訓練ダンジョン:最初の一歩
ダンジョンの入口を抜けると、空気が一変した。
外の世界とは、まるで違う。
湿気が肌にまとわりつく。冷たい。でも、どこかじっとりとした不快感がある。
壁は粗い石で、触れると指先に苔の感触が残った。
天井は低く、松明の灯りが届かない場所は、濃い闇に沈んでいる。
匂いも違った。
土と、苔と、澱んだ水と——何か、生き物の気配。
獣の巣に迷い込んだような、本能を逆撫でする匂い。
「足元に気をつけろ。段差がある」
シュナイダーの声が、前方から響いた。
僕たちは一列になって、通路を進んでいく。
騎士たちが前後を固め、クラスメイトたちはその間に挟まれていた。
高嶺さんが、僕の少し前を歩いている。
時折、胸元に手を当てている。ペンダントを確認しているのだろう。
その仕草が——少しだけ、心を落ち着かせた。
◆
「静かにしろ」
シュナイダーが手を上げた。
全員が足を止める。
前方に——何かがいる。
松明の灯りが、通路の奥を照らしている。
そこに、小さな影が蠢いていた。
緑色の肌。尖った耳。人間の子供くらいの大きさ。
手には、錆びた短剣を握っている。
「ゴブリンだ」
騎士の一人が、低い声で言った。
「弱いが、油断はするな。複数いる」
目を凝らすと、影は三つあった。
通路の曲がり角に、固まっている。
こちらに気づいているのか、いないのか——わからない。
「神崎、前に出ろ。風間、篠原も」
シュナイダーが指示を飛ばした。
「最初の実戦だ。俺たちがすぐ後ろにいる。思い切ってやれ」
神崎が頷いて、前に出た。
《聖剣》が、微かに光を帯びている。
風間が拳を握り、篠原さんが低く構えた。
僕は——後方だった。
相沢さんと一緒に、騎士たちの後ろに下がっている。
高嶺さんも同じく後方。回復役は前に出ない。
「行くぞ」
神崎が駆け出した。
その瞬間、ゴブリンたちが甲高い声を上げた。
威嚇か、警報か。
三体が一斉に、こちらに向かってくる。
最初の一体に、神崎の剣が振り下ろされた。
——重い音がした。
刃が骨を断つ音。
肉を裂く音。
血が飛沫を上げて、石壁に染みを作る。
ゴブリンが倒れた。
痙攣して、動かなくなる。
「神崎くん!」
篠原さんが叫んだ。
二体目のゴブリンが、神崎の横から飛びかかろうとしている。
「させるか!」
風間が割り込んだ。
拳が振り抜かれる。
《剛力》の一撃が、ゴブリンの頭部を捉えた。
——潰れる音。
壁に叩きつけられたゴブリンが、ずるりと崩れ落ちた。
三体目は、篠原さんが仕留めた。
《疾風》で加速した一閃が、ゴブリンの胸を貫いている。
戦闘は——十数秒で終わった。
◆
静寂が、戻ってきた。
通路に、三つの死体が転がっている。
緑色の肌が、松明の灯りに照らされている。
血が、石畳の隙間を伝って流れていく。
——匂いが、濃くなった。
鉄錆のような、血の匂い。
内臓が裂けて露出した、生臭い匂い。
それが、湿った空気に混じって、鼻の奥を刺激する。
「よくやった」
シュナイダーが、神崎たちに声をかけた。
「初めての実戦にしては上出来だ。だが——」
シュナイダーの視線が、ゴブリンの死体に向いた。
「ここは死体を放置しない。片付けろ」
騎士たちが動いて、死体を通路の脇に寄せた。
血は拭えない。石に染み込んで、暗い染みになっている。
「これが実戦だ。殺せば、血が出る。死体が残る。匂いもする」
シュナイダーの声は、淡々としていた。
「慣れろとは言わない。だが、目を逸らすな。これが——この世界で戦うということだ」
クラスメイトたちが、黙っていた。
誰も、何も言えなかった。
神崎の剣には、まだ血がこびりついている。
風間の拳は、赤く染まっていた。
篠原さんの顔は、わずかに青ざめている。
僕は——見ていた。
ゴブリンの死体を。
血の染みを。
そして、クラスメイトたちの表情を。
恐怖で、指が痺れていた。
僕は何もしていない。後ろで見ていただけだ。
それでも——体が震えている。
これが、実戦。
これが、殺すということ。
頭では理解していたつもりだった。
でも、実際に目の前で見ると——言葉にならない何かが、胸の奥に溜まっていく。
◆
探索は、続いた。
通路を進む。曲がり角を警戒する。前方の闇を松明で照らす。
その繰り返し。
時折、ゴブリンと遭遇した。
一体だけのこともあれば、五体まとめて現れることもあった。
神崎たちが前に出て、戦う。
シュナイダーたち騎士が、必要なら援護する。
僕たち後方組は——見ているだけだった。
「黒瀬くん、大丈夫?」
高嶺さんが、小声で聞いてきた。
「ああ。高嶺さんは?」
