基礎訓練、身体が先に覚える
朝の鐘が鳴る前に、目が覚めた。
窓の外はまだ薄暗い。空の端だけが、かすかに白んでいる。
昨日までの疲れが、体の奥に澱のように溜まっていた。
起き上がると、全身が軋んだ。
背中、腰、太ももの裏。
普段使わない筋肉が、存在を主張している。
——今日から、本格的な訓練が始まる。
顔を洗って、服を着替えた。
窓の外を見ると、訓練場らしき広場で、もう騎士たちが動いている。
剣を振る音。足が砂を蹴る音。掛け声。
それらが、朝の冷たい空気に混じって聞こえてきた。
◆
食堂に向かうと、すでに何人かのクラスメイトが集まっていた。
テーブルの上には、黒パンとスープ、それに干し肉らしきもの。
豪華な歓迎の食事とは違う。実用的な、兵士の朝食という感じだ。
席を探していると、隅のテーブルで相沢さんが一人で食べているのが見えた。
眼鏡の奥の目が、スープの表面をぼんやりと見つめている。
「……隣、いい?」
声をかけると、相沢さんは少し驚いたように顔を上げた。
「あ……うん、どうぞ」
座って、黒パンを手に取った。
硬い。噛むと、顎が疲れる。
スープに浸すと少しマシになった。
「……昨日、眠れた?」
相沢さんに聞いてみた。
同じ「雑務班」だった相手だ。気楽に話せる距離感がある。
「あんまり……。夢を見て、起きたら知らない天井で、また夢かと思って……」
「わかる。俺も、朝起きるたびに確認してる。ここがどこか」
相沢さんが、小さく頷いた。
「黒瀬くんは……怖くない?」
「怖いよ。ずっと」
正直に答えた。
相沢さんは少し驚いたような顔をして、それから——ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
「……そっか。黒瀬くんも、怖いんだ」
「当たり前だろ。こんな状況で怖くないやつのほうがおかしい」
「……うん。そうだよね」
相沢さんが、スープを一口飲んだ。
さっきより、少しだけ表情が和らいでいる。
「私、戦うとか……全然できる気がしなくて。スキルも《観察眼》っていう、地味なやつだし」
「《観察眼》?」
「うん。対象の状態を詳しく見れるらしいんだけど……戦闘向きじゃないよね」
「……俺の《記録》も似たようなもんだよ。動作を記録するだけ。真似できるとは書いてない」
相沢さんが、眼鏡の奥から僕を見た。
「……仲間だね、私たち」
「ハズレスキル同盟か」
「ふふ……そうかも」
相沢さんが、初めて笑った。
小さな、控えめな笑い。
でも、それだけで——この食堂が少しだけ居心地よくなった気がした。
◆
「黒瀬くん、おはよう」
声がして、顔を上げた。
高嶺さんが、トレイを持って近づいてくる。
隣には篠原さんもいた。
「隣、座っていい?」
「あ、ああ……どうぞ」
高嶺さんが僕の隣に座った。
篠原さんは相沢さんの隣に腰を下ろす。
「相沢さんも一緒だったんだ。おはよう」
「お、おはよう……高嶺さん」
相沢さんが少し緊張したように背筋を伸ばした。
クラスの中心にいる高嶺さんと、端にいる相沢さん。
普段なら、あまり接点のない組み合わせだ。
「黒瀬くん、昨日の聖印のこと……大丈夫だった?」
高嶺さんが、心配そうに聞いてきた。
「ああ、問題ないって言われた。体質の問題らしい」
「そっか……よかった」
高嶺さんがほっとしたように笑う。
その笑顔を見ていると、こっちまで安心してしまいそうになる。
「今日から本格的な訓練だよね。私、運動あんまり得意じゃないから不安で……」
「俺も得意じゃないよ」
「えー、でも黒瀬くん、なんか大丈夫そうに見える」
「見えるだけだって」
そんな会話をしていると——
「澪、こっちに席あるぞ」
声が割り込んできた。
神崎だった。
少し離れたテーブルから、こちらを見ている。
風間と坂下も一緒だ。
「あ、神崎くん……うん、でも今ここで——」
「訓練前に打ち合わせしたいんだ。各分野の主戦力で動き方を確認しておきたくてさ」
神崎の声は穏やかだった。
でも、その目が一瞬だけ僕を見た。
値踏みするような、あるいは——排除するような視線。
「由依も来いよ。お前の《疾風》、連携で使えるか確認したい」
「あー、はいはい。行くよ」
篠原さんが立ち上がった。
高嶺さんは少し困ったような顔をしている。
