本と映画と息子と ―― 父親編
人間は、正しい答えを常に持っているわけではない。
私は、子育ては妻だけの仕事だとは思っていない。子どもの教育には妻と一緒に関わってきたつもりだ。学校行事に顔を出し、宿題の相談を聞き、進路の話題にも耳を傾けた。だが、中学に上がった辺りからか、息子が少し遠く感じられるようになった。会話の量は減っていなくても、話の中身がすれ違うことが増えた。
妻は時々言う。「男の気持ちは男同士の方がわかる」と。その言葉を私は「そうだな」と流しつつ、心の中で反発する。男同士だからといって、すべてが通じ合うわけではない。ひとりひとり考えていることは違う。だが、息子との距離を縮めたい時に、妻との距離を開けるのは得策ではないことも、私は知っている。
息子の気持ちはわからなくても、自分の学生時代の気持ちはわかる。父の「こうすべきだ」という押しつけや説教は、賛同できずに反発したくなった。父が何か言えば言うほど空回りし、さらに母の「おまえは人生経験が少ないからお父さんに従いなさい」という一言が火に油を注いだものだった。人生経験が少なかろうが、どうしたいかという私の考えを尊重して欲しかった。
宗教では、供物を通じて超越的な存在へ感謝や敬意などの気持ちを伝える。息子は神でも仏でもないが、息子に壁を作らせないようにするには、直接的な言葉よりも物を介した方が良いのではないかと思うようになった。
手渡すものが、会話のきっかけになればいいし、きっかけにならなくてもいい。どのような物なら喜ぶだろうかと悩む時間も楽しい。小遣いの中から昼食代を削ってでも続けたい。最近は妻も何かを贈っているようだ。重複しないように何を贈るのか尋ねても、「あなたが贈るものを教えてくれれば同じものは選ばないから」と教えてくれない。
高校入学の折には、一冊の本を渡した。タイトルは『わが息子よ、君はどう生きるか』。18世紀のイギリスを生きたフィリップ・チェスターフィールドが息子に書いた手紙をまとめたものである。若いうちに名著に触れることは、善き生を生きる上で指針となるだろう。
しかし、あれから何日が経過したか、反応がないのがもどかしい。あの本は読みやすく、すぐに読み終えるだろうと思っていた。読書感想文を求めたわけではなくても、何かあるものだろう。思春期というのは、真面目な話が恥ずかしく思えたり、忙しくなくても忙しい不思議な時期だ。息子を責めるつもりはない。
次に考えた一手は映画の券だ。人生について深く考えさせられるようなヒューマンドラマが良いだろうか。いや、それは私の偏見かもしれない。アクションであれアニメであれ、友達と出かけ、共感する経験そのものが、息子にとっての何かになるかもしれない。そのように考えて、好きな映画を鑑賞できるシネマコンプレックスの映画の招待券を2枚封筒に入れて渡した。
自分のやり方が正しいかどうかはわからない。ただ、人間は何がきっかけで新たな一歩を踏み出すかわからないと考えたら、できうる限りの方法を提示するのは親の役割ではあり、子育ての醍醐味ではないか。
封筒を渡した時には、久しぶりに息子の笑顔を見た。テレビを見て笑う時のような大袈裟な反応ではないが、赤ん坊の頃から見続けているのだ。息子が本当に嬉しい時の顔は見逃さない。
その翌日の夕食時に、息子は何とも言えない顔をしていた。映画に誘った友人が、息子が観たかった映画を既に観ていたのだろうか。それとも、観たかった映画が既に終わっていたのだろうか。
詮索をするのは自由だ。しかしながら、「どうかしたのか?」と口に出すのは思春期には過干渉だと受け取られがちだ。自立性を養う上でも、SOSを出さない限り、手は出さない。テレビのニュースで「SOSを発していたはずだ」と聞くこともある。それは普段からの観察不足だ。人は植物と違って、意思疎通ができる。だが、それを過信してはいけない。人も植物と同様に水も養分も必要であり、意思疎通ができない場合もある。観察しないうちに枯れてしまう可能性があるのだ。
翌々日の夕食時に、遅ればせながら本の感想を伝えられた。それでいいんだ。私は、親として多くは望まない。同僚の中には、子供も大学院に進学させて研究職にと言う者もいる。だが、子どもは親の操り人形ではない。自分の理想の人生を押し付けるのは自己満足でしかない。見聞を広め、人間的に成長してくれさえすれば、それでいいのではないか。一言、二言の感想でも、親冥利に尽きる。
子育てにおいて、期待と現実の折り合いをつけるのも親の仕事だ。すぐに大きな変化が起きるわけではない。だが、小さな積み重ねが子供の中で何かを育てるかもしれない。その可能性を信じて、私はまた別のささやかな手を考えよう。次も本か映画の券か。あるいは木製のシャーペンのような味がある何か。方法が拙いか? そうもしれない。それでも試行錯誤を止めるつもりはない。
日曜の朝、窓から入る陽の光、新聞をめくる音、コーヒーの香りは、いつもと同じであった。だが、息子が「今日、昼いらないよ」と元気に言って出掛けた。人間が本当に嬉しい時には、後姿が輝くものだ。
和吉、今日を楽しめ。そして、人生を楽しめ。
人間は、正しい答えを常に持っているわけではない。だからこそ、人生が楽しいのだ。