「……正直、怖い。でも、みんなが頑張ってるから」
高嶺さんの手が、胸元に触れた。
ペンダントを握りしめている。
「これ、持ってると——少しだけ、大丈夫な気がする」
その言葉に、僕は少しだけ安心した。
貸した甲斐があった。
「……返すのは、ちゃんと全員で帰ってからだからな」
「うん。約束」
高嶺さんが、小さく笑った。
その笑顔が——この暗闘の中で、唯一の光に見えた。
◆
何度目かの遭遇。
今度は、二体のゴブリンが通路を塞いでいた。
「神崎、風間、前へ」
シュナイダーの指示で、二人が前に出る。
もう慣れたものだった。
神崎が右、風間が左を担当する。
——その時。
横の壁に、穴があった。
暗くて気づかなかった。
そこから——三体目のゴブリンが、飛び出してきた。
「くっ——!」
神崎が反応した。
でも、遅い。
前の二体に意識が向いていて、横からの奇襲に対応できていない。
ゴブリンの短剣が、神崎の脇腹を狙う。
「神崎!」
シュナイダーが動いた。
騎士の剣が一閃して、ゴブリンを斬り伏せる。
間一髪。
神崎は無傷だった。
「……すまない」
神崎が、歯を食いしばった。
「周りが見えてなかった」
「反省は後だ。まずは目の前を片付けろ」
シュナイダーの言葉で、神崎が前に向き直った。
残りの二体を、風間と協力して仕留める。
戦闘が終わった後、シュナイダーが全員を集めた。
「今の、見ていたな」
僕たちは頷いた。
「横穴からの奇襲。ダンジョンでは珍しくない。通路だけを見ていると、死ぬ」
シュナイダーの目が、僕たちを見渡した。
「前衛だけじゃない。後衛も、周囲に気を配れ。何か気づいたら、声を上げろ」
「はい」
声が揃った。
でも、それがどれだけ難しいか——今、身をもって知った。
戦闘の最中は、視野が狭くなる。
恐怖で、周りが見えなくなる。
それを補うには——経験しかない。
——俺には、何ができる。
そう考えていた。
後方にいて、見ているだけの僕に。
ふと、視界の端で何かが動いた気がした。
横穴——ではない。床の凹凸。影の揺らぎ。
何もないはずなのに、目が自然とそこを追っていた。
——《記録》?
意識していない。
でも、目が——動きの「パターン」を拾おうとしている。
ゴブリンがどこから現れるか。どう動くか。
その情報を、勝手に集めている。
まだ、使い方はわからない。
でも——何かが、少しずつ掴めてきている気がした。
◆
探索は、順調に進んでいた。
シュナイダーの指導は的確で、神崎たちは徐々に連携を覚えていった。
風間の《剛力》は、一撃で敵を沈める力がある。
篠原さんの《疾風》は、速さで敵を翻弄する。
坂下の《分析》は、敵の動きを読んで仲間に伝える。
高嶺さんは、負傷者が出ればすぐに《治癒》で回復させる。
僕は——後方で、見ていた。
足の動きを見る。
敵の攻撃を避けるタイミングを見る。
床の凹凸を踏んで、バランスを崩す瞬間を見る。
シュナイダーの動き。騎士たちの動き。クラスメイトの動き。
それらが、頭の中に蓄積されていく。
——《記録》が、働いている。
そう感じた。
意識して使っているわけではない。
ただ見ているだけで、情報が——記録されていく。
まるで、目が勝手に「大事なもの」を選び取っているような感覚。
「黒瀬くん」
相沢さんが、隣で小声で言った。
「さっきから、目の動きがすごい」
「……え?」
「全部見てるでしょ。敵も、味方も、床も、壁も」
相沢さんの《観察眼》は、僕の視線の動きまで追っているのか。
「……何が見えてるの?」
「わからない。ただ——見えてる気がするだけ」
「ふうん」
相沢さんは、それ以上聞かなかった。
ハズレスキル同盟の秘密。
お互い、深くは踏み込まない。
◆
次の遭遇は、少し大きな部屋だった。
広間のような空間。
天井が高く、松明の灯りが届かない場所が多い。
そして——ゴブリンが、七体いた。
「多いな」
シュナイダーが眉をひそめた。
「だが、この程度なら問題ない。神崎、お前たちの判断で動け。俺たちはバックアップに回る」
神崎が頷いた。
風間、篠原さん、坂下と目を合わせる。
「行くぞ」
前衛が飛び出した。
僕は——後方で見ていた。
七体のゴブリンが、散開する。
二体が神崎に向かう。二体が風間に。一体が篠原さんを狙う。
残り二体は——後方を窺っている。
——あれ、やばくないか。
直感が、警鐘を鳴らした。
後方を窺っているゴブリン。
そいつらの視線が——僕たちに向いている。
「相沢さん」
「うん、見えてる」
相沢さんも気づいていた。
「シュナイダーさん! 後方に二体、こっちを狙ってます!」
声を上げた。