「ごめんね、黒瀬くん。また後で——」
「ああ、気にしないで」
高嶺さんが申し訳なさそうに笑って、神崎たちのテーブルに向かった。
篠原さんも続く。
テーブルに残されたのは、僕と相沢さんだけだった。
ふと、視線を感じた。
神崎たちのテーブルを見ると、榊がこちらを見ていた。
目が合う。
榊は、ふっと鼻で笑うような表情を浮かべて、視線を逸らした。
何も言われていない。
でも、その視線に込められた意味は——なんとなく、わかった。
——お前の居場所は、あそこじゃない。
そう言われている気がした。
◆
朝食の後、僕たちは訓練場に集められた。
城の敷地内にある、広い土の広場。
周囲を石壁で囲まれていて、日差しが真上から降り注いでいる。
地面は細かい砂利と砂が混じっていて、足を踏み出すたびに、じゃり、と音がした。
騎士たちが、すでに整列していた。
鎧を着た者、軽装の者、様々だ。
その中央に、シュナイダーが立っている。
「集まったな」
シュナイダーの声が、広場に響いた。
低く、重い。それだけで、空気が引き締まる。
「今日から基礎訓練を始める。まずは体力作りと、身体の動かし方を覚えてもらう」
クラスメイトたちが顔を見合わせた。
スキルの訓練ではないのか——そんな疑問が、表情に浮かんでいる。
「スキルは便利だが、それだけでは戦えない」
シュナイダーは、その疑問を見透かしたように続けた。
「体が動かなければ、スキルも使えない。まずは基礎だ。走ること、立つこと、受けること、避けること。それができなければ、戦場では死ぬ」
死ぬ。
その言葉が、空気を冷たくした。
「厳しいことを言うが、現実だ。だからこそ、俺たちも全力で教える。ついてこい」
◆
最初は走り込みだった。
訓練場の外周を、ひたすら走る。
最初は余裕があった。
日本でも体育の授業があったし、走ること自体は慣れている——そう思っていた。
五周目で、その考えが甘かったと知った。
「止まるな! ペースを落とすな!」
騎士の一人が、後ろから叫んでいる。
息が上がる。足が重い。汗が額を伝って、目に入る。
視界がぼやけて、地面の砂利が揺れて見えた。
周りを見ると、クラスメイトたちも苦しそうだ。
風間だけは、まだ余裕がありそうに走っている。
さすが体育会系——と思う余裕すらなくなってきた。
十周目で、何人かが脱落した。
座り込んで、肩で息をしている。
騎士たちが水を渡しながら、「大丈夫か」と声をかけている。
僕は——まだ、走っていた。
体力があるわけではない。
ただ、止まったら立ち上がれない気がして、足を動かし続けていた。
隣を見ると、相沢さんが走っていた。
眼鏡がずれて、顔が真っ赤になっている。
でも、止まらない。
「相沢さん、大丈夫?」
息を切らしながら声をかけた。
「だ、大丈夫……たぶん……」
全然大丈夫そうじゃなかった。
でも、足は動いている。
「あと……少し……」
「うん……」
二人で、なんとか走り続けた。
言葉を交わす余裕はない。
ただ、隣に誰かがいるだけで——少しだけ、足が軽くなる気がした。
◆
走り込みの後、しばらく休憩があった。
木陰に座り込んで、水を飲む。
喉が干からびていて、水が体に染み込んでいくのがわかった。
相沢さんが、隣でぐったりと座っている。
「……死ぬかと思った」
「俺も」
「でも……止まらなかった」
「ああ」
二人で、空を見上げた。
青い空に、白い雲が流れている。
日本の空とは、少し色が違う気がする。
「黒瀬くんがいてくれて……助かった」
相沢さんが、小さく言った。
「一人だったら、絶対途中で止まってた」
「……俺も、たぶん同じだよ」
相沢さんが、眼鏡の奥から僕を見た。
それから、少しだけ笑った。
「……やっぱり、仲間だね」
「ハズレスキル同盟」
「うん。ハズレスキル同盟」
そんな会話をしていると、影が落ちた。
顔を上げると、高嶺さんが立っていた。
汗で髪が額に張り付いて、頬が赤い。
「黒瀬くん、相沢さん、お疲れ様……。二人とも最後まで走ってたね」
「高嶺さんも」
「私はもうボロボロ……。由依に引っ張ってもらってやっとだった」
高嶺さんが、僕と相沢さんの間に腰を下ろした。
近い。肩が触れそうな距離。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると、少し離れた場所で神崎がこちらを見ていた。
