病室の静けさ
目が覚めると、白い天井があった。
知らない天井——ではない。
昨日から、ずっとここにいる。
王国の医療施設。
僕は、ここに入院していた。
◆
右肩が、重い。
包帯が巻かれている。
動かすと、鈍い痛みが走る。
ヴェリナの爪に切られた傷。深くはなかったけど、筋肉の一部が裂けていた。
——数日の療養が必要です。
医師にそう言われたのは、昨日のことだ。
ベッドに横たわったまま、窓の外を見る。
青い空。白い雲。異世界の陽光が、窓枠に四角く切り取られている。
静かだ。
戦闘の喧騒が嘘のように、ここには穏やかな時間が流れている。
消毒液の匂いが、鼻の奥にこびりついていた。
シーツは清潔で、ベッドは少し硬い。
枕の高さが合わなくて、首が微妙に疲れる。
——生きてる。
そう実感するたびに、体の力が抜けていく。
◆
午前中は、ほとんど眠っていた。
傷の痛みと、蓄積した疲労。
体が休息を求めていた。
浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、時間だけが過ぎていく。
昼過ぎ、扉が開いた。
「黒瀬くん」
その声で、完全に目が覚めた。
高嶺さんが、入口に立っていた。
両手に花を抱えている。白と紫の、見たことのない花だった。
「……高嶺さん」
「起きてた? ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、大丈夫。ちょうど起きてた」
高嶺さんが、ベッドの脇に歩み寄る。
花瓶を探して、きょろきょろと部屋を見回した。
「あ、これ使っていい?」
「……たぶん」
窓際に置かれていた空の花瓶に、高嶺さんが花を活けた。
白と紫の花弁が、陽光に透けて綺麗だった。
「この花、この世界のものなんだって。お見舞いにいいって、シスターさんに教えてもらったの」
「……ありがとう」
高嶺さんが、椅子を引いて座った。
僕のベッドの、すぐ隣。
近い。
◆
「傷、痛い?」
「動かさなければ、そうでもない」
「よかった……」
高嶺さんの声が、少し震えていた。
顔を見ると、目が赤い。
「高嶺さん?」
「ごめん……なんでもない。ただ——」
高嶺さんが、唇を噛んだ。
「昨日から、ずっと心配だったの。黒瀬くんが倒れて、血がたくさん出て……私、何もできなくて」
「高嶺さんのせいじゃない」
「でも——」
「僕が勝手に動いたんだ。シュナイダーさんに情報を伝えようとして」
高嶺さんが、顔を上げた。
涙が、目尻に溜まっている。
「それで……みんな助かったんだよ。黒瀬くんが弱点を見つけてくれたから」
「たまたまだよ。《記録》が、勝手に——」
「たまたまじゃない」
高嶺さんの声が、強くなった。
「黒瀬くんは、ちゃんと見てた。みんなが怖くて動けないときも、ずっと見てた。だから気づけたんでしょ?」
——そう、なのかな。
自分では、よくわからない。
ただ、《記録》が勝手に働いていただけだ。
僕の意思とは関係なく、情報を集めていただけ。
「……ありがとう。でも、あまり褒めないでほしい」
「なんで?」
「照れるから」
高嶺さんが、ぷっと吹き出した。
「なにそれ」
「本当だよ」
少しだけ、空気が和らいだ。
◆
高嶺さんが、胸元に手を当てた。
ペンダントを握りしめている。
「あ、これ——」
高嶺さんが、ペンダントを外そうとした。
「返すね。お守り、ありがとう」
「……まだ持ってて」
僕は、そう言った。
高嶺さんの手が、止まる。
「え?」
「ダンジョンに入る前に貸したんだ。まだ、終わってないだろ」
「でも、黒瀬くんが怪我してるのに——」
「だからこそ」
僕は、高嶺さんの目を見た。
「僕はしばらく動けない。高嶺さんたちは、これからも戦わないといけない。だったら、お守りは——持ってる人のところにあったほうがいい」
高嶺さんが、黙った。
ペンダントを握りしめたまま、俯いている。
「……本当に、いいの?」
「いいよ」
高嶺さんが、顔を上げた。
目が、潤んでいる。
「ありがとう……大事にする」
その手が、ペンダントをぎゅっと握りしめた。
まるで、何か大切なものを守るみたいに。
◆
高嶺さんが帰った後、また眠った。
次に目が覚めたのは、夕方近くだった。
扉が開く音がして、目を開ける。
今度は——ミレイユだった。
「ユウ、起きてる?」
彼女の両手には、籠が抱えられていた。
布で覆われているけど、中から——いい匂いがする。
「……ミレイユ」
「お見舞いに来たよ。あと、差し入れ」
ミレイユが、ベッドの脇のテーブルに籠を置いた。
布を取ると、中には——料理が詰まっていた。
焼いた肉。蒸した野菜。香草で和えたサラダ。そして、温かいスープ。
「病院の食事、美味しくないでしょ? だから、作ってきたの」
「……これ、全部?」
「もちろん。ユウが好きそうなもの、選んだつもり」
ミレイユが、にっと笑った。
その笑顔は、相変わらず眩しい。
