リーマンショックな夜
「麻生さん。9時過ぎたんでそろそろ自分帰ります。麻生さんはどうされますか?」
「あー。もう9時か。俺はもう少しやっていくわ。お疲れさん。」
「じゃ、お先失礼っす。」
自分ってなんだよ。軍隊じゃねぇっつうの。あほくさ。
ここ大手町、四丸商事 機械営業部に俺は勤務する。麻生 純 32歳 入社して10年、漸く仕事も覚えた。
俺が入社したての頃は、毎晩終電だったぞ。
まぁ、たまには飲みもあったけど。時代も変わったよな。それもこれも労基署が厳しくなった影響で、うちの社では、夜9時には一斉にPCの電源落とさなきゃならなくなったからなぁ。でもPC使えなくたって日中処理出来ない雑務仕事はたくさんあるはずだがな。
「くそ、モクでも吸いに行くか。」
ひとつ下のフロアーに降り、休憩室前の自販機で缶コーヒーを買い誰もいない喫煙室に俺は入った。
「花形だけあって海外営業部さんは残ってるねぇ。あいつらタバコ吸うヤツいねえんだから上で吸えるようにすりゃあな。」
「あー、でもタバコ辞めてぇな。医者で辞めれるってヤツ今度行ってみるかな。」
タバコを揉み消し缶コーヒーを飲み干し喫煙室を後にした。
ファイリング作業を一段落して出張報告に目を通していたら、
「麻生さん、まだやってたんですね。」
そこにはさっき帰った自分呼びする武田が。
「あー、結構溜まってんだわ。」
「自分、眠気覚ましに差し入れっす。」
差し出された手には駅近くのコーヒー屋のロゴ入りの紙袋が見えた。
「サンキューな。わざわざ買ってきてくれて悪かったな。気をつけて帰れよ。」
「はい、じゃあお先失礼っす。」
なかなか気が利くじゃねぇか。武田から手渡された紙袋から出したLサイズのアイスコーヒーを一口飲み、
だがな、武田、俺はアイスコーヒーよりホットの方が良かったよ。欲を言えば、キャラメルシナモンマキアートの方が良かったけどな。
今、何時だ。
壁に掛かった時計を見るとまもなく11時半になろうと長針が動いた。
そろそろ帰るとするか。
うちの会社では、遅くなった者への救済措置でタクシーチケットでの帰宅が許されている。
まだ終電も間に合うが、ここはタクシーチケットを使わせてもらうとするか。俺は庶務の席からタクシーチケットを一枚取り出し、提携のタクシー会社へ電話し、配車してもらった。
車はすぐに正面玄関前に来るというので、俺は慌ただしく鞄に書類を詰め込みデスクを後にした。
正面玄関を出ると迎車の表示を灯したタクシーが一台停車していて、俺の姿を確認すると後部座席のドアが静かに開いた。
俺は何か違和感を感じながらも、後部座席に乗り込んだ。
運転手がバックミラー越しに
「麻生さん、こんばんは。」と声を掛けてきた。
「やー。今日は菅沼さんか、じゃあ安心だな。」
「今夜はご自宅でよろしいんですか?それとも他ですか?」
「会社のチケット使ってるから、自宅で頼みますよ。ほんとは夜の町に繰り出しいとこだけど。」
「ふっ。わかりました。」
車は緩やかに滑り出した。
車窓から移ろいゆく気色を見ながら、俺は思った。
この菅沼という男、何度か乗車して思った事だか、如才なく会話をするのに自分のことは語らず、謎に満ちた男だ。
「こんなに遅くなるとこみると、お仕事忙しいんですね。」
「そんなことないよ。俺が仕事が出来ないだけだよ。」
「天下の四丸商事に勤めている人が何をおっしゃっているんですか。」
「いや、ほんと。仕事が遅くて役立たずだから。それよか菅沼さんの方の景気はどう?」
「ぼちぼちですかね。うちは四丸さんにご贔屓にしてもらっているからいいけど、業界自体はかんばしくないですね。」
そんなとりとめもない会話をするうちに、俺は乗車した時の違和感の正体に気付いた。
この感覚は尿意だ。間違いない。
尿意を認めた途端、数値が跳ね上がった。
今の数値は75%だ。
あっ、76%に上がった。
尿意のことは忘れろ、俺。
ここから、高速を使って通常なら30分強で家につく。
そうだ、会話を楽しもう。
「菅沼さん、今日は道、どんな感じ。」
「特に渋滞とかないみたいですよ。高速乗っちゃっていいんですよね?」
「あぁ、高速で頼みますよ。少しね、疲れたから早めに帰りたくてね。」
「大変ですね。もうすぐ高速の入り口ですから、乗っちゃえばすぐ着きますよ。」
夜の道路は空いていて、タクシーがスピードにのったかと思うと赤信号に引っ掛かる、その度に俺の膀胱指数も上がり現在79%になった。
忘れようと思った尿意が脳裏から離れることは一瞬もない。
今になって武田のアイスコーヒーが効いてきて、俺は内心、武田このやろー覚えてろよと毒づいている。
信号が赤から青に変わり車は走りだし、首都高の入り口を越えた。
ここまで来れば大丈夫だろう、後20分くらいで着くであろうからと俺は安堵した。
俺を乗せたタクシーは夜の首都高をぐんぐん進む。
流れゆく景色をうっとりと眺めていると、
「東名入ったら工事渋滞みたいですね。」と菅沼さんが標示板を見ながら俺に告げた。
