第一章 ~『婚約破棄された子爵令嬢』~
「アンナ、貴様との婚約を破棄する」
男爵子息のグレシャムが高らかに宣言する。
だがアンナの地味な顔に悲しみは浮かんでいない。それどころか喜びを隠すように、必死に笑みを押さえているが、彼に気づいた様子はない。
「悔しいだろう。なにせ俺のような美男子に捨てられたのだからな」
自らの容姿に対して自信に満ち溢れているグレシャムだが、アンナの美的感覚からすると、この男は醜男に分類される。丸々と脂肪を蓄えた体に、嫌らしい細い目、タラコのように太い唇に加えて身長まで低い。
だがグレシャムはこの世界では美男子として扱われていた。アンナだけが美に対する価値観が異なっていたのだ。
(日本の……いえ、二次元のイケメンたちが恋しいですね……)
現代日本から転生したアンナは文化的な価値観を前世から引きずっていた。彼女にとって美とは、寝る間を惜しんでやり込んだ乙女ゲームの登場人物たちであり、決して、眼前の男のようなタイプではない。
「ほら、泣いてもいいぞ。俺は寛容だからな。泣き止むまで付き合ってやる」
「いえ、悲しくありませんから。それよりも、これは正式な婚約破棄でよろしいですね?」
「生意気な女だ……」
「余計な口は謹んでください。すぐに正式な書類を用意させますので、サインだけしてくれればよいのです」
「ああっ、いいだろう。いくらでもサインしてやる!」
売り言葉に買い言葉で、感情的になったグレシャムは婚約破棄に改めて同意する。前世で営業職を経験していたおかげで、駆け引きはお手の物。有利な条件を引き出してみせると、控えていた侍女に状況を伝える。
「よろしいのですか?」
その言葉の裏には、あれほどの美男子との婚約を破棄してよいのかとの疑問が含まれていた。
「構いません。私、あの人の顔はタイプではありませんから」
「お嬢様がそういうのなら……」
「契約書には男爵家からの慰謝料の支払いを明記しておいてください。どうせ、あの人のことです。細部まで読まないでしょうから、額も吹っかけて構いません」
「任されました」
婚約破棄は貴族の令嬢にとって経歴の汚点となる。縁談は不利になるし、言い寄ってくる子息の数も減る。
だからこそ慰謝料の相場は高額になりがちだ。今回の婚約破棄にアンナの過失はないため、毟れるだけ毟り取るつもりだった。
(といっても、相手は男爵。慰謝料にも限界があるでしょうね)
屋敷と爵位を売り払っても、足りるかどうか怪しいものだ。だが破滅するグレシャムの末路は酒の良い肴になる。婚約破棄の溜飲を下げるに十分な後悔を与えるつもりだった。
(それに縁談話が減っても、私にとっては大きな問題になりませんからね)
地味で容姿もパッとしないアンナだが、令息たちからの需要はゼロではない。特にこの世界で醜いとされている、現代日本の価値観に当てはめると美形に区分される男性たちは、相手が見つからずに途方にくれている者も多いからだ。
(この美醜逆転現象を活かさない手はないですからね)
前世で敏腕営業マンだったアンナだ。自分を売り込むのもお手の物だと、前向きな姿勢を崩さない。素敵な殿方との将来を想像し、心を躍らせるのだった。