嘘泣きで学園を支配する侯爵令嬢にモブの私が目をつけられたので、同じ泣き方をコピーして返したら舞踏会がひっくり返りました
中庭のベンチで、少女が両手で顔を覆って泣いている。
その華奢な肩は小刻みに震えて、時折漏れるわざとらしい嗚咽は、私の元まで聞こえてくる。
その周りには男子生徒が五、六人立っていて、皆その少女を見ていた。
「大丈夫ですか?カタリーナ様」
「誰にそんなひどいことを言われたんですか」
「僕が話をつけてきます!」
心配そうな声、駆け寄る複数の足音、差し出されるハンカチ。
……この学園では見慣れた光景だ。
その泣いている少女は、カタリーナ・ヴォルフ。
名家の侯爵令嬢である。
学年一の美少女と名高い人物で、艶のある美しいブロンドの髪と大きな緑の瞳は、嫌でも目にも止まる。
また、彼女は泣くのがとても上手いのだ。
私はベンチから少し離れた木陰で教本を開いたまま、その光景をぼんやりと見ていた。
私はエリーゼ・ファーレン。子爵家の三女。
特技は…目立ったものはないけれど、強いて言えば存在感を消すこと。
この、王立学園の中では間違いなくモブの部類に入るだろう。
それでいい、ただのモブAでいい。
目立たず、静かに、三年間を過ごして、田舎に帰って穏やかに暮らす。
それが私の考える人生計画だ。
……だったのに。
「エリーゼ、また一人で本読んでるの」
声をかけてきたのはルイーゼ・ベルクハイム。伯爵令嬢だ。
昔から家同士でも交流があって、この学園では数少ない友人と言える人物だろう。
物腰柔らかで穏やかな性格、腰まである美しい黒髪が特徴的で、私のように学園でもあまり目立つ方ではなかった。
「ルイーゼ……今日は顔色いいね」
「うん、昨日はよく…眠れたから」
きっと嘘だろう。目の下には濃い隈がはっきりとあった。
でも、この子は心配されるのが苦手だろう、ここは気付かなかったふりをしてそっとしておこう。
そう…ルイーゼがカタリーナに目をつけられたのは、二ヶ月前からだった。
きっかけは試験での成績だった。
中間試験で、ルイーゼが学年二位を取ったからだった。一位はカタリーナだった。
……一位なのに怒る、のかと思ったけど、違う。
カタリーナが怒ったのは、二位のルイーゼが「伯爵家」だったからだ。
カタリーナの家は侯爵家の中でも末席。
上位の公爵家や古い伯爵家…つまりルイーゼのような家柄の子に対して、カタリーナは異様なほど敏感だった。
整った容姿で、男子や先生方にちやほやされて、成績もだいたい一位。
なのに…家柄だけは変えられなかった。
……単純な嫉妬だ。
でも、ルイーゼだけが特別、というわけでもなかった。
カタリーナは、いつもルイーゼ以外にも気分や嫉妬で嫌がらせをしていた。
カタリーナの使う手口はいつも同じだ。
まず、ターゲットがいない場所で噂を流す。
「あの子に酷いことを言われた」、「私の悪口を聞いてしまった」。
次に、大勢の前で大げさに泣く。
ベンチで、食堂で、廊下で。必ず人が多い場所を選ぶ。
そうすると男子や、取り巻きの女生徒が集まる。
「誰にやられたんですか」
そう聞かれても、カタリーナは名前を出さない。
取り巻きが犯人捜しをして、すぐに誰のことか周囲に伝わる。
最終的に、ターゲットにされた人は孤立する。
反論しようとしても「泣いているのに、追い打ちをかけるのか」と逆に責められる。
ルイーゼは今、その真っ只中にいる。
友人だった子たちは一人、また一人と距離を置き始めている。
「ごめんね…カタリーナ様と揉めたくなくて」と目を逸らしながら。
ルイーゼはただ笑って、何も言わない。
以前より、一人で図書室にいる時間が増えた。
ある日の放課後。図書室でルイーゼと話していた。
「ねえ、ルイーゼ……お家には手紙、書いた?」
ルイーゼの手が止まった。
紅茶のカップに手を伸ばしかけたまま、固まっている。
「……書きかけたんだけど、途中でやめちゃった」
「どうして?」
「お父様が心配して王都に来たら……侯爵家と揉めることになるでしょう? うちは伯爵家だけど、カタリーナ様のお家とは取引もあって…お父様だからそこまで心配はないけど、もし騒がれて仕事に影響が出たら……」
声がだんだん小さくなっていく。視線が泳いでいる。
怖がっているのは自分のことだけじゃない。
家族のことまで考えて、一人で全部抱え込んでいる。
