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訓練ダンジョン:最初の一歩

 ダンジョンの入口を抜けると、空気が一変した。


 外の世界とは、まるで違う。


 湿気が肌にまとわりつく。冷たい。でも、どこかじっとりとした不快感がある。

 壁は粗い石で、触れると指先に苔の感触が残った。

 天井は低く、松明の灯りが届かない場所は、濃い闇に沈んでいる。


 匂いも違った。

 土と、苔と、澱んだ水と——何か、生き物の気配。

 獣の巣に迷い込んだような、本能を逆撫でする匂い。


「足元に気をつけろ。段差がある」


 シュナイダーの声が、前方から響いた。

 僕たちは一列になって、通路を進んでいく。

 騎士たちが前後を固め、クラスメイトたちはその間に挟まれていた。


 高嶺さんが、僕の少し前を歩いている。

 時折、胸元に手を当てている。ペンダントを確認しているのだろう。

 その仕草が——少しだけ、心を落ち着かせた。







「静かにしろ」


 シュナイダーが手を上げた。

 全員が足を止める。


 前方に——何かがいる。


 松明の灯りが、通路の奥を照らしている。

 そこに、小さな影が蠢いていた。


 緑色の肌。尖った耳。人間の子供くらいの大きさ。

 手には、錆びた短剣を握っている。


「ゴブリンだ」


 騎士の一人が、低い声で言った。


「弱いが、油断はするな。複数いる」


 目を凝らすと、影は三つあった。

 通路の曲がり角に、固まっている。

 こちらに気づいているのか、いないのか——わからない。


「神崎、前に出ろ。風間、篠原も」


 シュナイダーが指示を飛ばした。


「最初の実戦だ。俺たちがすぐ後ろにいる。思い切ってやれ」


 神崎が頷いて、前に出た。

 《聖剣》が、微かに光を帯びている。

 風間が拳を握り、篠原さんが低く構えた。


 僕は——後方だった。

 相沢さんと一緒に、騎士たちの後ろに下がっている。

 高嶺さんも同じく後方。回復役は前に出ない。


「行くぞ」


 神崎が駆け出した。


 その瞬間、ゴブリンたちが甲高い声を上げた。

 威嚇か、警報か。

 三体が一斉に、こちらに向かってくる。


 最初の一体に、神崎の剣が振り下ろされた。


 ——重い音がした。


 刃が骨を断つ音。

 肉を裂く音。

 血が飛沫を上げて、石壁に染みを作る。


 ゴブリンが倒れた。

 痙攣して、動かなくなる。


「神崎くん!」


 篠原さんが叫んだ。

 二体目のゴブリンが、神崎の横から飛びかかろうとしている。


「させるか!」


 風間が割り込んだ。

 拳が振り抜かれる。

 《剛力》の一撃が、ゴブリンの頭部を捉えた。


 ——潰れる音。


 壁に叩きつけられたゴブリンが、ずるりと崩れ落ちた。


 三体目は、篠原さんが仕留めた。

 《疾風》で加速した一閃が、ゴブリンの胸を貫いている。


 戦闘は——十数秒で終わった。







 静寂が、戻ってきた。


 通路に、三つの死体が転がっている。

 緑色の肌が、松明の灯りに照らされている。

 血が、石畳の隙間を伝って流れていく。


 ——匂いが、濃くなった。


 鉄錆のような、血の匂い。

 内臓が裂けて露出した、生臭い匂い。

 それが、湿った空気に混じって、鼻の奥を刺激する。


「よくやった」


 シュナイダーが、神崎たちに声をかけた。


「初めての実戦にしては上出来だ。だが——」


 シュナイダーの視線が、ゴブリンの死体に向いた。


「ここは死体を放置しない。片付けろ」


 騎士たちが動いて、死体を通路の脇に寄せた。

 血は拭えない。石に染み込んで、暗い染みになっている。


