女魔族の乱入
翌日。
僕たちは再び、訓練ダンジョンに入った。
昨日と同じ入口。同じ湿った空気。同じ苔の匂い。
でも、体の反応は——少しだけ違っていた。
恐怖は、まだある。
でも、足が竦まない。
昨日を生き延びたという事実が、わずかに心を支えていた。
「今日は、昨日より奥まで進む」
シュナイダーが言った。
「だが、無理はしない。異変を感じたら、すぐに撤退する」
クラスメイトたちが頷く。
神崎の目には、昨日より強い光があった。
風間も、拳を握りしめている。
初戦を経験して、自信がついたのだろう。
僕は——相変わらず後方だった。
相沢さんと並んで歩く。
高嶺さんは、少し前。
胸元のペンダントに、時折手を触れている。
◆
探索は、順調だった。
ゴブリンとの遭遇は、昨日より多かった。
五体、七体、時には十体近い群れ。
それでも、神崎たちの連携は確実に良くなっていた。
「神崎、右に二体!」
坂下の《分析》が、敵の位置を正確に伝える。
「任せろ!」
神崎の《聖剣》が閃き、二体を同時に斬り伏せる。
その隙を狙って飛びかかるゴブリンを、風間が拳で叩き落とす。
篠原さんが、逃げようとする個体を追い詰めて仕留める。
高嶺さんは、後方で待機。
負傷者が出れば、すぐに《治癒》を発動する。
幸い、今日はまだ出番がない。
「いい動きだ」
シュナイダーが、感心したように言った。
「昨日より、ずっと良くなっている」
神崎が、少しだけ誇らしげな表情を浮かべた。
風間が「当然だろ」と笑う。
緊張感はあるが、余裕も——生まれつつある。
僕は——見ていた。
クラスメイトたちの動きを。
騎士たちの援護のタイミングを。
ゴブリンの攻撃パターンを。
《記録》が、情報を蓄積していく。
まだ、使いこなせてはいない。
でも、確実に——何かが溜まっている感覚がある。
◆
昨日引き返した地点を、越えた。
通路が、さらに狭くなる。
天井が低くなり、松明を高く掲げると焦げ跡がつきそうだ。
空気が——変わってきた。
湿気が薄れて、乾いた冷たさが増している。
壁の石が、より古い。
苔ではなく、埃と——何か別のものが、積もっている。
「この先は、中層に入る」
シュナイダーが、足を止めた。
「訓練としては、ここまでで十分だ。引き返すか——」
その言葉が、途切れた。
◆
——何かが、来る。
それは、感覚だった。
音ではない。匂いでもない。
ただ、空気が——震えている。
首筋が、粟立った。
背中に、冷たい汗が流れる。
体が、勝手に警戒態勢に入っている。
「全員、止まれ」
シュナイダーの声が、鋭くなった。
騎士たちが、一斉に剣を抜く。
「これは——」
シュナイダーの顔が、強張っている。
初めて見る表情だった。
恐怖ではない。緊張でもない。
もっと深刻な——警戒。
「魔力波動だ。強い。……この距離で、これほど感じるのは——」
その瞬間。
通路の奥から——圧が、来た。
◆
息が、詰まった。
体が、動かない。
足が、地面に縫い付けられたように重い。
空気そのものが、粘度を増したような感覚。
——なんだ、これは。
ゴブリンとは、違う。
昨日感じた恐怖とは、次元が違う。
これは——本物の、死の気配。
「異世界人は、後退しろ!」
シュナイダーが叫んだ。
「騎士団、戦闘態勢! 相手は——」
通路の奥から、影が現れた。
最初は、人間に見えた。
女性の姿。すらりとした体躯。長い銀色の髪。
松明の灯りに照らされて、ゆっくりと——近づいてくる。
美しかった。
息を呑むほどに、美しかった。
整った顔立ち。白い肌。優雅な所作。
まるで、絵画から抜け出てきたような——
——いや、違う。
目が、違う。
深紅の瞳が、こちらを見ている。
その奥に、殺意が——渦巻いている。
耳が、人間ではなかった。
尖っている。長く、鋭く。
背中には、蝙蝠のような——黒い翼。
「……魔族」
誰かが、呻くように言った。
女魔族は、足を止めた。
薄い唇が、弧を描く。
笑っている。
美しい顔が——残酷な笑みを浮かべている。
「ようやく見つけた」
声が、響いた。
低く、艶のある声。
それだけで——空気が、さらに重くなる。
「召喚された異世界人……。まとめて始末できる好機だな」
◆
シュナイダーが、前に出た。
「お前は——」
「私の名はヴェリナ」
女魔族が、優雅に一礼した。
その動作すら、美しい。
だが、その美しさが——恐ろしい。
「魔族軍の一翼を担う者。お前たちの敵だ」
「訓練ダンジョンに、なぜ魔族が——」
「なぜ? 簡単なことだ」
ヴェリナが、笑った。
「召喚されたばかりの異世界人が、訓練に来ると聞いた。ならば——芽は、早いうちに摘むべきだろう?」
シュナイダーの顔が、険しくなった。
「情報が、漏れているのか……」
「さあ、どうだろう。それより——」
ヴェリナの視線が、僕たちを舐めるように動いた。
「弱い。あまりにも弱い。これが、王国の切り札か? 期待外れだな」
「黙れ!」
神崎が、前に出ようとした。
