序章十話 『鬼』
セノアの村はずれ。
瓦礫塗れの同地で対峙するは、ジードから役者を変え、その身を借り受けたヴォルフと巨大熊と相成った。
「――――!!」
ジードの眼前を走り抜けた事により背を向けていた巨大熊が、振り返りざまに牙を剥き、魔力を寄越せと吠え猛る。
もしもこの巨大熊が本物の魔物へと昇華していたならば、或いは、元の熊のままであれば危機察知能力も働くのであろうが、飢餓による興奮状態の為かまるで作用していないようである。
「おい……紛い物風情が誰に牙を向けている」
ヴォルフは不敬だと言わんばかりに冷めた目で巨大熊を見据えると、唐突に開いたままの右手を突き出した。
すると、不可視の魔力波が一直線に飛んでいき、巨大熊を突き抜ける――。
「――!」
突如、巨大熊の前脚が一本、何の前触れも無く消滅した。
決して切り落とされた、焼き消された等では無く、一瞬にして跡形も無く消え失せたのだ。
それを食らった巨大熊ですら何が起きたか気付けておらず、ただ一人、ヴォルフだけが不服そうに眉根に皺を刻んた。
「ふんっ。慣れぬ身体では思うようにはいかぬか……」
どうやらヴォルフは先程の一撃で決着を付けるつもりだったようで、この結果に随分と不満があるようだ。
不機嫌を隠さないままに地を蹴ると、瞬時に巨大熊へと肉薄し、その顔面を勢い良く蹴り上げた。
その衝撃により、重さ一トンに迫る巨躯を誇る巨大熊が、易々と宙を舞った。ヴォルフは更に、落下に合わせ横蹴りをねじ込むと、まるで先程のルドルフの焼き増しのように巨躯は吹き飛び、転がっていく。
「……これが限界か。やはり人間の身体と言うのは、随分と使い辛いものだな」
悶えてはいるものの、絶命には至っていない巨大熊を確認したヴォルフは忌々しそうに舌打ちをすると、止めを刺すべくゆっくりと近付いていく。
すると突然――、
「――くっ、早いな……これでは時間が足りぬか」
前触れもなくヴォルフの顔は苦しげに歪み、身体からは意図せぬ魔力が溢れ出した。その様子から察するに、いくらヴォルフと言えど、呪印の暴走を抑えているのにも限界があるようだ。
巨大熊へと足を向けていたヴォルフだったが急遽歩みを止め、再び魔力を抑え込んでいく。その後、踵を返すと足早にルドルフの元へ。
間もなく、仰向けに横たわるルドルフの元へと到着したヴォルフは、ちらりと視線をやった。どうやら意識こそないものの、辛うじて息があるようで、それを確認したヴォルフはおもむろに語り始めた。
「無意味だったとはいえ、身を呈し仲間を守ろうとする貴様の心意気、大したものだ。このまま無駄死にとあっては、如何に人間と言えど些か哀れと言うものだ。なにより、貴様が死ぬ事によってあいつが塞ぎ込んでしまっては、オレの計画に支障を来す。故にその命、今回は救ってやる」
ヴォルフは一方的に言い終えると、ルドルフへと右手を翳す。
『――ヒール』
鬼の右手より発せられた治癒の光が、ルドルフを優しく包み込む。
すると、見るからに瀕死だった男の顔色は見る見る内に赤みを取り戻し、穏やかな寝息まで立て始めたのだ。
更には、剥き出しとなっていた大腿骨までが、時間を巻き戻しているかのように体内へと収まっていき、傷口までもが完全に元通りとなった。
「――っ。そろそろ限界のようだな……」
途端、堰を切ったように再び溢れ出した魔力に、ヴォルフは殊更顔を歪めると、慌ててルドルフを肩に担ぎ上げ駆け出した。
程なくして森の中程まで足を進めた鬼は、決して丁寧とは言えない所作でルドルフを降ろすと、急ぎその場を離れる。
そして再び、ヴォルフは惨劇の場へと舞い戻る。しかし、巨大熊へ襲い掛かる事はせず、その場でぴたりと身体を止めると忌々しげに鼻を鳴らした。
