大寧寺の変 尾崎局
夜。吉田郡山城の奥深く、正室の居室。
人払いをし、行灯の火を極限まで小さくした部屋の中で、座ったまま動かずにいた。
そろそろ雫様の様子も見に行かなければ……。あの方はまだ血虚で少し動くと心の臓が痛いのか浅く故郷をし座り込んでしまう。
なのにどうにか殿(隆元)の役に立とうと無理をする。無理をすればすぐにでもあの世に連れていかれてしまうような身体だというのに。
昼間、侍女たちの前で見せていた凛とした背筋は、今は重力に耐えかねたように丸まっていた。
彼女の手元には、幼い頃、山口で義隆様から贈られた美しい蒔絵の小箱があった。蒔絵を撫でる。
……ああ、まただ。
自分の右手が、意思に反して細かく、激しく震えているのに気づく。
それを止めるように左手で強く抑え込むが、震えは止まらない。それどころか、心臓の鼓動が耳元で早鐘のように打ち鳴らされ、呼吸の仕方を忘れたように胸が苦しくなる。
声を上げることも、誰かを呼ぶことも自分には許されない。
助けてと言えたらどれだけ楽であろう。
「……私は、毛利の妻。……内藤の娘……。」
本当は大内の(養)娘でもあるのに。
大内のとは今は口が裂けても言えなかった。
自分に言い聞かせる呪文のような言葉が、口の中で虚しく響く。
目を閉じれば、燃える山口の空が見える。
耳を澄ませば、愛する養父が追い詰められ、無念の刃を腹に立てる音が聞こえる気がする。
そして何より恐ろしいのは、その刃を研いだのが、自分を「妻」と呼ぶ隆元であり、自分を「娘」と呼ぶ父・興盛であるという事実。
自分の白く傷1つすらない腹に爪を立てた。
死にたいわけではない。ただ、この身体の奥にせり上がる「叫び」を、物理的な痛みで抑え込むしかなかったのだ。
幾筋もの赤い爪痕が刻まれる。自らの血の匂いを感じて初めて、彼女は自分がまだ「現実」に繋ぎ止められていることを実感し、小さく息を吐いた。
「……雫様。……羨ましい。……あの血の海から、愛する人の子を抱いて、戻ってこられたのだから」
まだ見ぬ我が子……。
そして紡姫を産み落とした雫の強さを思い出し、子ができぬ腹に爪をより深く立てた。
隆元様と睦み合い、年月を重ねてきた。けれど、その種が芽吹く気配は一度としてなかった。
「いつかは」という侍女たちの慰めは、今や彼女の耳には呪いの言葉にしか聞こえない。
私は、何のためにこの家にいるのだ。……養父を裏切り、故郷を見捨て、それでもなお、この家を繋ぐことすら叶わぬというのか。
戦国という時代において、跡継ぎを産めぬ正室は、中身のない美しい器に過ぎない。
自分は、義隆公が愛した山口を「殺す」ことでしか、毛利の家を守れない。
この手は、血に染まっているわけではない。なのに、どうしてこれほどまでに生臭く、鉄の匂いがしてならないのか。
彼女は震える手で小箱を抱きしめ、暗闇の中で、誰にも見せることのない涙を、音もなく流し続けた。




