祝福式と薄い聖印
朝の鐘が、遠くで鳴った。
低く重い音が、石の壁を伝わって部屋の中まで響いてくる。
日本の学校で聞いていたチャイムとは、まるで違う音だった。
窓の外は、まだ薄暗い。
この世界の夜明けは、日本より遅いのかもしれない。
それとも、ただ季節が違うのか。
どちらにしても、今はわからないことだらけだ。
顔を洗って、用意されていた服に着替えた。
白い麻のシャツと、濃い茶色のズボン。
シンプルだけど、生地がしっかりしている。
肌触りは悪くない。ただ、袖の長さが少しだけ合わなくて、手首が覗く。
——今日は祝福式だ。
昨日の夜、シスター・エルナからそう告げられていた。
スキルを授けた後、神の加護を受けるための儀式があるらしい。
聖印を体に刻み、この世界で生きるための「守り」を得る。
そういう説明だった。
部屋を出ると、廊下で高嶺さんと会った。
「……おはよう、黒瀬くん」
声が、まだ少しかすれている。
昨日、たくさん泣いたからだろう。
「おはよう。……眠れた?」
「うん、少しだけ。……黒瀬くんは?」
「同じ。少しだけ」
高嶺さんが小さく笑った。
昨日の笑顔よりは、自然だった。
「今日の祝福式……ちょっと緊張するね」
「そうだな。……何をするのか、よくわからないし」
「うん。でも、神崎くんが『大丈夫だ』って言ってたから」
高嶺さんは、それだけで少し安心したみたいに頷いた。
神崎の言葉には、そういう力がある。
根拠がなくても、「大丈夫」と言われると信じたくなる。
僕には、その力はない。
◆
朝食の後、僕たちは教会へ向かった。
王城から少し離れた場所に、巨大な建物が建っている。
白い石造りの壁。高い塔。尖った屋根。
ステンドグラスの窓が朝日を受けて、色とりどりの光を放っていた。
「でけえ……」
風間が、口を開けて見上げている。
「この世界の教会って、こんなに立派なんだな」
「宗教が権力を持っている証拠だ」
坂下が眼鏡を押し上げて言った。
「建築様式を見ても、相当な資材と人員を投入している。国家と教会の関係性が窺える」
「まーた難しいこと言ってる」
風間が肩をすくめたが、坂下の言葉は無視できなかった。
この教会は、ただの宗教施設ではない。
それは、入り口に立つ騎士たちの数を見てもわかった。
教会の扉が開く。
中から、甘い香りが漂ってきた。
花の匂いではない。もっと重くて、喉の奥に絡みつくような香り。
焚いている香だろうか。
内部は、外から見るよりもさらに広かった。
高い天井。等間隔に並ぶ太い柱。床は磨き上げられた石で、足音が反響する。
正面には巨大な祭壇があり、その上に光り輝く紋章が掲げられていた。
シスター・エルナが、祭壇の前で待っていた。
昨日と同じ白いローブ。穏やかな微笑み。
でも、この場所では、その微笑みがどこか違って見えた。
——ここが、彼女の領域だ。
そう思った瞬間、背筋がわずかに緊張した。
「皆様、ようこそお越しくださいました」
シスター・エルナの声が、広間に響いた。
天井に反響して、複数の声が重なっているみたいに聞こえる。
「本日は祝福式を執り行います。皆様の体に聖印を刻み、神の加護を授けます」
聖印。
その言葉に、何人かが顔を見合わせた。
「痛いの……?」
相沢さんが、小声で誰かに聞いていた。
「痛みはございません。光が体に溶け込むような感覚です」
シスター・エルナが答えた。
相沢さんの声が聞こえていたらしい。
「聖印は、皆様をこの世界の魔から守るためのものです。召喚された方々は、この世界の法則に馴染んでいません。聖印がなければ、魔族の瘴気に侵されやすく、病にかかりやすくなります」
守りのためのもの。
その説明は、もっともらしく聞こえた。
でも、僕の胸の奥で、小さな警戒心が灯った。
——本当に、それだけか?
