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病室の静けさ

目が覚めると、白い天井があった。


 知らない天井——ではない。

 昨日から、ずっとここにいる。


 王国の医療施設。

 僕は、ここに入院していた。







 右肩が、重い。


 包帯が巻かれている。

 動かすと、鈍い痛みが走る。

 ヴェリナの爪に切られた傷。深くはなかったけど、筋肉の一部が裂けていた。


 ——数日の療養が必要です。


 医師にそう言われたのは、昨日のことだ。


 ベッドに横たわったまま、窓の外を見る。

 青い空。白い雲。異世界の陽光が、窓枠に四角く切り取られている。

 静かだ。

 戦闘の喧騒が嘘のように、ここには穏やかな時間が流れている。


 消毒液の匂いが、鼻の奥にこびりついていた。

 シーツは清潔で、ベッドは少し硬い。

 枕の高さが合わなくて、首が微妙に疲れる。


 ——生きてる。


 そう実感するたびに、体の力が抜けていく。







 午前中は、ほとんど眠っていた。


 傷の痛みと、蓄積した疲労。

 体が休息を求めていた。

 浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、時間だけが過ぎていく。


 昼過ぎ、扉が開いた。


「黒瀬くん」


 その声で、完全に目が覚めた。


 高嶺さんが、入口に立っていた。

 両手に花を抱えている。白と紫の、見たことのない花だった。


「……高嶺さん」


「起きてた? ごめんね、起こしちゃった?」


「いや、大丈夫。ちょうど起きてた」


 高嶺さんが、ベッドの脇に歩み寄る。

 花瓶を探して、きょろきょろと部屋を見回した。


「あ、これ使っていい?」


「……たぶん」


 窓際に置かれていた空の花瓶に、高嶺さんが花を活けた。

 白と紫の花弁が、陽光に透けて綺麗だった。


「この花、この世界のものなんだって。お見舞いにいいって、シスターさんに教えてもらったの」


「……ありがとう」


 高嶺さんが、椅子を引いて座った。

 僕のベッドの、すぐ隣。

 近い。







「傷、痛い?」


「動かさなければ、そうでもない」


「よかった……」


 高嶺さんの声が、少し震えていた。

 顔を見ると、目が赤い。


「高嶺さん?」


「ごめん……なんでもない。ただ——」


 高嶺さんが、唇を噛んだ。


「昨日から、ずっと心配だったの。黒瀬くんが倒れて、血がたくさん出て……私、何もできなくて」


「高嶺さんのせいじゃない」


「でも——」


「僕が勝手に動いたんだ。シュナイダーさんに情報を伝えようとして」


 高嶺さんが、顔を上げた。

 涙が、目尻に溜まっている。


「それで……みんな助かったんだよ。黒瀬くんが弱点を見つけてくれたから」


「たまたまだよ。《記録》が、勝手に——」


「たまたまじゃない」


 高嶺さんの声が、強くなった。


「黒瀬くんは、ちゃんと見てた。みんなが怖くて動けないときも、ずっと見てた。だから気づけたんでしょ?」


 ——そう、なのかな。


 自分では、よくわからない。

 ただ、《記録》が勝手に働いていただけだ。

 僕の意思とは関係なく、情報を集めていただけ。


「……ありがとう。でも、あまり褒めないでほしい」


「なんで?」


「照れるから」


 高嶺さんが、ぷっと吹き出した。


「なにそれ」


「本当だよ」


 少しだけ、空気が和らいだ。







 高嶺さんが、胸元に手を当てた。

 ペンダントを握りしめている。


「あ、これ——」


 高嶺さんが、ペンダントを外そうとした。


「返すね。お守り、ありがとう」


「……まだ持ってて」


 僕は、そう言った。


 高嶺さんの手が、止まる。


「え?」


「ダンジョンに入る前に貸したんだ。まだ、終わってないだろ」


「でも、黒瀬くんが怪我してるのに——」


