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基礎訓練、身体が先に覚える

朝の鐘が鳴る前に、目が覚めた。

 窓の外はまだ薄暗い。空の端だけが、かすかに白んでいる。

 昨日までの疲れが、体の奥に澱のように溜まっていた。


 起き上がると、全身が軋んだ。

 背中、腰、太ももの裏。

 普段使わない筋肉が、存在を主張している。


 ——今日から、本格的な訓練が始まる。


 顔を洗って、服を着替えた。

 窓の外を見ると、訓練場らしき広場で、もう騎士たちが動いている。

 剣を振る音。足が砂を蹴る音。掛け声。

 それらが、朝の冷たい空気に混じって聞こえてきた。





 食堂に向かうと、すでに何人かのクラスメイトが集まっていた。

 テーブルの上には、黒パンとスープ、それに干し肉らしきもの。

 豪華な歓迎の食事とは違う。実用的な、兵士の朝食という感じだ。


 席を探していると、隅のテーブルで相沢さんが一人で食べているのが見えた。

 眼鏡の奥の目が、スープの表面をぼんやりと見つめている。


「……隣、いい?」


 声をかけると、相沢さんは少し驚いたように顔を上げた。


「あ……うん、どうぞ」


 座って、黒パンを手に取った。

 硬い。噛むと、顎が疲れる。

 スープに浸すと少しマシになった。


「……昨日、眠れた?」


 相沢さんに聞いてみた。

 同じ「雑務班」だった相手だ。気楽に話せる距離感がある。


「あんまり……。夢を見て、起きたら知らない天井で、また夢かと思って……」


「わかる。俺も、朝起きるたびに確認してる。ここがどこか」


 相沢さんが、小さく頷いた。


「黒瀬くんは……怖くない?」


「怖いよ。ずっと」


 正直に答えた。

 相沢さんは少し驚いたような顔をして、それから——ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。


「……そっか。黒瀬くんも、怖いんだ」


「当たり前だろ。こんな状況で怖くないやつのほうがおかしい」


「……うん。そうだよね」


 相沢さんが、スープを一口飲んだ。

 さっきより、少しだけ表情が和らいでいる。


「私、戦うとか……全然できる気がしなくて。スキルも《観察眼》っていう、地味なやつだし」


「《観察眼》?」


「うん。対象の状態を詳しく見れるらしいんだけど……戦闘向きじゃないよね」


「……俺の《記録》も似たようなもんだよ。動作を記録するだけ。真似できるとは書いてない」


 相沢さんが、眼鏡の奥から僕を見た。


「……仲間だね、私たち」


「ハズレスキル同盟か」


「ふふ……そうかも」


 相沢さんが、初めて笑った。

 小さな、控えめな笑い。

 でも、それだけで——この食堂が少しだけ居心地よくなった気がした。





「黒瀬くん、おはよう」


 声がして、顔を上げた。

 高嶺さんが、トレイを持って近づいてくる。

 隣には篠原さんもいた。


「隣、座っていい?」


「あ、ああ……どうぞ」


 高嶺さんが僕の隣に座った。

 篠原さんは相沢さんの隣に腰を下ろす。


「相沢さんも一緒だったんだ。おはよう」


「お、おはよう……高嶺さん」


 相沢さんが少し緊張したように背筋を伸ばした。

 クラスの中心にいる高嶺さんと、端にいる相沢さん。

 普段なら、あまり接点のない組み合わせだ。


「黒瀬くん、昨日の聖印のこと……大丈夫だった?」


 高嶺さんが、心配そうに聞いてきた。


「ああ、問題ないって言われた。体質の問題らしい」


「そっか……よかった」


 高嶺さんがほっとしたように笑う。

 その笑顔を見ていると、こっちまで安心してしまいそうになる。


「今日から本格的な訓練だよね。私、運動あんまり得意じゃないから不安で……」


「俺も得意じゃないよ」


「えー、でも黒瀬くん、なんか大丈夫そうに見える」


「見えるだけだって」


 そんな会話をしていると——


「澪、こっちに席あるぞ」


 声が割り込んできた。

 神崎だった。

 少し離れたテーブルから、こちらを見ている。

 風間と坂下も一緒だ。


「あ、神崎くん……うん、でも今ここで——」


「訓練前に打ち合わせしたいんだ。各分野の主戦力で動き方を確認しておきたくてさ」


 神崎の声は穏やかだった。

 でも、その目が一瞬だけ僕を見た。

 値踏みするような、あるいは——排除するような視線。


「由依も来いよ。お前の《疾風》、連携で使えるか確認したい」


「あー、はいはい。行くよ」


 篠原さんが立ち上がった。

 高嶺さんは少し困ったような顔をしている。


「ごめんね、黒瀬くん。また後で——」


「ああ、気にしないで」


 高嶺さんが申し訳なさそうに笑って、神崎たちのテーブルに向かった。

 篠原さんも続く。


 テーブルに残されたのは、僕と相沢さんだけだった。

 ふと、視線を感じた。


 神崎たちのテーブルを見ると、榊がこちらを見ていた。

 目が合う。

 榊は、ふっと鼻で笑うような表情を浮かべて、視線を逸らした。


 何も言われていない。

 でも、その視線に込められた意味は——なんとなく、わかった。


 ——お前の居場所は、あそこじゃない。


 そう言われている気がした。





 朝食の後、僕たちは訓練場に集められた。


 城の敷地内にある、広い土の広場。

 周囲を石壁で囲まれていて、日差しが真上から降り注いでいる。

 地面は細かい砂利と砂が混じっていて、足を踏み出すたびに、じゃり、と音がした。


 騎士たちが、すでに整列していた。

 鎧を着た者、軽装の者、様々だ。