「これが実戦だ。殺せば、血が出る。死体が残る。匂いもする」


 シュナイダーの声は、淡々としていた。


「慣れろとは言わない。だが、目を逸らすな。これが——この世界で戦うということだ」


 クラスメイトたちが、黙っていた。

 誰も、何も言えなかった。


 神崎の剣には、まだ血がこびりついている。

 風間の拳は、赤く染まっていた。

 篠原さんの顔は、わずかに青ざめている。


 僕は——見ていた。


 ゴブリンの死体を。

 血の染みを。

 そして、クラスメイトたちの表情を。


 恐怖で、指が痺れていた。

 僕は何もしていない。後ろで見ていただけだ。

 それでも——体が震えている。


 これが、実戦。

 これが、殺すということ。


 頭では理解していたつもりだった。

 でも、実際に目の前で見ると——言葉にならない何かが、胸の奥に溜まっていく。







 探索は、続いた。


 通路を進む。曲がり角を警戒する。前方の闇を松明で照らす。

 その繰り返し。


 時折、ゴブリンと遭遇した。

 一体だけのこともあれば、五体まとめて現れることもあった。

 神崎たちが前に出て、戦う。

 シュナイダーたち騎士が、必要なら援護する。

 僕たち後方組は——見ているだけだった。


「黒瀬くん、大丈夫?」


 高嶺さんが、小声で聞いてきた。


「ああ。高嶺さんは?」


「……正直、怖い。でも、みんなが頑張ってるから」


 高嶺さんの手が、胸元に触れた。

 ペンダントを握りしめている。


「これ、持ってると——少しだけ、大丈夫な気がする」


 その言葉に、僕は少しだけ安心した。

 貸した甲斐があった。


「……返すのは、ちゃんと全員で帰ってからだからな」


「うん。約束」


 高嶺さんが、小さく笑った。

 その笑顔が——この暗闘の中で、唯一の光に見えた。







 何度目かの遭遇。

 今度は、二体のゴブリンが通路を塞いでいた。


「神崎、風間、前へ」


 シュナイダーの指示で、二人が前に出る。

 もう慣れたものだった。

 神崎が右、風間が左を担当する。


 ——その時。


 横の壁に、穴があった。

 暗くて気づかなかった。

 そこから——三体目のゴブリンが、飛び出してきた。


「くっ——!」


 神崎が反応した。

 でも、遅い。

 前の二体に意識が向いていて、横からの奇襲に対応できていない。


 ゴブリンの短剣が、神崎の脇腹を狙う。


「神崎!」


 シュナイダーが動いた。

 騎士の剣が一閃して、ゴブリンを斬り伏せる。

 間一髪。

 神崎は無傷だった。


「……すまない」


 神崎が、歯を食いしばった。


「周りが見えてなかった」


「反省は後だ。まずは目の前を片付けろ」


 シュナイダーの言葉で、神崎が前に向き直った。

 残りの二体を、風間と協力して仕留める。


 戦闘が終わった後、シュナイダーが全員を集めた。


「今の、見ていたな」


 僕たちは頷いた。


「横穴からの奇襲。ダンジョンでは珍しくない。通路だけを見ていると、死ぬ」


 シュナイダーの目が、僕たちを見渡した。


「前衛だけじゃない。後衛も、周囲に気を配れ。何か気づいたら、声を上げろ」


「はい」


 声が揃った。

 でも、それがどれだけ難しいか——今、身をもって知った。


 戦闘の最中は、視野が狭くなる。

 恐怖で、周りが見えなくなる。

 それを補うには——経験しかない。


 ——俺には、何ができる。


 そう考えていた。

 後方にいて、見ているだけの僕に。


 ふと、視界の端で何かが動いた気がした。

 横穴——ではない。床の凹凸。影の揺らぎ。

 何もないはずなのに、目が自然とそこを追っていた。


 ——《記録》?


