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礼拝前、澪の不安とペンダント

訓練が始まって数日が経った。

 体はまだ悲鳴を上げているけど、筋肉痛の質が変わってきた。

 鈍い痛みから、張りのある疲労へ。体が少しずつ、この世界に馴染もうとしている。


 ただ——暇だった。


 神崎たちは「主戦力」として、騎士から個別指導を受けている。

 《聖剣》《剛力》《疾風》《分析》——派手なスキルを持つ者には、それに見合った訓練が用意される。

 高嶺さんも《治癒》の使い方を習うために、教会の施設に通っている。


 僕は——基礎訓練だけだった。

 走り込み、素振り、体力作り。

 それが終われば、やることがない。


 《記録》は期待されていない。

 だから、特別な指導もない。

 空いた時間は、宿舎で過ごすか、城内をうろつくか。


 その日、僕は城の敷地を歩いていた。

 石畳の道が、中庭から外れた区画へと続いている。

 人通りが少なくて、静かだ。


 ——と、匂いがした。


 肉が焼ける匂い。香草の香り。湯気が立ち上る気配。

 反射的に、足がそちらへ向いた。





 建物の裏手に、大きな厨房があった。

 窓から煙が立ち上り、中からは包丁が板を叩く音、鍋が揺れる音、誰かの怒鳴り声。

 活気がある。生活の音だ。


 入口の脇に「王国食堂」と書かれた看板が出ていた。

 兵士や城の職員が利用する、大食堂らしい。


「——ちょっと! 誰か皿運んで! 間に合わない!」


 中から声が聞こえた。

 女性の声。切羽詰まっている。


 覗き込むと、厨房は戦場だった。

 鍋がいくつも火にかかり、食材が山積みになり、調理人たちが走り回っている。

 その中で、一人の女性が両手に皿を抱えたまま立ち往生していた。


 栗色の髪を後ろで束ねた、僕と同じくらいの年頃の女性。

 エプロン姿で、額に汗が光っている。


「あの——手伝いましょうか」


 気づいたら、声をかけていた。


 女性が振り向く。

 青い目が、一瞬だけ僕を値踏みした。

 それから、ぱっと表情が明るくなる。


「ほんと!? 助かる! そこの皿、カウンターまで持っていって!」


 言われるまま、積み上げられた皿を抱えた。

 重い。でも、持てないほどではない。


 食堂のカウンターまで運ぶ。

 広い空間に、長いテーブルがいくつも並んでいる。

 兵士や職員らしき人々が、食事をしながら談笑していた。


 ——ここが、この城の「日常」なんだな。


 そんなことを思った。





 それから、気づいたら手伝いを続けていた。


 皿を運び、食材を切り、鍋をかき混ぜ。

 バイト先の厨房で覚えた動きが、勝手に体を動かす。

 包丁の持ち方、まな板の使い方、火加減の見方。

 異世界でも、料理は料理だった。


「——ちょっと、あなた」


 声がかかった。

 さっきの女性だ。


「その切り方、どこで覚えたの?」


 彼女が、僕の手元を覗き込んでいた。

 野菜を薄く切り揃えているところだった。


「……日本で。バイトしてたんです、飲食店で」


「にほん? あなた、召喚された異世界人?」


「はい」


 女性の目が、興味深そうに光った。


「へえ……。異世界人って、みんな戦うことしか考えてないのかと思ってた」


「僕は、期待されてないんで。暇なんです」


 正直に言った。

 隠しても仕方がない。


「期待されてない? スキルがハズレってこと?」


「まあ、そんな感じです」


 女性が、くすっと笑った。

 嘲笑ではない。もっと軽い、親しみのある笑い。


「私はミレイユ。ミレイユ・ラヴィニア。この食堂の看板娘……っていうか、なんでも屋」


「黒瀬ユウです」


「ユウね。覚えた」


