天秤が右腕を上げるとき
秋山は、昼に起きてから食事も取らず、物思いにふけていた。
普段から人生を省みることは多かったが、今日は特別に長い。
その姿は座禅を組む修行僧のようであり、捨てられて飼い主を待つ、無力な子犬のようでもあった。
ようやく目を開けた頃には、日が斜めに差し、天秤が鈍く光っていた。
ちょうど1年前。
その天秤は、秋山が35歳を迎えた夏に酒場のカウンターで見つけて、気のいい店主が譲ってくれたものだった。
はじめこそ毎日のように手入れをし、その金の体は全てを映すほど輝いていたが、今では埃をかぶり、輝きは曇り、まるで別物になっていた。
これは、秋山が自ら天秤を避けた結果に他ならない。
今日、頭を悩ませていたのもそれだった。
天秤には損得がわかる。
秋山の心に選択が生じるたび、ひとりでに揺れ、片腕を掲げる。
それに気付いたのは、貰ってすぐのときだった。
ある日、変わり映えのない人生に辟易し、一発、クジでも当ててみようと考えた。
ふと目をやると、天秤が右腕を掲げていることに気付いた。
天秤の皿に、何かを乗せたことは一度もない。
奇妙なこともあるものだと思い、まっすぐに直して出かけたが、その日は特別ツイていた。
天秤は、出かけるたびに片腕を上げた。
そして一週間も経たないうちに、得をする時には右腕が上がり、損をする時には左腕が上がることを直感する。
いつしか天秤で運勢をはかるようになり、一時間に一度は天秤に目をやる人生になった。
こうして働かずに過ごすのも、天秤に従い、クジで大金を引き当てたからに他ならない。
天秤に、髭面が鈍く映る。
「お前を信じれば、俺は損をしないし、得をする...」
天秤が揺れる。
右腕を上げて、ぴたりと止まった。
ため息をついて、天秤を手に取る。
この天秤に従って、たしかに得をしてきた。
余計な物を買って捨てることはなくなったし、クジをハズしてこぶしを痛めることもなくなった。
しかし、天秤の輝きが日に日に褪せていくように感じていた。
ため息をついて、天秤を置く。
横には家族の写真がある。
久しぶりに会ってみようか。
天秤が揺れ、左腕を上げた。
「...いつもそうだ」
人に会おうとすると、天秤は決まって左腕を上げた。
秋山はそれを見て、ある時は誘いを断り、ある時は自ら誘うのをやめた。
ここ数か月、電話を鳴らす者はいない。
「手放すべきか...?」
天秤が始めるが、秋山は大きく息を吸ってから、見なくてもわかるというふうに背を向け、埃まみれの床で横になった。
肩越しに見ると、天秤が左腕を掲げている。
心に溜まった息をゆっくり吐き出すと、弾けたように立ち上がった。
「いや、今日こそは手放そう」
勢いのまま手に取った天秤を、指で拭う。
天秤が、鏡よりきれいに顔を映した。
「貰い物だから、売ったり捨てたりはできない。テキトーに理由を付けて、返してしまおう。」
風呂に入り、髭を剃り、伸びた髪を整える。
濡らしたハンカチで天秤を拭く。
この1年で秋山が身につけたことといえば、天秤を拭く技術だけだった。
もう一度天秤を眺め、慎重に鞄へ入れると、久しぶりに外へ出た。
「いつぶりだろう」
閉まる扉の音を聞くこともなく、足早に駅を目指した。
決意が鈍る前に電車に乗ってしまおうと、勢い任せに歩を進める。
駅の周りは羽が降るように静かで、踏切の音がなければ人の存在さえ疑うほどだった。
いくつもの電車が、この寂れた無人駅を無視していく。
3本目の電車が止まった。
秋山のために止まったわけではないが、彼は不思議と安堵した。
店主はどう思うだろうか、それだけを考えながら、ふた駅分揺られた。
しばらくして車内に駅名が響き、体がビクっ、と震えた。
いっそ聞き逃したことにしようかと思ったが、今日は二度とこないと奮い立ち、引きずるように電車を降りた。
駅を出て、灰色の道を進む。
次第に足取りが重くなり、ついには泥のようになっていた。
酒場の手前で、深く呼吸をする。
ドアのガラスから漏れる明かりが、やけにまぶしく感じた。
木製の扉は前より重く、開けるとチリン... と、音が鳴る。
「まいどまいど〜。久しぶりやなぁ秋山くん。元気しとった?」
秋山は目を合わせることができず、鞄の置き場を探すふりをした。
「おかげさまで。中村さんは、どうでした?」
「見ての通り、ぼちぼちです〜。久しぶりに会えて、嬉しいで!」
「俺もです」
一瞬、春の森に迷い込んだような気分だったが、カウンターに着いて鞄を置くと、その重みが金属のような現実に引き戻した。
こっそりと天秤を置いて帰ろうか、そんな選ぶはずもない選択肢が浮かび上がるほど、心には重たい水が溜まっていた。
毎週のように座った椅子だったが、今日は体に合わないようで、何度も座り直す。
「さて、いかが、いたしましょう?」
秋山の心は、心臓が消し飛ぶほどの、爆弾のような酒を求めていた。
罪が霞むまで酒を飲み、勢いに任せて切り出したいと考えていた。
しかし、秋山が中村と飲む酒は、いつも決まっていた。
「瓶ビールを2つ、お願いします...」
慌てて一言付け加える。
「一緒に飲みましょう。」
こう言わないと必ず、2本目は飲み終わってからお出ししましょうか、と聞き返された。
「あれやな? いつもありがとうな。ほな、ちょっと取ってくるわ!」
そう言って店の奥に引っ込んで行く。