風間と話しているふりをしながら、視線だけがこちらに向いている。
その隣で、榊も同じようにこちらを見ていた。
二人の視線が重なる。
どちらも、友好的な目ではなかった。
——また、か。
高嶺さんは気づいていないようだった。
相沢さんは気づいているのか、少しだけ居心地悪そうに身じろぎした。
「お前ら、よく最後まで走ったな」
シュナイダーが、僕たちの前に立った。
その存在感で、神崎たちの視線が途切れる。
「体力はこれから作ればいい。まずは、諦めないことだ」
それだけ言って、シュナイダーは去っていった。
◆
休憩の後、次の訓練が始まった。
「次は、剣の基礎だ」
シュナイダーの前に、木剣が並べられていた。
本物の剣ではない。訓練用の、木でできた剣。
それでも、持ってみると意外に重かった。
「まずは素振りからだ。見ていろ」
シュナイダーが、木剣を構えた。
その瞬間——空気が変わった。
立ち方。足の開き。肩の位置。剣を握る手の角度。
すべてが、ぴたりと決まっている。
無駄がない。余計な力が入っていない。
シュナイダーが、剣を振り下ろした。
風が鳴った。
木剣なのに、空気を切る音がはっきり聞こえた。
「これが基本の振り下ろしだ。まずはこの形を覚えろ」
クラスメイトたちが、ざわめいた。
「すげえ」「あんなふうにできるのか」という声が聞こえる。
僕は——見ていた。
シュナイダーの動きを、目で追っていた。
足の踏み込み。腰の回転。肩から腕への力の流れ。剣先が描く軌道。
それらが、脳の奥に焼き付いていく。
——《記録》?
ふと、そう思った。
でも、意識して使ったわけではない。
ただ見ていただけなのに、動きの細部が頭の中に残っている。
◆
クラスメイトたちが、順番に素振りを始めた。
神崎は、さすがに形になっている。
スポーツの経験があるからだろう。体の使い方がわかっている。
風間も、力任せだが勢いがある。
坂下は淡々と、正確に振ろうとしている。
篠原さんは運動神経がいいのか、すぐにコツを掴んでいるように見えた。
高嶺さんは、まだぎこちない。
でも、一生懸命に振っている。
相沢さんは——苦戦していた。
剣が重いのか、振り下ろすたびにバランスを崩している。
「相沢さん、肘をもう少し締めたほうがいいかも」
気づいたら、声をかけていた。
相沢さんが、眼鏡の奥から僕を見る。
「えっと……こう?」
「うん。そのほうが振りやすいと思う」
なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。
ただ、シュナイダーの動きを見たときに——何かが頭に残っていて、それが言葉になった。
「……ほんとだ、少し楽になった」
相沢さんが、少し驚いたように言った。
「黒瀬くん、詳しいね」
「いや、なんとなく……」
自分でも、よくわからない。
わからないから、それ以上は言わなかった。
◆
僕の番が来た。
木剣を握る。
重い。でも、昨日よりは——慣れた気がする。
構える。
足を開く。肩を落とす。剣を上げる。
——その瞬間。
腕が、勝手に動いた。
違う。「勝手に」ではない。
さっきシュナイダーの動きを見たとき、脳に焼き付いた情報が——腕の角度を「正しく」した。
剣を振り下ろす。
風が、鳴った。
「……っ」
驚いて、動きが止まった。
今の、何だ。
シュナイダーの素振りと、同じ——いや、似た感覚があった。
腕の角度。力の入れ方。剣先の軌道。
初めてなのに、「知っている」ような感覚。
「黒瀬」
シュナイダーが、近づいてきた。
心臓が跳ねた。
見られていたのか。何か、おかしかったのか。
「もう一度、振ってみろ」
シュナイダーの目が、真剣だった。
僕は頷いて、もう一度構えた。
振り下ろす。
——さっきほどではない。
形は似ているけど、何かが違う。力の流れが途中で乱れた。
「……ふむ」
シュナイダーは何かを考えるように眉を寄せた。
それから、小さく頷いた。
「悪くない。続けろ」
それだけ言って、次の者の指導に移った。
僕は、自分の腕を見た。
何が起きたのか、わからない。
最初の一振りだけ、妙に——「正しかった」。
でも、二度目は普通だった。
——《記録》のせいか?