わからない。
わからないけど、拒否する理由もない。
「では、順番にお名前をお呼びします」
シスター・エルナが、羊皮紙を広げた。
◆
儀式は、一人ずつ行われた。
祭壇の前に跪き、シスター・エルナが額に手を当てる。
祈りの言葉が唱えられ、光が灯り、胸の位置に紋様が浮かび上がる。
それが「聖印」らしい。
最初は神崎だった。
シスター・エルナが祈りを唱えると、神崎の胸に金色の光が灯った。
光は円を描き、複雑な紋様を形作り、やがて皮膚に溶け込んでいった。
その過程は、まるで——
——美しかった。
僕は、その光を見ていた。
光が動く軌跡。紋様が描かれる順序。溶け込む瞬間の揺らぎ。
脳の奥で、何かがそれを「記録」しているような感覚があった。
神崎が立ち上がる。
表情は平静だった。
「どうだ?」
風間が聞いた。
「……あったかい感じがした。痛みはない」
「マジか。よかった」
次に呼ばれたのは、高嶺さんだった。
高嶺さんは少し緊張した顔で祭壇に向かい、跪いた。
シスター・エルナが祈りを唱える。
光が灯る。紋様が描かれる。
高嶺さんの聖印も、神崎と同じように金色に輝いていた。
一人、また一人と儀式が進んでいく。
篠原さん。風間。坂下。相沢さん。
みんな、金色の光を受けて、聖印を刻まれていった。
◆
「黒瀬ユウ様」
名前を呼ばれた。
足が、少しだけ重かった。
祭壇の前に進む。
床の石が冷たい。膝をつくと、その冷たさが骨まで伝わってくる。
香の匂いが濃くなった。喉の奥がざらつく。
「顔を上げてください」
シスター・エルナの声。
顔を上げると、彼女の手が額に触れた。
——冷たい。
その冷たさが、最初に感じたことだった。
他の人のときは、どうだったのだろう。
確認する余裕はなかった。
シスター・エルナが、祈りの言葉を唱え始めた。
聞いたことのない言語。
でも、音の響きは、さっきまでと同じだった。
光が灯る——はずだった。
「……っ」
胸が、熱くなった。
温かいのではない。焼けるように、熱い。
光が見えた。
でも、金色ではなかった。
白い光。薄くて、頼りなくて、揺らいでいる。
——何か、おかしい。
そう思った瞬間、視界に紋様が浮かんだ。
他の人の聖印とは、違う形。
線が細くて、どこか歪んでいて、所々が途切れている。
そして——皮膚の下で、何かが動いた。
光が、溶け込もうとしている。
でも、すんなりとは入っていかない。
抵抗するように、押し返すように、僕の体が光を拒んでいる。
——いや、違う。
拒んでいるのは、光のほうだ。
僕の体に入ろうとして、入りきれなくて、弾かれている。
熱さが増した。
汗が額を伝う。
呼吸が浅くなる。
「……ふ、っ」
声が漏れた。
視界が白く滲む。
その瞬間——
脳裏に、何かが灯った。
黒い線で描かれた図形。
複雑な回路のような紋様。
昨日、《記録》と呼んだ、あの感覚。
紋様が、光の動きを「記録」している。
入ろうとする光。弾かれる光。その軌跡が、すべて。
そして、もう一つ。
光が入りきれなかった場所に、「何か」が残っていた。
黒い点のような、小さな異物。
それが、皮膚の下でじっと動かずにいる。
——これは、何だ?
考える間もなく、光が消えた。
「……終わりました」
シスター・エルナの声が、遠くから聞こえた。
僕は顔を上げた。
シスター・エルナは、変わらない微笑みを浮かべていた。
でも、その目が——一瞬だけ、僕の胸元を見た気がした。
◆
「黒瀬くん、大丈夫……?」
儀式の後、高嶺さんが駆け寄ってきた。
心配そうな顔をしている。
「……ああ。大丈夫」
「顔、すごく青かったよ。汗もかいてたし……」
「ちょっと、緊張しただけだと思う」
嘘ではなかった。
でも、全部を話す気にはなれなかった。
胸元に手を当てる。
聖印があるはずの場所。
でも、そこには何も感じられなかった。
温かさも、光も、何も。
——俺の聖印は、ちゃんと刻まれたのか?