「――ふんっ。どうやら時間切れのようだ。生意気な獣をこの手で始末出来ぬのは心残りだが、目的自体は果たせた事だ。まあ、良しとするか……」
刹那、魔力が三度溢れ出る。今度ばかりはヴォルフも抗いきれないようで、漏出する魔力は留まる所を知らない。
瞬く間にヴォルフを包み込んだ魔力はやがて、鬼を象り、その色を禍々しい黒へと染めていく。
「願わくば、誰の目にも留まらず、症状が治まる事を待つばかりか。……ふっ。まさかこのオレが、成り行きに身を任せる事になろうとはな」
ヴォルフは自嘲気味に乾いた笑いを零すと、静かに瞼を下ろす。
すると間もなく。
ジードの肉体は二度大きく脈打ち、その骨格をも徐々に変え始める。
肌の色は紅黒く染まり、体格は魔力の鬼に沿うように一回りも二回りも大きく膨らんでいく。
それに連れて、ジードが元々着ていた服は耐えきれずに張り裂けていき、色を最大限に濃くした呪印が露となる。
幸い、ズボンだけはゆったりとした作りだった為、辛うじて生き残ったが、鞄の肩紐は千切れてしまい、瓦礫の上に埃を舞わせる事となった。
やがて二本の角が前頭部より突如し、鋭利な牙や爪までが晒された事で、いよいよ人ならざる存在へと変貌を遂げてしまった。
上裸に禍々しい呪印を刻み、暴走状態にあるそれは最早、ジードでもヴォルフでもなく、ただの鬼だ。いや、理性が備わっていない分、こちらの方が質が悪いだろう。
目に映る全てを葬る、災厄となり果ててしまったのだから。
「――――――!!」
ジードの身体が変貌を遂げている間に、どうにか復活した巨大熊が自らを鼓舞するかのように、あらん限りの力で咆哮を飛ばす。
そして、隻脚となった躰で不格好ながらも駆け出すと、一直線に鬼へと迫る。
巨大熊の咆哮に反応し、そちらへ振り向いた鬼ではあったが、知性を感じられない濃金の瞳は虚空を眺めたままで、まるで身構える素振りもない。
「――!」
だが巨大熊にはそのような事など関係無い。
射程圏内に入った途端、勢い良く飛び掛かると、丸太のような前脚を振り上げ鬼の首元に叩き込んだ。
鬼はこれを最後まで身構えることなく、されるがままに一撃を受け入れたが、これっぽっちも効いた様子は無く、微動だにすらしなかったのだ。
むしろ、鬼はそこで初めて巨大熊へと意識を向けたようで、首に掛けられたままの前脚をむんずと掴み取ると、歪に口元を吊り上げた。
「――! ――!」
巨大熊は拘束から逃れようと後ろ足立ちのまま激しい抵抗をみせるが、鬼はこれまたぴくりとも動かない。
それどころか、静かにしろと言わんばかりに繰り出された手刀により、巨大熊の頭部は胴体を離れ空高く飛んでいく。
残された胴体からは噴水の如く血飛沫が舞い、脳という司令塔を失った巨躯は鬼へとしなだれ掛かろうとするが、それが許される筈もなく――。
鬼は掴んだ前脚を離さないままに、強烈な前蹴りを放つ。すると鬼の手には巨大熊の前脚だけが残り、千切れた躰は水平に吹き飛んでいく。
「――」
更に鬼は右手を突き出し、急速に離れていく巨大熊に魔力波で追い討ちを掛ける。すると間もなく、魔力波に飲み込まれた胴体は跡形もなく消滅していった。
その直後、先程蹴り上げた頭部が離れた位置に落下し、ごとりと音を立てるが、既に鬼は興味を失ったようでまるで見向きもしない。
それどころか、手元に残った前脚をぞんざいに放り投げた。そして、何事もなかったかのように、夜空を照らす月を眺め始めるのだった。
「――――」
あれほど凶悪に思えた巨大熊も、鬼の前では虫けらも同然で、注意は引けても興味までは引けなかったようである。
只、目の前に現れたから殺した。その程度の存在でしかなかったのだろう。
