第2章 呼び声
二日後――
月曜日の午後、空は今にも雨を降らせそうな鈍い色をしていた。
校庭では、カナとミユが葵の隣を歩きながら、ひとつのキャンディ袋を分け合っていた。
「ねぇ、今日もカラオケ行かない?」カナが期待に満ちた笑みで言った。
「今度こそ二曲歌うって約束したでしょ?」
「プレイリスト、もう準備してあるよ!」ミユがスマホを魔法の剣のように取り出す。
「『スターライト・パンチ』は葵の番だからね!」
葵は笑顔を見せたが、視線はふと下へ落ちた。
「ごめん、今日はちょっと……別のことがあるの。」
「別のこと?」カナが首をかしげた。「何それ?」
「えっと……前にやり残したこと。ちょっと複雑で……ごめん。」葵は目をそらした。
ミユが頬を膨らませ、わざとらしく拗ねる。
「もしかして、私たちより大事な“秘密クラブ”でもできたの?」
「違うよ。」葵は笑いながら答えたが、胸の奥が少し痛んだ。
「本当にごめん。明日、行こう?」
カナはしばらく葵の顔を見つめてから、ため息をついた。
「まぁ……いいけど、歌一曲は貸しね。」
「二曲でしょ。」ミユが指を突き出す。
「約束する。」葵は手を挙げ、まるで誓いを立てるように言った。
三人は軽く手を振って別れた。人の波に紛れていく二人を見送りながら、葵は一人、校門の外で立ち尽くした。
周りには笑い声と喧騒。
でも葵の視線は、自分のリュックに落ちた。
何を探しているのか――彼女は、分かっていた。
小さなポケットを開けると、くしゃくしゃになったカードが出てきた。
数字が手書きで、湿った土曜日のせいで少し滲んでいる。
その紙を指先でつまみ、しばらく見つめた。
――もし出なかったら?
――もし後悔したら?
――もし、私が期待外れだったら……?
深呼吸をした。
携帯を取り出し、番号を押す。
指が震えていた。
一回。二回。三回。
切ろうとしたその時――
「もしもし?」
若く、落ち着いた声。だがどこか急いでいる響き。
葵はびくりと肩を震わせ、携帯を落としそうになった。
「あっ! えっと……はい。ブロックウェーブさんですよね? 私です。シフティ。あの日の――」
少しの沈黙。
「ああ! 覚えてるよ、シフティ!」声が明るくなる。「いい名前だね、自分で決めたの?」
「はい……ありがとうございます。」葵は顔が熱くなるのを感じた。
「それで……俺の提案、考えてくれた?」
葵は唇を結び、目を閉じた。
そして、ためらいなく言った。
「はい。……参加したいです。」
向こうで一瞬の静寂――それから、
「いいね!」
葵は小さく叫び出しそうになるのをこらえ、笑みを浮かべた。
「今はちょっと忙しいけど、あとで場所を教えるよ……」
その瞬間、電話の向こうから怒鳴り声と金属音が響いた。
「こいつも違ぇなッ!」
――ガシャン!
低い笑い声が続く。
葵は驚いて携帯を少し離した。
「ははっ……ブルワークだ。」ブロックウェーブが苦笑する。
「今、俺たち“自称・不死身”のバカを相手にしてる。」
また「ガンッ!」という音。そして、
「ハハハハ!」という不気味な笑い。
「あとで連絡するよ。場所を送るから、少し訓練しよう。それに……君がどう役立てるか、見たい。」
「はい。……ありがとうございます。すぐ行きます。」
「じゃあ、またな、シフティ。」
通話が切れた。
葵は携帯を見つめたまま、まるで別の世界と繋がったような気がした。
――もしかしたら、本当にそうだったのかもしれない。
彼女は「はい」と言った。
通話が切れたあと、葵はしばらく立ち尽くしていた。
指先が少し震えている。
胸の奥が熱くて、息がうまく整わない。
――「場所を送る」って、どこ?