それに、ルイーゼの実家は北方の辺境だ。手紙が届くまで片道一週間はかる。
社交シーズン中の学園内のいざこざを手紙で伝えたところで、「女の子同士の揉め事だろう」で片付けられるのが目に見えていた。
……昔もそうだった。周りに迷惑がかかるからと、黙って耐えている人を何人も見てきた。
「ルイーゼ」
「…うん」
「……私がなんとかするから」
「え?」
「まだどうするか決まってないけど……黙って見てるのは、もうやめる」
ルイーゼが目を丸くした。それから、ゆっくりと笑った。
目の下の隈は消えていないけれど、少しだけ目に光が戻った気がした。
「……ありがとう、エリーゼ」
「お礼はまだ早いよ」
私には、一つだけ普通じゃない能力がある。
それは、模写。
仕組みは単純で、誰かの仕草、声色、表情、泣き方——目の前で直接見たものを、魔法的に完璧に再現できる。
声の震わせ方、涙を拭うタイミング、肩の傾け方。何もかも寸分違わずコピーできる。
ただし、この便利な力にも代償がある。
コピーした瞬間、相手の「その時の感情」が頭の中に流れ込んでくるのだ。
笑顔をコピーすれば、その人が笑ったときの嬉しさが入ってくる。
ただそれだけなら問題はない。
でも…カタリーナの嘘泣きをコピーしたら?
きっと嘘泣きをコピーしたら、嘘をついているときの感情がそのまま流れ込んでくる。
冷たい計算、人を操る快感、涙の裏にある嘲笑。汚い感情が全部。
この力を初めて自覚した時に、興味本位で試したことがある。
結果としては、汚い感情が一気に頭の中に流れてきて…気持ち悪くなってその場で吐いてしまった。
だから、使わないと決めていた。
こんな能力、使い道なんてない。
……なかったはずだった。
一週間、カタリーナを観察した。
パターンを見つけるまで、とにかく観察する。
結論から言えば、カタリーナの手口は完全に固定されていた。
その1、まずは噂を流す。場所は必ず食堂の奥のテーブル。
聞き手は取り巻きのいつもの二人。
その2、大勢の前で泣く。場所は中庭のベンチか食堂の入口。それも必ず人が多い時間帯。
その3、ターゲットの孤立を待つ。自分からは何もしない。周囲が勝手に犯人捜しをして、もっと噂を流す。
ターゲットはどんどん孤立していって、カタリーナの狙い通りになっていった。
……一度うまくいったやり方を変えない人間、というのは昔もよく見た。成功体験があるから、同じことを繰り返す。新しい方法を考えるのは面倒だから。
カタリーナも同じだ。
パターンが固定されているなら——こちらも同じパターンで返せる。
私は、自分がカタリーナの次のターゲットになるよう、小さな種を蒔いた。
ルイーゼの隣に座る頻度を増やした。
図書室で一緒にいるところを、カタリーナの取り巻きの目に入るようにした。
三日後。予想通り、カタリーナの視線がこちらに向いた。
「エリーゼ・ファーレンさんに、酷いことを言われたんです……」
食堂の入口で、カタリーナが泣いていた。
私は少し離れた席で、それを正面から見ていた。
手の位置。声の震わせ方。涙を拭うタイミング。肩の角度。
全部、目に見て記録した。
得意の観察眼と、この世界の「模写」が合わされば、一度見た演技は完璧に記憶できる。
わらわらと男子たちが集まってくる。
「大丈夫ですか、カタリーナ様」。いつも通りの光景。
……でも今回だけは違うよ、と心の中で呟いた。
翌日。
同じ時間帯。同じ食堂の入口で。
私は泣いた。
そっと目を押さえる。肩を小さく震わせる。声を細く絞る。
——カタリーナの泣き方と、全く同じ形で。
模写を使った瞬間、カタリーナの感情が頭に流れ込んできた。
冷たい。氷のように冷たい。
涙を流しながら、頭の中では「これでまた一人消せる」と計算している感覚。
人を操ることへの……快感。
気持ち悪い。昔のように、胃の底から何かがせり上がってくる。
でも…耐えた。今は耐える。
少しすると、見かけた数人の女子が声をかけてくれた。
「エリーゼさん、どうしたの?」「何かあったの?」
「……いえ、大丈夫です。ちょっと……酷いことを言われてしまって」
嘘は言っていない。
実際にカタリーナには言われたのだ。
「あんな地味な子爵家の子と一緒にいるなんて、ルイーゼさんも落ちたわね」と。聞こえるように。
だんだんと、食堂がざわついていく。