 その中央に、シュナイダーが立っている。


「集まったな」


 シュナイダーの声が、広場に響いた。

 低く、重い。それだけで、空気が引き締まる。


「今日から基礎訓練を始める。まずは体力作りと、身体の動かし方を覚えてもらう」


 クラスメイトたちが顔を見合わせた。

 スキルの訓練ではないのか——そんな疑問が、表情に浮かんでいる。


「スキルは便利だが、それだけでは戦えない」


 シュナイダーは、その疑問を見透かしたように続けた。


「体が動かなければ、スキルも使えない。まずは基礎だ。走ること、立つこと、受けること、避けること。それができなければ、戦場では死ぬ」


 死ぬ。

 その言葉が、空気を冷たくした。


「厳しいことを言うが、現実だ。だからこそ、俺たちも全力で教える。ついてこい」





 最初は走り込みだった。


 訓練場の外周を、ひたすら走る。

 最初は余裕があった。

 日本でも体育の授業があったし、走ること自体は慣れている——そう思っていた。


 五周目で、その考えが甘かったと知った。


「止まるな! ペースを落とすな!」


 騎士の一人が、後ろから叫んでいる。

 息が上がる。足が重い。汗が額を伝って、目に入る。

 視界がぼやけて、地面の砂利が揺れて見えた。


 周りを見ると、クラスメイトたちも苦しそうだ。

 風間だけは、まだ余裕がありそうに走っている。

 さすが体育会系——と思う余裕すらなくなってきた。


 十周目で、何人かが脱落した。

 座り込んで、肩で息をしている。

 騎士たちが水を渡しながら、「大丈夫か」と声をかけている。


 僕は——まだ、走っていた。

 体力があるわけではない。

 ただ、止まったら立ち上がれない気がして、足を動かし続けていた。


 隣を見ると、相沢さんが走っていた。

 眼鏡がずれて、顔が真っ赤になっている。

 でも、止まらない。


「相沢さん、大丈夫?」


 息を切らしながら声をかけた。


「だ、大丈夫……たぶん……」


 全然大丈夫そうじゃなかった。

 でも、足は動いている。


「あと……少し……」


「うん……」


 二人で、なんとか走り続けた。

 言葉を交わす余裕はない。

 ただ、隣に誰かがいるだけで——少しだけ、足が軽くなる気がした。





 走り込みの後、しばらく休憩があった。

 木陰に座り込んで、水を飲む。

 喉が干からびていて、水が体に染み込んでいくのがわかった。


 相沢さんが、隣でぐったりと座っている。


「……死ぬかと思った」


「俺も」


「でも……止まらなかった」


「ああ」


 二人で、空を見上げた。

 青い空に、白い雲が流れている。

 日本の空とは、少し色が違う気がする。


「黒瀬くんがいてくれて……助かった」


 相沢さんが、小さく言った。


「一人だったら、絶対途中で止まってた」


「……俺も、たぶん同じだよ」


 相沢さんが、眼鏡の奥から僕を見た。

 それから、少しだけ笑った。


「……やっぱり、仲間だね」


「ハズレスキル同盟」


「うん。ハズレスキル同盟」


 そんな会話をしていると、影が落ちた。

 顔を上げると、高嶺さんが立っていた。

 汗で髪が額に張り付いて、頬が赤い。


「黒瀬くん、相沢さん、お疲れ様……。二人とも最後まで走ってたね」


「高嶺さんも」


「私はもうボロボロ……。由依に引っ張ってもらってやっとだった」


 高嶺さんが、僕と相沢さんの間に腰を下ろした。

 近い。肩が触れそうな距離。


 ふと、視線を感じた。

 顔を上げると、少し離れた場所で神崎がこちらを見ていた。

 風間と話しているふりをしながら、視線だけがこちらに向いている。


 その隣で、榊も同じようにこちらを見ていた。

 二人の視線が重なる。

 どちらも、友好的な目ではなかった。


 ——また、か。


 高嶺さんは気づいていないようだった。

 相沢さんは気づいているのか、少しだけ居心地悪そうに身じろぎした。


「お前ら、よく最後まで走ったな」


 シュナイダーが、僕たちの前に立った。

 その存在感で、神崎たちの視線が途切れる。


「体力はこれから作ればいい。まずは、諦めないことだ」


 それだけ言って、シュナイダーは去っていった。





 休憩の後、次の訓練が始まった。


「次は、剣の基礎だ」


 シュナイダーの前に、木剣が並べられていた。

 本物の剣ではない。訓練用の、木でできた剣。

 それでも、持ってみると意外に重かった。


「まずは素振りからだ。見ていろ」


 シュナイダーが、木剣を構えた。

 その瞬間——空気が変わった。


 立ち方。足の開き。肩の位置。剣を握る手の角度。

 すべてが、ぴたりと決まっている。

 無駄がない。余計な力が入っていない。


 シュナイダーが、剣を振り下ろした。


 風が鳴った。

 木剣なのに、空気を切る音がはっきり聞こえた。


「これが基本の振り下ろしだ。まずはこの形を覚えろ」


 クラスメイトたちが、ざわめいた。

 「すげえ」「あんなふうにできるのか」という声が聞こえる。


 僕は——見ていた。


 シュナイダーの動きを、目で追っていた。

 足の踏み込み。腰の回転。肩から腕への力の流れ。剣先が描く軌道。

 それらが、脳の奥に焼き付いていく。


 ——《記録》?


 ふと、そう思った。

 でも、意識して使ったわけではない。

 ただ見ていただけなのに、動きの細部が頭の中に残っている。





 クラスメイトたちが、順番に素振りを始めた。


 神崎は、さすがに形になっている。

 スポーツの経験があるからだろう。体の使い方がわかっている。

 風間も、力任せだが勢いがある。

 

