空気になる日
朝の校門は、いつも同じ匂いがする。
制服の化繊が雨上がりの湿気を抱いて、靴底に残った砂が擦れて、誰かの整髪料が甘く漂う。
それらが混ざると、ここが「学校」だと脳が勝手に理解する。
黒瀬ユウは、いつものように人波の端を歩いた。
目立つ色のない自分は、流れのなかに溶けるほうが楽だ。ぶつからないように速度を合わせ、視線を合わせないようにして、呼吸のリズムだけを整える。
昇降口の鏡に、制服の襟が少しだけ歪んで映った。
直すほどでもない。直したところで誰も見ない。
そう思う自分が、少しだけ嫌だった。
教室の扉を開けると、蛍光灯の白が目に刺さる。
湿ったチョークの粉と、机の木の古い匂い。空気清浄機は頑張っているけど、教室は人の熱でどうしても濁る。
「おはよー!」「うぃーす」
声の大きい挨拶が飛び、笑いが返る。
ユウはその輪から一歩ずれた場所で、小さく頭を下げた。誰にも向けない挨拶。空気に混ぜる挨拶。
自分の席は窓際の後ろから二番目。
窓の外は、灰色の空が薄く明るい。雨雲がどこかでまだ粘っている。
机の天板には、誰かが残した細い傷がある。
指でなぞると、皮膚が微かに引っかかって、痛いほどではないのに「ここに傷がある」とわかる。
ユウはいつも、その傷から目を逸らす。
教室には表示されることのない序列がある。
でも“全員”が上から下まで一直線に並ぶわけじゃない。
中心にいる数人が、空気を決める。
ユウは自分の席で、それを眺めていた。
眺めているだけのはずなのに、視線の温度差が肌に刺さる。
そのとき、視界に高嶺さんが入った。
高嶺 澪。明るくて、丁寧で、誰にでも感じがいい。
黒い綺麗な髪が背中まで伸びていて、凛としているのに可愛い雰囲気も併せて学校中でも人気が高い。
そして上位の輪にいるのに、輪の外の人間にも目が届く。
だからこそ、彼女がどこを向くかで空気が変わる。
高嶺さんは友達と話しながら、ふいにこちらを見た。
視線が合いかけて、ユウは反射的に窓の外へ逃げた。
それで終わるはずだった。
「黒瀬くん、おはよう」
--ふと声をかけられた
声が、近い。
ユウは固まった。
呼ばれる名前は、自分を教室の外側から内側へ引きずり込む。
「……おはよう。えっと、どうした?」
ユウの返事は小さいけれど、言葉にはした。
高嶺さんは気にせず、ぱっと自分の襟元を指さした。
「制服の襟、ちょっと折れて——」
言い終わる前に、高嶺さんの指が動いた。
反射みたいに、サッと。
ユウの襟元をひと撫でして、折れ目を戻す。
「……はい。これで大丈夫」
高嶺さんは何事もなかったみたいに笑う。
ユウは一拍遅れて、自分の襟に触れた。確かに、直っている。
「……今の、え、いや……」
言葉が喉でつっかえる。
触れられた感覚が、後から追いついてきて、頬が熱くなる。
「ごめん、勝手に触っちゃった。つい、気になって」
「いや……その、ありがとう。……びっくりしただけ」
ユウがそう言うと、高嶺さんは少し安心したみたいに笑った。
「よかった。ほんと、ちょっとだけだったし」
高嶺さんはくすっと笑った。
「そういえば、こないだ黒瀬くんが学校で読んでた小説、私も読んでみたよ。ほら魔術師の家系に生まれた主人公が、学園で--」
「え…あれ読んだの?」
高嶺さんは誰とでも分け隔てなく話してくれる。
だから以前、休み時間にラノベを読んでいた時に、それ面白いの?と聞かれたので、最近はまっているからおススメだよと伝えたが、まさかホントに読むとは…。
たくさんの可愛い女の子のキャラが出てきて、ちょっとあれなシーンもあるから、話をするには恥ずかしい。
「うん、1巻しか読めてないけどすごく面白かったよ!この続きの話をしたいんだけど…」
「澪は優しいな、黒瀬の趣味に付き合ってあげているのか?」
僕と高嶺さんの間に入るように、神崎 玲央が話かけてきた。
見た目が爽やかで勉強・スポーツのできる優等生、クラスのリーダー的存在のなので、かなり目立つ。
間違った事は嫌いで、基本的に善人だが、思い込みが少し強いなと思う。
高嶺さんと話していると、時々こうして話しかけてくる。
「普通にお話をしていただけだよ、共通の趣味ができそうだったから」
「そうなのか?無理して趣味を合わせる必要はないぞ。黒瀬も澪に気をつかわせるなよ」
気を使わせているつもりはなかったが、高嶺さんがクラスに馴染めていない僕に気を使ってくれているのも確かにわかる。
いつも優しく話しかけてくれる、楽しそうに笑ってくれる、でもきっと、無意識かもしれないがこのクラスと明るくしたいんだと感じる。
「せっかく…話題ができそうだったのに…」
高嶺さんが何か小声で言っていた気がするが、よく聞き取る事ができなかった。
「玲央、その言い方はないでしょ」
背後から神崎に対して、注意するように高嶺さんの親友、篠原 由依が割り込む。
