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愛の回廊

作者: 阿部綾人

*この物語は『8番出口』をモチーフにした作品です。

「...は?」


気がつくと、私は妻と共に通勤時によく使う地下通路にいた。


天井には蛍光灯が明るく輝いていて、ホームへの道を示してくれている。壁には色あせたポスターが張られており、それ以上でもそれ以下でもないただの地下通路だ。

強いて言うならば、妻と共に地下通路で突っ立っていて、目の前には人が1人、歩いてくるぐらいで、人の気配が少ない、というか他にはいないように感じられた。


「あれ?どうしてここまでの記憶がないんだ...昨日は...えっと、何していたっけな」


昨日、というか直近の出来事が全く思い出せない。

なぜここにいるのか、どうやって来たのか、記憶は霧の中だった。


...少し整理してみるか。


私はしがないサラリーマンだ。新卒から働き始めてもう6年になる。


つい最近、昔からの付き合いだった彼女と結婚をすることが出来て、職場では昇格もした。

贅沢なことはまだまだできないけれど、それなりに楽しい生活を送っていた。


そこから先の出来事が思い出せない。

自分の人生史を年表で振り返ることはできるけど細かいことは何も書いていないように、私の頭の中は空っぽだった。


「ここは、いつもの最寄駅よね?なんで私たちここにいるのかしら」


妻が不安げに尋ねる。彼女の声には震えがあった。


「大丈夫、落ち着いて。というか僕も気が動転しているんだけど。まあ、分からないものを考えても仕方がない。一先ず家に帰ろう。」


知らない天井、起きたら密室でデスゲーム、というのは物語ではよくある話だし唐突な話だが何も知らされず、しかも密室ではないのはどういうことか。


誘拐というわけでもないだろうし、何が起きているのか全く把握できないことほど怖いことはない。


「...どういうこと?」


歩き始めるとおかしなことはすぐに起きた。


妻も異変にすぐに気づいたようだった。私も既におかしいと感じていた。


同じ廊下が続いているのだ。

普段は地下通路を上って西口から家に帰るはずなのだが地下通路を進んでも階段が現れない。


違和感どころではない。明らかに異変だ。

これは私たちが知っている最寄り駅ではない。


「これは...8番出口だ」


「8番出口?」


「そう、知らないか?最近話題のゲームだよ。地下通路を進んでいって、些細な異変でもあったらその通路を引き返す、異変がなければまっすぐ進む。で、出口に無事ゴールできるのかっていうゲーム」


「そんなゲームあるんだ。聞いたことはないけど面白そうね。最近エルデ○リングにハマっていてそれをやってる実況者さんしか見ていないから知らなかったわ」


「それって1年ぐらい前のゲームなんだけど...まあいいや。とりあえず異変が出たら引き返す、異変がなかったらまっすぐ進むってのを覚えて進もう。いつも使っている駅だからすぐに出れるはず...」


ゲームの世界に閉じ込められたというのは中々に珍しい体験だ。これは夢なのか夢ではないのかも分からない。明晰夢というものを実感したことがないので分からないがあまりにもリアルすぎる夢。直近の記憶が思い出せないので何かがおかしいのは分かっていた。