天秤を取り出すと、左腕を上げていた。
店はほとんど変わらない。
カウンターのウィスキーは見慣れないものばかりで、新しい物はこうして客の前に立つ。
奥の棚には、よく見る顔が整然と鎮座している。
冬には火が入る暖炉も、今は空き瓶のように眠っている。
「ライムはいるか?」
「あ、はい。お願いします。」
早くこれを返して楽になりたい気持ちと、切り出すまでに時間が欲しいという気持ちが、波のようにせめぎ合った。
キン、と栓抜きが鳴ると、プシュ!っと空気が漏れた。
いつもは心地よく聞いていたが、今日はその音で心臓が速くなる。
中村は手慣れた様子でライムを切ると、瓶の口に差して手渡した。
「ではでは、再会を祝して!」
「「乾杯!」」
秋山は元気なふうを装って、勢いよくライムを瓶に落とす。
ビールが思い出したように泡を立てた。
2人で上を向いて一気に傾けると、まるで弾ける太陽が体に注ぎ込まれるようだった。
「くーっ! うまいなぁ。こうして飲むのも、久しぶりやな!」
「美味しいですね。お酒は、1年ぶりです。」
「お、どしたん? あんなに飲んどったのに。もしかして、体悪くしとった?」
1年前から健康そのものだったが、今は風邪をひくより体が重い。
「いえ、お酒を飲んでも得することないかなって... 思ってしまって...。」
中村は困ったように笑う。
秋山が天秤を手に取ると、中村がすかさず反応した。
「お〜、懐かしいなぁ。大切にしとってくれて、嬉しいで!」
その言葉は心臓に直接降ってくるようだった。
ここ最近は、大切にしていたとは、言い難い。
都合の良いことを言って返そうとしたが、焼けたように喉が締まる。
「...それが、この天秤、損得がわかるようで...。おかげさまでくじに当たったりと良いことが起きるんですけど...」
続きが出てこない。
言おうとしていた言葉が、突然巨大な迷路に迷い込んだようだった。
「お〜、すごいやん。なんか、嫌なことでもあったん?」
秋山は気まずそうに口を結ぶと、天秤を置いて、酒を呷った。
「もう一杯いきましょう。もちろん、2人で。」
「お、いくか〜? ちょっと、待っててな。」
そう言って中村も飲み干すと、奥から瓶を取り出して、同じように栓を抜く。
「待たせたな〜。」
お礼を言って酒を受け取ると、いつのまにかライムが乗っていた。
秋山は言葉で伝えるのを諦め、目で伝えることに決めた。
「これです。」
視線の先は、何もない皿を自信満々に掲げる天秤。
「おぉ〜。どうなっとるん? 不思議やなぁ。」
「俺にもわからないんですけど、何かしようとすると、こうなるんです。」
瓶を傾け、一口流し込む。
常にビールを流し込まなければ、喉が焼き付いてしまいそうだった。
「好きなことをしようとしても、損をすると言われているようで、だんだん嫌になって...。それで、中村さんに返そうと思って来たんです。」
「お〜...。ほんまかぁ。それは悪いことしてもうたなぁ。」
中村がこういう優しい人間だということは知っていた。
だからこそ、全ての罪が自分に降るようで、秋山は今日に至るまで来れなかった。
今になって家を飛び出したのは、また、甘えに来たからかもしれない。
「でも、こうやって美味い酒が飲めるやん!
あんまり気にせんで、ええんやないか?」
中村の言う通り、秋山が最近口にしたもののなかで、この酒は唯一味のする飲み物だった。
瓶の中では炭酸が弾け、落としたライムが浮き上がっている。
「たしかに... そうですね。」
「もしアレやったら、僕が預かっとこか?」
天秤はまた、左腕を上げている。
「...。」
中村は、秋山の言葉を待った。
「ふう。」
秋山は一息つくと、天秤が掲げる皿に指を置き、反対に傾けた。
どうして今までこうすることができなかったのか、悔恨と同時に、堰き止められた小川が再び流れ始めるような感じがした。
心臓が徐々に軽くなる。
「...はい。お願いします。」
立ち上がって、天秤を手渡す。
そのとき、初めて目にしたときのようにきらりと輝いた。
「おっとぉ。ほな、預かっておくでな。また欲しくなったら、いつでも言ってな!」
「はい、ありがとうございます。」
「どうしたどうした〜。元気ないで! ほんなら... これ奢ったるから、元気出しや!」
そう言って3本目の栓を抜いた。
プシュッ!と音を立てて、溜まっていた空気が全て溢れ出る。
「あっ...」
「ごめんごめん、まだ飲み切っとらんかったな!」
「いえ、ありがとうございます!」
そう言って、残りを一気に飲み干した。
「お〜、いくなぁ〜。今日は、とことん飲もか!」
「... はい!」
瓶を空けるたび、酒がどんどんうまくなる。
その夜は旅人のように、明かりが差すまで酒を呷った。
「...よく見る光景やなぁ。」
ガラス越しの太陽を見て、中村が言った。
「いつもすみません、遅くまで... というより、朝早くまで。」
「ええって、ええって! またいつでもおいで! 待っとるで!」
「はい!」
扉を軽く押して、振り返る。
「ありがとうございました! それではまた!」
「おう! またな!」
お互いに笑顔で手を振った。
眩しい。
きっと損をすることも、人生にとっては得なんだろう。
ふと目をやると、カウンターの天秤が右腕を上げていた。
扉が閉まると、チリーンと調子良く鈴が鳴る。
明日は、家族に会いに行こう。