本と映画と彼女と ―― 息子編
登校時に名前も知らない女性の背中を探すのが日課になっている。
それまでは、朝の景色は変わり映えがしないものだと思っていた。眠気覚ましのコーヒーを自販機で買う人、子供を送り届けるために慌ただしく走る自転車、次の電車まで時間があるのにエスカレーターで歩いて追い抜く人・・。何かがあると人は変わるものなのか。
きっかけは、定期を落とした小学生を彼女が呼び止めたことだったか。駅でキョロキョロとしていた高齢者に彼女が声をかけたことだったか。あるいは、券売機の前で小銭をばらまいた人の硬貨を拾ってあげたことだったか。恐らく、どれも違うのかもしれない。意識していなければ、どれも目に入らなかっただろうから。いずれにせよ、そのような何気ない優しさが僕の胸の奥をふっと温めたのは確かだ。
彼女に伝えたい。でも、それは恋愛漫画にあるような「付き合って下さい」ではない。僕は彼女の優しさを知っているけれども、彼女は僕について何も知らない。そのような男から交際を申し込まれても困るだろう。僕が伝えたいのは「友達になって下さい」だ。
その程度ならば伝えるハードルが低いか? 高い。途方もなく高い。クラスの女子とは普通に話せる。でも、漫画ではありふれた光景でも、現実の世界でそのような声をかけている人は見たことがない。その不甲斐なさが、高校に入学して通学で見かけるようになってから数か月が経過している原因でもあるのは、自分でもわかっている。
ある晩、父が僕に封筒を差し出した。父は、今回のように誕生日でもクリスマスでもない日に突然くれる。前回は本であった。タイトルは忘れたが、内容は父親が息子に生き方を諭すような本だった。学歴があるのに不器用な父が本を通して生き方を教えたいようだった。だが、まだ机の上に置いたままで、父に感想を伝えてない。
「和吉、たまには映画でも行って来い」
「うん。ありがとう」
封筒には映画の招待券が2枚入っていた。誘うのは友達か? そのような野暮な考えは微塵もない。この機会を逃してどうするのだ。招待券には期限がある。弱気な自分を先延ばしにできない状況に追い込むにはちょうどいい。
父に心からお礼を言った。不自然な笑顔になっていたかもしれない。
翌朝、いつものように家を出た。駅までの道は短い。声をかけるかどうかで悩んでいる猶予はない。確実に遂行しなければならないのだ。彼女を見かけたら、絶対に声をかける。
角を曲がったところで、彼女の後姿を見つけた。計画通り、声を・・。しかし、頭では理解していたのに、いざ彼女の姿を見ると勇気が出ない。映画の期限を考えたら、誘うのは今日でなくてもいいのではないかと言い訳がちらつく。
ダメだ! そういう言い訳で、数か月が経過してしまったのだ。ここで区切りをつけなければ、誘えないまま招待券の期限が過ぎたり、卒業してしまったりするかもしれない。自分の逃げ道をふさぐために、早歩きで近づこう。
彼女に接近すると、彼女の足元に違和感があった。改めて見るとストッキングのふくらはぎの部分に布が入っているようだ。ハンカチか? ストッキングか? 判断がつかない。洗濯で入ってしまい、気づかずに履いてしまったのだろうか。
黙って見過ごすのは無責任だ。情けは人の為ならずのように、いつも優しい彼女が今回は優しくされるべきである。でも、異性の僕が、しかも直せない場所で指摘してもいいのだろうか。彼女を恥ずかしがらせれば、映画に誘う未来が永遠に来なくなるかもしれない。違う。今は僕自身のことなんてどうでもいい。知るのが遅れるほど、彼女が恥ずかしい思いをする。体育が一限にあればまだしも、もし、帰宅してから気づけば一日中これで歩いていたのかと赤面するに違いない。
僕の中で小さな正義感のようなものが勝った。できるだけ彼女が傷つかないように、遠回しで伝えよう。
「すみません、ちょっといいですか?」
「はい?」
うぁ、初めて彼女と話してしまった。この、距離で話せるなんて・・。
「右のふくらはぎのところ・・」
小声で教えると、彼女がふくらはぎを見た。
彼女が一瞬固まった。驚きと動揺と、いろいろ混ざった顔だ。
「あっ・・。ありがとう。恥ずかしい。朝、急いでいて気づかなかったの」
「どういたしまして」
難関を突破したことで緊張が和らいだ。伝えて良かった。いざ、話しかけてみれば、今までに声をかけられなかったことが不思議なくらい、簡単なことだった。