携帯の画面を見つめていると、すぐに通知が届いた。
《TOKYO BAY WAREHOUSE No.17》
《22:30》
たったそれだけ。
でも、その数字の並びが、心臓の奥で鳴り響いた。
「……夜の十時半。」
つぶやいた声は、小さく、でも確かに震えていた。
葵は携帯を握りしめ、家へ向かった。
夜。
葵の部屋には、小さなデスクライトだけが灯っていた。
ノートの上に散らばる宿題、空のマグカップ、そして――あのカード。
制服の上着をベッドに置き、葵はクローゼットを開けた。
奥にある、古いダッフルバッグを引き出す。
中には、スニーカー、黒いジャケット、薄手の手袋。
それから、小さなメタル製のゴーグル。
「……これでいい。」
鏡の前に立ち、髪を後ろで結ぶ。
制服の彼女は、もうどこにもいなかった。
葵はリュックを背負い、そっと部屋を出た。
階段を下りる途中、リビングからテレビの音が漏れてくる。
『――次のニュースです。港区でまた“覚醒体”と呼ばれる――』
一瞬、足が止まった。
心臓がドクンと鳴る。
“覚醒体”――目覚めの教団が作り出した怪物たち。
葵は無言で玄関に向かった。
靴を履き、ドアノブに手をかける。
すると、背後から母の声がした。
「葵? こんな時間にどこ行くの?」
葵は振り返り、笑顔を作った。
「ちょっと……友達と勉強するの。明日のテストの準備。」
母は少し眉をひそめたが、やがてため息をついた。
「夜は冷えるから、上着をちゃんと着ていきなさいね。」
「うん。ありがとう。」
ドアが閉まる音がした。
静かな夜風が、頬を撫でる。
街の灯りが、遠くで瞬いている。
――葵は歩き出した。
自分の選んだ道へ。
“見えない少女”のまま。
しばらく歩いたあと、湾岸線の高架を抜け、港の倉庫街へ。
人影のない場所、錆びたフェンス、風の音。
No.17の看板が見えた。
葵は立ち止まり、息を整えた。
その瞬間――
「……おそかったな、シフティ。」
低く、どこか優しい声が闇の中から響いた。
照明の切れた倉庫の前。
影の中から、ブロックウェーブが現れた。
黒いパーカーの上に、傷だらけのボディアーマー。
腕には青いラインが光っている。
「道、迷ったか?」
葵は首を横に振る。
「いいえ。ただ……来るのに、少し勇気が必要でした。」
ブロックウェーブは笑った。
「いい返事だ。怖くないやつほど、危ないからな。」
彼の後ろには、二つの影。
一人は大きな体格で、背中に金属製の盾を背負っている――ブルワーク。
もう一人は小柄で、フードを深くかぶり、目元が光る――ハルト。
「チームの半分だ。」ブロックウェーブが言う。
「残りは後で紹介する。……今夜は、ちょっとした試験だ。」
「試験?」葵が問う。
「そうだ。」ブルワークが腕を組んだ。
「“ヒーローごっこ”がしたいだけなら、今のうちに帰るんだな。」
葵は一瞬だけ拳を握りしめ、視線を上げた。
「……ごっこじゃない。守りたいんです。誰かを。」
三人の視線が、彼女に向く。
数秒の沈黙。
やがて、ブロックウェーブがニヤリと笑った。
「よし。なら、ついて来い――“シフティ”。」
倉庫街の奥、No.17の裏通り。
