大寧寺の変 雫
出陣の様子を見に行って疲れたのかその後は家中のことを手伝えずに布団で横になっていた。
顔色の悪さや少し動いて息が上がるのをみた女中さんや尾崎局から何も手伝わなくていと言われ、凄く情けなくなってしまった。
「雫殿。……顔色は、少しは良くなりましたか。」
襖を開けて入ってきた尾崎局様は、戦の中という緊急時でもいつものように凛として、一寸の乱れもない「毛利の正室」の姿だった。
横たわったまま見上げる彼女の横顔は、彫刻のように美しく、冷たい。
けれど、彼女が私の枕元に膝を突いた瞬間。
――ツン、と。
私の鼻腔を突いたのは、彼女が纏う雅な香木の香りではなく、もっと生々しく、鋭い、あの「鉄の匂い」だった。
私が産褥で流し、今も私を苦しめている、あの忌まわしい血の匂い。
……え?
視線を下げると、彼女が膝の上で重ねている右手の、爪の生え際が微かに赤い。
拭いきれなかったのか、それとも、拭っても拭っても内側から溢れ出してくる絶望が、そこに滲んでいるのか。
きっとこれは血だ。
「……尾崎、様……?」
私がその指先に触れようと手を伸ばすと、彼女は弾かれたようにその手を引き、袖の中に隠した。その一瞬の、恐怖に震えるような瞳を見て、私は悟ってしまった。
この人も、私と同じだ。
誰にも言えない痛みを抱えて、今、この場所で、死ぬほど無理をして立っているんだ。
そういえば尾崎局は大内義隆の養女……。平気なはずがない。
でも彼女の立場(毛利隆元の正室)が彼女を強いひとで居なければならない状況に追い詰めている。
「……っ!お、おざ……き……さま。」
言葉が上手く出ない。
なんと言えばいいのだろう。
私はこういう時かける言葉が見つからない。
この前の隆元様もそうだ。
体も動かない、言葉もかけられない。
私は無力だ。
視界が滲むのを見て尾崎局は少し驚き
「どこか痛みますか?」
と心配そうに聞いてくる。
私はなんと答えていいか分からず、息が上がり心臓がバクバクと音を上げる中、尾崎局に抱きついた。
ハグをすると人間ストレスが軽減されると聞いたことがある。
すこしでも優しく凛々しい彼女の支えになりたかった。
「…………怖い夢でも見ましたか?」
「……ふふっ……私そこまで子供じゃないですよ。」
そう言いながら泣き続ける私の背中をとんとんと優しく叩き続けてくれた。
「……尾崎様。私は、見てきたわけではありませんが、信じているのです」
雫は、尾崎局様の背中に回した手に、微かに力を込めた。
「隆元様の中には大内義隆公の教えが生きています。今回の戦がどういう結果になろうとも、あの人が必ずあなたの故郷を再興してくれます。
そして大内義隆公が夢見た世界を作るために想いを繋いでいきます。
…………もちろん今回の事で助けられない命や失うものは沢山あるでしょう。
だから、貴方も、もし誰にも言えなくて辛い時、私の側で泣いてください。
私は貴方に私と紡の命を救ってもらった恩があるから、あなたの役にも立ちたいと思っているんですよ。」
尾崎局の手が、ふと止まった。
そして私を抱きしめ額を私の胸元に当てた。
顔は見えない。いや、見せたくないのかな。
長く深いため息をついた尾崎局の背中を見る。
ここ数日で少し痩せたようにも見える。それほど忙しかったのか。体も心も。
「……雫様。貴女は、本当にお節介な人ね。そしてとてもお人好しね。」
顔を上げた尾崎局の表情は、いつもの凛とした正室の顔に戻っていた。
けれど、その瞳の奥は穏やかな、凪の瀬戸内海のような光が宿っている。
彼女は、袖の中に隠していた右手をゆっくりと取り出した。
爪の生え際に残る赤黒い汚れ。彼女はそれを隠すのをやめ、私の目の前で、自分の着物の端で静かに拭った。
「……貴女にそう言われては、私が倒れるわけにはいかなくなったわ。……紡の母として、そして、あの人の帰る場所を守る主として。」
尾崎局は、私の頬に手を添え、親指で大切なものを撫でるように私の涙を拭った。
その指はまだ少し震えていたけれど、先ほどのような「拒絶」の震えではない。
「雫殿。……貴女がいてくれて、良かった。私にとっても……殿にとっても。」
その言葉は、誰にも聞こえないほどの小さな囁きだったけれど、私は
「……っ。私も……貴方が側にいて良かった。」
そうニコッと笑って返した。