さあ、伝えることは伝えたから学校へ・・。あれ? ポケットの中で封筒の角が当たった。そうだ。映画の招待券だ。肝心なことを忘れてどうする? 和らいだと思っていた緊張は和らいでいなかったようだ。
今は登校中だ。悠長に立ち話をしている場合ではない。封筒をサッと取り出して彼女に見せた。
「これを・・」
「えっ? 私に?」
そう。1枚を彼女に。
「はい」
「ありがとう。あとで見るね」
彼女の指先が触れた瞬間に、僕の胸の奥がギュッとなるのと感じた。そして、その間に彼女は封筒の中身を見ないで受け取った。
違う、違う、そういう意味ではない。でも、遅かった。
「えっと・・」
「今日、日直で急ぐから・・」
彼女は走って行ってしまった。僕も走ろうと思えばできる。でも、走りながら話させるわけにはいかないだろう。また、急いでいるのにストッキングや映画の券で引き留めた後に、歩きながら話させるのもどうかと思う。
それにしても、封筒の中身が手紙だと思ったのだろうか。普通は封筒と言えば手紙だから、彼女が悪いわけではない。いきなり封筒を目の前に出し、何の説明もしなかった僕が悪い。
「映画に行きませんか?」、その程度の簡単な日本語が出てこないとは情けない。
さて、どうしようか。1限目が始まっても気になって、授業に集中できない。映画に誘おうと計画したのに、その計画を自分で壊してしまった。
明日「誘おうと思っていたのに封筒ごと渡してしまいました」と正直に言うか。いや、言う必要はない。封筒を開ければ手紙ではないのは明白だ。間違って2枚渡したことはわかる。わかる? わかるはずがない。2枚貰えたのかなと思うかもしれない。思うかもしれない? 友達でも何でもない僕から招待券を貰えるとは普通思わないだろう。うん、そう。問題は、そこ。「普通思わない」であって、思う可能性はある。
「小田、授業中にボーっとするな! いつも言っているだろう。俺の授業は聞かなくてもいい。高校生活の3年間なんてあっという間だ。大学受験に必要な科目を自習しても構わないし、夜の勉強で睡眠不足なら寝るのも構わない。ただ、周囲に迷惑をかけるおしゃべりと自分の為にならないボーっとするのは駄目だと」
化学の新井先生は授業中の自主性を重んじる変わった先生だ。僕が授業中に考え事をしていたのを気付かれた。
「ちょっと考えごとがあって」
「勉強に関係することか?」
「違います」
「それなら授業中は考えるな。授業が終わったら残れ」
「はい」
誘導尋問をされるような流れで「はい」と言ってしまった。どう考えても、先生に相談する内容ではない。昼食が気になっていましたとでも言うか。
チャイムが響き、授業が終わった。
映画の招待券については頭を離れたが、授業後に先生に何と話すかが頭から離れなかった。
「小田以外は教室に戻れ」
他の生徒が化学教室から出て行く。クラスの教室であれば追い払えず、クラスメートに聞かれただろう。化学教室での授業だったのが幸いした。
「考えごととは何だったんだ? 俺に話せない悩みなら話さなくていいぞ」
あれ? 話さなくていいんだ。化学の先生なのに朝のホームルームの時間に漢字の小テストをしたり、成績が悪い生徒を放置すると悪い遊びをするからと自分が顧問をするバスケットボール部に入れたりする面倒見がいい先生だから、強引に聞き出して相談に乗るつもりだと思った。
昼食が気になっていましたなどという言い訳を考える必要はなかったのか。
「えっ? 聞かないのですか?」
「俺に話せない悩みを無理矢理聞いてどうする? 俺にそういう趣味はない。さぁ教室へ戻っていいぞ」
戻っていいって、残らせておいて何なんだろう。
「もしも、もしもの話です。映画に誘おうとしたのに券を2枚渡してしまったらどうしますか?」
「あぁ、そういう友達の悩みを聞いて、小田が考えていたということだな」
「・・・」
失敗した。仮定の話は現実の話、友達の話は自分の話。先生から突き放されたことで、どのように話すかまで考えられなくなり、定番の誤魔化し方をしてしまった。こんな嘘を誰かから言われたら、先生でなく、僕であってもわかる。
「男なら男らしく行動しろと昔は教えたものだが、今の時代に性別は関係ない。人は男でも女でも間違えたら訂正するものだ。そして、その訂正は傷口が広がらないうちにすべきだ」
「そうですよね」
「でも、小田の場合、時が解決するのではないか。悩む必要はないぞ」
