核兵器そのものについて書いてたつもりが書いてなかった
エッセイランキングに珍しく原子爆弾という言葉が入っていたので、自分も書いていたことと似てるなと思いながら探してみたらなかった。書いた記憶はあるのだが、どこにいったのやら。
さて、核兵器と並べて語るべきは「抑止力」の話。核抑止力のために核兵器が必要だ、というのが核保有の論理の基本姿勢だから。と思って調べたら「ロシアの戦争に何を見るか」の最初にある程度の事を書いていた。
核兵器を語ろうとすると抑止力に話が行ってしまう。
単純に北朝鮮が核兵器を持つようになって、北朝鮮が核の攻撃対象から遠ざかったと思うのならば、抑止力があると言えるのだろうと思う。私には昔より危険度が上がったようにしか見えない。
さて、抑止力の話は別の機会にするとして、核兵器そのものについても書いておかなければならないと思う。
広島や長崎では毎年8月、6日と9日に向けて被爆者の生の声を世界に届けよう、その地に住む人が体験を継承しようとする運動が盛んに行われる。もう近い将来原爆を体験した人がいなくなる。
広島では「ノーモアヒロシマ」と叫ばれる。核兵器が二度と使われることのない世界を望む声は、核兵器を落とした国や人間への憎しみや怒りとは違う意思の表明。広島の慰霊碑には
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」
と書かれている。『過ち』とは日本の行為を指しておらず、日本を含めた人類の戦争や核兵器使用といった行為を指しています。誰がではなく行為そのものを指します。
これは日本に対する占領政策、報道検閲などによってアメリカの行為に対する憎しみや怒りを煽るような世論を作らせない政策の結果生まれたものであるし、日本国憲法もまたアメリカの都合で作られたものではあるけれども、結果としてとても説得力のあるメッセージになっていると思う。
この「ノーモア」の精神が特定の国家への批判や思想の否定ではなく、純粋に世界共通の認識になりえる考えであることが重要であると思う。アメリカが使ったことに対して批判して謝罪させる目的ではなく、核兵器が二度と使う物ではないと訴えるのがヒロシマの声であることが重要です。
また話しが逸れました。
最近北朝鮮が実験した核爆発の規模は、広島での核兵器の破壊力の約10倍程度の規模でした。アメリカが保有する核兵器は広島型の20~100倍の破壊力があるようです。
さて、これを使用するとどうなるでしょうか。
今、ウクライナでマンションにミサイルが着弾して子供を含む人が命を落としていて、これを非難しています。が、核兵器はマンションとか妊婦とか関係ありません。キロ単位の範囲全体の人間を瞬時に殺します。広島型の破壊力でも万単位の人が1日で死んでます。もちろん兵士以外がほとんどで子供だろうが妊婦だろうが学校だろうが病院だろうが関係ありません。それから放射線ややけどの影響などでその数倍が死んでいます。後遺症に苦しむ人はもっと広範囲です。
その10倍20倍の被害を出すのが今の核兵器です。
厚生労働省のHPには
>最新の核兵器の威力は、64年前に世界初で開発された広島・長崎型の何万倍にもなり、
>広島・長崎に投下された原爆の何百万倍もの放射線を放出する
と書かれていました。「64年前」が1945年じゃないので古い数字かもですが、私の調べた数字より桁違いに大きな数字が書かれており、事実ならとんでもない話です。
ちなみに広島の原爆の死者の内、放射線起因は14%~15%とする資料もあり、距離による減衰があるにしてもどれだけ広範囲で放射線の影響が出るのか恐ろしい話です。現在の核兵器がどの程度の殺傷能力があるのかはTNT火薬換算程度の数字しか出てこないの現状ですが、規模が桁違いであることは忘れてはならない事実でしょう。
理由があればこんな無差別大量殺人を容認するのでしょうか。マンションに着弾したミサイルが戦争犯罪と言えるなら、原子爆弾を使うことは桁違いの戦争犯罪であることを自覚すべきです。
この自覚がある人は少ない。核保有国の国民にその自覚があるのかも怪しい。
そして、日本が核の傘に守られているということは、もし日本が攻撃されたら攻撃してきた国の国民を無差別に何万人、何十万人殺すことを容認するということでもあります。
核保有国が同盟国のために代理でそれを実行するとは思えませんが信じてる人が多いのが不思議です。
そして、核保有国同様、日本人も自覚が足りないように思います。
核兵器に関連する切り口はとても多く、政治的な意味、抑止力、広島長崎の思い、そちらの方がメインになっていて、意外に核兵器そのものの破壊力や使用時に起こる事態の深刻さについては置き去りになりがち。というか、文章がそっちにどうしても向かってしまう。
でも、意外に核兵器とはとても破壊力のある爆弾と同じような感覚で感じている人も多いのではないか、という視点から書いてみました。
被爆者の声は当時の悲惨さを訴える内容であるにもかかわらず、現実にはまだまだ届いていないのが現実なのでしょう。