 意識していない。

 でも、目が——動きの「パターン」を拾おうとしている。

 ゴブリンがどこから現れるか。どう動くか。

 その情報を、勝手に集めている。


 まだ、使い方はわからない。

 でも——何かが、少しずつ掴めてきている気がした。







 探索は、順調に進んでいた。


 シュナイダーの指導は的確で、神崎たちは徐々に連携を覚えていった。

 風間の《剛力》は、一撃で敵を沈める力がある。

 篠原さんの《疾風》は、速さで敵を翻弄する。

 坂下の《分析》は、敵の動きを読んで仲間に伝える。

 高嶺さんは、負傷者が出ればすぐに《治癒》で回復させる。


 僕は——後方で、見ていた。


 足の動きを見る。

 敵の攻撃を避けるタイミングを見る。

 床の凹凸を踏んで、バランスを崩す瞬間を見る。


 シュナイダーの動き。騎士たちの動き。クラスメイトの動き。

 それらが、頭の中に蓄積されていく。


 ——《記録》が、働いている。


 そう感じた。


 意識して使っているわけではない。

 ただ見ているだけで、情報が——記録されていく。

 まるで、目が勝手に「大事なもの」を選び取っているような感覚。


「黒瀬くん」


 相沢さんが、隣で小声で言った。


「さっきから、目の動きがすごい」


「……え?」


「全部見てるでしょ。敵も、味方も、床も、壁も」


 相沢さんの《観察眼》は、僕の視線の動きまで追っているのか。


「……何が見えてるの?」


「わからない。ただ——見えてる気がするだけ」


「ふうん」


 相沢さんは、それ以上聞かなかった。

 ハズレスキル同盟の秘密。

 お互い、深くは踏み込まない。







 次の遭遇は、少し大きな部屋だった。


 広間のような空間。

 天井が高く、松明の灯りが届かない場所が多い。

 そして——ゴブリンが、七体いた。


「多いな」


 シュナイダーが眉をひそめた。


「だが、この程度なら問題ない。神崎、お前たちの判断で動け。俺たちはバックアップに回る」


 神崎が頷いた。

 風間、篠原さん、坂下と目を合わせる。


「行くぞ」


 前衛が飛び出した。


 僕は——後方で見ていた。


 七体のゴブリンが、散開する。

 二体が神崎に向かう。二体が風間に。一体が篠原さんを狙う。

 残り二体は——後方を窺っている。


 ——あれ、やばくないか。


 直感が、警鐘を鳴らした。


 後方を窺っているゴブリン。

 そいつらの視線が——僕たちに向いている。


「相沢さん」


「うん、見えてる」


 相沢さんも気づいていた。


「シュナイダーさん! 後方に二体、こっちを狙ってます!」


 声を上げた。

 シュナイダーが振り返る。


 その瞬間、ゴブリンが動いた。

 小さな体で、低く走る。

 僕たちに向かって——突っ込んでくる。


「下がれ!」


 シュナイダーが叫んだ。


 騎士の一人が、ゴブリンを迎撃する。

 一体は仕留めた。

 でも、もう一体が——すり抜けた。


 僕の目の前に、ゴブリンがいた。


 短剣を振りかぶっている。

 錆びた刃が、松明の灯りを反射している。


 ——動け。


 体が、反応した。


 足が——動いた。


 後ろに下がるのではなく、横に。

 ゴブリンの短剣が振り下ろされる軌道を、ぎりぎりで避ける。

 足の置き方が——整っている。


 シュナイダーの動きを、見ていた。

 騎士たちが敵を避けるときの、足の運びを、見ていた。

 それが——今、体に反映されている。


 一歩。

 それだけで、短剣が空を切った。


 ゴブリンが体勢を崩す。

 そこに、騎士の剣が振り下ろされた。


 ——終わった。


 ゴブリンが倒れる。

 僕は——息を荒げて、その場に立っていた。


「黒瀬!」


 シュナイダーが駆け寄ってきた。


「怪我は」


「……ない」


「よく避けた」


 シュナイダーの目が、少しだけ細まった。

