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女魔族の乱入

 翌日。

 僕たちは再び、訓練ダンジョンに入った。


 昨日と同じ入口。同じ湿った空気。同じ苔の匂い。

 でも、体の反応は——少しだけ違っていた。


 恐怖は、まだある。

 でも、足が竦まない。

 昨日を生き延びたという事実が、わずかに心を支えていた。


「今日は、昨日より奥まで進む」


 シュナイダーが言った。


「だが、無理はしない。異変を感じたら、すぐに撤退する」


 クラスメイトたちが頷く。

 神崎の目には、昨日より強い光があった。

 風間も、拳を握りしめている。

 初戦を経験して、自信がついたのだろう。


 僕は——相変わらず後方だった。

 相沢さんと並んで歩く。

 高嶺さんは、少し前。

 胸元のペンダントに、時折手を触れている。







 探索は、順調だった。


 ゴブリンとの遭遇は、昨日より多かった。

 五体、七体、時には十体近い群れ。

 それでも、神崎たちの連携は確実に良くなっていた。


「神崎、右に二体!」


 坂下の《分析》が、敵の位置を正確に伝える。


「任せろ!」


 神崎の《聖剣》が閃き、二体を同時に斬り伏せる。

 その隙を狙って飛びかかるゴブリンを、風間が拳で叩き落とす。

 篠原さんが、逃げようとする個体を追い詰めて仕留める。


 高嶺さんは、後方で待機。

 負傷者が出れば、すぐに《治癒》を発動する。

 幸い、今日はまだ出番がない。


「いい動きだ」


 シュナイダーが、感心したように言った。


「昨日より、ずっと良くなっている」


 神崎が、少しだけ誇らしげな表情を浮かべた。

 風間が「当然だろ」と笑う。

 緊張感はあるが、余裕も——生まれつつある。


 僕は——見ていた。


 クラスメイトたちの動きを。

 騎士たちの援護のタイミングを。

 ゴブリンの攻撃パターンを。


 《記録》が、情報を蓄積していく。

 まだ、使いこなせてはいない。

 でも、確実に——何かが溜まっている感覚がある。







 昨日引き返した地点を、越えた。


 通路が、さらに狭くなる。

 天井が低くなり、松明を高く掲げると焦げ跡がつきそうだ。

 空気が——変わってきた。


 湿気が薄れて、乾いた冷たさが増している。

 壁の石が、より古い。

 苔ではなく、埃と——何か別のものが、積もっている。


「この先は、中層に入る」


 シュナイダーが、足を止めた。


「訓練としては、ここまでで十分だ。引き返すか——」


 その言葉が、途切れた。







 ——何かが、来る。


 それは、感覚だった。

 音ではない。匂いでもない。

 ただ、空気が——震えている。


 首筋が、粟立った。

 背中に、冷たい汗が流れる。

 体が、勝手に警戒態勢に入っている。


「全員、止まれ」


 シュナイダーの声が、鋭くなった。

 騎士たちが、一斉に剣を抜く。


「これは——」


 シュナイダーの顔が、強張っている。

 初めて見る表情だった。

 恐怖ではない。緊張でもない。

 もっと深刻な——警戒。


「魔力波動だ。強い。……この距離で、これほど感じるのは——」


 その瞬間。


 通路の奥から——圧が、来た。







 息が、詰まった。


 体が、動かない。

 足が、地面に縫い付けられたように重い。

 空気そのものが、粘度を増したような感覚。


 ——なんだ、これは。


 ゴブリンとは、違う。

 昨日感じた恐怖とは、次元が違う。

 これは——本物の、死の気配。


「異世界人は、後退しろ!」


 シュナイダーが叫んだ。


「騎士団、戦闘態勢! 相手は——」


 通路の奥から、影が現れた。


 最初は、人間に見えた。

 女性の姿。すらりとした体躯。長い銀色の髪。

 松明の灯りに照らされて、ゆっくりと——近づいてくる。


 美しかった。


 息を呑むほどに、美しかった。

 整った顔立ち。白い肌。優雅な所作。

 まるで、絵画から抜け出てきたような——


 ——いや、違う。


 目が、違う。

 深紅の瞳が、こちらを見ている。

 その奥に、殺意が——渦巻いている。


 耳が、人間ではなかった。

 尖っている。長く、鋭く。

 背中には、蝙蝠のような——黒い翼。


「……魔族」


 誰かが、呻くように言った。


 女魔族は、足を止めた。

 薄い唇が、弧を描く。

 笑っている。

 美しい顔が——残酷な笑みを浮かべている。


「ようやく見つけた」


 声が、響いた。

 低く、艶のある声。

 それだけで——空気が、さらに重くなる。


「召喚された異世界人……。まとめて始末できる好機だな」







 シュナイダーが、前に出た。


「お前は——」


「私の名はヴェリナ」


 女魔族が、優雅に一礼した。

 その動作すら、美しい。

 だが、その美しさが——恐ろしい。


「魔族軍の一翼を担う者。お前たちの敵だ」


「訓練ダンジョンに、なぜ魔族が——」


「なぜ? 簡単なことだ」


 ヴェリナが、笑った。


「召喚されたばかりの異世界人が、訓練に来ると聞いた。ならば——芽は、早いうちに摘むべきだろう?」


 シュナイダーの顔が、険しくなった。


「情報が、漏れているのか……」


「さあ、どうだろう。それより——」


 ヴェリナの視線が、僕たちを舐めるように動いた。


「弱い。あまりにも弱い。これが、王国の切り札か? 期待外れだな」


「黙れ!」


 神崎が、前に出ようとした。

 シュナイダーが、腕で制する。


