文化祭準備と異変
体育館は、埃と汗の匂いがする。
床に敷かれたブルーシートが足音を吸って、声だけが天井に跳ね返る。
文化祭まであと二週間。準備は本格化していた。
神崎が中央に立ち、ホワイトボードを叩く。
その隣には、いつものメンバーが揃っていた。
高嶺さん、篠原さん、風間 悠斗、坂下 恒一。
クラスの中心にいる五人。空気を決める五人。
彼らが並ぶと、それだけで「こっちが正面」だとわかる。
教室の序列が、そのまま可視化されたみたいだ。
「じゃ、役割な。装飾班、調理班、広報班。それぞれリーダーは俺が指名する」
クラスメイトが頷く。
異論を挟む空気はない。神崎の仕切りは、もう"決定事項"として受け入れられている。
「装飾は篠原。調理は風間。広報は坂下」
名前が呼ばれるたび、視線が動く。
篠原さんは「了解」と手を挙げ、風間は「おう、任せろ!」と拳を突き上げた。
坂下だけが、眼鏡を押し上げて小さく頷いた。
風間は体育会系で、運動神経抜群。声が大きくて、場を明るくする。
坂下は成績優秀で、発言は少ないが、一言で話を正解に寄せる。
タイプは正反対だけど、二人とも神崎の隣に立つのが自然な人間だ。
高嶺さんは特定の班には入らず、全体のサポートに回るらしい。
彼女がどこにいても違和感がないのは、誰とでも分け隔てなく接するからだろう。
「で、雑務班な。買い出し、荷物運び、ゴミ処理。……ここは縁の下の仕事だけど、これがないと回らない。大事な役割だ」
神崎の言葉には、悪意がない。
本気でそう思っているのが伝わってくる。
「黒瀬、あと相沢、それから——」
名前が並ぶ。
目立たない顔ぶれが、そのまま「雑務」に振り分けられていく。
神崎の中では、きっと適材適所なのだろう。
得意なことを得意な人間がやる。それが全体のためになる。
正しい考え方だ。正しいはずだ。
「みんなで最高の文化祭にしような。頼むぞ」
神崎が締めくくる。
拍手が起きた。
僕も、小さく手を叩いた。
何も間違っていない。誰も悪くない。
なのに、胸のどこかに小さな澱が残る。
それが何なのか、自分でもわからなかった。
◆
午後、体育館の裏手で段ボールを運んでいた。
ガムテープの匂いが鼻につく。剥がすたびに、指先の皮が引っ張られて薄く痛む。
「黒瀬くーん、こっちも手伝ってー」
相沢 しおり(あいざわ しおり)が、眼鏡の奥から控えめに手を振った。
大人しいクラスメイト。地味な作業に適性があって、観察力がある。
僕とは「気楽な距離」にいる数少ない相手だ。
「わかった。そっち重い?」
「うん、ちょっとだけ……」
二人で段ボールを持ち上げる。
中身は装飾用の布と、よくわからない金属パーツ。
思ったより重くて、腕が軋む。
「……これ、装飾班の仕事じゃないの?」
相沢さんが小声で言った。
僕は肩をすくめた。
「たぶん、運ぶのは雑務班の仕事ってことなんだと思う」
「……そっか」
相沢さんは何も言わなかった。
僕も、それ以上は言わなかった。
体育館の中から、笑い声が聞こえる。
装飾班が飾り付けの配置を決めているらしい。
篠原さんの声が響いて、誰かが冗談を言って、また笑いが起きる。
その音が、妙に遠い。
同じ空間にいるはずなのに、壁一枚隔てているみたいだ。
◆
休憩時間。
体育館の隅で、ペットボトルの水を飲んでいた。
汗が冷えて、背中が少しだけ寒い。
ふと、体育館の中央に目が向く。
神崎を中心に、いつもの五人が集まっていた。
風間が何か冗談を言って、篠原さんが笑う。
坂下は腕を組んで聞いているだけだけど、輪の中にいることに違和感がない。
高嶺さんは少し離れた位置で微笑んでいる。
五人でいるとき、彼らは自然と「絵」になる。
照明の当たり方とか、立ち位置とか、そういうものが最初から決まっているみたいに。
クラスの中心は、いつもあそこにある。
「よう、黒瀬」
声をかけてきたのは、榊 太一だった。
上位寄りの男子。五人の輪には入れないけど、その周縁にいる。
軽口で空気を整えるのが上手い。
ただ、その軽口は時々、立場の弱い方に刺さる。
「雑務班、大変そうだな。まあ、お前向きっちゃ向きだけど」
