……わかったよ。次はもうしない、約束する。その、気が利かなくて悪かった、ごめん――』
苛立ちを隠す気も無い、思わず身震いするような低い声色でヴォルフは一方的な要求――否、命令を突きつける。普段であれば反抗の一つでもして可笑しくないジードだが、珍しく一回で聞き分けたのだ。
と言うのも、誰にだって譲れないものがある。エレナが気にする服の汚れ然り、ジルヴェルトの闘いへの心持ち然り、だ。
今回はヴォルフの譲れないものを、ジードが正しく感じ取ったが故の謝罪なのだろう。
『わかればそれで良い。他の奴等にも言っておけ、吸収する魔力はよく選べとな――』
相棒の素直な態度に満足したのか、ヴォルフはそれ以上声を荒げる事もなく、言付けだけを残し念話を遮断する。
それに伴い、ジードは自身の体内から発せられていた威圧感より解放されるのだった。
「――悪い、お待たせ」
ジードは強張らせていた肩の力を抜き、額に浮かんでいた汗を手で拭うと深く息を吐き出した。
すると、気が気でない様子で待っていたエレナが、やや前傾姿勢で食い付かんばかりに口を開く。
「ううん。それで? ヴォルちゃんは何で怒ってたの?」
「ああ、吸収しようとしたのが子鬼だったのが気に入らなかったみたいだ……」
「あっ――そう言えば、嫌いって言ってたわよね……」
怒りの理由を聞いて、何故だか納得したように呟くエレナ。片頬だけをひくつかせ、遠い目をするその様子は、以前の遠征時のヴォルフを思い出しているのだろう。
そこに子鬼がいると言うだけで、周囲の生物も、草も、木も、岩も、諸共消し去り更地へと変えてしまう鬼だ。
発見し次第即処分を掲げるヴォルフに、息を呑まされたのは記憶に新しい二人だ。引き攣り顔で目を合わせ、分かり合ったように乾いた笑いを漏らす。
だがしかし、ジルヴェルトからすれば寝耳に水な訳で――、
「おい、一体どういう事か説明しろ!」
「あー、ヴォルフは子鬼が嫌いって言うか、存在そのものを認めてないみたいな……? なんか、種族的に同じ鬼族になるみたいなんだけど、それが許せないみたいで――」
「っ馬鹿野郎! んでそーゆうのは先に言っとかねぇんだよ! もう子鬼を用意しちまったじゃねぇか!! これで旦那の機嫌を損ねて勝負がパーになったらどうすんだよ、ぁあ!?」
珍しく焦りを露に、ジードへと掴み掛かるジルヴェルト。ヴォルフとの再戦が無かった事になるのでは――、と危惧するその様は、異常なまでに切羽詰まっている。
仮に約束が無効にでもなろうものなら、口から魂が抜け出てしまうのではないかと思わせる程だ。
「きゅ、吸収するものはよく選べとは言ってたけど、そんな事は言ってなかったから大丈夫だとは思う」
「本当だな!? おし、決めたぞ。俺ぁこれから、子鬼の魔力は吸収しねぇ。見つけ次第片っ端からぶっ殺す。おめぇ等もそうしろよ。良いな?」
「お、おう……」
「わかった、わ……」
ギロリと睨みを利かせ、弟子二人を威圧する駄目師匠。先程自らが呈した、実際に魔力へ触れて違いを感じると言うのはどこへやら。
平然と私欲を優先する駄目な大人の典型を目の当たりにしては、二人は苦笑いで応じるより他ないだろう。
「おら、そうと決まりゃあさっきの続きだ。魔物を探知しつつ、子鬼以外の魔力を吸収してくぞ。他の魔物の魔力を覚えていきゃ、どれが子鬼の魔力かもわかってくんだろ」
「おうっ!」
「それからおめぇもついでにここに居ろ。操縦はあいつに任しときゃ良いからよ」
「あっ、うん。了解よ」
修業の方針に『魔力の吸収』を加え、気持ち新たに修業に取り掛かろうとしたその時、ジードが不意にあっ――と声を漏らした。
「そういやこれ、どうすんだよ……」
客室を覗けるようになってしまった屋根を見つめ、溜め息を禁じ得ないジードなのであった。
***
それからと言うもの、張り合う相手を得た事により一層修業に熱の入るジードは、子鬼以外の魔物を次々に吸収していき着実に探知の精度を上げていった。
修業が進むに連れて、元々魔力探知の類に優れていたエレナはもとより、ジードまでもが百発百中に近い成功率を叩き出し始めていた。
やはり実際に身体で感じるのと感じないのでは、天と地ほどの差があると言う訳だ。
更にエレナに至っては、この短時間の間に直接相手に触れずとも魔力を吸収出来るまでに成長したのだから驚きである。
そして現在も、二人の争いは継続している。
「――上っ!」
「――上だっ!」
若干の誤差こそあるものの、ほぼ同時に声を上げた両名。僅差で軍配はエレナに挙がるが、今優先すべきはそこではない。
宣言より数瞬後。魔鳥車の遥か上空から、鳥の体に人型の頭部を持つ魔物『ハルピュイア』が太陽を背に急降下して、強襲を図ったのである。
逆光と言う天然の目くらましを用いて、獲物への接近を試みるハルピュイア。だが、よりによって魔力探知の精度を競い合っている最中に襲い掛かるとは、間の悪いことこの上ない。
「――――!」
ハルピュイアは標的に気付かれたとわかるや否や、およそ人の口から発せられたとは思えない奇声に近い金切り声を響かせる。
そしてそのまま、異様に発達した鉤爪を獲物の頭蓋に突き立てようと一気に速度を上げていく。しかし――、
