産後の肥立ち
夜が明けても、雫様の身体は凍てついたままだった。
失われた血の代わりを果たすものはこの部屋にはない。私はただ、彼女の生命力が、自身の内で新しい血を紡ぎ出すのを待つしかなかった。
「……雫様、お聞きなさい。」
私は、雫様の耳元でささやき続ける。
時折、彼女の呼吸がふっと途切れる。そのたびに私の心臓も止まりそうになるが、動揺を見せるわけにはいかない。産婆たちが「もう仏様をお呼びしては……。」と弱音を吐くのを、私は一瞥で黙らせた。
死なせない。きっとこの方はこの家に必要なのだ。
私が敬愛する隆元様があれだけ目をかけ大切にしてきた子だ。
死なせるわけにいかない。
思い出すのは彼女が"彼"として一生懸命素振りをする姿だった。
昼下がり、雫様の肌に、不吉な熱が宿り始めた。
血を失い、抵抗力を無くした身体が、微かな外敵に怯えて火を吹いている。
よく出産直後熱を出し亡くなるという話を聞く。
私は乃美の方と二人、幾度も湯を替え、彼女の額や脇を冷やし続けた。
彼女の唇は熱でひび割れ、時折「……おとう、さん……おかあ…さん」と、聞いたこともないほど幼い声でうわ言を漏らす。
その声に、私は胸を締め付けられた。
景様と同い年と聞いたがそれよりひどく幼く見えた。
流れる涙を拭いながらこの御方は今、私たちが到底届かぬほどの遠い場所で、誰かの背中を追っているのだと感じた。
「雫様! 追いかけてはなりません! あなたには、ここで抱かねばならぬ子がいるのです!」
私は、元就公が用意させた当帰の煎じ薬を、自分の口に含み、彼女の唇をこじ開けて少しずつ流し込んだ。
飲み込む力さえない彼女の喉を、優しく、けれど力強く撫で下ろす。
「……飲みなさい。……生きなさい。あなたを待つ人がいるのですよ。」
翌日の夜、月が雲に隠れ、部屋の中は行灯の微かな光だけになった。
雫様の熱は引き、代わりに、驚くほどの冷気が彼女を包んだ。
これは「快方」ではない。命の種火が尽きかけている証だ。
私は、彼女の薄い胸に耳を当てた。
「ドクン……、……ドクン……」
あまりに遅く、あまりに弱々しい鼓動。
医学など知らぬ私にもわかった。今、この瞬間に彼女がこちらを向けなければ、夜明けとともに魂は消えてしまう。
私は、産婆たちを下がらせ、彼女が産んだ女子を力なくだらんと垂れている腕に抱かせた。
「雫様……。ご覧なさい。あなたの産んだ姫は、これほどに小さく、儚い。……この子を、日の当たる場所で『毛利の姫』として育てるには、あなたの……母であるあなたの魂が、この子を支えねばならぬのです。」
その時だった。
雫様の指先が、私の腕の中で、かすかに、本当にかすかに痙攣するように動いた。
「……ぁ……、……ふ……っ」
肺の奥に、無理やり空気を引き込むような、ひりついた呼吸。
続いて、彼女の瞳が、ゆっくりと、震えながら持ち上がった。
焦点は合っていない。どこを見ているのかもわからない。
けれど、その瞳に宿ったのは、死の影ではなく、生きようとする猛烈な執念の光だった。
私は、彼女の青白い頬を両手で包み、涙を堪えて微笑んだ。
「……お帰りなさいませ。……よく、戻られましたね。」
夜明けの光が、障子越しに白く差し込み始めていた。
三日間、一歩も引かずに守り抜いた「命」が、ようやく私の手の中で、確かな重みを取り戻した瞬間だった。