榊は笑った。
悪意があるのかないのか、よくわからない笑い方だった。
「……まあ、誰かがやらないといけないし」
「だよな。お前、そういうの断らないもんな」
榊はそう言って、視線を体育館の中央に向けた。
五人の輪。その中にいる高嶺さん。
「高嶺さん、今日も可愛いよな」
榊の声が、少しだけ柔らかくなった。
僕は何も言わなかった。
「お前さ、最近高嶺さんとよく話してない?」
「……別に、向こうが話しかけてくれるだけで」
「ふーん」
榊は鼻を鳴らした。
それから、肩を叩いてきた。
「まあ、あんま関わりすぎんなよ。高嶺さん、誰にでも優しいからさ。勘違いすんなって話」
言葉は軽い。
でも、指先に少しだけ力がこもっていた。
「……わかってる」
僕はそう答えた。
榊は満足したように頷いて、去っていった。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
勘違いなんてしていない。
でも、そう言われると、自分が何を思っているのかわからなくなる。
◆
夕方近く。
作業は一区切りついて、体育館から教室に戻った。
窓の外は、夕焼けがオレンジに滲んでいる。
「お疲れ様です、雑務班の皆さん」
坂下が、眼鏡を光らせながら言った。
労いの言葉のはずなのに、どこか上から見下ろすような響きがある。
「進捗は予定通り。……ただ、明日は荷物がもっと増える。効率よく動いてくれ」
「堅いこと言うなよ、恒一。みんな頑張ってんだからさ」
風間が割り込んで、坂下の肩を叩いた。
「頑張りと効率は別だ。感情論で進捗は埋まらない」
「まーたそういうこと言う」
風間は笑って、それから僕の方を見た。
「黒瀬もお疲れ。明日もよろしくな」
「……ああ、よろしく」
風間の言葉には、嫌味がない。
ただ純粋に、場を明るくしようとしている。
それが少しだけ眩しくて、少しだけ痛い。
神崎が風間を呼ぶ。
「ちょっと来いよ、配置の相談」
風間は「おう」と返事をして、中央の輪に戻っていった。
坂下も、篠原さんに何か話しかけられて、そちらへ歩いていく。
五人の輪が、また形を取り戻す。
僕は、その輪の外側で荷物をまとめた。
◆
教室で帰り支度をしていると、視界の端に高嶺さんが映った。
篠原さんと一緒に、窓際で何か話している。
ふと、高嶺さんがこちらを見た。
目が合いそうになって、僕は視線を逸らした。
——逸らした瞬間。
脳裏に、何かが灯った。
文字のようなもの。
黒い線で描かれた、見たことのない形。
《記録》——そう読めた気がした。
「——?」
頭を振る。
文字は消えていた。
何も残っていない。
気のせいだ。
疲れているんだ。
昨日の眩暈と同じで、きっと何でもない。
そう思おうとした。
でも、胸の奥に小さな熱が残っている。
説明できない、意味のわからない熱。
◆
帰り支度を終えて、教室を出ようとした。
夕日が窓ガラスに当たって、オレンジ色に光っている。
その光の中に——
何かが、見えた。
紋様。
円と線が組み合わさった、複雑な図形。
窓ガラスの表面に、薄く浮かんでいる。
「……え?」
足が止まる。
目を凝らす。
紋様は確かにそこにあった。
夕日の光を受けて、淡く脈打つように揺れている。
——次の瞬間。
光が、弾けた。
白。
純粋な白が、視界を塗りつぶす。
音が消えて、床の感触が消えて、自分の体がどこにあるのかわからなくなる。
「——っ!」
声を出そうとした。
でも、喉が動かない。
世界が、溶けていく。
最後に見えたのは、教室の天井だった。
蛍光灯の白い光が、どこか遠くで瞬いて——
意識が、途切れた。
一般的に1話で異世界転移が鉄板な気がしますが、2話目でようやくですね。厳密にはまだ行ってませんが。
普段ミステリー等を読んでいるせいか、少し回り道が好きです。ミステリーって序盤はロースタートだなーって思うのですが、そこからの大器晩成な感じが好きで(笑)。1話でも書きましたが、ファンタジーではテンポが悪く感じるかもしれませんね。実際に書き進めていると、まだ先に進まないかって思いながら書いています。




