1-3
よそよそしい夕刻の空の下。
ずる、ずる、と重い音を響かせながら、さながら粗大ゴミのように彼の体は運ばれていた。
己の足が残した浅い轍をぼうっと眺めながら、刻止は「なんだかなー?」と首をひねる。
乱暴で粗雑な、人を人と思っていないような扱いをされて心を痛めるような人間ではないが、捕まれた腕は普通に痛い。
(さて、どうしてこんな事になったんだったかな?)
彼はのんきな様子で思考を過去に飛ばした。とはいえそれは、一時間どころか三十分にも満たない過去であるのだが。
ー…
「オイ!!このゴミを連れていけ!!」
刻止だけを名指しで連れ出したオルダスが態度を変えたのは、正希達他のメンバーから見えなくなってすぐのことだった。
「何してる!早くしろ!!」
「「はっ」」
「おや?」
男の怒号が響くやいなや、刻止の両腕は何者かに捕らえられてしまったのである。
さながら、どこかで見たことのある宇宙人のように。
黒い装束に薄い気配。
すぐそこにいるのに、本当にいるのか疑ってしまうような不思議な存在…それが、両隣から刻止を押さえ付けているモノだった。
いかにも"らしい"二人組に、堪え症のない唇が弧を描く。
「これはこれは、穏やかじゃないね?」
「黙れ!!ゴミ風情が口を開くな!!」
「うはははは!手厳しいじゃないか。もっと会話を楽しもうとも!」
「黙れと言っている!!!」
ギリッと骨を砕かれそうな力で腕を握られ、さすがの刻止も痛みで喉をつまらせた。
これはアザになるな、と他人事のように皺の寄った服を見やり、落胆の息を吐く。
彼の心情はこうだ。どうせ跡を付けられるならタコが良かった、と。
そもそも彼の推しはヒョウモンダコなので、その願いが叶う時には死がセットだろうが。
ややヘソを曲げた刻止は仕方なしに笑いを引っ込め、鼻にシワを寄せながら見下ろすオルダスへ静かな目を向ける。
動揺の欠片もない、ガラス玉のような目を。
「確かキミは、我輩クンのサポートをかって出てくれたと記憶しているのだけれど?これはどういう事なのかね?」
「フン!馬鹿が!!あんなもの、嘘に決まっておろう!!」
だろうな、と刻止は首を小さく上下させた。
最初から信じていないのだから、彼にとってこの告白は何の意味も持たない。
わざわざご丁寧に尋ねた理由は別にあるのだ。
「もし我輩クンに手を出すつもりならやめておくことだ。皆の反感をかって都合が悪くなるのはそちらだよ?」
そう真面目に忠告した刻止をオルダスは間抜けな顔で見つめ、しかしすぐに表情を歪めた。
怒り故ではない。
醜悪な表情を形作ったのは、侮蔑、嘲笑、嗜虐性、傲慢、嫌悪…
そういったものをひっくるめた"悪意"である。
そして、その悪意から絞り出されたのが一言。
「そんなもの、どうとでもなる」
刻止は汚いものに蓋をするがごとく目を伏せた。知りたいことは知れたのだ。それと同時に、このどうしようもない男に呆れ果ててしまったが。
(コレはどうやら、正希クン達を扱うためなら手段を選ぶつもりは無いらしいね。それこそ、人質でも洗脳でもやりかねない…果たして、ゴミはどちらなのやら)
だから、次に目を開けた彼は…
「うはははは!これは困ったね!あてが外れたよ」
ただ、へらへらと笑う変人であり続けた。
良くない歪み方をしそうな顔を、滲みそうな毒を隠すように。
「チッ!気味悪いゴミめ…これ以上こんな奴に聖域の空気が汚されてはかなわん!」
思惑通りオルダスは刻止の内面になど気づく様子もなく、ただ嫌そうに鼻をつまむだけである。
「オイ!さっさと連れていけ!!あぁ、報告はいらんぞ!ソレを思い出すだけで不愉快だからな!!」
「「はっ」」
「えー?つれないなぁ、もっと話をしようじゃないか!我輩クンとキミの仲だろうに!」
「連れていけ!!!」
…ー
…と、まぁ、それが今こうして引き摺られている経緯というワケだ。
「うはははは!いやはや、愉快だとは思わんかね!」
「何を言ってる」
「黙れ」
「いたたたたた!まったく、コミュニケーションが下手だなキミ達は!っ、いたたた!」
あまりにもチープな展開に我慢出来ず笑ったら、またしても腕を砕かれそうになった。
握力の数値が気になるところだが、その疑問が口から出るより先に鼻をくすぐった香りへと意識が移る。
青臭い草木の香りと、湿っぽい土の香り。
都会では疎遠になりがちだが、旧校舎周辺では良く感じられる自然の匂いだ。
「…森?」
ぐっと首を後ろに倒した刻止の目に映ったのは、逆さまに立ち並ぶ木々の群れ。
黄昏の茜に照れている様子は可愛らしいが、奥に行くほどに暗く冷ややかな本性が見え隠れしている。
