表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鼓星  作者: 吉川元景
41/55

産後の肥立ち

夜が明けても、雫様の身体は凍てついたままだった。

失われた血の代わりを果たすものはこの部屋にはない。私はただ、彼女の生命力が、自身の内で新しい血を紡ぎ出すのを待つしかなかった。

「……雫様、お聞きなさい。」

私は、雫様の耳元でささやき続ける。

時折、彼女の呼吸がふっと途切れる。そのたびに私の心臓も止まりそうになるが、動揺を見せるわけにはいかない。産婆たちが「もう仏様をお呼びしては……。」と弱音を吐くのを、私は一瞥いちべつで黙らせた。

死なせない。きっとこの方はこの家に必要なのだ。

私が敬愛する隆元様があれだけ目をかけ大切にしてきた子だ。

死なせるわけにいかない。

思い出すのは彼女が"彼"として一生懸命素振りをする姿だった。


昼下がり、雫様の肌に、不吉な熱が宿り始めた。

血を失い、抵抗力を無くした身体が、微かな外敵に怯えて火を吹いている。

よく出産直後熱を出し亡くなるという話を聞く。

私は乃美の方と二人、幾度も湯を替え、彼女の額や脇を冷やし続けた。

彼女の唇は熱でひび割れ、時折「……おとう、さん……おかあ…さん」と、聞いたこともないほど幼い声でうわ言を漏らす。

その声に、私は胸を締め付けられた。

景様と同い年と聞いたがそれよりひどく幼く見えた。

流れる涙を拭いながらこの御方は今、私たちが到底届かぬほどの遠い場所で、誰かの背中を追っているのだと感じた。

「雫様! 追いかけてはなりません! あなたには、ここで抱かねばならぬ子がいるのです!」

私は、元就公が用意させた当帰とうきの煎じ薬を、自分の口に含み、彼女の唇をこじ開けて少しずつ流し込んだ。

飲み込む力さえない彼女の喉を、優しく、けれど力強く撫で下ろす。

「……飲みなさい。……生きなさい。あなたを待つ人がいるのですよ。」


翌日の夜、月が雲に隠れ、部屋の中は行灯あんどんの微かな光だけになった。

雫様の熱は引き、代わりに、驚くほどの冷気が彼女を包んだ。

これは「快方」ではない。命の種火が尽きかけている証だ。

私は、彼女の薄い胸に耳を当てた。

「ドクン……、……ドクン……」

あまりに遅く、あまりに弱々しい鼓動。

医学など知らぬ私にもわかった。今、この瞬間に彼女がこちらを向けなければ、夜明けとともに魂は消えてしまう。

私は、産婆たちを下がらせ、彼女が産んだ女子を力なくだらんと垂れている腕に抱かせた。

「雫様……。ご覧なさい。あなたの産んだ姫は、これほどに小さく、儚い。……この子を、日の当たる場所で『毛利の姫』として育てるには、あなたの……母であるあなたの魂が、この子を支えねばならぬのです。」

その時だった。

雫様の指先が、私の腕の中で、かすかに、本当にかすかに痙攣けいれんするように動いた。

「……ぁ……、……ふ……っ」

肺の奥に、無理やり空気を引き込むような、ひりついた呼吸。

続いて、彼女の瞳が、ゆっくりと、震えながら持ち上がった。

焦点は合っていない。どこを見ているのかもわからない。

けれど、その瞳に宿ったのは、死の影ではなく、生きようとする猛烈な執念の光だった。

私は、彼女の青白い頬を両手で包み、涙を堪えて微笑んだ。

「……お帰りなさいませ。……よく、戻られましたね。」

夜明けの光が、障子越しに白く差し込み始めていた。

三日間、一歩も引かずに守り抜いた「命」が、ようやく私の手の中で、確かな重みを取り戻した瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