礼拝前、澪の不安とペンダント
訓練が始まって数日が経った。
体はまだ悲鳴を上げているけど、筋肉痛の質が変わってきた。
鈍い痛みから、張りのある疲労へ。体が少しずつ、この世界に馴染もうとしている。
ただ——暇だった。
神崎たちは「主戦力」として、騎士から個別指導を受けている。
《聖剣》《剛力》《疾風》《分析》——派手なスキルを持つ者には、それに見合った訓練が用意される。
高嶺さんも《治癒》の使い方を習うために、教会の施設に通っている。
僕は——基礎訓練だけだった。
走り込み、素振り、体力作り。
それが終われば、やることがない。
《記録》は期待されていない。
だから、特別な指導もない。
空いた時間は、宿舎で過ごすか、城内をうろつくか。
その日、僕は城の敷地を歩いていた。
石畳の道が、中庭から外れた区画へと続いている。
人通りが少なくて、静かだ。
——と、匂いがした。
肉が焼ける匂い。香草の香り。湯気が立ち上る気配。
反射的に、足がそちらへ向いた。
◆
建物の裏手に、大きな厨房があった。
窓から煙が立ち上り、中からは包丁が板を叩く音、鍋が揺れる音、誰かの怒鳴り声。
活気がある。生活の音だ。
入口の脇に「王国食堂」と書かれた看板が出ていた。
兵士や城の職員が利用する、大食堂らしい。
「——ちょっと! 誰か皿運んで! 間に合わない!」
中から声が聞こえた。
女性の声。切羽詰まっている。
覗き込むと、厨房は戦場だった。
鍋がいくつも火にかかり、食材が山積みになり、調理人たちが走り回っている。
その中で、一人の女性が両手に皿を抱えたまま立ち往生していた。
栗色の髪を後ろで束ねた、僕と同じくらいの年頃の女性。
エプロン姿で、額に汗が光っている。
「あの——手伝いましょうか」
気づいたら、声をかけていた。
女性が振り向く。
青い目が、一瞬だけ僕を値踏みした。
それから、ぱっと表情が明るくなる。
「ほんと!? 助かる! そこの皿、カウンターまで持っていって!」
言われるまま、積み上げられた皿を抱えた。
重い。でも、持てないほどではない。
食堂のカウンターまで運ぶ。
広い空間に、長いテーブルがいくつも並んでいる。
兵士や職員らしき人々が、食事をしながら談笑していた。
——ここが、この城の「日常」なんだな。
そんなことを思った。
◆
それから、気づいたら手伝いを続けていた。
皿を運び、食材を切り、鍋をかき混ぜ。
バイト先の厨房で覚えた動きが、勝手に体を動かす。
包丁の持ち方、まな板の使い方、火加減の見方。
異世界でも、料理は料理だった。
「——ちょっと、あなた」
声がかかった。
さっきの女性だ。
「その切り方、どこで覚えたの?」
彼女が、僕の手元を覗き込んでいた。
野菜を薄く切り揃えているところだった。
「……日本で。バイトしてたんです、飲食店で」
「にほん? あなた、召喚された異世界人?」
「はい」
女性の目が、興味深そうに光った。
「へえ……。異世界人って、みんな戦うことしか考えてないのかと思ってた」
「僕は、期待されてないんで。暇なんです」
正直に言った。
隠しても仕方がない。
「期待されてない? スキルがハズレってこと?」
「まあ、そんな感じです」
女性が、くすっと笑った。
嘲笑ではない。もっと軽い、親しみのある笑い。
「私はミレイユ。ミレイユ・ラヴィニア。この食堂の看板娘……っていうか、なんでも屋」
「黒瀬ユウです」
「ユウね。覚えた」
ミレイユが、僕の切った野菜を一つつまんで、口に入れた。
咀嚼して、目を閉じて、頷く。
「うん、均一。火の通りが揃う切り方。……あなた、ちゃんとわかってるね」
「……ありがとうございます」
「褒めてるんだよ? もっと喜んでいいんだよ?」
ミレイユが、肩を軽く叩いてきた。