スキルの説明は「対象の動作を記録する」だった。
記録するだけ。真似できるとは書いていない。
でも、さっきの感覚は——
考えても、答えは出なかった。
周りのクラスメイトたちは、まだ素振りを続けている。
誰も、僕の一振りに気づいていない。
——隠しておこう。
直感的に、そう思った。
何が起きているのか、自分でもわからない。
わからないものを、人に話す気にはなれなかった。
◆
素振りの訓練は、延々と続いた。
腕が痺れる。肩が熱い。手のひらに、マメができ始めている。
木剣を握るたびに、皮膚が擦れて痛んだ。
それでも、振り続けた。
何度か、また——「正しい」瞬間があった。
シュナイダーの動きを見た後、最初の一振りだけ、腕の角度が整う。
でも、二度目以降は普通に戻る。
まるで、「記録」が一瞬だけ再生されて、すぐに消えるような感覚。
定着しない。持続しない。
でも、確かに——何かが起きている。
「ちょっと休憩だ」
騎士の一人が声をかけて、訓練が一時中断した。
みんなが木陰に座り込む。
僕も壁際に腰を下ろした。
手のひらを見ると、赤くなっている。明日にはマメが潰れるかもしれない。
「黒瀬くん」
相沢さんが、水の入った革袋を差し出してきた。
「……ありがとう」
受け取って、一口飲む。
ぬるい。でも、喉が潤うのがわかった。
「さっきの素振り……すごかったね」
相沢さんが、小声で言った。
「え?」
「最初の一振り。なんか、シュナイダーさんみたいだった」
心臓が跳ねた。
見られていたのか。
「……気のせいだよ」
「そうかな……。私、《観察眼》あるから。動きの違い、なんとなくわかるの」
相沢さんが、眼鏡を押し上げた。
「他の人とは、明らかに違った。理由はわからないけど」
「……」
否定しても、嘘になる気がした。
だから、黙っていた。
「別に、誰かに言ったりしないよ」
相沢さんが、小さく笑った。
「ハズレスキル同盟の秘密、だよね」
「……ああ。そういうことにしといて」
相沢さんは頷いて、それ以上は聞かなかった。
その距離感が——ありがたかった。
◆
夕方近く、訓練が終わった。
クラスメイトたちが、ぐったりと地面に座り込む。
水を飲む者、空を見上げる者、何も言わずに俯いている者。
誰も、立ち上がる気力がなかった。
僕も、壁に背中を預けて座っていた。
全身が痛い。特に腕と肩。
筋肉痛の質が、体育の授業とは違う。
もっと深い場所が、ずきずきと疼いている。
汗が乾いて、肌が塩を吹いている。
服が体に張り付いて、気持ち悪い。
床の砂が、靴の中に入り込んでいる。
でも——充実感があった。
何かをした、という感覚。
昨日までの不安や恐怖を、少しだけ動きで上書きできた気がする。
「集合」
シュナイダーの声で、全員が顔を上げた。
立ち上がる力はなくても、声には反応できる。
それだけ、シュナイダーの存在感があった。
「今日の訓練、よくやった。全員、最後まで諦めなかった」
シュナイダーの言葉に、少しだけ空気が和らいだ。
「明日も同じ訓練がある。体を休めておけ」
それだけかと思ったら、シュナイダーは続けた。
「それと——一つ、伝えておくことがある」
◆
空気が、変わった。
シュナイダーの表情が、少しだけ硬くなっている。
僕たちは、無意識に背筋を伸ばした。
「来週、訓練ダンジョンへ行く」
ダンジョン。
その言葉に、何人かが息を呑んだ。
「ダンジョンって……モンスターがいるやつか?」
風間が聞いた。
「ああ。弱い魔物がいる。だが、訓練用だ。危険は少ない」