 ミレイユが、僕の切った野菜を一つつまんで、口に入れた。

 咀嚼して、目を閉じて、頷く。


「うん、均一。火の通りが揃う切り方。……あなた、ちゃんとわかってるね」


「……ありがとうございます」


「褒めてるんだよ? もっと喜んでいいんだよ?」


 ミレイユが、肩を軽く叩いてきた。

 距離が近い。この世界の人は、みんなこうなのだろうか。


「ねえ、ユウ。暇なら、またここに来なよ。人手、いつも足りないんだ」


「……いいんですか?」


「いいに決まってる。料理できる人は貴重なの。それに——」


 ミレイユが、にっと笑った。


「異世界の料理、教えてよ。どんなものがあるのか、すっごく気になる」





 その日から、僕は王国食堂に通うようになった。


 訓練の合間、空いた時間に厨房を手伝う。

 最初は皿運びや食材の下ごしらえだったけど、すぐに調理も任されるようになった。


 ミレイユは、料理の話になると目を輝かせた。


「ねえユウ、その『出汁』ってやつ、どうやって取るの?」


「えーと……魚を干して、それを煮出すんです。この世界にも、似たような魚いますか?」


「干し魚ならあるよ! ちょっと待って、倉庫から持ってくる!」


 そうやって、僕たちは「異世界の味」を再現しようと試行錯誤した。


 塩の加減。香草の使い方。火の回し方。

 日本の技術と、この世界の食材。

 組み合わせると、思わぬ味が生まれることがある。


「……これ、美味しい」


 ミレイユが、試作した汁物を一口飲んで、目を丸くした。


「なにこれ。優しいのに、奥行きがある。……すごい、ユウ」


「まだ調整が必要ですけど」


「いやいや、もう十分美味しいって。……ねえ、これ、メニューに入れていい?」


 ミレイユの顔が、本当に嬉しそうだった。

 その表情を見ていると、こっちまで温かい気持ちになる。


 ——ここが、王都での「居場所」になりつつある。


 そう感じ始めていた。





 ある日の午後。

 厨房で香草を刻んでいると、入口に人影が立った。


 高嶺さんだった。


「……黒瀬くん?」


 驚いた声。

 そりゃそうだ。まさかこんな場所で会うとは思わないだろう。


「高嶺さん。どうしたの、こんなところに」


「由依が、ここのパンが美味しいって言ってたから……。黒瀬くん、ここで何してるの?」


「手伝い。暇だったから」


 高嶺さんが、厨房を見回した。

 そして、僕の隣に立つミレイユに目を留めた。


「……誰?」


「ああ、この子はミレイユさん。ここの——」


「看板娘だよ。ミレイユ・ラヴィニア。あなたは?」


 ミレイユが、人懐っこい笑顔で手を差し出した。


「……高嶺澪です」


 高嶺さんは、少し間を置いてから、その手を握った。

 表情は笑っている。

 でも、どこか——硬い。


「へえ、澪ちゃんね。ユウの友達?」


「クラスメイト……です」


「そっか。ユウ、友達いたんだ。良かったね」


 ミレイユが、僕の肩をぽんと叩いた。

 近い。いつも通りの距離感。


 ——その瞬間。


 高嶺さんの目が、一瞬だけ変わった。


 ハイライトが消える。

 それは本当に一瞬で、すぐに元の柔らかい表情に戻った。

 でも、僕はその変化を——見てしまった。


「……黒瀬くん、ずっとここにいたんだ」


 高嶺さんの声が、少しだけ平坦になっていた。


「探してたの?」


「ううん、そういうわけじゃ……。ただ、最近あまり見かけないから」


「訓練の後、ここにいること多いかも」


「……そうなんだ」


 高嶺さんが、微笑んだ。

 いつもの笑顔。誰にでも向ける、優しい笑顔。

 なのに——どこか、温度が違う気がした。


「邪魔しちゃってごめんね。また後で」