「だからこそ」


 僕は、高嶺さんの目を見た。


「僕はしばらく動けない。高嶺さんたちは、これからも戦わないといけない。だったら、お守りは——持ってる人のところにあったほうがいい」


 高嶺さんが、黙った。

 ペンダントを握りしめたまま、俯いている。


「……本当に、いいの?」


「いいよ」


 高嶺さんが、顔を上げた。

 目が、潤んでいる。


「ありがとう……大事にする」


 その手が、ペンダントをぎゅっと握りしめた。

 まるで、何か大切なものを守るみたいに。







 高嶺さんが帰った後、また眠った。


 次に目が覚めたのは、夕方近くだった。


 扉が開く音がして、目を開ける。

 今度は——ミレイユだった。


「ユウ、起きてる?」


 彼女の両手には、籠が抱えられていた。

 布で覆われているけど、中から——いい匂いがする。


「……ミレイユ」


「お見舞いに来たよ。あと、差し入れ」


 ミレイユが、ベッドの脇のテーブルに籠を置いた。

 布を取ると、中には——料理が詰まっていた。


 焼いた肉。蒸した野菜。香草で和えたサラダ。そして、温かいスープ。


「病院の食事、美味しくないでしょ? だから、作ってきたの」


「……これ、全部?」


「もちろん。ユウが好きそうなもの、選んだつもり」


 ミレイユが、にっと笑った。

 その笑顔は、相変わらず眩しい。


「食べられる? 肩、痛いんでしょ?」


「左手は動くから、大丈夫」


「じゃあ、食べて食べて。冷めないうちに」


 ミレイユが、スプーンを差し出してきた。

 僕は受け取って、スープを一口飲んだ。


 ——美味しい。


 病院食の味気なさが、一気に吹き飛んだ。

 温かくて、優しくて、体に染み渡る味。


「……すごい」


「でしょ? 昨日から仕込んでたんだから」


「昨日から?」


「ユウが怪我したって聞いて、すぐに準備始めたの。何が食べたいかわからなかったから、色々作っちゃった」


 ミレイユが、照れくさそうに頬を掻いた。


「食べきれなかったら、残していいからね。明日また持ってくるし」


「……明日も?」


「当たり前でしょ。ユウが退院するまで、毎日来るつもりだよ」


 その言葉が、胸に温かく響いた。







 料理を食べていると、扉がまた開いた。


「あ、黒瀬くん、まだ起きて——」


 高嶺さんだった。

 手に、小さな包みを持っている。


 そして——ミレイユを見て、足が止まった。


「……え?」


 高嶺さんの声が、少しだけ硬くなった。


「あれ、こないだの子だ。澪ちゃん、だっけ?」


 ミレイユが、にこやかに手を振った。

 高嶺さんは、その笑顔を見て——表情が、微かに曇った。


「……お見舞いですか?」


「うん、差し入れ持ってきたの。ユウ、病院食じゃ足りないでしょ?」


「それでこんなに料理を…」


 高嶺さんが、テーブルの上の料理を見た。

 豪華な品々が、並んでいる。

 彼女の手には、小さな包み——たぶん、果物か何か。


 比較するまでもない。


「……私も、何か持ってくればよかった」


 高嶺さんが、小声で呟いた。

 その声には、悔しさが——滲んでいた。







「澪ちゃんも食べる? たくさん作っちゃったから」


 ミレイユが、屈託なく言った。


「……ううん、大丈夫、黒瀬君に少しでも食べて元気になってほしいから」


 高嶺さんが、首を横に振った。

 笑顔を作っているけど、目が——笑っていない。


「そう? 遠慮しなくていいのに」


「遠慮じゃないの。ただ——」


 高嶺さんが、僕を見た。


「黒瀬くん、たくさん食べてね。早く元気になって」


「……ああ、ありがとう」


 高嶺さんは、包みをテーブルの端に置いた。


「これ、果物。この世界のもので、甘くて美味しいんだって」


「ありがとう、嬉しいよ」


「じゃあ……また明日、来るね」


 高嶺さんは、そう言って部屋を出ていった。