シュナイダーが、腕で制する。
「動くな、神崎。相手が悪い」
「でも——!」
「お前たちでは、勝てない」
シュナイダーの声は、静かだった。
だが、その重さが——状況の深刻さを物語っている。
「騎士団で時間を稼ぐ。お前たちは、今すぐ撤退しろ」
「シュナイダーさん——」
「これは命令だ」
シュナイダーが、剣を構えた。
他の騎士たちも、陣形を整える。
五人の騎士が、ヴェリナの前に立ちはだかる。
「行け。走れ。振り返るな」
その言葉が、合図だった。
◆
僕たちは、走り出した。
来た道を、戻る。
暗い通路を、松明の灯りを頼りに駆け抜ける。
背後から——轟音が響いた。
剣と剣がぶつかる音。
魔力が炸裂する音。
悲鳴。怒号。金属が軋む音。
戦闘が、始まっている。
シュナイダーたちが、僕たちを逃がすために戦っている。
「くそっ——!」
神崎が、歯を食いしばりながら走っている。
「逃げるしかないのか——!」
「今は、耐えろ!」
風間が叫んだ。
「俺たちじゃ、勝てない! わかってるだろ!」
わかっている。
あの女魔族の——ヴェリナの存在感。
あれは、人間が太刀打ちできる相手ではない。
ゴブリンとは、違う。
訓練で倒せる敵ではない。
あれは——本物の、化け物だ。
「澪、大丈夫!?」
篠原さんが、高嶺さんの手を引いている。
高嶺さんの顔は、真っ青だった。
足が、もつれている。
「私——私——」
「走って! 考えるのは後!」
僕は——走りながら、後ろを見た。
通路の奥で、光が閃いている。
魔力の光。剣の軌跡。
シュナイダーたちが、必死に戦っている。
——逃げるしかない。
わかっている。
でも、胸の奥が——軋む。
あの人たちは、僕たちを守るために戦っている。
死ぬかもしれないのに。
それでも、僕たちを——
◆
出口が、見えた。
ダンジョンの入口。外の光。
あと少し。あと少しで——
「——逃がすと思ったか?」
声が、上から降ってきた。
見上げると——ヴェリナが、いた。
天井近くに浮いている。
黒い翼を広げて、僕たちを見下ろしている。
深紅の瞳が、愉しげに細められている。
「シュナイダーさんたちは——!」
神崎が叫んだ。
「心配するな。殺してはいない」
ヴェリナが、ゆっくりと降りてきた。
「まだ、だがな」
足が、止まった。
逃げ場が——ない。
前には、出口。
でも、その前に——ヴェリナがいる。
「さて」
ヴェリナが、腕を広げた。
「まずは——誰から殺そうか」
その言葉が、空気を凍らせた。
◆
神崎が、剣を構えた。
「やるしかない——!」
「待て、神崎!」
風間が叫んだが、遅かった。
神崎は、もう動き出していた。
《聖剣》が、輝きを増す。
神崎の切り札。最強の一撃。
「おおおおおっ!」
神崎が、ヴェリナに斬りかかった。
《聖剣》が、弧を描いて振り下ろされる。
——届かなかった。
ヴェリナは、指一本動かさなかった。
ただ、目の前に——紫色の障壁が現れた。
神崎の剣が、その障壁に触れた瞬間——
弾かれた。
神崎の体が、宙を舞う。
壁に叩きつけられて、崩れ落ちる。
「神崎!」
風間が駆け寄ろうとした。
ヴェリナが、軽く手を振った。
それだけで——風間も、吹き飛ばされた。
「弱い」
ヴェリナの声が、冷たく響いた。
「《聖剣》か。名前だけは聞いていたが……この程度か」
神崎が、壁を背に立ち上がろうとしている。
でも、体が——震えている。
目に、絶望が浮かんでいる。
「なぜ……なぜ、届かない……」
「わからないか?」
ヴェリナが、神崎に近づいた。
「お前は——まだ戦争をわかっていない」
神崎の顔が、強張った。
ヴェリナが、神崎の顎を掴んだ。
白い指が、神崎の顔を持ち上げる。
「命を奪う覚悟がない」
神崎の目が、見開かれた。
「それが、お前の弱さだ」
◆
僕は——見ていた。
動けなかった。
足が、竦んでいる。
ヴェリナの存在感が——僕たちを、縫い付けている。
高嶺さんが、震えている。
相沢さんも、動けない。
坂下も、篠原さんも——誰も、動けない。
恐怖。
純粋な、恐怖。
これが——本物の魔族。
これが——僕たちの敵。
ヴェリナは、神崎を解放した。
神崎が、地面に崩れ落ちる。
「殺すのは、簡単だ」
ヴェリナが、僕たちを見渡した。
「だが——少し、遊んでやろう」
その言葉に、希望は——なかった。
ただ、残酷な予感だけがあった。
「抵抗してみせろ、異世界人。お前たちの力を——見せてみろ」
ヴェリナが、両手を広げた。
深紅の瞳が、愉悦に輝いている。
——戦うしか、ない。
逃げられない。
勝てない。
でも——戦うしかない。
神崎が、よろめきながら立ち上がった。
風間も、壁に手をついて起き上がる。
篠原さんが、剣を構えた。
坂下が、《分析》を発動しようとしている。
僕は——
震える足で、一歩を踏み出した。
何ができるかわからない。
でも、見ているだけは——できない。
騎士団と、異世界人。
混成の——絶望的な戦いが、始まろうとしていた。