「クソッ!!なんで出れないんだ...」


沼にはまっていた。もうずぶずぶだ。もう何時間こうして歩いているのだろうか。


異変が見つからないわけではない。歪んだ照明、不気味なチラシ、笑いながらこちらに走ってくる巨大サラリーマン、挙げたらキリがない。


どんなに多くの異変に遭遇し、引き返しても8番出口には届かない。

地下通路には黄色い看板があり、通常は異変を見つけたり、異変がないまま進むと数字が増えるが、常に0を表示しているのだ。なんならこれも異変なのか。

もう何も分からない。


「何が間違ってるんだろう...」


妻がつぶやいた。

彼女の声は疲労感に満ちていた。


私たちはただひたすらに歩き続けていた。


同じ廊下、同じ看板、同じ異変。


もしかしたら、この地下通路自体が異変なのかもしれない。私たちは気づいたときにはこの地下通路にいたのだ。

来たことすら覚えていないのであればやはり夢か?でも夢ならどうやって抜け出せばいいのか?頬をつねっても頭をひねっても答えは出てこない。


最早私たちに気力は残っていなかった。


「異変がないところで、休憩しよう」


「そうね、凄く、疲れちゃったわ」









異変のない通路で、私たちは床に座り込んだ。

疲れ切っていたが、ほっと一息つくと、心が少し軽くなったように感じた。



ぽつぽつと、私はいつかの記憶を思い出しながら話し始める。


私たちは、最近会った友人の話や、仕事の面白いエピソードを交わした。

ありふれた日常の話題だが、ここでは貴重な安らぎだった。


「ねえ、あんまり言葉にしたことなかったんだけど、君の作るキッシュ、実はすごく好きなんだよね。毎日でも食べたいくらいに」


妻は微笑む。


「そうね、でも確かあれはあなたが手伝ってくれたから美味しくできたのよ。私も一番好き。あなたと何かをしている時間が、一番好きだった」


「あの時のピクニック、覚えてる?君が妊娠しているって分かってから次の週に行ったピクニック。次行くときは、3人でって話したよね。まだ先の話だけど、早くまた行きたいなあ。」


「ええ、あの日は楽しかったわ。また行きたかった...」


何故か、頭が、痛い。


何かを忘れている気がする。


「また行けるさ、次の週末にでも。もっと君との時間を大切にしたいんだ。ほら、今度の週末実は休みを入れようと思っていたんだ。外にってわけじゃなくてゆっくり、のんびり君と過ごしたくて。」


彼女は静かに首を振る。


「そう、ね。あなたと過ごした時間は全部、私の宝物だったわ。今まで大切にしてくれてありがとう。大変だったでしょ。あなたも凄く忙しかったのに」


頭が、痛い。


彼女の言葉は、現在ではなく過去への想いが強く感じられた。なんで君はそんなにも後ろ向きなんだ。


「映画も見に行こうよ。先週の続きを見にね。次が後編だったよね、あの続編原作では一番好きなところなんだ。漫画で見た時、死ぬほど、死ぬほど...僕は...」


「...それも、いいわね。」


頭が、痛い。


「もうできないって、どういう意味?君はここにいるじゃないか。」


「こんな時間、ずっと続けばいいのに。」


続けて僕は言う。


「なんだか、久しぶりに君に会った気がするんだ。なんでだろうね。いつも、一緒にいた、はずなのに。」


「...そうね」


妻は少し哀愁を帯びた表情をしていた。


彼女の顔には、諦めのような、悲しみのような、言葉にできない何かがあった。


「そんな顔をしないでくれ、僕は、僕は君のことをずっと、ずっと...」


違和感。


それはこの地下通路に来てからずっとあった。


「早くここから出よう。一緒に帰ろう。帰ったらいくらでも話せるんだ。まだまだ話したいことが沢山あって...」


「もうそろそろ、気付いているんでしょう?私がここに、いないこと」


彼女は静かに言った。


「な、なに言ってるんだ?君はここにいるじゃないか。ここにいて、こうして僕と話している。」


これは違和感ではない、現実だ。そう、思い込んでいただけだった。妻は...妻はもう...