距離が近い。この世界の人は、みんなこうなのだろうか。
「ねえ、ユウ。暇なら、またここに来なよ。人手、いつも足りないんだ」
「……いいんですか?」
「いいに決まってる。料理できる人は貴重なの。それに——」
ミレイユが、にっと笑った。
「異世界の料理、教えてよ。どんなものがあるのか、すっごく気になる」
◆
その日から、僕は王国食堂に通うようになった。
訓練の合間、空いた時間に厨房を手伝う。
最初は皿運びや食材の下ごしらえだったけど、すぐに調理も任されるようになった。
ミレイユは、料理の話になると目を輝かせた。
「ねえユウ、その『出汁』ってやつ、どうやって取るの?」
「えーと……魚を干して、それを煮出すんです。この世界にも、似たような魚いますか?」
「干し魚ならあるよ! ちょっと待って、倉庫から持ってくる!」
そうやって、僕たちは「異世界の味」を再現しようと試行錯誤した。
塩の加減。香草の使い方。火の回し方。
日本の技術と、この世界の食材。
組み合わせると、思わぬ味が生まれることがある。
「……これ、美味しい」
ミレイユが、試作した汁物を一口飲んで、目を丸くした。
「なにこれ。優しいのに、奥行きがある。……すごい、ユウ」
「まだ調整が必要ですけど」
「いやいや、もう十分美味しいって。……ねえ、これ、メニューに入れていい?」
ミレイユの顔が、本当に嬉しそうだった。
その表情を見ていると、こっちまで温かい気持ちになる。
——ここが、王都での「居場所」になりつつある。
そう感じ始めていた。
◆
ある日の午後。
厨房で香草を刻んでいると、入口に人影が立った。
高嶺さんだった。
「……黒瀬くん?」
驚いた声。
そりゃそうだ。まさかこんな場所で会うとは思わないだろう。
「高嶺さん。どうしたの、こんなところに」
「由依が、ここのパンが美味しいって言ってたから……。黒瀬くん、ここで何してるの?」
「手伝い。暇だったから」
高嶺さんが、厨房を見回した。
そして、僕の隣に立つミレイユに目を留めた。
「……誰?」
「ああ、この子はミレイユさん。ここの——」
「看板娘だよ。ミレイユ・ラヴィニア。あなたは?」
ミレイユが、人懐っこい笑顔で手を差し出した。
「……高嶺澪です」
高嶺さんは、少し間を置いてから、その手を握った。
表情は笑っている。
でも、どこか——硬い。
「へえ、澪ちゃんね。ユウの友達?」
「クラスメイト……です」
「そっか。ユウ、友達いたんだ。良かったね」
ミレイユが、僕の肩をぽんと叩いた。
近い。いつも通りの距離感。
——その瞬間。
高嶺さんの目が、一瞬だけ変わった。
ハイライトが消える。
それは本当に一瞬で、すぐに元の柔らかい表情に戻った。
でも、僕はその変化を——見てしまった。
「……黒瀬くん、ずっとここにいたんだ」
高嶺さんの声が、少しだけ平坦になっていた。
「探してたの?」
「ううん、そういうわけじゃ……。ただ、最近あまり見かけないから」
「訓練の後、ここにいること多いかも」
「……そうなんだ」
高嶺さんが、微笑んだ。
いつもの笑顔。誰にでも向ける、優しい笑顔。
なのに——どこか、温度が違う気がした。
「邪魔しちゃってごめんね。また後で」
高嶺さんは、それだけ言って去っていった。
パンを買わずに。
◆
「……今の子、ユウのこと好きでしょ」
高嶺さんが去った後、ミレイユがぽつりと言った。
「え?」
「わかるよ、女の目。あの子、私のこと警戒してた」
「……そんなことないと思うけど」
「鈍いなあ、ユウ」
ミレイユが、呆れたように笑った。
「まあいいけど。……ねえ、明日の出発前、また来てよ。何か一品、作ってってほしいの」
「出発前?」
「訓練ダンジョンに行くんでしょ? 景気づけに、みんなに美味しいもの食べさせてあげたいじゃん」
