幽霊のような
緊急の軍議があったようだ。
ついに太寧寺の変が始まるのだろう。
軍議が終わった後の、夜の冷気が入り込む隆元様の部屋。
まだふらつく身体をなんとか動かしお茶を持っていく。
そこには、以前のように楽しげに筆を走らせる姿はなく、ただ、消えかけた行灯の光の中で、隆元様が幽霊のように動かずに座っていた。
あぁこの人はきっと…。
自分の胸元を、心臓の重苦しい鼓動をなだめるように一撫でしてから、静かに部屋に入った。
「……隆元様。お茶を、お持ちしました」
その声に、隆元様はゆっくりと顔を上げた。その目は黒く光がなかった。かつて山口の風景を描いていた時の輝きは、どこにもなかった。彼は自分の喉元を、せり上がる感情を押し殺すように強く撫でて、掠れた声で呟いた。
「……雫殿。……儂は、以前お主に言ったな。『未来はよい世界じゃな』と」
以前彼がこの部屋でふわりと笑った時の顔を思い出して、胸の奥がツンと痛んだ。
「はい。……覚えています」
「あのお方は……義隆様は、かつて人質であった儂に、この世には武力よりも尊いものがあると教えてくださった。……絵を描き、詩を詠み、異国の文化を慈しむ。あのお方が作ろうとしていたのは、お主がいた未来のような、誰もが笑って筆を握れる世であったはずなのだ」
隆元様は、机の上に置かれた、描きかけの山口の風景画を見つめた。
その絵は、かつて「綺麗ですね」と雫が言った、あの憧れの場所。
「それを……儂は、己の手で壊そうとする者たちに、手を貸すと決めた。……父上は仰る。これが『家』を守るための正道だと。……だが、恩人を裏切り、憧れを泥で汚して守る『家』に、果たして価値などあるのだろうか」
隆元様は、ただ絶望に耐えるように強く服を握っている。
確か一説には大内義隆は月山富田城の戦いだっけ?それで負けたから文化に傾倒したって。それで重税をしようとしたり、政をしなかったってあったような。
でも隆元様の話す"大内義隆"は少し違うようだ。
隆元様の傍らに膝をついた。
現代の高校生である自分には、戦国の非情な決断を止める力なんてない。
それに史実では大内義隆は陶晴賢に敗れ、太寧寺の変で命を落とす。毛利家はその時陶晴賢の味方をしていた。
変えてはいけないのだ。
毛利家が史実通り大大名に成長するためには大内家には滅びてもらわなければならない。
けれど、史実がどうであろうとも、運命や未来が決まっておろうとも、彼がどれほど「誠実」でありたいと願っていたかは、私が知っている。
「……隆元様。……きっと醜いのは、理想を切り捨てる世の中の方です。世の中が間違っていると思います。だから……」
雫は、震える手で、隆元様の冷たくなった指先にそっと触れた。
「……山口のあの風景を、いつかまた、隆元様と一緒に見たいです。……その時まで、私が、あなたの心を預かっていますから、辛い時はそうやって我慢して飲み込まなくてもいいんです。」
「……雛殿。……お主だけは、儂に甘いと言わぬのだな。しかも世の中の方が間違いなんて……。……済まぬ。……今は、ただ、こうしていさせてくれ」
暗い部屋の中で、隆元様はお茶が冷たくなる程長い時間私を強く抱きしめて、まるで自分の辛さになんとか耐えようとしているようだった。
私はかつて語り合った「美しい未来」の残像を分かち合うように、寄り添い続けていた。




