雫の出産─元春目線
「……おい、まだ一月は先のはずだろう」
俺は、手元の焼き餅を無理やり白湯で流し込みながら、吐き捨てるように言った。
向かいで兄上が、まるで石像のように固まっている。父上は、静かに餅を食べる音だけを響かせていた。
離れから聞こえる雫の悲鳴は、広間を包む重苦しい沈黙を、鋭い刃で切り裂くように届いてくる。
「……あ、あ、っ……はぁ、はぁ……っ!」
「ちっ……!」
俺はたまらず、膝に置いた鉄扇をへし折らんばかりに握りしめた。
本当なら今すぐ立ち上がり、あの離れへ駆け込んで、雫の手を握り潰すほどの力で励ましてやりたい。
だがあの場は女の戦場。
自分が入っていいはずがない。
「……元春。餅を食えと言ったはずだ」
父上の静かな声が響く。膝の上で岩のように固めていた拳を震わせ、皿の上の冷え切った餅をひっ掴んだ。
「……食っております。食って、腹に力を溜めております。」
そう答える自分の声は、地響きのように低く、掠れていた。
立ち上がりたい衝動を、武士としての自制心で必死に押さえつけている。雫が血の海で戦っているなら、自分はここで、この「場」を守り抜く。それが、彼女に寄り添うことの叶わぬ男にできる、唯一の武士の祈りだと知っているからだ。
「……景も、今頃は同じように祈っていよう。」
兄上が、絞り出すように呟いた。兄上は何度も深く、深く呼吸を繰り返している。その瞳は、ただ一点、離れへと続く夜の闇を見据えていた。
三者三様の、けれど一つに繋がった祈り。
そこへ、一人の小姓が小走りにやってくる。
「申し上げます。小早川隆景様より、早馬にて書状が届きました」
父上がそれを受け取り、一瞥する。
「……『吉報を待つ。雫と、愛しい我が弟妹に、毛利の加護があらんことを』……。景め、向こうで一睡もしておらぬな。」
父上のその言葉に、兄上の表情が少しだけ和らいだ。ここにはいない弟も、同じ月を見上げ、必死に祈っている。その絆が、この張り詰めた広間の空気をかろうじて繋ぎ止めていた。
その直後だった。
遠くで、かすかな、だが確かな赤子の声が響いた。
「産まれたか……!」
兄上と顔を見合わせる。一瞬だけ、俺たちの間に安堵の風が吹いた。
だが、その風はすぐに凍りついた。
「まだだ! まだ中におる!」
産婆の悲鳴が、廊下を伝って俺たちの鼓膜を突き刺す。
二人目だと?
父上の顔を見ると大戦の前のような顔をしている。
「2人…となると…。」
どうしますか父上と言いたそうな兄上の声。
沈黙を切り裂くように産婆の
「血が……っ! 血が止まりませぬ!」という声が響く。
血が止まらない…だと!
今にも駆けつけたい想いを飲み込む。
雫……! 死ぬな、絶対に死ぬな!
まだ死ぬには早いだろう。
未来へ帰る道を見つけてないんだ。
その時だった。
広間の入り口に、凛とした気配が立った。
「――義父上、隆元様。……私が、参ります。」
振り返ると、そこには尾崎局様が、すべてを覚悟した瞳で立っていた。
「尾崎…何故…ここに…。」
「隆元様がやけに何かを隠していると思えば…」
全てを悟った顔をしている。
「すまない…頼めるか?」
「はい。その為に私は来たのです。」
そう言うと義姉(尾崎局)は産室に入っていった。
その後の時間は永遠かと思うぐらい長く感じた。
「報告致します。無事男の子が産まれました。ただもう1名は女の子でした。」
「分かった。」
双子は不吉だと言う。男の子と女の子が産まれた場合、片方しか生まれなかったことにするのであれば選ばれるのは男の子だ。