ミレイユの言葉に、僕は少しだけ驚いた。
異世界人の僕たちのことを、気にかけてくれている。
「……わかった。何か考えてくる」
「約束だよ?」
ミレイユが、小指を差し出した。
この世界にも、指切りがあるのだろうか。
僕は、その小指に自分の小指を絡めた。
◆
その夜、廊下を歩いていると、壁に寄りかかる人影が見えた。
見覚えのある姿勢。見覚えのある佇まい。
——九条先生だった。
「……先生」
声をかけると、九条まことは静かにこちらを向いた。
クールな表情。鋭い目。
でも、その奥に何かを考えている気配がある。
「黒瀬か。珍しいな、こんな時間に」
「先生こそ」
「少し、夜風に当たっていただけだ」
嘘だ、と思った。
九条先生は、ただぼんやりしているような人ではない。
「……先生、この数日、何をしてたんですか」
気づいたら、聞いていた。
召喚されてから、九条先生の姿をほとんど見ていなかった。
他のクラスメイトは訓練に追われていたけど、先生だけは——いつも、どこか別の場所にいた。
九条先生は、少しだけ沈黙した。
それから、淡々と答えた。
「観察していた」
「観察……?」
「この国の人間を。制度を。お前たちがどう扱われているかを」
九条先生の声は、いつも通り冷静だった。
でも、その言葉の重さが——違った。
「私は教師だ。お前たちを守る義務がある。……だが、この状況で何ができるか、まず把握する必要があった」
「把握……」
「騎士団長のシュナイダーは信用できそうだ。レオノーラ王女も、異世界人を道具扱いさせないという立場を取っている。……だが、王や教会の一部には、お前たちを『戦力』としか見ていない者がいる」
九条先生は、窓の外を見た。
夜空に星が瞬いている。
「私は表立って動かない。お前たちの自主性に任せる。……だが、必要なときは動く。そのために、情報を集めている」
「……先生」
「神崎たちは、自分たちで判断して動いている。それでいい。ただ、視野が狭くなることがある。だから、私は一歩引いて見ている」
九条先生が、僕の方を向いた。
「黒瀬。お前は、あの集団の中心にいないな」
「……はい」
「それは、悪いことではない。外側にいるからこそ、見えるものがある」
先生の言葉が、胸に落ちた。
「何か気づいたことがあれば、私に言え。……私も、お前たちを守るために動く」
それだけ言って、九条先生は廊下を去っていった。
僕はしばらく、その場に立っていた。
先生は、先生なりに——僕たちを守ろうとしている。
表には出さないけど、ずっと見ていてくれていた。
——一人じゃない。
その思いが、少しだけ心を軽くした。
◆
翌朝。
訓練ダンジョンへの出発前、僕は王国食堂に寄った。
約束通り、一品を作るために。
「ユウ! 来た来た! 何作るの?」
ミレイユが、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「簡単なものだけど……。この世界の香草と、干し肉を使った炒め物」
「へえ! 見せて見せて!」
厨房を借りて、調理を始めた。
干し肉を薄く切り、香草を刻み、油で炒める。
塩と、この世界の酸味のある調味料で味を整える。
じゅう、と音が立つ。
香ばしい匂いが広がる。
「……いい匂い」
ミレイユが、鍋を覗き込んだ。
顔が近い。髪が僕の腕に触れそうになる。
その瞬間——入口に、気配を感じた。
振り向くと、高嶺さんが立っていた。
篠原さんと一緒だ。
「……黒瀬くん」
高嶺さんの声が、少しだけ固い。
「出発前に、ここに寄ってたんだ」
「ああ、昨日約束してて——」
「約束」
高嶺さんが、その言葉を繰り返した。
目のハイライトが——また、一瞬だけ消えた。
「そっか。……楽しそうだね」