 坂下は淡々と、正確に振ろうとしている。

 篠原さんは運動神経がいいのか、すぐにコツを掴んでいるように見えた。


 高嶺さんは、まだぎこちない。

 でも、一生懸命に振っている。


 相沢さんは——苦戦していた。

 剣が重いのか、振り下ろすたびにバランスを崩している。


「相沢さん、肘をもう少し締めたほうがいいかも」


 気づいたら、声をかけていた。

 相沢さんが、眼鏡の奥から僕を見る。


「えっと……こう?」


「うん。そのほうが振りやすいと思う」


 なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。

 ただ、シュナイダーの動きを見たときに——何かが頭に残っていて、それが言葉になった。


「……ほんとだ、少し楽になった」


 相沢さんが、少し驚いたように言った。


「黒瀬くん、詳しいね」


「いや、なんとなく……」


 自分でも、よくわからない。

 わからないから、それ以上は言わなかった。





 僕の番が来た。


 木剣を握る。

 重い。でも、昨日よりは——慣れた気がする。


 構える。

 足を開く。肩を落とす。剣を上げる。


 ——その瞬間。


 腕が、勝手に動いた。


 違う。「勝手に」ではない。

 さっきシュナイダーの動きを見たとき、脳に焼き付いた情報が——腕の角度を「正しく」した。


 剣を振り下ろす。

 風が、鳴った。


「……っ」


 驚いて、動きが止まった。

 今の、何だ。

 シュナイダーの素振りと、同じ——いや、似た感覚があった。

 腕の角度。力の入れ方。剣先の軌道。

 初めてなのに、「知っている」ような感覚。


「黒瀬」


 シュナイダーが、近づいてきた。

 心臓が跳ねた。

 見られていたのか。何か、おかしかったのか。


「もう一度、振ってみろ」


 シュナイダーの目が、真剣だった。

 僕は頷いて、もう一度構えた。


 振り下ろす。

 ——さっきほどではない。

 形は似ているけど、何かが違う。力の流れが途中で乱れた。


「……ふむ」


 シュナイダーは何かを考えるように眉を寄せた。

 それから、小さく頷いた。


「悪くない。続けろ」


 それだけ言って、次の者の指導に移った。


 僕は、自分の腕を見た。

 何が起きたのか、わからない。

 最初の一振りだけ、妙に——「正しかった」。

 でも、二度目は普通だった。


 ——《記録》のせいか?