シュナイダーの声は淡々としていた。
「実戦を経験しないと、本当の意味で強くはなれない。だから、早めに慣れてもらう」
クラスメイトたちがざわめく。
不安と、少しの興奮が混じった空気。
「詳しくは追って説明する。今日は休め」
シュナイダーはそう言って、訓練場を後にした。
訓練ダンジョン。
実戦。モンスター。
——また、わからないことが増えた。
でも、今はそれより——体が限界だった。
◆
宿舎に戻る途中、高嶺さんが隣に並んだ。
「黒瀬くん、お疲れ様」
「ああ……高嶺さんも」
「明日、筋肉痛で動けないかも……」
「俺も」
高嶺さんが、苦笑した。
汗で髪が乱れていて、頬が火照っている。
でも、目は——昨日より、少しだけ強くなっている気がした。
「訓練ダンジョン、ちょっと怖いけど……頑張ろうね」
「……ああ」
「黒瀬くんがいると、なんか安心する。一緒に頑張れる気がする」
高嶺さんがそう言って、笑った。
——その言葉が、少しだけ重かった。
嬉しいはずなのに、どこかで警戒している自分がいる。
神崎や榊の視線を思い出す。
高嶺さんと話すたびに、あの視線が刺さる。
——面倒に巻き込まれたくない。
そう思う自分が、少しだけ嫌だった。
「澪」
声がした。
振り向くと、神崎が歩いてきていた。
笑顔だけど、目が笑っていない。
「少し話があるんだ。訓練ダンジョンのこと、澪は回復役のサポートとして俺たち前線組と打ち合わせしたい」
「あ、うん……。ごめんね、黒瀬くん。また後で」
高嶺さんが、申し訳なさそうに手を振って、神崎のほうへ歩いていった。
僕は一人、廊下に残された。
——また、か。
神崎は、さりげなく高嶺さんを連れ戻す。
理由はもっともらしい。班長として、リーダー格として。
でも、その本当の意図は——たぶん、別のところにある。
「やっぱそうなるよな」
声がした。
振り向くと、榊が壁に寄りかかって立っていた。
いつからいたのか、わからない。
「言っただろ、勘違いすんなって」
榊は、薄く笑った。
「高嶺さんは誰にでも優しいんだよ。お前が特別なわけじゃない」
「……わかってる」
「わかってるならいいけどな」
榊は肩をすくめて、去っていった。
僕は、その背中を見送った。
言い返す気力もなかった。
というより——言い返す言葉がなかった。
勘違いなんてしていない。
でも、高嶺さんが話しかけてくるのは事実だ。
その理由が、よくわからない。
——考えても、仕方ない。
今は、訓練のことだけを考えよう。
《記録》のこと。一振り目だけ「正しく」なる、あの感覚のこと。
それを、どう使えるか。
部屋に戻って、ベッドに座った。
手のひらを見る。赤いマメが、じくじくと痛む。
——身体が、何かを覚えようとしている。
そんな気がした。
《記録》が何なのか、まだわからない。
でも、今日一日で——少しだけ、何かが変わった。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
訓練ダンジョンまで、あと数日。
それまでに、もっと「記録」を試してみよう。
何ができて、何ができないのか。
確かめないといけない。
目を閉じると、シュナイダーの素振りが脳裏に浮かんだ。
足の踏み込み。腰の回転。肩から腕への力の流れ。
それが、まだ——頭の中に残っている。
——記録は、消えていない。
その事実だけを確認して、僕は眠りに落ちた。
なんとかペースを落とさず!止まるんじゃねえぞ…