「動くな、神崎。相手が悪い」


「でも——!」


「お前たちでは、勝てない」


 シュナイダーの声は、静かだった。

 だが、その重さが——状況の深刻さを物語っている。


「騎士団で時間を稼ぐ。お前たちは、今すぐ撤退しろ」


「シュナイダーさん——」


「これは命令だ」


 シュナイダーが、剣を構えた。

 他の騎士たちも、陣形を整える。

 五人の騎士が、ヴェリナの前に立ちはだかる。


「行け。走れ。振り返るな」


 その言葉が、合図だった。







 僕たちは、走り出した。


 来た道を、戻る。

 暗い通路を、松明の灯りを頼りに駆け抜ける。


 背後から——轟音が響いた。


 剣と剣がぶつかる音。

 魔力が炸裂する音。

 悲鳴。怒号。金属が軋む音。


 戦闘が、始まっている。

 シュナイダーたちが、僕たちを逃がすために戦っている。


「くそっ——!」


 神崎が、歯を食いしばりながら走っている。


「逃げるしかないのか——!」


「今は、耐えろ!」


 風間が叫んだ。


「俺たちじゃ、勝てない! わかってるだろ!」


 わかっている。

 あの女魔族の——ヴェリナの存在感。

 あれは、人間が太刀打ちできる相手ではない。


 ゴブリンとは、違う。

 訓練で倒せる敵ではない。

 あれは——本物の、化け物だ。


「澪、大丈夫!?」


 篠原さんが、高嶺さんの手を引いている。

 高嶺さんの顔は、真っ青だった。

 足が、もつれている。


「私——私——」


「走って! 考えるのは後!」


 僕は——走りながら、後ろを見た。


 通路の奥で、光が閃いている。

 魔力の光。剣の軌跡。

 シュナイダーたちが、必死に戦っている。


 ——逃げるしかない。


 わかっている。

 でも、胸の奥が——軋む。


 あの人たちは、僕たちを守るために戦っている。

 死ぬかもしれないのに。

 それでも、僕たちを——







 出口が、見えた。


 ダンジョンの入口。外の光。

 あと少し。あと少しで——


「——逃がすと思ったか?」


 声が、上から降ってきた。


 見上げると——ヴェリナが、いた。


 天井近くに浮いている。

 黒い翼を広げて、僕たちを見下ろしている。

 深紅の瞳が、愉しげに細められている。


「シュナイダーさんたちは——!」


 神崎が叫んだ。


「心配するな。殺してはいない」


 ヴェリナが、ゆっくりと降りてきた。


「まだ、だがな」


 足が、止まった。

 逃げ場が——ない。


 前には、出口。

 でも、その前に——ヴェリナがいる。


「さて」


 ヴェリナが、腕を広げた。


「まずは——誰から殺そうか」


 その言葉が、空気を凍らせた。







 神崎が、剣を構えた。


「やるしかない——!」


「待て、神崎!」


 風間が叫んだが、遅かった。

 神崎は、もう動き出していた。


 《聖剣》が、輝きを増す。

 神崎の切り札。最強の一撃。


「おおおおおっ!」


 神崎が、ヴェリナに斬りかかった。

 《聖剣》が、弧を描いて振り下ろされる。


 ——届かなかった。


 ヴェリナは、指一本動かさなかった。

 ただ、目の前に——紫色の障壁が現れた。

 神崎の剣が、その障壁に触れた瞬間——


 弾かれた。


 神崎の体が、宙を舞う。

 壁に叩きつけられて、崩れ落ちる。


「神崎!」


 風間が駆け寄ろうとした。

 ヴェリナが、軽く手を振った。

 それだけで——風間も、吹き飛ばされた。


「弱い」


 ヴェリナの声が、冷たく響いた。


「《聖剣》か。名前だけは聞いていたが……この程度か」


 神崎が、壁を背に立ち上がろうとしている。

 でも、体が——震えている。

 目に、絶望が浮かんでいる。


「なぜ……なぜ、届かない……」


「わからないか?」


 ヴェリナが、神崎に近づいた。


「お前は——まだ戦争をわかっていない」


 神崎の顔が、強張った。

 ヴェリナが、神崎の顎を掴んだ。

 白い指が、神崎の顔を持ち上げる。


「命を奪う覚悟がない」


 神崎の目が、見開かれた。


「それが、お前の弱さだ」







 僕は——見ていた。


 動けなかった。

 足が、竦んでいる。

 ヴェリナの存在感が——僕たちを、縫い付けている。


 高嶺さんが、震えている。

 相沢さんも、動けない。

 坂下も、篠原さんも——誰も、動けない。


 恐怖。

 純粋な、恐怖。

 これが——本物の魔族。

 これが——僕たちの敵。


 ヴェリナは、神崎を解放した。

 神崎が、地面に崩れ落ちる。


「殺すのは、簡単だ」


 ヴェリナが、僕たちを見渡した。


「だが——少し、遊んでやろう」


 その言葉に、希望は——なかった。

 ただ、残酷な予感だけがあった。


「抵抗してみせろ、異世界人。お前たちの力を——見せてみろ」


 ヴェリナが、両手を広げた。

 深紅の瞳が、愉悦に輝いている。


 ——戦うしか、ない。


 逃げられない。

 勝てない。

 でも——戦うしかない。


 神崎が、よろめきながら立ち上がった。

 風間も、壁に手をついて起き上がる。

 篠原さんが、剣を構えた。

 坂下が、《分析》を発動しようとしている。


 僕は——


 震える足で、一歩を踏み出した。


 何ができるかわからない。

 でも、見ているだけは——できない。


 騎士団と、異世界人。

 混成の——絶望的な戦いが、始まろうとしていた。


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