 その背中が、少しだけ——寂しそうに見えた。







「……ねえ、ユウ」


「私、負けないから」


「……何に?」


「わかってて聞いてるでしょ」


 ミレイユが、僕の頬を軽くつついた。


「早く元気になってね。また一緒に、料理しよう」


 その笑顔は、やっぱり眩しかった。







 翌日。


 午前中に、シュナイダーが訪れた。


「黒瀬、調子はどうだ」


「……悪くないです」


 シュナイダーは、椅子に座らず、窓際に立った。

 腕を組んで、僕を見下ろしている。

 表情は、相変わらず険しい。


「あの戦闘の報告書を書いた」


「報告書?」


「お前の貢献も、記載してある」


 シュナイダーが、淡々と言った。


「ヴェリナの弱点を発見し、騎士団に伝達。その情報により、撤退が成功した——とな」


「……僕は、ただ見てただけです」


「見ていただけで、弱点を見抜けるものか」


 シュナイダーの目が、僕を射抜いた。


「お前は、観察していた。他の者が恐怖で動けないときも、戦況を把握しようとしていた。それは——才能だ」


「才能……」


「《記録》というスキルが、どこまでの力を持つかはわからん。だが——」


 シュナイダーが、一歩近づいた。


「お前の生き延びる能力は、本物だ。少なくとも、俺はそう思っている」


 その言葉が、胸に重く響いた。


 ——本物。


 ハズレだと言われ続けてきた《記録》、そして以外にも大切な能力を持っていると。

 シュナイダーは認めてくれている。


「……ありがとうございます」


「礼を言うのは、こちらだ。お前のおかげで、俺の部下は全員生還した」


 シュナイダーが、僕の肩——怪我をしていない左肩を、軽く叩いた。


「早く治せ。お前には、まだやることがある」


「やること……」


「英雄聖堂への遠征が決まった。戦乙女の遺産を授かる儀式だ」


 シュナイダーが、窓の外を見た。


「お前が間に合うかどうかはわからんが——覚えておけ」


 その視線の先には、王都の街並みが広がっていた。

 そして、遠くに——古い建物が見える。

 高い尖塔と、石造りの壁。


「あれが、英雄聖堂だ」







 シュナイダーが去った後、僕は窓辺に立った。


 右肩が痛むけど、立つくらいなら問題ない。


 窓から、街を見下ろす。

 王都は、相変わらず賑やかだった。

 市場では人々が行き交い、荷馬車が石畳を走り、子どもたちが路地で遊んでいる。


 ——平和に見える。


 でも、この世界には魔族がいる。

 ヴェリナのような存在が、人間を狩りにくる。


 遠くで、騎士たちが訓練している姿が見えた。

 剣を振り、隊列を組み、号令に従って動いている。

 英雄聖堂への遠征——その準備なのだろうか。


 空を見上げると、鳥が飛んでいた。

 この世界の鳥は、少しだけ色が違う。羽が青みがかっていて、尾が長い。


 ——僕は、この世界で何ができるんだろう。


 《記録》は、まだ使いこなせていない。

 でも、ヴェリナの弱点を見抜けたのは——確かに、このスキルのおかげだ。


 シュナイダーが言った言葉が、頭の中で繰り返される。


 ——お前の生き延びる能力は、本物だ。


 本物、か。

 まだ、自分では実感がない。

 でも——もし、本当にそうなら。


 僕にも、できることがあるのかもしれない。







 夕方、扉がノックされた。


「入るわよ」


 聞き慣れた声。

 九条先生だった。


「先生……」


 九条先生は、いつもと変わらない涼しげな表情で入ってきた。

 白衣ではなく、この世界の服装——動きやすそうな軽鎧と、その上に羽織ったマント。

 見慣れない姿だった。


「怪我の具合はどう?」


「……動かさなければ、大丈夫です」


「そう。よかった」


 九条先生が、椅子に座った。

 足を組んで、僕を見つめる。

 その目は、いつも通り——何も読めない。