「あれ、昨日と同じ場所で泣いてる子がいる」
「昨日はカタリーナ様だったよね……」
「……なんか似てない? 泣き方」
気づく人が出始めた。
まだ早い。でも、種は蒔いた。
一週間かけて、鏡返しを続けた。
カタリーナが噂を流す。
私は同じタイミングで、カタリーナに実際に言われた言葉を周囲に伝える。
カタリーナが泣く。
翌日、私が同じ場所で、同じ泣き方をする。
カタリーナが取り巻きに愚痴る。私はルイーゼと図書室で、聞こえる声で話す。
模写を使うたびに、カタリーナの感情が流れ込んでくる。
嘘をつくときの冷たさ。泣いてみせるときの計算。周囲がなびいたときの優越感。
毎回、部屋に帰ってから吐き気と戦った。
フェリクス、隣の席の地味な男の子がちょっと心配そうにこちらを見てきたけれど、何も聞いてはこなかった。
ただ、翌朝、誰からか、私の机の上にミントティーの茶葉が入った包が置いてあった。
学園の空気が、少しずつ変わり始めた。
「なんかおかしくない? カタリーナ様が泣いた次の日に、必ずエリーゼさんも泣いてるんだけど」
「偶然じゃないよね、あれ」
「しかも泣き方が……似すぎてない?」
疑問が広がっている。でもまだ確信にはなっていない。
あと一押し。
社交シーズンの締めくくり、王立学園の舞踏会。
貴族の親たちも視察に来る、一年で最も重要な夜だ。
会場に入ると、シャンデリアの光が白い大理石の床に反射して眩しかった。オーケストラの音が空気を揺らしている。
カタリーナは会場の中央にいた。深紅のドレス。ブロンドの髪によく映える色選び。男子たちが周りを取り囲んでいる。
完璧な侯爵令嬢の姿だった。
そして——予想通り、カタリーナが動いた。
舞踏会の中盤。
「きゃっ……! ドレスが……!」
カタリーナの声が響いた。
深紅のドレスの裾が大きく裂けている。
「エリーゼ・ファーレンさんが……私のドレスを踏んで……!」
カタリーナの目に涙が浮かぶ。声が震える。肩が小刻みに揺れる。
始まった。最大の被害者ムーブだ。
会場がざわめく。視線が一斉に私に集まる。
「ちょっと、子爵家の子が侯爵家のドレスを……」
「わざとじゃないの?」
「カタリーナ様が泣いてるわ」
私は深呼吸した。
手が震えている。心臓がばくばくしている。
でも、昔の仕事で座り続けた十年間が、私にひとつだけ教えてくれていた。
パターンのある嘘は、同じパターンで返すと本人が一番困る。
「……皆さん」
私は声を上げた。震えている。でも、聞こえる声で。
「今のカタリーナ様の泣き方を、よく見ていてください」
そう言って——模写を使った。
カタリーナの泣き方を、完璧にコピーした。
手の位置。声の震わせ方。涙を拭うタイミング。肩の角度。
全てが寸分違わず一致した。
会場が静まった。
二人の泣き方が——全く同じだった。
カタリーナの感情が頭に流れ込んでくる。冷たい。計算している。「これでこの子は終わり」と思っている。
気持ち悪い。吐きそう。でも今だけは——耐える。
「……不思議ですよね」
私は涙を拭いながら言った。カタリーナと全く同じ仕草で。
「私の泣き方と、カタリーナ様の泣き方。手の位置も、声の震え方も、涙を拭うタイミングも、全部同じなんです」
ざわめきが大きくなる。
「先月、ルイーゼ様が孤立させられたときも。その前の月、マリア様が学園を去ったときも。カタリーナ様は同じ場所で、同じ時間帯に、全く同じ泣き方をしていました」
カタリーナの顔から血の気が引いた。
「泣き方にパターンがあるんです。本当に悲しい人は、毎回同じようには泣きません。でも演技には——型がある。同じ型を何度も使い回す」
私は一歩、カタリーナに近づいた。
「カタリーナ様。あなたの泣き方、全部覚えました。……でも、もうコピーするのはやめます。これ以上やったら、気持ち悪くて倒れそうなので」
最後の一言は本音だった。模写の代償で、胃の中がひっくり返りそうだった。
会場が動かない。
それから——一人の女子が声を上げた。
「……私も。カタリーナ様に泣かれて、友達をやめさせられた。あのときの泣き方と、今のと……確かに全く同じだった」
もう一人。
「私もです。半年前に……同じでした」
声が広がっていく。パターンに気づいた人が、一人、また一人と。
カタリーナの演技が——パターンだと、全員が気づいた瞬間だった。