「食べられる? 肩、痛いんでしょ?」
「左手は動くから、大丈夫」
「じゃあ、食べて食べて。冷めないうちに」
ミレイユが、スプーンを差し出してきた。
僕は受け取って、スープを一口飲んだ。
——美味しい。
病院食の味気なさが、一気に吹き飛んだ。
温かくて、優しくて、体に染み渡る味。
「……すごい」
「でしょ? 昨日から仕込んでたんだから」
「昨日から?」
「ユウが怪我したって聞いて、すぐに準備始めたの。何が食べたいかわからなかったから、色々作っちゃった」
ミレイユが、照れくさそうに頬を掻いた。
「食べきれなかったら、残していいからね。明日また持ってくるし」
「……明日も?」
「当たり前でしょ。ユウが退院するまで、毎日来るつもりだよ」
その言葉が、胸に温かく響いた。
◆
料理を食べていると、扉がまた開いた。
「あ、黒瀬くん、まだ起きて——」
高嶺さんだった。
手に、小さな包みを持っている。
そして——ミレイユを見て、足が止まった。
「……え?」
高嶺さんの声が、少しだけ硬くなった。
「あれ、こないだの子だ。澪ちゃん、だっけ?」
ミレイユが、にこやかに手を振った。
高嶺さんは、その笑顔を見て——表情が、微かに曇った。
「……お見舞いですか?」
「うん、差し入れ持ってきたの。ユウ、病院食じゃ足りないでしょ?」
「それでこんなに料理を…」
高嶺さんが、テーブルの上の料理を見た。
豪華な品々が、並んでいる。
彼女の手には、小さな包み——たぶん、果物か何か。
比較するまでもない。
「……私も、何か持ってくればよかった」
高嶺さんが、小声で呟いた。
その声には、悔しさが——滲んでいた。
◆
「澪ちゃんも食べる? たくさん作っちゃったから」
ミレイユが、屈託なく言った。
「……ううん、大丈夫、黒瀬君に少しでも食べて元気になってほしいから」
高嶺さんが、首を横に振った。
笑顔を作っているけど、目が——笑っていない。
「そう? 遠慮しなくていいのに」
「遠慮じゃないの。ただ——」
高嶺さんが、僕を見た。
「黒瀬くん、たくさん食べてね。早く元気になって」
「……ああ、ありがとう」
高嶺さんは、包みをテーブルの端に置いた。
「これ、果物。この世界のもので、甘くて美味しいんだって」
「ありがとう、嬉しいよ」
「じゃあ……また明日、来るね」
高嶺さんは、そう言って部屋を出ていった。
その背中が、少しだけ——寂しそうに見えた。
◆
「……ねえ、ユウ」
「私、負けないから」
「……何に?」
「わかってて聞いてるでしょ」
ミレイユが、僕の頬を軽くつついた。
「早く元気になってね。また一緒に、料理しよう」
その笑顔は、やっぱり眩しかった。
◆
翌日。
午前中に、シュナイダーが訪れた。
「黒瀬、調子はどうだ」
「……悪くないです」
シュナイダーは、椅子に座らず、窓際に立った。
腕を組んで、僕を見下ろしている。
表情は、相変わらず険しい。
「あの戦闘の報告書を書いた」
「報告書?」
「お前の貢献も、記載してある」
シュナイダーが、淡々と言った。
「ヴェリナの弱点を発見し、騎士団に伝達。その情報により、撤退が成功した——とな」
「……僕は、ただ見てただけです」
「見ていただけで、弱点を見抜けるものか」
シュナイダーの目が、僕を射抜いた。
「お前は、観察していた。他の者が恐怖で動けないときも、戦況を把握しようとしていた。それは——才能だ」
「才能……」
「《記録》というスキルが、どこまでの力を持つかはわからん。だが——」
シュナイダーが、一歩近づいた。
「お前の生き延びる能力は、本物だ。少なくとも、俺はそう思っている」
その言葉が、胸に重く響いた。
——本物。
ハズレだと言われ続けてきた《記録》、そして以外にも大切な能力を持っていると。
シュナイダーは認めてくれている。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、こちらだ。お前のおかげで、俺の部下は全員生還した」
シュナイダーが、僕の肩——怪我をしていない左肩を、軽く叩いた。
「早く治せ。お前には、まだやることがある」
「やること……」
「英雄聖堂への遠征が決まった。戦乙女の遺産を授かる儀式だ」
シュナイダーが、窓の外を見た。
「お前が間に合うかどうかはわからんが——覚えておけ」
その視線の先には、王都の街並みが広がっていた。
そして、遠くに——古い建物が見える。
高い尖塔と、石造りの壁。
「あれが、英雄聖堂だ」
◆
シュナイダーが去った後、僕は窓辺に立った。
右肩が痛むけど、立つくらいなら問題ない。
窓から、街を見下ろす。
王都は、相変わらず賑やかだった。
市場では人々が行き交い、荷馬車が石畳を走り、子どもたちが路地で遊んでいる。
——平和に見える。
でも、この世界には魔族がいる。
ヴェリナのような存在が、人間を狩りにくる。
遠くで、騎士たちが訓練している姿が見えた。