「先生、ダンジョンには……」


「ええ、一緒に入れなかったわ」


 九条先生が、淡々と言った。


「私の能力は《指揮官》、騎士団の遠征隊の統括を任されていたの。騎士団の連携調整、補給線の確保、撤退経路の確認……。現場には入れなかった」


「そうだったんですか」


「生徒たちと一緒にいられなくて、歯がゆかったわ。でも、役割分担というものがあるから」


 九条先生が、窓の外を見た。


「シュナイダー団長から報告は受けているわ。あなたが弱点を見つけて、撤退を成功させたって」


「……たまたまです」


「謙遜しなくていいわよ。事実は事実」


 九条先生が、僕を見た。

 その視線が——少しだけ、鋭くなった気がした。


「それで、黒瀬くん。何か気づいたことはある?」


「気づいたこと……」


「戦闘中のこと。何でもいいわ」







 僕は、少し迷った。


 でも——九条先生なら、話してもいいかもしれない。

 担任だし、この世界でも僕たちを守る立場にいる。

 それに、ずっと引っかかっていたことがあった。


「……一つ、おかしいことがありました」


「おかしいこと?」


「あの魔族——ヴェリナ。僕たちのことを、知っていました」


 九条先生の表情が、微かに動いた。

 でも、すぐに元の涼しげな顔に戻る。


「知っていた、というのは?」


「異世界人が訓練ダンジョンに入ることを、知っていたんです。待ち構えていたみたいに現れた」


「……続けて」


「それだけじゃありません。神崎の《聖剣》のことも知っていた。僕の《記録》のことも」


 九条先生の目が、すっと細くなった。


「スキルの名前を、知っていたの?」


「はい。神崎に『《聖剣》か』と言っていました。僕にも、『《記録》か』と。……どこから、その情報を得たんでしょうか」


 沈黙が、落ちた。


 病室の空気が、少しだけ重くなった気がした。







「黒瀬くん」


 九条先生が、静かに言った。


「それは——今、誰にも話すべきではないわ」


「……どういう意味ですか」


「そのままの意味よ」


 九条先生が、椅子から立ち上がった。

 窓際に歩み寄り、外を見下ろす。


「あなたの疑問は、もっともだと思う。でも、今それを口にするのは危険なの」


「危険……」


「情報が漏れているとしたら、誰が漏らしたのか。それを調べるには、時間がかかる」


 九条先生が、振り返った。


「もし犯人がいるなら——あなたが気づいたことを知られれば、標的にされるかもしれない」


「……」


「だから、今は黙っていなさい。私に話したことも、誰にも言わないで」


 九条先生の声は、優しかった。

 まるで、生徒を守ろうとする教師の声。


「……わかりました」


「いい子ね、どうもきな臭くなったきた…もしかするとただ力をつけるだけじゃダメかもしれないわね」


「早く治して、戻ってきなさい。みんな、待ってるわ」


 そう言って、九条先生は病室を出ていった。







 一人になって、僕は天井を見上げた。


 九条先生の言葉が、頭の中で繰り返される。


 ーーどうもきな臭くなったきた…もしかするとただ力をつけるだけじゃダメかもしれないわね。


 先生の言う通り、何かがおかしい。

 首を振って、その考えを追い払った。

 今は、傷を治すことが先だ。

 余計なことを考えても、仕方がない。


 窓の外では、夕日が沈みかけていた。

 オレンジ色の光が、病室を染めている。


 遠くで、騎士たちの訓練の声が聞こえる。

 英雄聖堂への遠征。

 その準備が、着々と進んでいるのだろう。


 僕は——ここで、待つしかない。


 目を閉じる。

 消毒液の匂い。シーツの感触。窓の外の微かな喧騒。


 それらを感じながら、僕はゆっくりと眠りに落ちていった。


 ——窓の外で、準備は着々と進んでいる。


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