「はい」
「さあ、次の授業に遅れないように教室へ戻れ」
訂正すべきだと言って訂正しなくていいのか? 悩みを聞いておいて悩む必要はない? これなら間違いないという大人らしい解決策を提案してくれるのではないのか? 所詮、先生にとって僕の悩みは他人事に過ぎない。
夕食後、いつもよりも早めに自分の部屋へ戻った。いくら考えても結論が出ない。気分転換で、本でも読むか。父から貰い、無造作に机に置いたままの本を手にした。
椅子に深く腰掛けて、目次を開く。
第1章 わが息子へ
「今この時をどう生きるか」が君の人生を決める。
1 今こそ君の人生の基盤を固める時だ
今この時間を無駄にすれば一生大きな悔いが残る
本を受け取った時に目次を開いた時には、自分と関係ない本だと思った。不器用な父が本を通して生き方を教えたいだけで、僕が本から教えられなくても構わないと思っていた。
でも、今はどうだ。新井先生よりも良さそうな言葉が見つかるかもしれない。そう思いつつ、読み進めた。
翌朝、昨日はいつの間にか寝てしまったものの、しっかりと眠れたようで、いつもよりスッキリとしている。今日も会うだろうか。どのような顔をすればいいのか。笑っていいのか、照れていればいいのか。想像が勝手に膨らむが、心が穏やかなのは本のせいだろうか。
昨日は、彼女が日直で急いでいた。日直は日直と言うくらいだから、2日連続して任されない。でも、日直以外の何かがあるかもしれない。部活とか・・。他に何だろう。特に思いつかないけれど、とにかく何かがあるかもしれない。僕は早めに家を出た。
あの角を曲がったところで、毎朝、彼女の後姿を見つける。今日は僕が先だから、彼女の姿を前から見ることになる。昨日、話せたことで話すハードルは既にない。問題は、どう話すかだ。
角を曲がる。
あれ? あれ? あれ?
彼女がこちらを見て微笑んでいる。僕が先に来るはずだったのに、いつもよりも早く来て待っていてくれたのか。
「おはよう!」
「おはようございます」
彼女の方から挨拶してくれた。
「昨日の封筒、映画の招待券が2枚入っていたんだね」
「はい」
「手紙だと思って受け取ってしまったのだけど・・」
「僕がきちんと説明しなかったからです」
「手紙って、あまり貰えないのに、手紙だと思うなんておかしいね」
「たくさん貰うと思っていました」
「嘘、この私が? 私、そんなにもてないよ」
「そんなに?」
そんなにということは、それなりにラブレターを貰っているという意味だ。
「中学の時のクラスメートの朱萌ちゃんはものすごかった」
「朱萌ちゃんというのは、あけぼのことですか?」
桜丘朱萌は別格だ。クラスどころか、学年、いや、学校で噂されるほどの可愛さだった。あけぼと比較して「そんなにもてない」と言ったなら、基準がおかしい。
「あぁ、男子はあけぼと呼んでいたね。もしかして同じ中学だった?」
「あけぼと同じクラスなら、同じ中学で同じ学年です」
「1度も同じクラスにならなかったね。同じ学年ならタメ語でいいよ」
「はい」
「はいじゃない」
「うん」
「それで映画、いつ行く? 日曜? それとも今日の放課後にする?」
「本当は今日の放課後に行きたいけれど、映画の後に話したいから日曜はどうかな?」
「日曜か・・。私の気が変わって行かなくなったりして・・」
「それは困る。放課後でもいいよ」
「冗談だよ。日曜ね」
「うん」
会話の主導権を握られているから、僕からも何か話すか。
「まだいつもの登校時間より早いから、少し話せるけれど、趣味は?」
「意外だと言われるけれど、読書。最近だと『バッタを倒しにアフリカへ』を読んだよ」
「何それ? 聞いたことがない。フィクションなの?」
「ノンフィクションだよ。面白いから読んでもらいたいけれど、図書館で借りたから手元にないんだよね」
「探してみるから平気だよ」
「あなたは、どんな本を最近読んでいる? あ、まだ名前を聞いてなかったね。私は四賀美琴」
「僕は小田和吉で・・」
「もしかすると、おかず?」
「そう呼ばれているけれど、会ったこともないのに、どこでそれを?」
「武道をしている子にいつも返り討ちされていると聞いたことがあるよ。でも、ちょっとイメージ違った。あ、ごめん。話の途中だったね。本の話を続けて」
返り討ちって何だよ。里山辺には毎回軽くあしらわれていたけれど、面識がない女子にまで知られているのはおかしいだろう?