「そうね、でもそれはあなたが望んでいるからよ。」


「いや、そんなのありえない。君はここにいる。僕たちは一緒にここを抜け出すんだ。」


僕の声は震えていた。


「私たちの時間はもう終わったの。あなたは新しい人生を歩むべきよ。」


妻の声は穏やかで、慈愛に満ちていたが、その目には深い悲しみが宿っていた。

彼女の言葉が、静かな波のように私の心に広がる。


「でも、僕は君を失いたくない。君がいなければ、僕は...」


言葉を失い、涙がこぼれた。とめどなくあふれる涙。

彼女の存在が、私の生活の中心であり、その核であったことを痛感する。


「あなたは強い人。私がいなくても、大丈夫。」


彼女は私の手を優しく握った。


「あなたにはまだやるべきことがある。新しい人生が待っているわ。あなたのことを支えてくれる人がいるんでしょう?部下のかわいい女の子。ひっそりと覗いてたのだけど、きっとあなたのこと好きよ。私のことは気にしないでいいからその子の気持ちに答えてあげなさい。」


「君との思い出は、私の全てだ。これ以上、他の人が入る余地なんてない。」


「私は、あなたの幸せを願っているわ。だってあなたのこと、愛しているから。あなたは、あなたのことを愛してくれる人のことを考えたことある?私はもっとあなた自身を大切にしてほしいの。」


「君が、それを...」


「私はあなたのことが大好き。だから、私のために泣かないで。傷付かないで。苦しまないで。悲しい顔を、しないで...」


訴えかけるように、彼女はそう囁いた。私は涙を拭いながら、彼女の言葉をかみしめた。


「僕は、死んだ君を置きざりにして幸せになるのが怖かったんだ。多分この夢も、僕が作った幻。」


心の奥底では、彼女のいない世界を受け入れることに深い恐れを感じていた。彼女との思い出だけが、私に残された唯一の慰めだった。


「でも、君なしでどうやって僕は生きていけばいいんだ?君との思い出は、僕の宝物だ。君がいないことが、僕には信じられない。実際、君が死んでからの記憶は本当にないんだ。虚無に生きすぎていた。僕は、変われるのか。」


彼女の微笑みは、私の心の闇を照らす光のようだった。しかし、その光もやがて消え去る運命にあることを、私は知っていた。


「どうでしょうね。私には分からない。でも頭の片隅に私がいたということを時々思い出してくれると嬉しいかも。」


「勿論さ、愛してる。いつまでも。永遠に。」


私はそう囁いたが、その言葉は重く、心に沈んでいくようだった。


私は妻を置いて、一人で、8番出口に向かった。足は重く、心は霧の中をさまよっていた。

8番出口のその向こう側には、何が待っているのだろうか。新しい希望か、それとも終わりのない絶望か。












8番出口を通り抜けると、私を包み込んだのは眩しい光ではなく、無情な現実の闇だった。新しい世界が広がっているという期待は虚しく、私を待っていたのは妻のいない、冷たく孤独な世界だった。


背後に残された深い愛と美しい記憶は、今や遠い幻のよう。私は妻との思い出に縋ることでしか、自分の存在を保てないと感じていた。妻がいない世界での生活は、絶望の中での漂流のようなものだ。


職場に戻ると、部下たちの顔が遠く感じられた。彼らの言葉は私の心に届かず、日々の業務は空虚な動作に過ぎなかった。かつての情熱や責任感は消え失せ、残されたのは罪悪感と自己嫌悪のみだ。


夜ごと、私は妻と過ごした日々を夢見ては目を覚ます。彼女の声、笑顔、温もりが、目覚めた瞬間に消え去る。その度に、私の心はさらに重く沈み込んでいった。


妻との再会を夢見ることは、現実からの逃避であり、自らを苦しめる行為だった。しかし、その夢から抜け出すことはできず、私は自分自身の中で迷い続けた。


絶望の中、私は理解した。8番出口を抜けたことは、妻との永遠の別れを意味していた。彼女との美しい時間は、もう二度と戻ってこない。


私は新しい人生を歩むべきだと言われたが、妻のいない人生に意味を見出せずにいた。頭の片隅に残る彼女の記憶が私を縛り、前に進むことを許さなかった。


結局、私は8番出口の向こう側で、失われた愛の影に囚われたまま生きていくことを選んだのだ。妻との思い出に浸りながら、彼女のいない世界での孤独な日々を送る。これが、私が選んだ道だった。

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