わからない。
他の人の聖印と比べてみたいけど、そんなことを頼める空気ではなかった。
「神崎」
シュナイダーが、神崎を呼んだ。
「聖印を見せてみろ」
神崎が頷き、シャツの襟元を少し開けた。
そこには、金色の紋様がくっきりと浮かんでいた。
円の中に複雑な線が走り、中央には剣の意匠が刻まれている。
強い。鮮やかな、強い光。
「いい聖印だ。これなら、瘴気にも病にも負けん」
シュナイダーが頷いた。
「他の者も確認しておけ。何か異常があれば、すぐに報告しろ」
クラスメイトたちが、自分の聖印を確認し始めた。
篠原さんの聖印は風の紋様。
風間の聖印は拳を握った形。
高嶺さんの聖印は、光の輪に包まれた花。
みんな、くっきりと輝いている。
僕は、胸元を見た。
——薄い。
聖印はあった。
でも、他の人と比べると明らかに色が薄かった。
線も細くて、所々がかすれている。
まるで、消えかけの古い刺青みたいだ。
「黒瀬くん、どう……?」
高嶺さんが覗き込もうとした。
僕は、反射的にシャツの襟を閉じた。
「……大丈夫。ちゃんとあった」
「よかった」
高嶺さんは安心したように笑った。
僕は、その笑顔を見て——何も言えなかった。
◆
教会を出ると、空が眩しかった。
朝よりも日が高くなっていて、石畳が白く光っている。
「これで、この世界で生きる準備が整ったってことだな」
風間が、大きく伸びをしながら言った。
「スキルも貰ったし、聖印も貰った。あとは訓練だけか」
「単純に考えるな。むしろここからが本番だ」
坂下が眼鏡を押し上げて言った。
「スキルも聖印も、使いこなせなければ意味がない。それに、まだわからないことが多すぎる」
「わかってるって。でもよ、ちょっとくらい前向きに考えてもいいだろ」
風間と坂下のやり取りを聞きながら、僕は自分の胸元を意識していた。
薄い聖印。
他の人よりも弱い、薄い光。
——これは、何を意味している?
シスター・エルナは、何も言わなかった。
気づいていなかったのか。
それとも、気づいていて黙っていたのか。
どちらにしても、聞ける空気ではなかった。
「黒瀬」
声をかけられた。
振り向くと、シュナイダーが立っていた。
「少しいいか」
低い声。
でも、威圧的ではなかった。
「……はい」
僕は頷いて、シュナイダーの後について行った。
高嶺さんが心配そうな顔をしていたけど、僕は小さく手を振って「大丈夫」と伝えた。
◆
シュナイダーは、教会の脇にある小さな庭に僕を連れて行った。
白い石で囲まれた花壇。
見たことのない色の花が、静かに咲いている。
「聖印、見せてみろ」
シュナイダーが言った。
その声には、さっきの確認のときとは違う、慎重さがあった。
僕は、シャツの襟を開いた。
薄い聖印が、日の光の下で余計に頼りなく見えた。
シュナイダーは、しばらくそれを見つめていた。
表情は変わらない。強面のまま、じっと。
「……こういうこともある」
やがて、シュナイダーが口を開いた。
「召喚された者の中には、この世界の法則に馴染みにくい者がいる。聖印が薄いのは、お前の体がこの世界に完全には適応していない証拠だ」
「……それは、悪いことですか」
聞きたくなかった。
でも、聞かずにはいられなかった。
シュナイダーは、少しだけ考えてから答えた。
「一長一短だ」
「一長一短……?」
「聖印が薄いということは、この世界の魔への耐性が弱いということだ。瘴気に当たりやすい。病にかかりやすい。それは確かにリスクだ」
シュナイダーの言葉は、淡々としていた。
でも、それが逆に——嘘がないように聞こえた。
「だが、同時に——この世界の法則に縛られにくいとも言える」
「縛られにくい……?」
「詳しくは俺にもわからん。ただ、過去にも聖印が薄い召喚者がいた。その者は——独自の力の使い方を編み出していた」
シュナイダーは、それ以上は言わなかった。
言えないのか、知らないのか。
どちらにしても、これ以上聞いても答えは出ないようだった。
「とにかく、今は気にするな」
シュナイダーが、僕の肩を軽く叩いた。
「聖印が薄くても、お前はここにいる。訓練を受ける資格がある。他の者と同じだ」
「……はい」
「明日から訓練が始まる。体を休めておけ」
シュナイダーはそう言って、踵を返した。
僕は一人、花壇の前に立っていた。
薄い聖印。この世界に馴染みにくい体。
