Madな彼女の実験体になりました
「大丈夫よ、純堂くん。苦しいだけで死にはしないわ」
恐ろしすぎるセリフだ。全身を拘束されたまま言われると、なお。
猿ぐつわを噛まされた口で「んー!! んー!!」と悲鳴を上げるが、銀水先輩は注射器を片手に、こちらをギョロっとした両目で見つめるばかり。
こんなの詐欺だ。テレビで見たときは、もっと優しそうな人だったのに!
『この世のすべての分子を研究しつくしてみたいです』とか言って微笑んでたくせに!
今の彼女は――倫理感ゼロのマッドサイエンティストでしかない!
「意識だけは手放さないで。脳波にノイズが乗ってしまうから」
「んー!! んー!!」
注射の針がどんどん迫ってくる! あのほんのりピンク色のついた薬品は何だ!? ていうか量多っ! あぁまずいまずいっ、腕に針が迫って……!
「痛かったら手をあげてね?」
「んーーー!!」
あげられません! 拘束されてるので!!
■
めずらしい部活だなぁなんて思いながら、『芳香化学部』に足を踏み入れたのが間違いだった。
「お前はいいよな~。あの銀水先輩と毎日一緒にいられるんだから! 美人でかわいくて、聖人みたいに優しい! その上天才で、現役高校生にして学会常連の研究者! あんなすげえ人、憧れないわけないよなぁ」
クラスの友人がそんな話をしてきて、俺は口の端をひくつかせた。
確かに、かくいう俺も同じだ。『世界が驚愕!天才美少女の素顔に迫る』なんてテレビで特集されてたのも見た。同じ高校にいると知り、少しばかりのミーハー心が動かされたのも記憶に新しい。
「お前もすごいよ。みんな玉砕してたんだぜ? 入部希望出してもぜんぶ断られてさ。そんな中、先輩の方から唯一アプローチをかけられた男子……それがお前だ!」
「そうだったな……」
「なにクールぶってんだよぉ! 先輩に認められたんだぞ? 嬉しいくせに~!」
「ハハハハ」
乾いた笑いが出る。だよな。知らないやつから見たらこんなもんだよな……。
こいつは何も知らないのだ。俺がどんな目にあっているのか。
先輩は俺を認めたんじゃない。実験体としてちょうど良さそうだから、声をかけただけに違いない。
じゃなきゃいまだに、実験の目的ひとつ聞かせてもらえないなんてこと、あるわけないのだから……。
「なあ。入りたいなら俺が推薦してやろうか?」
「え、マジで!?」
「もちろん。っていうか推薦させてくれ。実験体が二人になれば俺の寿命もしばらく延び――」
「何を話しているのかしら?」
「ふぐっ!?」
突然、後ろからハンカチが口に当てられる。
誰の? 考える前に、鼻の中を甘い香りが突き抜ける。
「ぎ、銀水先輩! こんにちは!」
「こんにちは。ごめんなさい、純堂くんを借りてもいいかしら。実験に付き合ってもらいたいの」
「はい、大丈夫です!」
勝手に許可を出すな……っていうか、なんでこの状況に違和感持たないの……?
などと言いたいところだったが、すでに俺の口は回らない。
「それじゃあ行きましょう。今日の実験も楽しみね……純堂くん?」
耳もとでささやかれる先輩の声も、もう聞こえない。
先輩特製の吸入麻酔薬。
俺の意識は、すでに彼方へ飛んでしまっていた。
■
「何が目的なんですか、先輩……!」
「なんのこと?」
「何を企んでるのかって聞いてるんです。俺をこんな――あられもない姿で拘束して!!」
口で説明するのが難しい体勢なので想像してほしいが、俺はいま部室の真ん中で、この世の誰もが目をそらすようなとんでもなく恥ずかしい格好をしています。
「うう、こんなのもうお嫁に行けない……」
「婿じゃなくて?」
「冷静につっこまないでください。あと俺の体に何かつっこもうとするのもやめて!!」
「実験には必要なのよ。痛くはしないから大丈夫。痛くは、ね」
「他の感情が生じる場合がある!?」
怖すぎる! 今すぐやめさせないと……!
「じっとしてくれる? 有効なデータが取れなくなるでしょう」
「こんな実験でどんなデータが取れるっていうんですか! この……変態化学者!」
「……っ」
後ろで先輩が息を飲む声が聞こえた。それと同時に、俺の体から先輩の感触が消えた。
あれ……?