常識人でだれに対しても誠実な人間だ。僕みたいな端っこにいる人間にもフォローをかかさない。
また凛とした美人である事もあり、おそらく男女全員が嫌っている人はいないだろうと思わせる人物だ。
「澪の事になると周りが見えなくなるよね、玲央って。そうやって黒瀬君に絡むのはやめなよ」
「いや…絡んでいるつもりは、澪が困らないようにだな――」
篠原さんは少しお説教モードのようだ、僕は今のうちにこの場を退避する事にした。
◆
4限目のチャイムが鳴る。
電子音が、教室の空気を切って、「開始」を押しつける。
担任の九条 まこと(くじょう まこと)が入ってきて、いつも通り淡々と授業が始まった。
出席確認と小テストの回収。連絡事項
相変わらず手際のよい先生だ。麗人でなんでも宝塚出身だとか、ホントなのかは知らないが。
この先生は生徒一人一人をしっかり見ている、というか見落とさない感じを受ける。
何かされた訳ではないが、目立ちたくない自分からすると少し苦手だ。
授業の終わり、連絡事項が読み上げられる。
「文化祭の準備、今日の放課後から本格的に入る。班長は前へ」
ざわり、と音が増えた。
「文化祭」という言葉だけで、教室の中心が嬉しそうに揺れる。
神崎が立ち上がり、前に出る。
動きに迷いがない。もう“班長”が決まっていたみたいに。
九条が淡々と告げる。
「神崎。仕切りは任せる。……ただ、負担が偏ったら止める。以上」
クールな声。
なのに、守る宣言だった。
神崎は軽く頷き、笑顔でクラスに向き直った。
「じゃ、放課後な。全体の進み見て、役割振る。……無理そうなやつは言ってくれよ」
“無理そうなやつ”に、自分が含まれている気がした。
含まれていない気もした。
授業はいつも通り進み、昼休みが来る。
弁当の蓋が開く音。購買のパン袋が擦れる音。
ユウは席でひとり、コンビニのおにぎりを食べた。
プリントの束を机の隅に寄せたとき、影が落ちる。
「黒瀬くん、これ。さっき配ってたプリント、名前書く欄あるよ」
高嶺さんが、指先で端をトントンと叩く。
僕は見て、息を吐いた。
「……助かった。完全に見落としてた」
「あるある。提出のとき名前ないと戻ってくるやつ」
高嶺さんはくすっと笑って、それから少しだけ後ろを振り返った。
離れたところで、篠原さんが友達に囲まれて手を振っている。
「……あ、これ」
高嶺さんが紙パックのジュースを一つ、机の上に置いた。
「新作のジュースで由依と一緒に飲もう思って買ったら、今日は牛乳を飲むって。よかったら黒瀬くん飲む?」
そういえば篠原さんはよく牛乳を飲んでいる気がする。高校になってからは飲む人が少なく、目立つので覚えてる。
ユウは一拍迷ってから、手を伸ばした。冷たい紙の感触が指先に伝わる。
「……飲む。ありがとう」
「よかった。一人じゃ飲みきれなかったし」
周りの視線が一瞬だけ集まって、すぐに散る。
散り方がいやに整っていて、逆に刺さる。
「……ほんと助かった。高嶺さん」
「どういたしまして。じゃ、名前だけ書いといてね」
高嶺さんは軽く手を振って戻っていった。
ふと神崎の目線を感じた。篠原さんに先ほど説教をされたからか、直接は話かけてこないが何か言いたそうな雰囲気を少し感じ取れた。
午後の授業が終わり、放課後。
空が少しだけ暗い。校舎の廊下は蛍光灯が点いて、白い影が床に伸びる。
「よし、準備な。班ごとに集まれー」
神崎の声が響く。
人が動き、椅子が擦れ、机が押される。
ユウはその波のなかで、壁際に寄った。
教室の外へ出ようとした、その瞬間。
廊下の角で、光が「滲んだ」。
蛍光灯の白が、焦点の合わない写真みたいにぼやけて、輪郭だけがゆっくり広がる。
眩しいというより、距離感が狂う。
世界が半歩だけ近づいてくるような、変な感覚。
「——?」
足が止まる。
耳鳴りがして、廊下の音が一瞬だけ遠くなる。
次の瞬間、滲みは消えた。
蛍光灯は蛍光灯のまま、床は床のまま、人の声も戻ってくる。
「黒瀬くん? 大丈夫?」
声が近い。
振り向くと、高嶺さんだった。
「顔、ちょっと青いよ」
高嶺さんが覗き込む。
ユウは深呼吸して、言葉にした。
「……さっき、一瞬だけ眩暈みたいなのが来た。たぶん、立ちっぱなしのせいだから。ちょっとだけ休めば平気」
「ほんと? 無理しないでね。しんどかったら、ちゃんと言って」
「うん。……ありがと」
ユウは空気に戻ろうとした。
——けれど、胸の奥のどこかに、白い熱だけが残っていた。
長編になる予定です。3話までは本日更新します。
その後は物語が一区切りつくまで、1話を1~2日で更新します。
物語の流れを少し丁寧にしたいので、若干テンポが悪いかもしれませんが、徐々に引き込まれる形に仕上げたいと思っていますの、お付き合い頂けたらと思います。
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