独自の力の使い方。
——何が起きているんだ、俺の中で。
胸に手を当てた。
儀式のとき、皮膚の下に残った「何か」。
あれは、まだそこにある気がした。
黒い点のような、小さな異物。
《記録》が、何かを記録していた。
光の動き。紋様の形。弾かれた軌跡。
それが何を意味するのか、まだわからない。
でも——わからないことは、いつか「わかる」に変わる。
そのために、記録しているのかもしれない。
◆
宿舎に戻ると、廊下で高嶺さんが待っていた。
「黒瀬くん! 大丈夫だった? シュナイダーさんに何か言われた?」
「……うん、大丈夫。ちょっと確認されただけ」
「確認? 何の?」
高嶺さんの目が、心配そうに僕を見つめている。
その視線が、少しだけ重かった。
「聖印のこと。……俺の聖印、ちょっと薄かったみたいで」
「薄い……?」
高嶺さんの表情が曇った。
「それって、何か問題があるってこと……?」
「いや、シュナイダーさんは『こういうこともある』って言ってた。馴染みにくい体質の人がいるらしい」
「そう、なんだ……」
高嶺さんは、安心したような、しきれないような顔をしていた。
「でも、大丈夫なんだよね?」
「……たぶん」
断言はできなかった。
でも、高嶺さんをこれ以上心配させたくなかった。
「訓練には参加できるって言われた。他の人と同じだって」
「そっか……よかった」
高嶺さんが、ほっと息を吐いた。
それから、少しだけ俯いて——
「あのね、黒瀬くん」
「ん?」
「私、昨日いろいろ考えてたの」
高嶺さんの声が、少しだけ小さくなった。
「この世界に来て、怖いこともいっぱいあるけど……でも、黒瀬くんがいてくれて、ちょっと安心する」
「俺?」
「うん。黒瀬くん、いつも落ち着いてるから。……私、すぐパニックになっちゃうけど、黒瀬くんは冷静でいてくれるし」
高嶺さんが、顔を上げた。
少しだけ赤くなった頬。
まっすぐな目。
「だから……これからも、よろしくね」
「……ああ。よろしく」
僕は、小さく頷いた。
冷静でいるのは、怖くないからじゃない。
怖いから、考えているだけだ。
パニックになったら、何もできなくなるから。
でも、それを言う必要はなかった。
「じゃあ、私、部屋に戻るね。明日から訓練だし、休まないと」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ、黒瀬くん」
高嶺さんが手を振って、廊下を歩いていった。
その後ろ姿を見送ってから、僕は自分の部屋に向かった。
◆
部屋に戻って、ベッドに座った。
窓の外は、夕焼けに染まり始めていた。
シャツを脱いで、鏡の前に立った。
薄い聖印が、胸の中央に浮かんでいる。
他の人の聖印と比べると、明らかに弱い。
光を放っていない。ただ、そこにあるだけ。
——薄いのは、悪いことなのか。
シュナイダーは「一長一短」と言った。
リスクはある。でも、縛られにくいとも。
その言葉の意味が、まだわからない。
わからないけど——
《記録》が、何かを掴んでいる気がした。
儀式のとき、光が弾かれた瞬間。
紋様が歪んだ理由。
皮膚の下に残った、黒い点のような何か。
それらが、脳の奥で静かに整理されている。
まだ形にはならない。でも、いつか——
窓の外で、鐘が鳴った。
夕方の鐘。一日の終わりを告げる音。
明日から、訓練が始まる。
体力作りと、スキルの使い方を覚える訓練。
《記録》は、動作を記録するスキルだと言われた。
期待されていない。役に立たないと思われている。
でも——
今日、聖印の儀式で起きたこと。
光の動きを「記録」したこと。
紋様の軌跡を、脳の奥に刻んだこと。
それは、たぶん——普通じゃない。
まだわからない。
何がわからないのかも、わからない。
でも、僕は「記録」している。
この世界で起きること、一つ一つを。
いつか、それが意味を持つ日が来るかもしれない。
——聖印が薄いのは、悪いことなのか?
その問いを、胸の奥に飲み込んだ。
今は、答えを出せない。
だから、保留にしておく。
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。
薄い聖印を持つ、期待されていない召喚者の顔。
でも——まだ、終わりじゃない。
その思いだけを抱えて、僕は目を閉じた。