「うるせぇっつうの」
不快そうに眉根を寄せたジルヴェルトが、巨大な砂の腕を一振り。
蠅叩きを思わせるその鋭い一撃により、自身が出していた速度以上の勢いで地面に叩きつけられるハルピュイア。
衝突により鈍い音を響かせたその体は、僅かな間痙攣を起こしていたが、やがてピクリとも動かなくなった。
地上から迫る魔物は砂の槍で貫き、空から迫る魔物は砂の腕ではたき落とす。
これがジルヴェルトの対雑魚敵用の常套手段である。既に今回の調査だけで幾度となく行われており、その安定した殺傷度を疑うものは誰もいない。
そしてまた、事切れたハルピュイアの魔力はジルヴェルトへ吸い取られ、循環の一部へと加わっていく。
「なぁ! 今のは俺のが早かったよな!?」
そんな中、ジードがそう言って期待に満ちた視線を投げ掛けるのは、エレナの相棒――妖精のレミンだ。
普段はエレナの体内にいる彼女だが、魔鳥車の屋根に空いた穴の修繕について二人が頭を悩ましている際に、勝手に飛び出てきてしまったのだ。
宿主の制止も聞かず、久方振りの外の世界に大はしゃぎする困ったさんは、一頻り自由に空を飛び回ったのち、自信満々に薄い胸をトンと叩いたのである。
『へっへーんっ。レミンにまっかせなさ~い!』
そう宣言した妖精は、困惑する二人を余所にぽっかりと空いた穴へ飛翔したまま近寄ると、端の部分から蔓状の木を生やし始めたのだ。
妖精によって生み出されたその木は絡み合いながら生長していき、徐々に穴を小さくしていくと、やがて完全に穴を塞いでしまった。
ぽかんと口を開けている二人を余所に、これでもかと平たい胸を張るレミン。
ふっふっふっふ――、とわざとらしい不敵な笑いを交え、渾身のドヤ顔を披露するその様子は、これがもし彼女でなく別の誰かであったなら非難必至の案件である。
そしてその後もずるずると居座り続け、現在は面白がって審判を務めている次第だ。
「ぶっぶー、残念。エレナの勝ちでした~」
移動する魔鳥車と併走するようにひらひらと宙を舞っているレミンは、ジードの問い掛けに対して胸の前で腕を交差させた。
「またかよっ!? もしかして贔屓してないか?」
楽しげな声で告げられた敗北に、ジードは納得がいかないようで因縁を付け始めた。
「あー! そう言う事言っちゃう!? レミンはずるっこしないもん! だったらジルジルに聞いてみよーよ、ねぇジルジル!」
すると当然、レミンからすれば面白くないわけで、心外だとばかりに唇を尖らせる。
そして、事の判決を第三者へと預けたのだが――、
「けっ、んなこた俺が知るかよ、面倒臭ぇ。だいたいおめぇ、何の為の審判だっつーの」
ジルジルなどという、あまりにも不似合いな愛称で呼び掛けられたジルヴェルトが呼び名通りの愛嬌を発揮する訳もなく、いつも通り棘のある言葉を返す。
しかし、通常であれば怯んで口ごもってしまうような彼の態度も、この妖精には通用しない。
「ふーんだ、べーだっ、ジルジルの意地悪!」
「おう、意地悪で結構結構」
「むぅー。意地悪っ! ばかばかばかっ!!」
「おう、それは良かったな」
小馬鹿にしたようなジルヴェルトの態度に、レミンは頬を風船のように膨らませる。
彼女も暴言こそ吐いているが、その表情は不満も言うよりはどこか楽しげだ。言うならば、子供が構ってほしくてちょっかいを掛けているようなものだろうか。
対するジルヴェルトも喉を鳴らすように笑ったりと、案外満更ではないようで、レミンとのやり取りを楽しんでいるような節がある。
――そう、何故だか二人は初対面の時から相性は悪くないのである。
そんな二人のやり取りを何とも言えない表情で見守っていたジードとエレナだが、再び魔鳥車へと近づいてくる魔力を感じ取ったようで、唐突に声を張った。
「「――また来たっ」」
二人の声は見事に声が揃っており、今回の勝負は今の所引き分け。
「でもこの魔力はなんだ……?」
「わかんない。多分初めて来る魔物だと思う。それに何か嫌な感じ……」
怪訝な顔で空を睨む二人。
なにやら魔物の存在こそ感じ取っているものの、その種族に心当たりは無いようである。
そして、先程までは雲一つ無い青空であったにも関わらず、丁度魔鳥車の上空辺りには小さな黒雲がぽつんと姿を覗かせていたのだ。
するとその時――レミンで遊んでいたジルヴェルトが途端に声を荒げた。
「――おいチビっ! ストルドフの野郎に全速力で飛ばせっ言ってこい!!」
「――うん、任せてっ!」
切迫した様子で唾を飛ばしながら吠えるジルヴェルトの指示に、レミンは短く首肯すると慌てて御者台の方へと飛んでいく。
普段でレミンあれば文句の一つや二つあっても可笑しくないのだが、今回に限っては反抗する素振りすら見受けられない。それは彼女の魔物としての本能が、一刻の猶予も許されないと警報を鳴らしているからに他ならない――。
その後間もなく。
「おう!?」
「きゃっ!?」
魔鳥車は急加速した事で、とてつもない重力に見舞われたジード達は、屋根に張り付くように身を屈ませる。
「来やがったな。おいおめぇら、構えとけよ――」
ただ一人、ジルヴェルトだけは直立不動の状態のまま、瞬く間に黒く染まっていく空を見据えていた。