「な、なんですか。どうして黙るんです? 図星でも突かれましたか!」
「…………」
「そうですよね。いつもどんなデータを集めてるのか知りませんけど! 内容も知らせず、無理やり拘束したり、変な薬を注射したり……こんなの変態のやることじゃないですか!」
「…………」
「どうなんですか、違うなら言ってみてくださいよ! ……先輩?」
いつもと違う雰囲気を感じ振り向こうとしたが、その前に拘束が外され、俺は自由になった。
実験は中止? もしかして……怒ってるのか? 俺は恐る恐る先輩の方を見る。
「……そうね」
その目は――いつものギョロりとした冷たい目じゃなかった。
先輩と出会って初めて見た、悲しげな瞳だった。
「私、ずいぶん浮かれていたみたい。思わぬものが目の前に現れて、冷静でいられなくなっていたのね。それであなたに変なことばかりさせてしまった」
「せ、先輩……?」
「帰っていいわ。明日からも来なくて構わない。迷惑をかけてごめんなさい」
先輩は道具をさっと片付けると、部室奥の準備室のドアに向かう。中に入り、ドアを閉める直前、先輩はひと目こっちを見た。
「じゃあね、純堂くん」
その表情は、いつもの先輩らしくない……力のない微笑みだった。
■
――俺は何か間違えたのだろうか?
学校からの帰り道で考える。
銀水先輩がもし本当にヤバい人なら、俺の言葉に戸惑ったりしないだろう。むしろ怒って、もっと過激なことをされたかもしれない。
でも先輩はそうせず、あっさり俺を逃がしてくれた。……どうして?
何か誤解している気がする。たしかに先輩のしてきたことは酷かった。でも……あんな悲しい顔を見せるなんて、なぜ?
「…………」
……何をしているんだろう。俺は足をひるがえして、また学校へ向かおうとしている。
最後に見た先輩の顔が頭から離れない。
真実を確かめたい。先輩の本音が知りたい。
俺の足は、部室へと駆け出していった。
■
「先輩!」
部室のドアを開ける。明かりも実験道具も、俺が帰った時のままだ。
準備室のドアの小窓から明かりがしみだしている。
ゆっくり、足音を立てずに向かう。
ドアノブを握ると、異様に冷たい感触が手のひらを伝う。
「いるんですね? 開けますよ……!」
深淵を覗くような気持ちで、俺はドアを開く――
「……ふぐっ!?」
そこには――大量の『香り』が漂っていた。
「すんすん……すんすん……」
目を閉じた先輩が部屋の真ん中に座っている。周りには無数のフラスコがあり、先輩は次々その匂いを嗅いでいた。
「すんすん……違う。再現できてない……。すんすん……こっちもダメね。もっと合成の改善を……。でも原料はもう取れない……あぁ、どうしよう……すんすん」
「あ、あのぉ……」
声をかけると、驚いた先輩が俺を凝視した。
「じ……純堂くん。どうしてここに?」
「えっと、俺も聞きたいことあるんですけど……。この匂いってまさか――『俺の』、ですか……?」
普通、人は自分の体臭を感じにくいと聞く。嗅覚が慣れて自然に感じてしまうから。
そんな俺自身がわかるくらいの『純堂臭』が、部屋に充満していたのだ。
「……ええ、そうよ。でも本物じゃない……」
こちらを視線で射止めたまま、先輩はあっさりと答える。……え、どういうこと!?
混乱する俺に、先輩は立ち上がって近づいてくる。そしてそのまま――俺の胸に顔をうずめてきた。
「すんっ、すんっ……はぁ……」
「ち、ちょちょちょちょ……!!」
「やっぱり。いったい何なの、これは……何度嗅いでも正体がつかめない……すんすん……もっと嗅がせて……すんすんすんすん」
「ひいいーーっ!!」
先輩の鼻が動く感触に悲鳴を上げる俺!
……ひとしきり嗅ぎ終えた後、先輩はやっと俺から離れた。
「さっきはごめんなさい。あなたに言われてやっと、自分が過激なことをしていたと自覚したわ」
「今もまさにですけどね!?」
「私……初めてなの。正体のわからない匂いに出会ったのが。物心ついてからずっと化学に没頭してきた私が、どれだけ分析しても答えにたどり着かない……それがあなたの匂いなのよ」
「え!? まさか、俺が先輩に選ばれたのって……」
「ええ。教えていなくてごめんなさい。専門外のあなたにはよくわからないかと思って、後回しにしてしまったわ」
「教えられても困りますけどね!?」
「それでね。この謎が解明できれば、世紀の大発見になるかもしれない。だから実験をしていたの。特定できない匂いがあるなんて、私には許せないし……」
ギョロりとした目が、胸元から俺をまっすぐ射抜く。俺はごくりと喉を鳴らした。
「だからお願い。もう来なくて構わないなんて、やっぱり嘘。純堂くんさえ良ければ……これからも実験させてくれないかしら」
「……は……」
肺から勝手に息が出てきた。ヘビに睨まれたカエルって、きっとこんな気持ちなのだろう。
「……怖がってる時の匂いね。安心して……ふふ」
そんな俺を見て、銀水先輩は笑った。
テレビの時みたいな自然な笑みで。
「これからもよろしく、純堂くん」
「……は……はい……」
その瞳に貫かれて、俺はただ頷くしかなかった。
(了)