カタリーナは何も言えなかった。
涙は止まっている。本当の涙が出なかったのか、演技のスイッチが切れたのか。
ただ震えていた。今度は、演技じゃなく。
舞踏会の後。
中庭のベンチで、一人うずくまっているカタリーナを見つけた。
声をかけようか少し迷った。
でも……昔の仕事で学んだことがある。追い詰めすぎた相手は、もっと壊れるか、もっと巧妙にやり方を隠すようになる。どちらにしても良い結果にはならない。
「カタリーナ様」
「……なに。まだ何かあるの」
声がかすれていた。
「もうルイーゼには関わらないでください。……それだけでいいです、私は」
カタリーナが顔を上げた。
緑の瞳に涙の跡が残っている。
「……あんたなんなの。子爵家の三女のくせに……なんであんなことができるのよ」
「前の……昔の仕事で覚えたことです」
「仕事……?」
「人の嘘を見る仕事。十年やりました。……疲れましたけど」
カタリーナが黙った。
それから、ぽつりと言った。
「……最初は、本当に泣いてたのよ」
「……え?」
「入学したとき。家格が低いってからかわれて。侯爵家なのに末席だって。……泣いたら、みんな優しくしてくれた。そしたら味を占めて……いつからか、泣くのが上手くなっちゃって」
模写を使わなくても、わかった。
今のカタリーナは、嘘をついていない。
「……それは辛かったですね」
「同情しないでよ」
「同情じゃないです。ただの事実です」
カタリーナが鼻をすすった。
模写を使えば、この涙が本物かどうか確認はできる。でも使わない。
使わなくていい。これは——自分の目で見て判断する。
立ち上がって、その場を離れた。
教室に戻ると、ルイーゼが廊下で待っていた。
「エリーゼ……!」
駆け寄ってきて、私の手を握った。温かい。
「ありがとう。本当に……ありがとう」
ルイーゼの目が赤い。泣いていたのだろう。
でも、この涙が本物だということは、模写なんか使わなくてもわかる。
「お礼なんていいよ。……それよりルイーゼ、お家に手紙書いた?」
「うん……舞踏会の前に、やっと書けたの。お父様に全部話した。怒られるかなって思ったけど……返事には『よく耐えたな』って」
「いいお父様だね」
「……うん」
ルイーゼがもう一度泣いた。今度は我慢しないで。
隣の席のフェリクスが近づいてきた。
「有名人になったね」
「なりたくなかったんだけど……」
「でも格好よかったよ、あの舞踏会」
「……やめてよ。明日からモブに戻るんだから」
「無理だと思うよ」
フェリクスが少し笑った。それから分厚い教本を差し出した。
「これ、司書のラウラさんから。『あの子にお茶でも淹れてあげて』って」
渡されたのは教本じゃなくて、ハーブティーの袋だった。ミントの香りがする。
図書室の司書のラウラさん。私とルイーゼがいつも静かに座っていたのを、ずっと見ていてくれたのか。
「……ありがとう。ラウラさんにも伝えておいて」
「自分で言いなよ、明日」
「……うん」
部屋に戻って、ハーブティーを淹れた。
ミントの清涼感が、模写の代償でぐちゃぐちゃになった胃を少しだけ落ち着かせてくれた。
窓の外には、舞踏会の余韻が残る夜の王都が広がっている。
遠くで馬車の車輪が石畳を転がる音がした。
前の世界では、人の嘘を見る仕事を十年やった。
毎日毎日、嘘の裏側を覗き込んで、パターンを記録して、対処法を考えて。
それでも、嘘をつく人間がいなくなることはなかった。
この世界でもきっと同じだろう。カタリーナを止めても、次のカタリーナはどこかに必ず現れる。
でも。
今は隣にルイーゼがいる。あの手の温かさを、まだ覚えている。
図書室にはラウラさんがいて、隣の席にはフェリクスがいて、黙って机の上にミントの葉を置いてくれる人がいる。
前の世界では、誰も窓口の向こう側には来てくれなかった。
ガラス越しに相談を受けて、書類を書いて、「対応しました」のハンコを押しておしまい。相談者のその後を知ることは、ほとんどなかった。
でもこの世界では、泣いてくれる人がいる。「ありがとう」って言ってくれる人がいる。
それだけで、十分だ。
ミントティーを一口飲んだ。
胃がすっと楽になった。
明日からはモブに戻ろう。静かに暮らそう。
……たぶん無理だけど。
子爵家の三女で、モブのくせに舞踏会をひっくり返した人。
変な肩書きだけど。
悪くない。