剣を振り、隊列を組み、号令に従って動いている。
英雄聖堂への遠征——その準備なのだろうか。
空を見上げると、鳥が飛んでいた。
この世界の鳥は、少しだけ色が違う。羽が青みがかっていて、尾が長い。
——僕は、この世界で何ができるんだろう。
《記録》は、まだ使いこなせていない。
でも、ヴェリナの弱点を見抜けたのは——確かに、このスキルのおかげだ。
シュナイダーが言った言葉が、頭の中で繰り返される。
——お前の生き延びる能力は、本物だ。
本物、か。
まだ、自分では実感がない。
でも——もし、本当にそうなら。
僕にも、できることがあるのかもしれない。
◆
夕方、扉がノックされた。
「入るわよ」
聞き慣れた声。
九条先生だった。
「先生……」
九条先生は、いつもと変わらない涼しげな表情で入ってきた。
白衣ではなく、この世界の服装——動きやすそうな軽鎧と、その上に羽織ったマント。
見慣れない姿だった。
「怪我の具合はどう?」
「……動かさなければ、大丈夫です」
「そう。よかった」
九条先生が、椅子に座った。
足を組んで、僕を見つめる。
その目は、いつも通り——何も読めない。
「先生、ダンジョンには……」
「ええ、一緒に入れなかったわ」
九条先生が、淡々と言った。
「私の能力は《指揮官》、騎士団の遠征隊の統括を任されていたの。騎士団の連携調整、補給線の確保、撤退経路の確認……。現場には入れなかった」
「そうだったんですか」
「生徒たちと一緒にいられなくて、歯がゆかったわ。でも、役割分担というものがあるから」
九条先生が、窓の外を見た。
「シュナイダー団長から報告は受けているわ。あなたが弱点を見つけて、撤退を成功させたって」
「……たまたまです」
「謙遜しなくていいわよ。事実は事実」
九条先生が、僕を見た。
その視線が——少しだけ、鋭くなった気がした。
「それで、黒瀬くん。何か気づいたことはある?」
「気づいたこと……」
「戦闘中のこと。何でもいいわ」
◆
僕は、少し迷った。
でも——九条先生なら、話してもいいかもしれない。
担任だし、この世界でも僕たちを守る立場にいる。
それに、ずっと引っかかっていたことがあった。
「……一つ、おかしいことがありました」
「おかしいこと?」
「あの魔族——ヴェリナ。僕たちのことを、知っていました」
九条先生の表情が、微かに動いた。
でも、すぐに元の涼しげな顔に戻る。
「知っていた、というのは?」
「異世界人が訓練ダンジョンに入ることを、知っていたんです。待ち構えていたみたいに現れた」
「……続けて」
「それだけじゃありません。神崎の《聖剣》のことも知っていた。僕の《記録》のことも」
九条先生の目が、すっと細くなった。
「スキルの名前を、知っていたの?」
「はい。神崎に『《聖剣》か』と言っていました。僕にも、『《記録》か』と。……どこから、その情報を得たんでしょうか」
沈黙が、落ちた。
病室の空気が、少しだけ重くなった気がした。
◆
「黒瀬くん」
九条先生が、静かに言った。
「それは——今、誰にも話すべきではないわ」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味よ」
九条先生が、椅子から立ち上がった。
窓際に歩み寄り、外を見下ろす。
「あなたの疑問は、もっともだと思う。でも、今それを口にするのは危険なの」
「危険……」
「情報が漏れているとしたら、誰が漏らしたのか。それを調べるには、時間がかかる」
九条先生が、振り返った。
「もし犯人がいるなら——あなたが気づいたことを知られれば、標的にされるかもしれない」
「……」
「だから、今は黙っていなさい。私に話したことも、誰にも言わないで」
九条先生の声は、優しかった。
まるで、生徒を守ろうとする教師の声。
「……わかりました」
「いい子ね、どうもきな臭くなったきた…もしかするとただ力をつけるだけじゃダメかもしれないわね」
「早く治して、戻ってきなさい。みんな、待ってるわ」
そう言って、九条先生は病室を出ていった。
◆
一人になって、僕は天井を見上げた。
九条先生の言葉が、頭の中で繰り返される。
ーーどうもきな臭くなったきた…もしかするとただ力をつけるだけじゃダメかもしれないわね。
先生の言う通り、何かがおかしい。
首を振って、その考えを追い払った。
今は、傷を治すことが先だ。
余計なことを考えても、仕方がない。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
オレンジ色の光が、病室を染めている。
遠くで、騎士たちの訓練の声が聞こえる。
英雄聖堂への遠征。
その準備が、着々と進んでいるのだろう。
僕は——ここで、待つしかない。
目を閉じる。
消毒液の匂い。シーツの感触。窓の外の微かな喧騒。
それらを感じながら、僕はゆっくりと眠りに落ちていった。
——窓の外で、準備は着々と進んでいる。