 高嶺さんは、それだけ言って去っていった。

 パンを買わずに。





「……今の子、ユウのこと好きでしょ」


 高嶺さんが去った後、ミレイユがぽつりと言った。


「え?」


「わかるよ、女の目。あの子、私のこと警戒してた」


「……そんなことないと思うけど」


「鈍いなあ、ユウ」


 ミレイユが、呆れたように笑った。


「まあいいけど。……ねえ、明日の出発前、また来てよ。何か一品、作ってってほしいの」


「出発前?」


「訓練ダンジョンに行くんでしょ? 景気づけに、みんなに美味しいもの食べさせてあげたいじゃん」


 ミレイユの言葉に、僕は少しだけ驚いた。

 異世界人の僕たちのことを、気にかけてくれている。


「……わかった。何か考えてくる」


「約束だよ?」


 ミレイユが、小指を差し出した。

 この世界にも、指切りがあるのだろうか。


 僕は、その小指に自分の小指を絡めた。





 その夜、廊下を歩いていると、壁に寄りかかる人影が見えた。


 見覚えのある姿勢。見覚えのある佇まい。

 ——九条先生だった。


「……先生」


 声をかけると、九条まことは静かにこちらを向いた。

 クールな表情。鋭い目。

 でも、その奥に何かを考えている気配がある。


「黒瀬か。珍しいな、こんな時間に」


「先生こそ」


「少し、夜風に当たっていただけだ」


 嘘だ、と思った。

 九条先生は、ただぼんやりしているような人ではない。


「……先生、この数日、何をしてたんですか」


 気づいたら、聞いていた。

 召喚されてから、九条先生の姿をほとんど見ていなかった。

 他のクラスメイトは訓練に追われていたけど、先生だけは——いつも、どこか別の場所にいた。


 九条先生は、少しだけ沈黙した。

 それから、淡々と答えた。


「観察していた」


「観察……?」


「この国の人間を。制度を。お前たちがどう扱われているかを」


 九条先生の声は、いつも通り冷静だった。

 でも、その言葉の重さが——違った。


「私は教師だ。お前たちを守る義務がある。……だが、この状況で何ができるか、まず把握する必要があった」


「把握……」


「騎士団長のシュナイダーは信用できそうだ。レオノーラ王女も、異世界人を道具扱いさせないという立場を取っている。……だが、王や教会の一部には、お前たちを『戦力』としか見ていない者がいる」


 九条先生は、窓の外を見た。

 夜空に星が瞬いている。


「私は表立って動かない。お前たちの自主性に任せる。……だが、必要なときは動く。そのために、情報を集めている」


「……先生」


「神崎たちは、自分たちで判断して動いている。それでいい。ただ、視野が狭くなることがある。だから、私は一歩引いて見ている」


 九条先生が、僕の方を向いた。


「黒瀬。お前は、あの集団の中心にいないな」


「……はい」


「それは、悪いことではない。外側にいるからこそ、見えるものがある」


 先生の言葉が、胸に落ちた。


「何か気づいたことがあれば、私に言え。……私も、お前たちを守るために動く」


 それだけ言って、九条先生は廊下を去っていった。


 僕はしばらく、その場に立っていた。

 先生は、先生なりに——僕たちを守ろうとしている。

 表には出さないけど、ずっと見ていてくれていた。


 ——一人じゃない。


 その思いが、少しだけ心を軽くした。





 翌朝。

 訓練ダンジョンへの出発前、僕は王国食堂に寄った。


 約束通り、一品を作るために。


「ユウ! 来た来た! 何作るの?」


 ミレイユが、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「簡単なものだけど……。この世界の香草と、干し肉を使った炒め物」


