1-5
「やべえ、コンパス忘れた」
昼休みの終わり、一際大きな圭太の声が、教室内に響く。
一瞬教室内に静寂が落ち、すぐに会話が再開された。
教室にいた誰もが、自分がターゲットにならないことを祈った。
圭太は海の後ろの席まで来ると、おもむろにキツネの筆箱をまさぐった。
程なく、彼は目的の物を見つけたようだった。
「なあ、ちょっとこれ借りるぜ」
キツネの返答も待たず、圭太はそれを手に取る。
狐は何も言わずに、それを見ていた。
「け、圭太くん。よかったら、僕のを…」
「はぁ?膿のコンパスなんか使えるかよ。お前のそれがうつったらどうすんだよ」
厭らしい笑顔を浮かべながら、圭太は海の申し出をあっさりと却下した。
海は何も言うことができず、差し出したコンパスを握りしめる。
圭太の言葉は、海の中の柔らかい所に小さな重りを付けていく。
それらは確実に積み重なり、海の自由を奪っていく。立ち上がることをできなくさせる。
「まあ、そういうことだからよ。悪いな」
「お前、馬鹿だな」
去ろうとした圭太に、誰かの声が呼び止めた。
「は?」
「お前、馬鹿だな」
全く同じ言葉を繰り返したその声の主がキツネだと気が付くのに、教室の誰もが時間を要した。
自己紹介の時ですら声を発しなかったキツネの声を聴いたのは、多くのクラスメイトが初めてだったのだろう。
「同じ授業を受けてるんだぜ?わたしがそれを使わないわけないだろうが」
唖然としている圭太の手からコンパスを取り返すと、キツネは自分の席に戻った。
追いかけようとした圭太を引き留めるように昼休みのチャイムが鳴り、担任が教室にやってきたため、圭太はキツネを睨むに留まった。
「おいキツネ。酷い事するなあお前」
昼休み。
圭太が仲間を引き連れて、海とキツネのもとへやってきたのは、まったくもって海の想像通りだった。
圭太は数名の取り巻きとともに海とキツネを囲み、言い古されたような言葉を二人に投げつける。
お面を剥ぎ取ろうとした時だった。
何もせず、声すら発しなかったキツネがその腕をはねのけた。
圭太は一瞬何をされたかわからないといった表情でただキツネの面を見ていたが、すぐにニヤニヤと笑いながら、キツネに迫る。
「おい、何してんだお前。お前なんかが俺に」
そのセリフを言い終わることはできなかった。
キツネの拳が圭太の鳩尾にめり込んでいた。思わずかがみこもうとした圭太の顔面を蹴り飛ばす。
「…気安く触るんじゃねえよ」
倒れた圭太の腹を踏みつけ、キツネは圭太の耳元で囁くように言った。
「…キヒヒ」
「あれくらい、何でもねぇよ」
海の方を見もせず、キツネは言った。
「どうせ何か告げ口されたところで、ガキのケンカだ。そんなことはしないだろうけどな。女子にやられたなんて、普通の神経持った男子なら言えないだろ?」
「僕は別に…言えるけど」
「なあ、お前なんでイジメられてんだよ」
なぜだ。
考えるまでもなかった。反射的とも思えるほど滑らかに、言葉は海の頭の中を駆け回り始める。
それは、ほかの人と、自分が違うから。
人は、自分とは違う者を、遠ざける。
自分には痣があるから。
醜い痣があるから。
他の人と違うから、だから。
海の思いは、言葉にならなかった。
駆け巡る言葉は別の物となって、海の両目からあふれ出してきた。
思わず俯いた海は、いつの間にか狐が目の前に立っていたことに気が付かなかった。
「なあ、あいつらには絶対できないことしようぜ」
「えっ?」
「…キヒヒ」
狐は海の両手を壁に押さえつけるようにして自由を奪う。
そのままゆっくりと海の痣に顔を近づけると、唇を付けた。
湿った吐息と生暖かい感触が、海に纏わりつく。
そのまま狐は、海の痣に沿うようにゆっくりと舌を這わせた。
「ぅ…っ」
体感したことのない、独特のぬめりが海を支配していく。
同時に、体が熱くなるような湧き上がる思いを、海は感じていた。
「ほら、次は君の番だぜ」
海の痣をゆっくりと三周したあとで、狐は耳元で囁いた。
ゆっくりと狐の面をずらしていく。
至近距離で狐の素顔を見た海は、一瞬目を見開いてしまった。
狐の左目から鼻にかけて、赤黒い痣に覆われていたのだ。
海は狐がしたように、その顔の痣に口づけ、舌を這わせる。
まるでそうすることが当然の行為のように。
きっちり三回その痣を舌でなぞると、至近距離で二人は見つめ合った。