oh,little girl(s)
息を吸う。
鼻が冷たい。――天気は良い。
詩恵理は眼鏡を外して、視界いっぱいの色を見た。
空、雲。灰色の建物。黄緑と黄色のモザイク模様の、河川敷。黒い川の水面が、きらきらと光っている。
輪郭が全て、ぼやけている。目が悪いことの特権は、これくらいだと彼女は思っている。一度眼鏡を外せば、嫌なものをシッカリと見ずにすむ。輪郭を失った、色だけで構成された世界は、それ以上の情報を押し付けてこない。自然と頭が、ゆっくりまわる。
――息を吸う。
青臭い雑草の匂いに、川のヘドロ臭が混ざっている。それが、冬の風に乗ってくる。制服のリボンが、揺れる。
不思議と、嫌な気持ちにはならない。幼いころから使い込んでいる、薄汚れたタオルケットのそれのような。安心感をくれる、匂いだった。
目尻を拭って、眼鏡をかけ直す。輪郭を持った世界が、戻ってくる。――彼女が、帰ってゆく。
背後からは、高速道路を走る、車の音。
彼女の手元では、紙を裂く音。
「詩恵理」
声がして、彼女はそちらを向く。
黒字に、金のラインの入った上下セットのジャージ。両手をポケットに、突っ込んでいる。
右手首には、小さいビニール袋がぶら下がっている。
「おまたせ」
そういうと舞は、詩恵理の隣に腰を降ろした。舞の金色のショートヘアが陽の光を反射して、詩恵理は目を細める。
「眩し」
「ん?」
舞は袋からガサガサと、ミルクティーを取り出すと、詩恵理に差し出した。オレンジ色の蓋がされている。
「ちょっと冷めちゃったかも」
舞はそういって、自分のレモンティーを取り出す。両手でそれを挟み、祈るように持った。
「どうしたの?」
舞はそういって、詩恵理の手元を、覗き込む。
そこには、ノートがあった。ページが破かれ、くしゃくしゃになった塊が、詩恵理の足元に転がっている。
舞はそれを一つ掴むと、開いた。
びっしりと板書が書き写され、蛍光ペンや赤ペンで彩られたノートのページ。
その上に、太文字のマジックで、文字が書かれている。
『シネ』
舞はもう一つ、丸められた紙を拾い、広げた。
『レズ』
「……」
舞はそれを静かに、真ん中から、二つに裂いた。二枚になったそれを重ね合わせると、もう一度、真ん中から破いた。
何度かそれを繰り返し、小さく、分厚くなってもう破けなくなると、それを目の前に向かって、投げた。
紙吹雪が、風に乗って拡散する。
飛んでゆく。
舞は黙って詩恵理の手からペットボトルを引ったくると、蓋を開け、また手渡した。
「のみな」
詩恵理は受け取ると、それを一口飲んだ。
空が見えた。――天気が良い。
あたたかなものを胃に流して、ようやく詩恵理は身体を動かす気になった。
前を向いたまま、いった。
「舞が思ってるほど、キズついてないよ。わたし」
平坦な声だった。詩恵理は、本心でいっているつもりだ。
舞は一口飲んで、いった。
「学校なんて、やめちゃえばいい」
並んで座る二人の目線の先には、東京スカイツリーがそびえ立っている。その手前には、北千住のビル群。千住新橋。
橋の上では車が、空では雲が。動きつづけている。
「死にゃあしないじゃん。学校なんか行かなくたって。行くことないよ。あんなとこ」
舞は中卒だった。高校に行く気は、毛頭なかった。あんな所に通うなんて耐えられない、と思っていたし、何より母の再婚相手である男の世話になんか、なる気がなかった。
だから、舞は家を出た。コンビニでアルバイトをしながら、ワンルームのアパートで一人暮らしをしている。
「やめない」
詩恵理ははっきりとした声でいった。
「ちゃんと大学も出て、就職するの」
息を吸う。
――深く。
「それで、舞を養うの」
二人で暮らすの。家を買って……。
最後は、消えいるような声だった。
詩恵理にとって、それは夢だった。どんな困難があっても、貫き通して、叶えたい夢だった。
叶えるつもりだった。
「もちろん、舞がイヤなら、いいの……」
詩恵理の涙腺が緩んだ。眼鏡も外してないのに、視界がぼやけた。
誰に何をいわれたって、耐えられる自信があった。だが、舞に見放されてしまうことだけは、耐えられる自信がなかった。
夢を語って、舞に重みを感じさせてしまうことがこわかった。舞には何も、背負わせたくなかった。今まで、数え切れないほどのあらゆることを諦め、切り捨て、振り払って。苦しさを表現することが苦手で、全てを内に秘め、何食わぬ顔で毎日を過ごす舞。詩恵理にはただ、まっすぐ進んでいるように見えた。いつか必ずくる、〈死〉へ。詩恵理は舞の全てがすきだった。匂いも、声も、顔も、身体も。舞は勉強はする気が無かった為、成績こそ良くはなかったが、馬鹿ではなかった。常識に囚われず、物事の本質を見抜く目と感性を持っていた。はじめてすきになった人が、舞だった。詩恵理は舞に、恋をしていた。そのまま、恋をし続けたまま、死にたいと思っていた。舞も言葉にはせずとも、好意を寄せてくれる詩恵理を想っていた。
それが唯一の、生きる意味であるかのように。
「ヤなんかじゃないよ」
舞はいった。
「うれしいよ」
「……本当に?」
詩恵理は不安のあまり、聞かずにはいられなかった。『すきなのは、自分の方だけなんじゃないか』という疑心が、いつまで経ってもなくならなかった。それでも、舞の気持ちを聞き出すようなことはしなかった。
今日までは。
「本当」
詩恵理は、舞の方を見た。
「そんなにわたしのこと考えてくれてんの、詩恵理くらいだよ」
舞は自分の手元を見ながら、いった。夕陽で、顔色が窺えない。
「だからさ、大事にしてよ。自分のことも」
詩恵理は、自分の顔が熱くなるのを感じた。
寒い空気の中で、なぜだか顔と、耳だけ熱い。
「うん」
前を向く。空の色が、だんだん変わりつつある。太陽は、右前方にある。でも、そちらを向けない。
右側には、舞がいる。
「ねぇ」
舞に呼ばれて、思わずそちらを向いてしまった。
「なんでわたしのことすきなの?」
急に問われて、詩恵理は言葉を失う。言葉にならない声を、むにゃむにゃと口にする。
「まぁ、いいけど……」
舞はそういうと、髪をかきあげた。
そして、詩恵理の眼鏡を、すばやく取った。
顔を、詩恵理に近づける。
「ちょっ、ちょっと待って」
詩恵理は両手を前に、舞を制止させる。
「なに?」
「なにって……」
そういって、辺りを見渡す。――薄暗さと裸眼のせいで、なにも見えない。
ぼやけた世界の中で、舞がいった。
「大丈夫」
舞の顔がの輪郭が、はっきりとしてくる。
「もう、夜がくるから」
目をつむると、涙が零れた。熱い頬を、冷たいものが通った。
もう恥ずかしさは、感じなかった。
立ち上がって、二人は歩いた。
この時はじめて、手をつないだ。
「最近、自炊はじめたの」
舞がいった。
詩恵理は、あたたかな家を想像して、わらった。