「へえ! 見せて見せて!」


 厨房を借りて、調理を始めた。

 干し肉を薄く切り、香草を刻み、油で炒める。

 塩と、この世界の酸味のある調味料で味を整える。


 じゅう、と音が立つ。

 香ばしい匂いが広がる。


「……いい匂い」


 ミレイユが、鍋を覗き込んだ。

 顔が近い。髪が僕の腕に触れそうになる。


 その瞬間——入口に、気配を感じた。


 振り向くと、高嶺さんが立っていた。

 篠原さんと一緒だ。


「……黒瀬くん」


 高嶺さんの声が、少しだけ固い。


「出発前に、ここに寄ってたんだ」


「ああ、昨日約束してて——」


「約束」


 高嶺さんが、その言葉を繰り返した。

 目のハイライトが——また、一瞬だけ消えた。


「そっか。……楽しそうだね」


 笑顔だった。

 でも、その笑顔が——昨日より、もっと硬くなっている。


「澪、行こ。礼拝の時間だよ」


 篠原さんが、高嶺さんの腕を引いた。

 空気を読んだのだろう。


「……うん。黒瀬くん、また後でね」


 高嶺さんは、それだけ言って去っていった。


 僕は、鍋の中の炒め物を見つめた。

 何かが——ずれ始めている気がした。





 礼拝は、教会の大聖堂で行われた。


 クラスメイト全員が集まり、シスター・エルナが祈りの言葉を唱える。

 神の加護を得て、無事に訓練ダンジョンを終えられるように——という趣旨らしい。


 僕は、列の後方に立っていた。

 目を閉じて、形だけの祈りを捧げる。


 ——ふと、視線を感じた。


 目を開けると、高嶺さんがこちらを見ていた。

 すぐに視線が逸れる。

 でも、その顔が——青白かった。


 唇が震えている。手が、胸元を握りしめている。

 ——怖いのだ。


 訓練ダンジョン。モンスターとの実戦。

 高嶺さんは《治癒》のスキルを持っているけど、戦闘経験はない。

 怖くて当然だ。


 礼拝が終わり、クラスメイトたちが解散し始めた。

 僕は、高嶺さんに近づいた。


「高嶺さん」


「……黒瀬くん」


 高嶺さんが、顔を上げた。

 笑おうとしているけど、うまく笑えていない。


「大丈夫? 顔色、悪いよ」


「平気……平気だよ。ちょっと緊張してるだけ」


 嘘だった。

 手が、まだ震えている。


「……これ」


 僕は、ポケットから何かを取り出した。

 小さな金属の塊。鎖のついた——ペンダント。


 シュナイダーに貰ったものだった。

 訓練の合間、「お前に預けておく」と渡されたもの。

 意味はわからなかったけど、大切なものだという雰囲気があった。


「貸してあげる」


「え……?」


「お守り。……たぶん、騎士団長の大切なものだと思う。だから、絶対に返さないといけない」


 高嶺さんが、目を丸くした。


「絶対に返さないといけないってことは——」


「絶対に、無事に戻ってこないといけないってこと」


 僕は、ペンダントを高嶺さんの手に押し込んだ。

 冷たい金属が、彼女の掌に触れる。


「黒瀬くん……」


「俺も怖いよ。でも、帰ってきたら返してもらうから。……だから、大丈夫」


 高嶺さんの手が、少しだけ温かくなった気がした。

 震えが——止まっている。


「……うん。ありがとう、黒瀬くん」


 高嶺さんが、ペンダントを胸に当てた。

 目に、光が戻っている。


「絶対、返すね」


「ああ。待ってる」


 そう言って、僕は軽く笑った。

 ——胸騒ぎは、まだ消えていない。

 でも、今できることは、これだけだった。


 シュナイダーさん…今日だけはいいよね?





 訓練ダンジョンの入口は、王都の外れにあった。


 岩山の麓に、大きな洞穴が口を開けている。

 入口には騎士たちが配置され、松明の灯りが揺れている。


 ——空気が、違う。


 一歩近づくだけで、肌が粟立つ。

 温度が低い。湿気が多い。そして——匂いが違う。

 土と、苔と、何か別のもの。

 生き物の気配。あるいは、死の気配。


「……重い」


 相沢さんが、隣で呟いた。


「空気が……外より、ずっと重い」


「ああ」


 僕も同じことを感じていた。

 このダンジョンの奥には、何かがいる。

 訓練用とはいえ——本物の危険がある。


 シュナイダーが、全員の前に立った。


「これより、訓練ダンジョンに入る。目的は、実戦経験を積むこと。無茶はするな。何かあれば、すぐに撤退しろ」


 神崎たちが頷く。

 風間が拳を握る。

 高嶺さんは、胸元のペンダントに触れていた。


 ——大丈夫。

 ——帰ってくる。


 そう自分に言い聞かせて、僕はダンジョンの入口を見つめた。


 闇が、口を開けて待っている。

 その奥から、冷たい風が吹いてきた。


 まるで——招かれているみたいだった。


ペンダントの又貸しいいんすか。

シュナイダー「いいわけあるか」

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