風が止み、遠くの波の音だけが響いていた。
「ターゲットはこの先だ。」
ブロックウェーブが小さなホログラムを投影した。
青い光の中に、廃ビルの立体図が浮かぶ。
「“覚醒教団”の取引現場。俺たちは見張りの排除と内部の確認だけだ。」
「内部?」葵が聞き返す。
「そう。今日は戦う日じゃない。……けど、逃げる準備はしておけ。」
ブロックウェーブの声には、いつもの軽さがなかった。
ブルワークが盾を背負い直しながら低く言う。
「中には最低でも二人の“変異体”がいるはずだ。気を抜くな。」
葵は小さく息を呑んだ。
足が震えている。
それでも――止まらなかった。
「行くぞ。」
彼らは暗い路地を抜け、壊れたフェンスの隙間から内部へ侵入した。
錆びた鉄の匂い。
床に散らばるガラス片。
どこかで水滴が落ちる音。
ブロックウェーブが手を上げた。
「シフティ、あの角を確認してくれ。カメラが壊れてる。」
葵は頷き、呼吸を整えた。
壁に手を触れ――集中する。
感覚が変わる。
空気と一体化するように、肌の色が薄れていく。
やがて、姿が完全に消えた。
“透明”になった彼女は、静かに前へ進む。
足音も、呼吸も、ほとんどない。
角を曲がると、二人の男が立っていた。
黒いコート、無線機。
どちらも教団の下っ端に見える。
葵は壁に体を寄せ、ポケットから小型カメラを取り出して撮影した。
一枚、二枚。
だが――その瞬間。
「……誰だ?」
男の一人が振り返った。
視線がまっすぐ、葵のほうを向く。
“バレた――!?”
咄嗟に体を動かすが、男の手がすでに懐へ。
銃が光る。
パンッ!
乾いた音が倉庫に響いた。
弾丸が葵の肩をかすめ、壁に突き刺さる。
「侵入者だッ!!」
叫びと同時に、警報が鳴り響いた。
赤い光が天井に点滅する。
「チッ、やられたな!」ブロックウェーブが駆け出した。
「シフティ、下がれ!」
だが葵は動かなかった。
痛みよりも、恐怖よりも、もっと強いものが心の中で燃えていた。
――もう、逃げない。
彼女は壁の影に飛び込み、カメラを握りしめた。
「敵は二人。銃を持ってます!」
その声を合図に、ブロックウェーブのバリアが弾丸をはじき返す。
青い衝撃波が広がり、男たちが吹き飛んだ。
「ナイス報告だ、シフティ!」彼が叫ぶ。
「そのまま後方をカバーしてろ!」
葵は息を整え、立ち上がる。
肩の痛みが走るが、意識を集中させる。
透明化、再び。
廊下の奥から、何かが動いた。
大きい。
人の形をしているが――違う。
皮膚が灰色に変色し、両腕が異常に長い。
瞳が血のように赤く光っている。
「変異体……!」葵がつぶやく。
ブルワークが前に出て盾を構える。
「後ろに下がれ!」
怪物が咆哮を上げ、金属を砕く腕で突進してくる。
盾と拳がぶつかり、火花が散った。
ブロックウェーブがバリアを展開し、ブルワークが押し返す。
だが、怪物の力はそれを上回っていた。
「押されてる!」
葵は震える手で周囲を見た。
倒れた鉄骨、チェーン、ライトのケーブル――。
――これだ。
彼女は姿を消し、静かに背後へ回り込んだ。
ケーブルを引き、床の油に火花が落ちる。
バチッ――!