 スキルの説明は「対象の動作を記録する」だった。

 記録するだけ。真似できるとは書いていない。

 でも、さっきの感覚は——


 考えても、答えは出なかった。

 周りのクラスメイトたちは、まだ素振りを続けている。

 誰も、僕の一振りに気づいていない。


 ——隠しておこう。


 直感的に、そう思った。

 何が起きているのか、自分でもわからない。

 わからないものを、人に話す気にはなれなかった。





 素振りの訓練は、延々と続いた。


 腕が痺れる。肩が熱い。手のひらに、マメができ始めている。

 木剣を握るたびに、皮膚が擦れて痛んだ。


 それでも、振り続けた。


 何度か、また——「正しい」瞬間があった。

 シュナイダーの動きを見た後、最初の一振りだけ、腕の角度が整う。

 でも、二度目以降は普通に戻る。


 まるで、「記録」が一瞬だけ再生されて、すぐに消えるような感覚。

 定着しない。持続しない。

 でも、確かに——何かが起きている。


「ちょっと休憩だ」


 騎士の一人が声をかけて、訓練が一時中断した。

 みんなが木陰に座り込む。


 僕も壁際に腰を下ろした。

 手のひらを見ると、赤くなっている。明日にはマメが潰れるかもしれない。


「黒瀬くん」


 相沢さんが、水の入った革袋を差し出してきた。


「……ありがとう」


 受け取って、一口飲む。

 ぬるい。でも、喉が潤うのがわかった。


「さっきの素振り……すごかったね」


 相沢さんが、小声で言った。


「え?」


「最初の一振り。なんか、シュナイダーさんみたいだった」


 心臓が跳ねた。

 見られていたのか。


「……気のせいだよ」


「そうかな……。私、《観察眼》あるから。動きの違い、なんとなくわかるの」


 相沢さんが、眼鏡を押し上げた。


「他の人とは、明らかに違った。理由はわからないけど」


「……」


 否定しても、嘘になる気がした。

 だから、黙っていた。


「別に、誰かに言ったりしないよ」


 相沢さんが、小さく笑った。


「ハズレスキル同盟の秘密、だよね」


「……ああ。そういうことにしといて」


 相沢さんは頷いて、それ以上は聞かなかった。

 その距離感が——ありがたかった。





 夕方近く、訓練が終わった。


 クラスメイトたちが、ぐったりと地面に座り込む。

 水を飲む者、空を見上げる者、何も言わずに俯いている者。

 誰も、立ち上がる気力がなかった。


 僕も、壁に背中を預けて座っていた。

 全身が痛い。特に腕と肩。

 筋肉痛の質が、体育の授業とは違う。

 もっと深い場所が、ずきずきと疼いている。


 汗が乾いて、肌が塩を吹いている。

 服が体に張り付いて、気持ち悪い。

 床の砂が、靴の中に入り込んでいる。


 でも——充実感があった。

 何かをした、という感覚。

 昨日までの不安や恐怖を、少しだけ動きで上書きできた気がする。


「集合」


 シュナイダーの声で、全員が顔を上げた。

 立ち上がる力はなくても、声には反応できる。

 それだけ、シュナイダーの存在感があった。


「今日の訓練、よくやった。全員、最後まで諦めなかった」


 シュナイダーの言葉に、少しだけ空気が和らいだ。


「明日も同じ訓練がある。体を休めておけ」


 それだけかと思ったら、シュナイダーは続けた。


「それと——一つ、伝えておくことがある」





 空気が、変わった。


 シュナイダーの表情が、少しだけ硬くなっている。

 僕たちは、無意識に背筋を伸ばした。


「来週、訓練ダンジョンへ行く」


 ダンジョン。

 その言葉に、何人かが息を呑んだ。


「ダンジョンって……モンスターがいるやつか?」


 風間が聞いた。


「ああ。弱い魔物がいる。だが、訓練用だ。危険は少ない」