笑顔だった。
でも、その笑顔が——昨日より、もっと硬くなっている。
「澪、行こ。礼拝の時間だよ」
篠原さんが、高嶺さんの腕を引いた。
空気を読んだのだろう。
「……うん。黒瀬くん、また後でね」
高嶺さんは、それだけ言って去っていった。
僕は、鍋の中の炒め物を見つめた。
何かが——ずれ始めている気がした。
◆
礼拝は、教会の大聖堂で行われた。
クラスメイト全員が集まり、シスター・エルナが祈りの言葉を唱える。
神の加護を得て、無事に訓練ダンジョンを終えられるように——という趣旨らしい。
僕は、列の後方に立っていた。
目を閉じて、形だけの祈りを捧げる。
——ふと、視線を感じた。
目を開けると、高嶺さんがこちらを見ていた。
すぐに視線が逸れる。
でも、その顔が——青白かった。
唇が震えている。手が、胸元を握りしめている。
——怖いのだ。
訓練ダンジョン。モンスターとの実戦。
高嶺さんは《治癒》のスキルを持っているけど、戦闘経験はない。
怖くて当然だ。
礼拝が終わり、クラスメイトたちが解散し始めた。
僕は、高嶺さんに近づいた。
「高嶺さん」
「……黒瀬くん」
高嶺さんが、顔を上げた。
笑おうとしているけど、うまく笑えていない。
「大丈夫? 顔色、悪いよ」
「平気……平気だよ。ちょっと緊張してるだけ」
嘘だった。
手が、まだ震えている。
「……これ」
僕は、ポケットから何かを取り出した。
小さな金属の塊。鎖のついた——ペンダント。
シュナイダーに貰ったものだった。
訓練の合間、「お前に預けておく」と渡されたもの。
意味はわからなかったけど、大切なものだという雰囲気があった。
「貸してあげる」
「え……?」
「お守り。……たぶん、騎士団長の大切なものだと思う。だから、絶対に返さないといけない」
高嶺さんが、目を丸くした。
「絶対に返さないといけないってことは——」
「絶対に、無事に戻ってこないといけないってこと」
僕は、ペンダントを高嶺さんの手に押し込んだ。
冷たい金属が、彼女の掌に触れる。
「黒瀬くん……」
「俺も怖いよ。でも、帰ってきたら返してもらうから。……だから、大丈夫」
高嶺さんの手が、少しだけ温かくなった気がした。
震えが——止まっている。
「……うん。ありがとう、黒瀬くん」
高嶺さんが、ペンダントを胸に当てた。
目に、光が戻っている。
「絶対、返すね」
「ああ。待ってる」
そう言って、僕は軽く笑った。
——胸騒ぎは、まだ消えていない。
でも、今できることは、これだけだった。
シュナイダーさん…今日だけはいいよね?
◆
訓練ダンジョンの入口は、王都の外れにあった。
岩山の麓に、大きな洞穴が口を開けている。
入口には騎士たちが配置され、松明の灯りが揺れている。
——空気が、違う。
一歩近づくだけで、肌が粟立つ。
温度が低い。湿気が多い。そして——匂いが違う。
土と、苔と、何か別のもの。
生き物の気配。あるいは、死の気配。
「……重い」
相沢さんが、隣で呟いた。
「空気が……外より、ずっと重い」
「ああ」
僕も同じことを感じていた。
このダンジョンの奥には、何かがいる。
訓練用とはいえ——本物の危険がある。
シュナイダーが、全員の前に立った。
「これより、訓練ダンジョンに入る。目的は、実戦経験を積むこと。無茶はするな。何かあれば、すぐに撤退しろ」
神崎たちが頷く。
風間が拳を握る。
高嶺さんは、胸元のペンダントに触れていた。
——大丈夫。
——帰ってくる。
そう自分に言い聞かせて、僕はダンジョンの入口を見つめた。
闇が、口を開けて待っている。
その奥から、冷たい風が吹いてきた。
まるで——招かれているみたいだった。
ペンダントの又貸しいいんすか。
シュナイダー「いいわけあるか」




