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鼓星  作者: 吉川元景
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伸ばす手はいつも

父上の口から語られた「乃美の方の子として育てる」というあまりに完璧な、そして血の通わない解決策。

怒りというのはこういう感情を指すのだろう。

「……父上。それは『策』としては最上かもしれません。ですが、人の道としては、これ以上ないほどに破綻しています」

自分でも驚くほど静かに、けれど広間の隅々にまで氷を張らせるように響いた。

「雫殿がこの数ヶ月、どれほどの想いでこの世やこの家に馴染もうとしてきたか、貴方様は本当にお分かりなのですか。毛利という『家』を守るために、彼女を孕ませて、未来へ帰る道を奪った。その上彼女から『母』という名さえ奪い、生涯、日陰の身として生きることを強いる。……それは守護ではなく、ただの使い捨てではありませんか」

「景、言葉が過ぎるぞ。これは雫と乃美、双方が合意した……」

「合意、ですか」

父上の言葉を遮った。自嘲気味に伝える

「身寄りのない彼女に、この乱世で父上の命に背く選択肢など、最初から存在しない。それを『合意』と呼ぶのは、あまりに強者の傲慢です。……父上、貴方様は雫殿に子供を作らせるだけ作らせておきながら、いざ産まれるとなれば、その誇りさえも取り上げるというのですか。……あまりに無慈悲だ」

一歩、父上へと踏み出す。

「これでは、彼女はただの『器』ではないか。……兄上(隆元)、貴方もこれを見て、何も感じぬのですか!?」

矛先を隆元様に向ける。

貴方が一番近くで彼女を見ていたではないか。

「隆景様…。元就公も隆元様もっ…。」

雫殿が立ち上がろうとした瞬間

「……あ、……」

立ち上がれなかった雫殿の身体は畳へ吸い寄せられるように崩れ落ちた。

倒れると気がついて理性をかなぐり捨てて手を伸ばそうとした時――。

「雫殿!!」

先にその身体を抱き止めたのは、兄上(隆元)だった。


伸ばした指先が、空をきった。

いつもなら誰よりも早く先を読み、最善の動きができるはずのこの手が、たった一歩、届かなかった。

「雫殿! 雫殿、しっかりしてください!」

兄上の叫びが広間に響き渡る。

私の目の前で、雫殿の白い顔が兄上の腕の中に沈んでいく。

脂汗をかき、腹部が痛むのか、苦しそうな呼吸をしている。

さっきまであんなに鋭く父上を糾弾していた自分の舌は、今はもう、彼女の名前を呼ぶことさえ忘れたように強張っていた。

「……雫……殿…。」

ようやく漏れた声は、情けないほどに震えていた。

父上は、倒れた雫殿を見下ろし、眉間に深い皺を刻んだまま動かない。その瞳に宿るのは後悔か、それとも冷徹な計算の続きか。自分にはもう、それを読み解く余裕さえなかった。

「隆家医者を! すぐに医者と乃美を呼べ!」

兄上の、これまでに聞いたこともないような怒号。

いつも穏やかで、優しすぎるほどだった兄上が、なりふり構わず雫殿を抱きかかえ、父上を、そして自分を突き飛ばすような勢いで立ち上がる。

私は、自分の手が微かに震えているのを見つめた。

論理で父を論破し、正義を振りかざしても、彼女の崩れゆく身体を支えることさえできなかった。

抱き止めたのは、自分ではなく、理屈など持たぬ兄上だった。

「……すまぬ、雫殿……。すまぬ……」

誰に宛てたものか分からぬ謝罪が、私の唇からこぼれ落ちる。

広間に残されたのは、冷え切った空気と、あれだけ守りたかったはずの女性を、ただ見送ることしかできなかった自分の無力感だけだった。


そうだいつも彼女が危機的状況に陥った時に手を差し伸べるのは兄上(隆元)なんだ。

どれだけ自分が助けたいと思ってもいつも自分は彼女の手を掴むことが出来ない。

なんでいつも兄上なんだ。


もし兄上が雫殿を拾った日に、自分が雫殿を拾っていたら、父上や兄上達にも存在を知らせず高山(城)へ匿ったのに。未来へ帰る日まで守ったのに。未来へ帰ることを諦めさせなかったのに。

兄上は近くに居ながら父上の策略にも気が付かず、雫殿をみすみす父上へ渡して、未来へ帰る道を無くさせたじゃないか。

父上は毛利家を守りたいだけなのは知っている。情も深いのも。でも毛利家のためならなんだってする。それは息子である自分らならいくらでも知っているではないか。

なんで父上から彼女を守れなかった兄上が彼女をいつも助けてしまうのだろう。

「景殿…。」

隆家殿の声が背中から聞こえる。

「少し…頭を冷やしてきます。」

誰の顔も見たくなかった。

人生で初めてだ。怒りがコントロール出来なかった。嫉妬で心が焼き尽くされそうだ。

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