 シュナイダーの声は淡々としていた。


「実戦を経験しないと、本当の意味で強くはなれない。だから、早めに慣れてもらう」


 クラスメイトたちがざわめく。

 不安と、少しの興奮が混じった空気。


「詳しくは追って説明する。今日は休め」


 シュナイダーはそう言って、訓練場を後にした。


 訓練ダンジョン。

 実戦。モンスター。


 ——また、わからないことが増えた。


 でも、今はそれより——体が限界だった。





 宿舎に戻る途中、高嶺さんが隣に並んだ。


「黒瀬くん、お疲れ様」


「ああ……高嶺さんも」


「明日、筋肉痛で動けないかも……」


「俺も」


 高嶺さんが、苦笑した。

 汗で髪が乱れていて、頬が火照っている。

 でも、目は——昨日より、少しだけ強くなっている気がした。


「訓練ダンジョン、ちょっと怖いけど……頑張ろうね」


「……ああ」


「黒瀬くんがいると、なんか安心する。一緒に頑張れる気がする」


 高嶺さんがそう言って、笑った。


 ——その言葉が、少しだけ重かった。


 嬉しいはずなのに、どこかで警戒している自分がいる。

 神崎や榊の視線を思い出す。

 高嶺さんと話すたびに、あの視線が刺さる。


 ——面倒に巻き込まれたくない。


 そう思う自分が、少しだけ嫌だった。


「澪」


 声がした。

 振り向くと、神崎が歩いてきていた。

 笑顔だけど、目が笑っていない。


「少し話があるんだ。訓練ダンジョンのこと、澪は回復役のサポートとして俺たち前線組と打ち合わせしたい」


「あ、うん……。ごめんね、黒瀬くん。また後で」


 高嶺さんが、申し訳なさそうに手を振って、神崎のほうへ歩いていった。


 僕は一人、廊下に残された。


 ——また、か。


 神崎は、さりげなく高嶺さんを連れ戻す。

 理由はもっともらしい。班長として、リーダー格として。

 でも、その本当の意図は——たぶん、別のところにある。


「やっぱそうなるよな」


 声がした。

 振り向くと、榊が壁に寄りかかって立っていた。

 いつからいたのか、わからない。


「言っただろ、勘違いすんなって」


 榊は、薄く笑った。


「高嶺さんは誰にでも優しいんだよ。お前が特別なわけじゃない」


「……わかってる」


「わかってるならいいけどな」


 榊は肩をすくめて、去っていった。


 僕は、その背中を見送った。

 言い返す気力もなかった。

 というより——言い返す言葉がなかった。


 勘違いなんてしていない。

 でも、高嶺さんが話しかけてくるのは事実だ。

 その理由が、よくわからない。


 ——考えても、仕方ない。


 今は、訓練のことだけを考えよう。

 《記録》のこと。一振り目だけ「正しく」なる、あの感覚のこと。

 それを、どう使えるか。


 部屋に戻って、ベッドに座った。

 手のひらを見る。赤いマメが、じくじくと痛む。


 ——身体が、何かを覚えようとしている。


 そんな気がした。

 《記録》が何なのか、まだわからない。

 でも、今日一日で——少しだけ、何かが変わった。


 窓の外は、もう暗くなり始めていた。

 訓練ダンジョンまで、あと数日。


 それまでに、もっと「記録」を試してみよう。

 何ができて、何ができないのか。

 確かめないといけない。


 目を閉じると、シュナイダーの素振りが脳裏に浮かんだ。

 足の踏み込み。腰の回転。肩から腕への力の流れ。

 それが、まだ——頭の中に残っている。


 ——記録は、消えていない。


 その事実だけを確認して、僕は眠りに落ちた。


なんとかペースを落とさず!止まるんじゃねえぞ…

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