シュナイダーが振り返る。
その瞬間、ゴブリンが動いた。
小さな体で、低く走る。
僕たちに向かって——突っ込んでくる。
「下がれ!」
シュナイダーが叫んだ。
騎士の一人が、ゴブリンを迎撃する。
一体は仕留めた。
でも、もう一体が——すり抜けた。
僕の目の前に、ゴブリンがいた。
短剣を振りかぶっている。
錆びた刃が、松明の灯りを反射している。
——動け。
体が、反応した。
足が——動いた。
後ろに下がるのではなく、横に。
ゴブリンの短剣が振り下ろされる軌道を、ぎりぎりで避ける。
足の置き方が——整っている。
シュナイダーの動きを、見ていた。
騎士たちが敵を避けるときの、足の運びを、見ていた。
それが——今、体に反映されている。
一歩。
それだけで、短剣が空を切った。
ゴブリンが体勢を崩す。
そこに、騎士の剣が振り下ろされた。
——終わった。
ゴブリンが倒れる。
僕は——息を荒げて、その場に立っていた。
「黒瀬!」
シュナイダーが駆け寄ってきた。
「怪我は」
「……ない」
「よく避けた」
シュナイダーの目が、少しだけ細まった。
何かを考えるような表情。
「お前、足の動き——どこで覚えた」
「……わかりません。体が、勝手に」
嘘ではない。
本当に、体が勝手に動いた。
《記録》が——動きを再現した。
でも、それを説明する言葉は、まだない。
「……そうか」
シュナイダーは、それ以上追及しなかった。
「とにかく、よくやった。声を上げたのも、避けたのも、悪くない」
それだけ言って、シュナイダーは前方に戻っていった。
◆
広間の戦闘が終わった。
ゴブリンは全滅。
クラスメイトに大きな怪我はない。
篠原さんが腕を少し切ったが、高嶺さんの《治癒》ですぐに塞がった。
「ここで少し休憩だ」
シュナイダーの指示で、僕たちは広間の隅に座った。
水を飲む。深呼吸する。
体の震えが——まだ、止まらない。
さっきのこと。
ゴブリンが目の前に迫ってきたこと。
短剣が——僕を殺そうとしていたこと。
死にかけた。
初めて、本当に——死の気配を感じた。
足が震える。手が震える。
でも、震えていても——まだ、立っている。
「黒瀬くん」
高嶺さんが、隣に座った。
「大丈夫? さっき、すごく危なかった」
「ああ……なんとか」
「避け方、すごかったよ。私、見てた」
「そう、かな」
「うん。なんか、騎士さんみたいだった」
高嶺さんがそう言って、少し笑った。
僕は——自分の足を見た。
まだ、震えている。
でも、あの瞬間だけは——ちゃんと動いた。
《記録》が——足の置き方を、整えてくれた。
それが、命を繋いだ。
——これが、《記録》の力なのか。
まだ、一歩だけ。
一振りではなく、一歩。
それでも——確かに、何かが変わっている。
◆
休憩の後、探索を再開した。
奥へ進む。
通路は、次第に狭くなっていく。
空気も——変わってきた。
湿気が減って、乾いた冷たさが増している。
壁の石が、より古びている。
苔ではなく、埃が——積もっている。
そして——静かになった。
最初の頃は、遠くでゴブリンの声が聞こえていた。
物音が、反響していた。
でも今は——何も聞こえない。
静寂。
深い、濃い、静寂。
「……静かだな」
風間が、不安そうに呟いた。
「ゴブリンの気配がない」
「奥に行くほど、弱い魔物は近づかない」
シュナイダーが説明した。
「縄張りがあるんだ。弱い魔物は、強い魔物の領域に入らない」
「強い魔物……」
神崎の声が、緊張を帯びた。
「この先に、いるのか」
「訓練ダンジョンだ。深層には行かない。だが——念のため、警戒しておけ」
シュナイダーの言葉に、全員が頷いた。
僕は——空気を感じていた。
静かすぎる。
何かが——潜んでいる気がする。
見えない。聞こえない。でも——いる。
その感覚が、首筋を撫でる。
冷たい指で——触れられているような。
——異変の、予感。
胸騒ぎが、止まらなかった。
「今日はここまでだ」
シュナイダーが足を止めた。
「十分な成果だ。引き返す」
クラスメイトたちが、ほっとした表情を浮かべた。
僕も——少しだけ、肩の力が抜けた。
でも、振り返る前に——奥を見た。
暗闇が、口を開けている。
その奥から——何かが、こちらを見ている気がした。
気のせいかもしれない。
でも、体が——覚えてしまった。
この先には、何かがいる。
訓練では済まない、本物の——危険が。
今日は、帰れる。
でも——また来ることになる。
そのとき、あの暗闘の奥で待っているものは——
考えるのをやめて、僕は仲間たちの後について歩き出した。
背中に——静寂の視線を感じながら。