「今は父親が息子へ宛てた手紙をまとめたような本を読んでいる」
「変わった本を読んでいるね」
「『バッタを倒しにアフリカへ』も変わっていると思うよ」
「そう言われてみたらそうだね。あ、そろそろ学校へ行かないと。日曜のことはLINEで詰めようか? IDを教えて」
「これで」
僕が画面にQRコードを出すと、彼女が読み取った。
「あとで送るね」
「うん、よろしく」
新井先生から「時が解決する」「悩む必要がない」と言われたが、そのとおりだった。でも、改めて考えてみると最初から当然であった。試験まで3日だ。どうしようと思ったところで、4日目には終わっているのと同じだ。毎朝見かけていたのだから、普通に考えれば翌朝も見かける。
四賀さんが僕を知っていたのは良いことなのか悪いことなのか。いつも返り討ちにされている。それは悪い。だが、そのイメージと違っているなら良いことなのか。違う。里山辺なら、こう言うだろう。「『悪いことではないのは、良いことととは断定できないよ。世の中には黒でも白でもないことがあるからね』と。あいつが言うことには反論したくなるけれど、言っていることは正しいから反論できない。
そんなことを考えながら登校し、日曜を楽しみに一日を終えた。
帰宅してから、父から貰った本を手にした。四賀さんの「どんな本を最近読んでいる?」には参った。読書家は他人も読書をしているのが前提なのか。僕が何も読んでいないと答えたら、どうなっていたのだろうか。読書の話題の前に「日曜に映画へ」と約束したものの、「本も読まないの?」と言われてキャンセルされた可能性もあるのか。また、女子に返り討ちにされる間抜けな男というイメージのままで、「イメージ違った」と言われなかった可能性もあるのか。父には心から感謝したい。
四賀さんの趣味が読書であるなら、僕もこれから本を読もう。まずは、父から貰った本。そうだ。本のタイトルを言えないのはおかしい。きちんと覚えておこう。
『わが息子よ、君はどう生きるか』フィリップ・チェスターフィールド著
日曜までに完読しよう。そう思って、しおりを挟んだページを開いた時にスマホが光った。画面を見ると、四賀さんからのメッセージだ。
「日曜、楽しみにしてるね」
その下に、自分の体よりも大きな本を抱えた猫が、しっぽをゆっくり揺らしながら微笑んでいるスタンプが添えられている。読書が好きな四賀さんらしい可愛いスタンプだ。
僕はどのようなスタンプを返そうか探した。本を持っているスタンプ? それは安易過ぎる。僕がよく使うスタンプでいいか。親指を立てた熊が「楽しみ」と言っているスタンプを返信した。
スマホを置いて、再び本を開く。
今週の日曜・・。そう思うと、ページをめくる指先がいつもよりも軽やかだ。
『小笠原気功会史』、『たまゆらのかたへ』、『女子演劇部』に登場した小田和吉が主役のスピンオフ作品です。