電流が走り、怪物が咆哮を上げて倒れた。
ブルワークがその隙に盾で頭を叩きつける。
「……やったな。」
煙の中で、ブロックウェーブが息をつきながら笑った。
「初任務でこれか。大したもんだよ、シフティ。」
葵は肩を押さえながら、かすかに微笑んだ。
「まだ、終わってません……奥にもう一体います。」
その言葉に、三人の表情が一瞬で変わった。
闇の奥から、冷たい声が響く。
「――なるほど。噂の“見えない少女”か。」
金属の床を踏みしめる足音。
音の主は、ゆっくりと姿を現した。
黒いローブ、仮面の下から覗く金の瞳。
その手に握られた槍が、淡く光を放つ。
「教団の……幹部クラス!?」
ブロックウェーブが構えを取る。
「全員、戦闘態勢!」
葵は拳を握りしめた。
心臓の鼓動が早くなる。
恐怖と興奮が混じる――でも、逃げなかった。
自分がここにいる理由を、やっと見つけたから。
鉄の床に、冷たい槍の穂先が落ちた。
キィン、と耳を裂くような音が響く。
「……お前たちが、“無許可ヒーロー”か。」
低く、歪んだ声。仮面の男が口元をわずかに歪めた。
「教団の実験を壊すとは――いい度胸だな。」
「教団?」ブロックウェーブが睨みつける。
「お前らの“実験”で、どれだけ人が死んでると思ってる。」
「死?」男は首を傾けた。
「犠牲なくして進化はない。愚かな人間どもが、“力”を望んだ結果だ。」
葵の背中を冷たい汗が流れる。
――この人、本気で信じてる。
ブルワークが盾を構え、一歩前へ出た。
「話は終わりだ。行くぞ。」
仮面の男は笑った。
「よかろう。実験体には、ちょうどいい。」
次の瞬間、空気が震えた。
男の手から放たれた槍が、まるで生き物のように伸び、
壁を貫いた。
ブロックウェーブのバリアが弾き返す。
だが、衝撃で床が割れた。
「くっ……この出力……!」
ブルワークが前に出て盾で受け止める。
金属と金属がぶつかる音。
火花が雨のように降り注ぐ。
葵は壁際に身を隠しながら、
手の中のスカーフをぎゅっと握った。
――見えないままじゃ、守れない。
彼女は透明化を解き、男の背後へと回り込む。
体の震えを抑え、息を止めた。
(今だ――!)
拾った鉄棒を、全力で振り下ろした。
ガンッ!!
だが、男は振り返らずに片手で受け止めた。
「……面白い。」
次の瞬間、衝撃波が走る。
葵の体が吹き飛び、壁に叩きつけられた。
「シフティ!!」
ブロックウェーブが駆け寄ろうとするが、
槍の穂先がそれを阻む。
「お前の“力”……透明化、か。」
男はゆっくりと近づきながら言った。
「だが、見えぬものも、“影”は残る。」
床に伸びた葵の影を、槍が突き刺す。
痛みが全身を走る。
「う、ああああっ!」
「やめろッ!!」ブロックウェーブが叫ぶ。
青い障壁が爆発的に広がり、葵を包み込んだ。
光が弾け、煙が上がる。
煙の中から現れたブロックウェーブの目は、
これまでにないほど鋭かった。
「……やりすぎたな。」
男が笑う間もなく、
バリアの衝撃波が彼の胸を直撃した。
槍が砕け、仮面が割れ、
男が壁ごと吹き飛ばされる。
ブルワークが盾を構え、息を吐いた。
「終わりだ。」
男は崩れ落ちながらも、
不気味な笑みを残していた。
「……始まりにすぎん。“目覚め”は……すぐそこだ……」
その言葉とともに、体が黒い霧となって消えた。
静寂。
壊れた工場の中に、雨音だけが響く。
葵は息を整え、
痛みを堪えながらゆっくりと立ち上がった。
「……勝った、んですか?」
ブロックウェーブが頷き、微笑んだ。
「そうだ。だが――まだほんの序章だ。」
ブルワークが肩をすくめる。
「よくやったな、新入り。」
葵は少し笑い、空を見上げた。
雨が、静かに降り始めていた。
――透明な少女は、もう透明じゃない。
【エピローグ:雨のあと】
夜明け前。
廃工場の屋根に立つ三つの影。
「……あの娘、やるじゃねえか。」ブルワークが呟く。
「初陣であれは上等だ。」
ブロックウェーブは黙って遠くを見ていた。
彼の視線の先――
街の灯りがゆっくりと消え、朝が始まろうとしている。
「俺たちは、“見えないもの”を守る。」
その言葉に、葵は微かに微笑んだ。
心の奥に、確かな熱が残っていた。
第2章・完