 何かを考えるような表情。


「お前、足の動き——どこで覚えた」


「……わかりません。体が、勝手に」


 嘘ではない。

 本当に、体が勝手に動いた。

 《記録》が——動きを再現した。

 でも、それを説明する言葉は、まだない。


「……そうか」


 シュナイダーは、それ以上追及しなかった。


「とにかく、よくやった。声を上げたのも、避けたのも、悪くない」


 それだけ言って、シュナイダーは前方に戻っていった。







 広間の戦闘が終わった。


 ゴブリンは全滅。

 クラスメイトに大きな怪我はない。

 篠原さんが腕を少し切ったが、高嶺さんの《治癒》ですぐに塞がった。


「ここで少し休憩だ」


 シュナイダーの指示で、僕たちは広間の隅に座った。


 水を飲む。深呼吸する。

 体の震えが——まだ、止まらない。


 さっきのこと。

 ゴブリンが目の前に迫ってきたこと。

 短剣が——僕を殺そうとしていたこと。


 死にかけた。

 初めて、本当に——死の気配を感じた。


 足が震える。手が震える。

 でも、震えていても——まだ、立っている。


「黒瀬くん」


 高嶺さんが、隣に座った。


「大丈夫? さっき、すごく危なかった」


「ああ……なんとか」


「避け方、すごかったよ。私、見てた」


「そう、かな」


「うん。なんか、騎士さんみたいだった」


 高嶺さんがそう言って、少し笑った。


 僕は——自分の足を見た。

 まだ、震えている。

 でも、あの瞬間だけは——ちゃんと動いた。


 《記録》が——足の置き方を、整えてくれた。

 それが、命を繋いだ。


 ——これが、《記録》の力なのか。


 まだ、一歩だけ。

 一振りではなく、一歩。

 それでも——確かに、何かが変わっている。







 休憩の後、探索を再開した。


 奥へ進む。

 通路は、次第に狭くなっていく。

 空気も——変わってきた。


 湿気が減って、乾いた冷たさが増している。

 壁の石が、より古びている。

 苔ではなく、埃が——積もっている。


 そして——静かになった。


 最初の頃は、遠くでゴブリンの声が聞こえていた。

 物音が、反響していた。

 でも今は——何も聞こえない。


 静寂。

 深い、濃い、静寂。


「……静かだな」


 風間が、不安そうに呟いた。


「ゴブリンの気配がない」


「奥に行くほど、弱い魔物は近づかない」


 シュナイダーが説明した。


「縄張りがあるんだ。弱い魔物は、強い魔物の領域に入らない」


「強い魔物……」


 神崎の声が、緊張を帯びた。


「この先に、いるのか」


「訓練ダンジョンだ。深層には行かない。だが——念のため、警戒しておけ」


 シュナイダーの言葉に、全員が頷いた。


 僕は——空気を感じていた。


 静かすぎる。

 何かが——潜んでいる気がする。

 見えない。聞こえない。でも——いる。


 その感覚が、首筋を撫でる。

 冷たい指で——触れられているような。


 ——異変の、予感。


 胸騒ぎが、止まらなかった。


「今日はここまでだ」


 シュナイダーが足を止めた。


「十分な成果だ。引き返す」


 クラスメイトたちが、ほっとした表情を浮かべた。

 僕も——少しだけ、肩の力が抜けた。


 でも、振り返る前に——奥を見た。


 暗闇が、口を開けている。

 その奥から——何かが、こちらを見ている気がした。


 気のせいかもしれない。

 でも、体が——覚えてしまった。


 この先には、何かがいる。

 訓練では済まない、本物の——危険が。


 今日は、帰れる。

 でも——また来ることになる。

 そのとき、あの暗闘の奥で待っているものは——


 考えるのをやめて、僕は仲間たちの後について歩き出した。


 背中に——静寂の視線を感じながら。


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