それから暫く、ガンズ達村人が現場に到着するまでの間、鬼はその場を動く事は無かった――。
***
それから時は大きく流れ、鬼が去ったのちの同所にて、暫くの捜索活動が続けられた頃合いまで進む。
現在、セノア村の住人による、倒壊した家畜舎の瓦礫の撤去作業、及び、ルドルフの捜索は難航していた。
と言うのも、人力での限界は勿論、只でさえ重い心持ちの中、眼前に広がる惨状で視覚を刺激され、立ち込める血臭で嗅覚を刺激され、男達の志気はお世辞にも高いとは言い難い状況だからだ。
万が一にも遺体を見つけてしまったとあれば、満足に眠れない日々が続く事だろう。
「こんな状況で、生きてなんていられるのかよ……」
背の低い男が誰に言うでなくぼそっと呟く。
それはこの場にいる誰もが皆、口には出さずとも思っている事だろう。
原型も無いほどに崩れた家畜舎だった物を目の当たりにして。何処を見ても肉片だらけの大地を踏みしめて。この惨劇の中で生存を期待するのは、あまりにも希望的観測過ぎると言うものだ。
「――お、おいっ! なぁ、ちょっと来てくれ……!!」
すると、そんな彼らとはやや離れた場所を捜索していた別働隊の男から、焦った様子の声が上がった。村人達はその呼び掛けに手を止めると、何事かと、声の元へぞろぞろと集まっていく。
警戒半分、期待半分と言った、神妙な面持ちで近付いていく村人達だったが、男の指し示す物を目の当たりにした途端、皆一様に息を呑んでいく。
「「「――――っ!」」」
「なぁ、これ……信じられるか……?」
召集をかけた細身の男は、青い顔のまま集まった村人達を見やる。
その足元には、大の男ですら両腕で抱えきれるかどうかといった大きさを誇る、隻眼の熊の頭部が転がっていたのだ。
「「「…………」」」
あまりの衝撃に、誰もが口を噤んだまま時は流れていく。
やがて細身の男は痺れを切らしたようで、皆に聞かせるように喋りだした。
「てっきりウリ坊かと思ってひっくり返したらこれだ。それに見てくれよ、この牙。どう見ても化け物だろ……」
「そ、村長に報告しよう……」
一人が上げた提案に、考慮するまでもなく満場一致なようで、揃って首を縦に振っていると――、
「おーい! こっちにもあったぞー!!」
新たな声の登場に、村人達の視線は自ずとそちらへ流れていく。
どうやら、近付いてくるのは二人組の青年で、二人掛かりで何か大きい物体を抱えていた。
「あっちに脚が転がってたよ」
長身の青年は近づきざまにそう言うと、今来た方角を視線で示し、熊の前脚を皆に見せ付ける。
青年が掲げたそれは、成人男性の身の丈にも迫る大きさで、太さは丸太のよう。切り口には千切れた血管や筋繊維が覗いており、無理矢理に引き千切られた事が一目でわかる物となっていた。
「……多分だけど、ここでこの熊の化け物と、さっきのあの化け物が闘っていたんじゃないかと思うんだ……」
もう一人の運び手の気の弱そうな青年が、重苦しい口調で自身の予想を口にすると、村人達は表情をどんと曇らせる。恐らく、鬼の姿が脳裏を過ったのだろう。
生まれてこの方、魔物など見たことがない者が殆どだ。初めて見る魔物にしては明らかに衝撃が強すぎた。暫くはトラウマとなってしまうのは想像に容易い。
「「「…………」」」
「と、とりあえず、村長に報告するしかないよな……ひとまずっ! 集会所の前まで運ぼう。誰か、手伝ってくれ!」
不穏な空気を取り払うかのように、細身の男がやたらと大きな声を上げると、足元に転ぶ熊の頭部に手を掛けた。
「お、おうっ!」
こうして、巨大熊の頭部と前脚は村の中まで運ばれていき、残された村人達は複雑な想いを胸に秘めたまま、ルドルフの探索を再開するのだった。