霊感などまるでない彼ではあるが、綺麗な森ではないのだろうなと直感が囁いた。
「ねぇ、我輩クンの今後について聞いてもいいかな?」
「オルダス様の言葉通りとなる」
「うはははは!つまり…我輩クンは力を過信して外に飛び出し、そして失踪するのだね!まったく、とんだ愚か者じゃあないか!面白いから良き!…うぉ!?」
二人組のうち片方が「気味悪い」と呟きながら、力任せに刻止を放り捨てる。
強かに尻を打った彼は脳天まで響いた痛みに呻き声こそ上げたものの、にやけた表情は崩さぬままに黒装束を見上げた。
逢魔が時はその顔を黒く塗り潰し、もやは人か人ならざるものかも分からない。
それでも、刻止に恐れなど欠片もなかったのだ。
「一応聞いてみるけれど、我輩クンはこのまま逃げれば良いのかね?」
「「…」」
答えはない。しかし、代わりにすらりと抜かれた刃物が雄弁に語っている。
どうやら、彼らは刻止に死んでほしいらしい。実に分かりやすい話だ。
殺して、死体を処理してしまえば…失踪をでっち上げるくらい訳無いのだから。
「ふ……ぅ…」
とうとう刻止は体を震わせてうつむいた。
背後の森と目の前に並ぶ影法師の闇が、くしゃくしゃの白衣を引っかけた頼りない子供を飲み込もうとしている。
余らせた袖を揺らしながらいじらしく己を守る子供はやがて肩を跳ねさせ、声を押さえるようにきゅっと口を結んだ。
それを、二人組は冷めた目で見下ろす。
見慣れた光景だった。喚かない分そこらの子供や愚かな大人よりマシだと思ったくらいである。
あぁ、この時、気まぐれでもいいから"見逃す"という選択をすれば…彼らの運命は違っていたかもしれないのに。
「この森はゴミ捨て場。お前の先輩が沢山眠ってる」
「だから、安心して死ね」
だが"もしも"など所詮都合の良い妄想にすぎず、二人組は迷う素振りもなく一歩、また一歩と刻止を殺すべく歩を進め…そこで、とうとう選び取った運命が牙を剥いた。
「うっはははははははは!!ふは!あはははははははは!!!!」
「な、んだ」
「狂ったか」
「うはははは!いやいや!正常だとも!あぁ!正常なんだよ、我輩クンは」
「「っ」」
尻に付いた土を軽く払い、白衣を揺らしながら立ち上がる刻止を注意深く、しかし余裕を残したままに観察していた二人組だったが、唐突に己の背に走った寒気に困惑を露にする。
相手は隙だらけで、手に持った愛用のダガーひと振りで殺せそうな子供であるのに。
この状況でも死んでいない目が怖いのか、張り付いた笑みが不気味だからか、はたまた彼がまとう狂気に気圧されているとでもいうのか。
(チッ、馬鹿な。相手はたかが子供だ。レベルはたったの1で、ハズレスキルしか持っていない子供なんだ)
経験豊富な自分達が焦る必要のない、万が一にも負ける筈のない相手だ、と…そう言い聞かせた事が、その慢心が最後のチャンスを刈り取ったのだと、知ることは無いだろうけど。
「良き!良き!我輩クンはキミ達に協力しようじゃないか!」
「何を言っている」
「なぁに、望み通り死んであげるのさ!勿論、フリだがね!」
「どうやら状況が分かっていないようだな」
「いやいや!それは我輩クンの台詞だとも!」
何せ、その"毒"は、多くのキノコや植物、生物達のように見た目で警告する親切心などなく、むしろ見た目を利用する悪質なものであったから。
「もはやキミ達に、選択権などないよ」
森の奥から一陣の風が吹いた。
刻止は「おや」と目を丸くして、無防備に二人組に背を向ける形で振り返る。
しかし、その背に刃が振るわれることは無かった。
「うはははは!これはこれは森に眠るという先達諸君!粋な計らいに感謝しよう!!」
カーテンコールに応える役者のように森へ一礼した刻止に、木々が拍手を送っている。
調子良く「ありがとう!ありがとう!」と手を振り、ようやく彼は地べたに這いつくばった黒へと視線を戻した。
おっと忘れてた、くらいの気安さで。
「…ぁ……ぅ…!」
「……っ……!……ぁ」
全身の痙攣と呼吸困難。何が起きたのかも分からず、過度に収縮した瞳で刻止を見ていた二人は、振り返ったその顔に絶望する。
そこには、何の変哲もない笑顔があった。
「なぁんだ、ちゃんと効くじゃないか!さすが、我輩クンの愛する地球の毒だね!!」
刻止はそう言って、ただただにっこり笑っていたのだ。
これは始まりである。夕日だけが見ていた、ひっそりとした幕開けである。
「P-メチルホスホノフルオリド酸ピナコリル…ソマンと呼ばれる毒の味はいかがだったかな?ああ…残念。もう聞けそうにないね」
異世界にポタリと落ちた"毒"が、じんわりと花開いた。