この世のすべての未確定
この世のすべての未確定
教室。夕日が明るく差し込んでいる。
授業とホームルームなどが終わって、荷物をまとめて席を立つ。
「またねー」「俺部活出るわ」「今日塾何ページやるんだっけ」
学生たちのざわめく声、音の波。
「艶子ちゃん!」
名前。
呼ばれたから、呼び返す。
「どうしたの? 佐藤さん」
ぽんと肩を叩いてきた佐藤さんは、艶子を見てしょんぼりと肩を落とした。
「名前で呼んでって、言ったのに」
「ごめんなさいね、佐藤ケイさん」
「フルネームはどうかと思うよー」
佐藤さんは腕時計を見やる。
「今日部活休みだから、私そのまま帰るんだ」
「そう」
「艶子ちゃんは?」
艶子は、す、と息を吸い込む。
「私も」
「うんうん、そっか! 帰りに寄り道しない? 駅前のカフェに新作のケーキが出てるの」
「あら、素敵ね」
艶子が返すと、佐藤さんは飛び跳ねるようにして教室を出る。
艶子が歩き出すと、遅れて制服のスカートの裾がついてくる。それから、髪。
さら、と音がしそうだと、佐藤さんが評す、髪。
すれ違うとき、クラスメイトが首をすくめる。魅入られたように、浮かされた目を向ける者もいる。引きとめたがるような、来ないでくれと願うような。
艶子は、そんなクラスメイトたちの、名前を知っている。
一人ずつの名前を、ことさらに呼ぶようなことは、あまりないけれど。いつも、呼ばれたがっている気配を、感じている。
階段を降りると、白衣の教師と出くわした。その、息苦しそうな顔。
「せんせ、さよなら」
ゆっくりと、艶子は言葉を紡ぎ出した。
相手も、険しい目見で、さよなら、と言う。それから、佐藤さんにも。さよなら、気をつけて。
「はあい、さよーなら」
佐藤さんは教師の顔色にも気づかない様子で、ぱたぱたと軽い音を立てて階段を降りていく。
校門前は、人の流れが乱れている。特に人が遠巻きになっている場所に、艶子によく似た顔立ちの、男子生徒が歩いていた。
髪色は手入れされてやや茶色い。
「よう、艶子。相変わらずだな」
「何が?」
「佐藤さんもこんにちは、相変わらずだな」
「花宮さんこんにちは、でもそろそろこんばんは、になるかも」
「相変わらず物怖じしないなあ。艶子といて、しんどくならない?」
「なりませんよ」
ふうん、と、男子生徒は唇をゆがめる。ちらりと覗くのは、白い歯。赤い舌。薄い唇をなめて、男子生徒は人垣を一瞥する。
「佐藤さんは人間だろ? 艶子は、こんなに疎まれてるのに、佐藤さんは嫌にならない?」
「そんなことないですよ」
少しむっとしたように、佐藤さんは頰を震わせる。
「艶子ちゃん、きれいだから。みんな、きれいすぎて緊張しちゃうの」
「きれい、ねえ。奴ら、ひとを見ればすぐあんな目をする。今すぐ取って食われるとでも思ってるのかねえ。俺にも艶子にも、選ぶ権利や感性があるってのに」
「兄様」
艶子は男子生徒を……兄をじっと見つめる。
兄は笑って、待ち人と合流して行ってしまった。「お前はいつ見ても取り澄ましているねえ」と呟いて。
その言葉が消え去る頃、佐藤さんがしょんぼりと呟いた。
「艶子ちゃんも、お兄さんも、誤解されやすいだけだと思うんだよ……」
「そう、ね」
艶子は佐藤さんの前に回り込む。
「ね、泣かないで。ケーキ、見に行きましょう」
佐藤さんの丸い頰に、少し赤みが戻ってくる。
「泣いてないけど……ケーキ、早く行かないと! 晩御飯入らなくなっちゃうからね」
艶子は佐藤さんと並んで歩く。たまに指先が触れるけれど、佐藤さんは艶子を振り払わなかった。
*
艶子が佐藤さんと出会ったのは、それほど前のことではない。
艶子は電車通学をしている。満員の車両では人が近寄らないので、運送会社の効率のために、人が少ない時間に乗る。早く出て、人波が少し落ち着いた頃に帰る。
ある朝、目覚ましなしに起きられるはずの自分が、うまく起きられないことがあった。
満員の電車を見送りながら、駅のホームに立っていると、同じ学校の制服を着た、小柄な少女が視界に入った。
入れそうにない電車に、ぶつかっていっては、押し戻される。
「わ」
と、艶子にぶつかってきたその子を、艶子は思わず抱きとめた。しかも、引き離されないように、親友みたいに指先を繋いでしまった。
「わわ、すみません!」
「いいの」
艶子は相手の丸い目を見る。丸い頰、平たい額、短い産毛のある生え際。
少しひび割れた唇。
胸か、腹か、分からないところが、抱きとめた相手の体で押さえられている。
長年、家族以外と、触れたことはあまりなかった。
艶子は、吸血鬼、だから。
吸血鬼、という、人の血を嗜好する者がいて、普段は他の生き物の血を支給されている。
見た目は人と変わらない。
少し、その時代に合わせて最適に、捕食しやすい外見の体を持つだけで。
艶子が見つめるだけで、人は恐怖と、それから、めちゃくちゃにされたいという気持ちを抱く。子どもの頃から、そうした、ひとの欲望を見せられてきた。
兄は、いくらでも言い返したけれど、艶子は、何て答えていいのか分からなくて、いつも、ほとんど黙っていた。
血だけがほしいわけではなかったから。
……駅のホームで、柔らかい猫っ毛の少女が、すみませんと謝っている。すぐに離れて、また謝り始める。
少女は、同じ学校の制服を着ていて、それから。
それから。
「大丈夫よ」
艶子は、唇を引き上げた。
それだけで、辺りの人々が静かになる。
艶子は少女の手を取った。
電車に踏み込むと、ざらりと人々が左右に避ける。数人は、進んで電車を降りていった。
艶子は指先で少女の乱れた前髪を直す。思った通りの手触りだった。指先がちりちりして、まるで何かを知らせているみたいだった。
艶子が微笑むと、少女が口をぽかんと開けて、
「すごい美人さんだねえ!」
その、明け透けな声。
顔。
艶子は、それを見て。
何度だって見たい、と思う。
そしてひどく、喉が乾く。
*
「艶子、食うなよ」
捕まるからな、と、兄は言う。
「兄様も」
「俺はそんなへまはしないぜ」
帰宅した家は暗く、二人で、やっと思い出したように明かりをつけた。
今日の寄り道は、楽しかった。
ケーキもお茶も、味などほとんど覚えていない。
インテリアが素敵ねと言っていた、あの子の顔ばかり覚えている。
「大丈夫よ。ともだちは、長く楽しむものでしょう?」
「ともだちっていうか、なあ……」
兄は黙って、しばらくの間、制服の袖をもてあそんでいた。