その言葉を聞いた途端、俺の膀胱指数は一気に上がった。
これは家までもたないな。
そう思った俺は努めて冷静な声で
「菅沼さん、東名入らないでコンビニ寄ってくれる。」と言った。
「いいですよ。じゃあ降りましょう。」
車は緩やかに左車線に入り、まもなく首都高を降りる。
「ちょっと眠気覚ましになにか飲みたくなってね、すみませんね。」
「いや、いいですよ。この先にコンビニがあるんですけどそこでいいですか?」
「あぁ、頼みます。」
タクシーはコンビニの駐車場に入り停止後、後部ドアを自動で開けてくれた。
俺は慌てているという風に決して悟られないよう、左足から降り逸る内心とは裏腹にゆっくりと店内に入り、トイレの位置を確認して向かった。
運良くトイレは空いていて俺は鍵も閉めずに便器を前にし、震えるほど慌ててスラックスのファスナーを下ろし、呪縛からの盛大な解放を試みたが我慢を体が覚えていてチョロチョロという情けない解放であった。
チョロチョロという時間をかけた解放を終え、トイレを後にした俺は菅沼さんへの言い訳に飲み物コーナーへ向かった。
菅沼さんへの差し入れも買おう。コーヒーがいいかな。俺は夕刻からコーヒー続きで胃も痛くなってきている上、喉も渇いていないが、俺が飲まないとあの人は遠慮するだろうと思い、イチゴオレとコーヒーを買うことにした。
駐車場のタクシーにコンビニのビニール袋を提げて向かうと菅沼さんがドアを開けてくれた。
どうやら俺の排尿は気付かれなかったようだ。
よし。
俺は車に乗り込み
「菅沼さん、良かったら飲んで下さいよ。どっちがいいですか?」
とイチゴオレとコーヒーを差し出すと
「悪いですね。じゃあ、こっちをいただきます。」と菅沼さんはイチゴオレを選んだ。
必然的に俺の手元にはコーヒーが残り、口のざらつきを感じながらも俺はプルタブを開けて煽った。くそー、不味い。
「こういう仕事をしていると、コーヒーばかり飲んでしまってるんでたまにはイチゴ味とかいいですね。ごちそうになってすみません。」
「いゃ、なんかそんな感じしたもんでね。」と俺はささやかな見栄を張り更にコーヒーを煽るように飲んだ。
「麻生さん、じゃあこのあとは地上で行きましょう。」
「頼みます。」
車はまた夜の町を滑り始めた。
排尿を終え落ち着きを取り戻した俺は饒舌になった。
「菅沼さん、なんか最近面白いことあった?」
「そうですねえ。面白いことですか。」
「うん。とびきり面白い話してよ。」
「そうそう、一週間くらい前の深夜2時頃、新宿を流してたら若い女の子を乗せたんですよ。」
「うんうん、」
「ホストクラブ帰りと見えるケバい女の子で新宿から町田まで乗せたんですけど、町田の手前でタクシー代がないって言い出してね。」
「それで。」
「そしたらタクシー代の代わりにおっぱい触らせるからって言うんですよ。」
「ふぅーん。で。」
「私も男ですからね、遠慮なく触らせてもらいましたよ。」
「触っただけですまなかったんじゃないの。」
「実はラブホに連れ込んで事及んで、タクシー代奢った上に小遣いまで渡しちまいましたよ。」
「へぇ、そうなの。」
「ふふ、まぁ据え膳喰わぬはって感じですかね。」
「へぇ、じゃあさ、もし俺がタクシー代ないから体で払うって言ったらどうする?」
「麻生さん、からかわないで下さいよ。」
「いや、ほんと。俺の事もラブホに連れ込んじゃう?」
「もうからかわないで下さいよ。」
「結構本気なのにな。」
「………」
「…………」
沈黙の中、カーラジオから曲が流れてきた。
「あー、この曲、俺好きなんだよ。さびがすごく切なくて。」
「最近、よく流れてますよね。」
曲に耳をすましていると、車が減速して見慣れた家の前に停車した。
「麻生さん、ご自宅に着きましたよ。」
「あぁ、いくらになる?」
先ほど止めたメーターに視線を走らせた菅沼さんに
「6250円になります。」と云われ
俺はボールペンを借り、云われた金額をタクシーチケットに記入し、
「じゃあ、これで。」
と手渡した。
「毎度ありがとうございます。またよろしくお願いします。」
「あぁ、曲のさび聞く前に着いちまったからなぁ。じゃあおやすみ。」
菅沼さんのありがとうございますという声を背に俺はタクシーを降車した。
♪ふふふーん 心で繋がっていても 言葉じゃなきゃわからない
心で繋がっていても からだじゃなきゃわからない♪
「いい曲だねぇ。麻生さん、私も大好きだよ。フフ」
♪♪♪
「はーい。TOKIO FM ミッドナイトラジオドラマ 男と男の曲がり角シリーズ 第4夜 ゛リーマンショックな夜゛の収録 無事 終わりとなります。尚、この後休憩をはさんで、高木さんには引き続き男と男の曲がり角シリーズ 第5夜 郵便配達員と僧侶の ゛坊主愛しや袈裟まで愛し゛の僧侶役 よろしくお願いします。本郷さんは来週の収録 よろしくお願いします。お疲れさまでした。」
「お疲れさまでした。」
「お疲れさまでした。」




